帳場の男 ―人を見捨てず頭を下げていたら、みんなの信用で押し上げられていく男の立身出世譚―   作:未雨

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言えなくなる前に

 翌朝の詰所も、昨日と大して変わらない顔で始まった。

 

 帳場の前では木札が鳴り、奥では湯が沸き、誰かが寝台札の掛け違いで文句を言い、別の誰かが眠そうな声で返事をしている。帰投組の後処理が残っている朝は、いつもより空気が重たい。人が多いぶんだけ、寝床も荷も食事も、少しずつ足りなくなるからだ。

 

 ジャックは帳場へ入るなり、夜のうちに積まれた札を見て、帰投組の宿舎割りを頭の中で組み直した。

 

 それから帳箱の端に置かれた板片を一枚確かめる。昨夜、監督役の判をもらった感知兵の分だ。

 

 若い伝令が、眠そうな顔で木椀を持ちながら通り過ぎた。

 

「南棟のやつ、まだ寝てるぞ」

 

「寝てるなら起こすな」

 

「死んだみたいに静かだけど」

 

「静かならいい」

 

 ジャックがそう返すと、伝令は肩をすくめた。

 

「昨日はあんだけ騒いでたのにな」

 

「騒いでたのはお前らだ」

 

「違いねえ」

 

 伝令は笑い、また別の札を持って奥へ引っ込んでいく。

 

 南棟の感知兵――エリオは、どうにかひと晩は寝かせられたらしい。少しは休めたのだろう。だが、一晩寝たくらいで全部戻るものでもない。戻らないからこそ、昨日あれだけ動いたのだ。

 

 ジャックは板片を帳箱へ戻し、帳面を開いた。

 

 

 

 

 

 そのとき、倉前のほうで声が荒くなった。

 

「おい、これ誰がこっちへ寄せた」

 

 帳場にいるだけでも、倉前のざわつきはだいたい聞こえる。

 

 荷の音と、人の足音と、苛立った声。その混ざり方で、どの程度の面倒かはだいたいわかった。

 

「札が合ってねえぞ。補給分と帰投組の袋が混ざってるじゃねえか」

 

 ジャックは帳面から目を上げる。

 

 倉前には、帰投組の私物袋と補給袋が仮置きされている。置き場が足りなくなれば、だいたいあそこが詰まる。詰まった先では、だいたい声の大きいやつが先に怒鳴る。

 

 倉前へ出ると、年若い下働き見習いがひとり、補助役の前に立たされていた。

 

 肩の線がまだ細い。手には荷札を何枚か握っている。だが、その指先が固い。怒鳴られるたび、持ち方がわずかに強くなっていた。

 

「見てたのお前だろ」

 

「……その、はい」

 

「はいじゃない。見てたなら、なんでこうなった」

 

 見習いは荷の山を見て、それから補助役の顔を見た。喉が詰まったように一度息を飲む。

 

「北側が、いっぱいで」

 

「だから?」

 

「こっちへ、先に寄せろって」

 

「誰が言った」

 

 そこで返事が止まる。

 

「誰が言ったって聞いてる」

 

「さっき……」

 

「さっきじゃわからん。誰だ」

 

 視線が揺れる。言葉を探しているのはわかるが、探せば探すほど口が重くなっていく顔だった。

 

「その、倉の前で」

 

「倉の前に何人いたと思ってる」

 

 横で荷を運んでいた年嵩の兵が舌を打つ。

 

「混ぜたなら混ぜたで、札くらい替えとけよ」

 

「替える札が、まだ」

 

「まだ、何だ」

 

「……来てなくて」

 

「じゃあ来てねえ札の荷を、なんで動かした」

 

「言われたので」

 

「誰に」

 

「その……」

 

 またそこで止まる。

 

 補助役は荷札を振った。

 

「言われた言われたって、それで通るなら誰も苦労しねえんだよ」

 

「……すみません」

 

「謝る前に説明しろ」

 

「はい」

 

「だから、何を見て、どう動かした」

 

 見習いは口を開いたが、声にならない。荷札を握る指先だけが強くなっていく。

 

 怠けていた顔ではなかった。

 

 ごまかそうとしている顔でもない。

 

 ただ、どこから説明していいかわからなくなって、いちばん簡単な「すみません」に逃げかけている顔だった。

 

 だが、そういう顔はたいてい、いちばん先に責められる。

 

「ったく、朝から余計なことしやがって」

 

「……すみません」

 

「今日はそれしか言えんのか、お前は」

 

 見習いが慌てて札を差し出し、二枚落とした。拾おうとして袋の口紐まで引っかけ、半分ほど崩しかける。

 

「あっ」

 

「おいおい、勘弁してくれよ」

 

 補助役がもう一歩詰めようとしたところで、ジャックが荷の山の前へ入った。

 

 足を止めたのは、崩れた袋の口が見える位置だった。

 

 見習いはしゃがみかけた姿勢のまま固まっている。落ちた札を拾うべきか、袋を押さえるべきか、それとも先に謝るべきか、自分でもわからなくなっている顔だった。

 

 ジャックは荷札をひと目見て、それから見習いに言った。

 

「おい、お前。南棟の札、誰が持っていったか見てこい」

 

 見習いはきょとんとした。

 

 さっきまで浴びていた声の流れが急に切れたせいで、返事が遅れる。

 

「は」

 

「南棟だ。今すぐ」

 

 補助役が眉をひそめた。

 

「おい、今それどころじゃないだろ。こっちは荷が混ざってるんだぞ」

 

 ジャックはしゃがんで落ちた札を拾い、土埃を指で払った。

 

「それがないと南棟が詰まる。どっちみち先だ」

 

「だからってこいつを今外したら――」

 

「外して困るなら、困るだけ人手が足りてないってことだ」

 

 補助役が口を開きかけ、閉じる。

 

 言い返せないわけではない。ただ、言い返す前に、ジャックがもう別の手順へ入っていた。

 

 ジャックは見習いのほうを向く。

 

「聞こえたか」

 

「……はい」

 

「行け」

 

 見習いは札を抱え直し、半歩よろけ、それから南棟のほうへ駆けかける。

 

「走るな」

 

 短く飛んだ声に、見習いは慌てて歩幅を落とした。

 

 その背が角を曲がるのを見ず、ジャックは荷へ視線を戻す。

 

「で。誰が置き場変えた」

 

「北側が詰まってたんだ。あそこへ置けなかった」

 

「それは見ればわかる。誰が変えろと言った」

 

「俺が、こっちへ寄せろとは言ったが」

 

「札替えは」

 

 補助役が一瞬、言葉を止めた。

 

「まだ来てなかった」

 

「なら、来てない札の荷を誰が帰投組の列へ混ぜた」

 

「混ぜたっていうか、仮置きだ」

 

「仮置きでも列に入れたら混ざる」

 

 横にいた年嵩の兵が言う。

 

「俺は見てたぞ。北側が埋まって、こっちへずらしたのはあの見習いだけじゃねえ」

 

「じゃあ何で黙ってた」

 

「黙ってたんじゃなくて、今言おうとした」

 

 空気がまたささくれ立つ。

 

 ジャックは袋を一つ持ち上げ、札の穴を見た。

 

「怒鳴るのは後でいい。今は分けるほうが先だ」

 

 補助役がまだ何か言いたそうな顔をする。

 

 ジャックはその前に続けた。

 

「補給袋はこっちへ寄せろ。私物袋は壁際へ切れ。札のない分は一列空けて置け。手を止めるな」

 

 年嵩の兵が「ほらよ」と返事をして動き出した。

 

 補助役も舌打ちまじりに荷へ手を伸ばす。

 

「とりあえず分けてはいるが、これ、どこから混ざったのか見えねえな」

 

 ジャックは列の端から順に札を見た。

 

 最初の二袋は合っている。三袋目から印がずれている。ずっと混線していたわけではない。途中で置き場が変わり、札の流れだけが置いていかれた形だ。

 

「北側が詰まったの、いつだ」

 

「帰投組が先に入ったあとだ」と年嵩の兵が返す。「西回りの荷が来るより前」

 

「そのとき札は」

 

「まだ全部来てなかった」

 

 ジャックは袋の口紐を見た。

 

 結び方が二種類ある。倉側の手癖と、帰投組の兵が自分で結ぶやり方。袋そのものは入れ替わっていない。

 

「中身は混ざってない」

 

 補助役が顔を上げた。

 

「何だと」

 

「列が混ざってるだけだ。袋そのものは入れ替わってない」

 

 年嵩の兵も身を乗り出す。

 

「本当か」

 

「本当だ。仮置きの列へ後から別の荷が足された」

 

 補助役の眉間の皺が少しだけ緩んだ。

 

「じゃあ、袋を全部開け直す必要はねえのか」

 

「ない。札の列を戻せば足りる」

 

 その一言で、場の重さがかなり変わった。

 

 袋を開けるとなれば手間は倍になる。それが不要だとわかっただけで、みなの肩から少し力が抜ける。

 

 ジャックは札を二枚取り、指先で順番を入れ替えた。

 

「北側が詰まって仮置きした時点で、ここまでが補給分。ここから後ろは帰投組だ。札が遅れた分だけ列がずれた」

 

「……ああ」と補助役が漏らす。「三袋目から五袋目まで、置き直しが入ってるのか」

 

「だろうな」

 

「なら、あの見習いが勝手に混ぜたんじゃなくて」

 

「見習い一人で朝の倉の流れ全部決めるのか」

 

 年嵩の兵が吹き出す。

 

「違いねえ」

 

 補助役は一度だけ口を閉じ、それから短く息を吐いた。

 

「……悪かったな。熱くなりすぎた」

 

 相手がジャックだから言えた程度の謝り方だった。

 

 それで十分だった。

 

「熱くなるのは構わん」

 

 ジャックは札をまとめる。

 

「その前に、どこから崩れたか見ろ」

 

「言うな」

 

「次も同じになるぞ」

 

「わかってるよ」

 

 補助役は渋い顔のまま、今度は怒るためではなく戻すための手つきで荷へ触れる。

 

 そのとき、南棟のほうから控えめな足音が戻ってきた。

 

 見習いだった。手には木札が一枚ある。

 

「あり、ました」

 

 差し出された札を、ジャックは受け取った。

 

「誰が持ってた」

 

「南棟の、掃除の人が」

 

「そうか。置いとけ」

 

 見習いは少し戸惑った顔で札を帳箱の脇へ置く。

 

 自分が戻ってきていいのか、まだ判断しきれていない様子だった。

 

 補助役がそちらを見て、口を開きかける。

 

 その前に、ジャックが言った。

 

「お前は帳場の横で札分けろ。手元が空いてる」

 

 見習いは一瞬だけ目を上げた。

 

 また責められるのではなく、普通の仕事を渡されたことが、うまく呑み込めていない顔だった。

 

「……はい」

 

「落とすなよ」

 

 その一言で、見習いはやっと、小さくうなずいた。

 

 

 

 

 

 

 帳場の脇は、倉前より少しだけ静かだった。

 

 静かといっても、詰所全体が静かなわけではない。奥では木札が鳴り、誰かが湯を運び、別の誰かが宿舎の寝台札を呼んでいる。ただ、怒鳴り声の飛び交う倉前から外れるだけで、息の詰まり方は少しましになる。

 

 見習いは帳箱の横に立ち、言われた通り札を分けていた。

 

 だが、指先の動きはまだ硬い。札を一枚取っては、ほんの一瞬止まる。それから、書かれた印を確かめるようにして重ねていく。

 

 ジャックは帳面に二、三行書きつけてから、そちらを見た。

 

「札は足りたか」

 

「……はい」

 

「南棟のはそれで全部だ」

 

「はい」

 

 それきり、また札へ目を落とす。

 

 返事はしているが、それ以上は出てこない。喉のところに、さっきの倉前の空気がまだ引っかかっているのが見える。

 

 ジャックは帳箱の端に置かれた水差しを引き寄せ、小さな木椀へ半分だけ注いだ。

 

「飲め」

 

 見習いがきょとんとする。

 

「え」

 

「口、乾いてるだろ」

 

 見習いは戸惑ったまま木椀を受け取った。両手で持ち、すぐには飲まず、少しだけ視線を落とす。

 

「……すみません」

 

 ジャックは帳面を閉じた。

 

「謝るのは後だ」

 

 見習いの指先が、木椀の縁で止まる。

 

「その、でも」

 

「でもじゃない。先に飲め」

 

 見習いはようやく一口だけ飲んだ。

 

 水が喉を通ったことで、少しだけ顔色が戻る。

 

 ジャックは札の山を顎で示した。

 

「右が帰投組、左が補給だ。わからんのは真ん中に置け」

 

「……はい」

 

「わからんまま決めるな」

 

「はい」

 

 少し沈黙が落ちる。

 

 見習いは札を二枚分けてから、ようやく、うまく出ない声を押し出すように言った。

 

「自分が、ちゃんと見ていれば」

 

 ジャックはすぐには返さなかった。

 

 見習いが続きを言えるかを、少しだけ待つ。

 

「北側がいっぱいで、こっちへ寄せろって言われて」

 

「うん」

 

「札は、あとで来るって」

 

「うん」

 

「だから、先に置いて……そのまま、別の袋も来て」

 

「うん」

 

「どこから混ざったのか、途中で」

 

 そこで言葉が切れる。

 

 怒鳴られている最中に、人はだいたいそうなる。

 

 ジャックは短く言った。

 

「怠けてた顔じゃなかった」

 

 見習いが目を上げる。

 

 驚いたような顔だった。

 

「……え」

 

「さぼって混ぜた顔じゃないってことだ」

 

 見習いの喉が小さく動く。

 

「全部背負うな」

 

 ジャックはそう言って、札を一枚取り上げる。

 

「お前一人で朝の倉全部回してたなら別だが、そうじゃないだろ」

 

 見習いは視線を落としたまま、小さくうなずいた。

 

「はい」

 

「次からは、変だと思った時点で先に言え」

 

「……はい」

 

「言えなくなる前にな」

 

 見習いはそこで少しだけ黙った。

 

 その沈黙のあと、やっと出てきたのは、さっきの“すみません”より少しだけ違う声だった。

 

「うまく、言えなくて」

 

 ジャックは特に慰める顔はしなかった。

 

「だろうな」

 

 見習いは木椀を持ったまま、少し強くうなずく。

 

 たぶん今の一言なら覚えられる。

 

 横手から若い伝令が帳場の裏を覗いた。

 

「おいジャック、南棟の掃除役が、札返したついでに毛布一枚足りねえって」

 

「倉の下段見ろ。まだある」

 

「やっぱり知ってるのかよ」

 

 伝令は見習いの手元を見て、半分笑った。

 

「お前も食ってねえのか」

 

「……まだです」

 

「だろうな。その顔だもん」

 

 ジャックは帳箱の下に置いてあった包みを引っ張り出し、見習いの手前へ置いた。固くなった黒パンが二切れ入っている。

 

「先に一つ入れろ」

 

「でも、札が」

 

「今止まっても誰も死なない」

 

 やっと、少しだけましな返事になった。

 

「……はい」

 

 見習いは黒パンを一切れ取り、控えめに口へ運ぶ。

 

 若い伝令がその様子を見て肩をすくめる。

 

「ジャックに見つかるとだいたい食わされるんだよな」

 

「うるさい。毛布見てこい」

 

「へいへい」

 

 伝令が去る。

 

 見習いはパンをもう一口だけかじってから、小さく言った。

 

「……ありがとうございました」

 

 ジャックは帳面を開き直した。

 

「礼はいい。札を落とすな」

 

 見習いは少しだけ口を閉じ、それから今度は、さっきより少しましな返事をした。

 

「はい」

 

 木札の音がまたひとつ鳴る。

 

 次の仕事が来る音だった。

 

 

 

 

 

 

 ジャックは帳面を閉じると、倉前へ戻った。

 

 荷の列はどうにか見られる形になり始めていた。見た目には収まりかけていても、手順が戻っていなければ、昼にはまた別のところで詰まる。

 

「補給袋は壁際へ寄せろ。帰投組は帳場寄りへ切れ。札のない分は真ん中へ一列空けろ。見ればわかるようにしとけ」

 

 年嵩の兵が袋を抱え直す。

 

「お前、毎回言うことが具体的なんだよな」

 

「曖昧に言うとまた混ざる」

 

「それもそうだ」

 

 若い伝令が毛布を肩に担いで戻ってきた。

 

「南棟の毛布あったぞ」

 

「なら持っていけ」

 

「その前に、また荷直してんのか」

 

 伝令は荷の列を見て、補助役の顔を見て、それからジャックを見た。

 

 だいたい何が起きたか察した顔だった。

 

「さっき怒鳴ってたの、これか」

 

「もう終わる」

 

「終わるんじゃなくて、終わらせてるんだろ」

 

 補助役が鼻を鳴らす。

 

「うるせえ、お前は毛布持ってけ」

 

 だが伝令はすぐに行かず、帳場の脇に目をやった。

 

 札分けをしている見習いの姿が見える。

 

「あいつ、まだ固い顔してるな」

 

「だろうな」とジャックが返す。「でも手は動いてる」

 

 伝令はそれを聞いて、少しだけ真面目な顔をした。

 

「お前、ほんとそういうの見てるよな」

 

 ジャックは札を補助役へ返した。

 

「これで列は戻る。足りない札は帳場で仮印つけろ。昼までに本札と差し替えれば詰まらん」

 

 補助役は札を受け取りながら言う。

 

「……最初からお前呼べば早かったな」

 

 年嵩の兵が笑う。

 

「困ったらジャックのところだろ。今さら何言ってんだ」

 

「それを言うと腹が立つ」

 

「立っても早いほうがいい」

 

 補助役は言い返しかけてやめ、代わりに荷の列を見て小さく舌打ちした。

 

 だがその舌打ちは、さっきの見習いへ向いていたものとは違った。自分の見落としに向いた音だった。

 

 年嵩の兵が袋を積み直しながら、ぽつりと言った。

 

「お前、倉付きじゃねえのに、なんでこういうのすぐ見えるんだ」

 

 ジャックは帳場のほうへ足を向けたまま返す。

 

「見えるところにあるからだ」

 

「それで済ませるの、ずるいよなあ」

 

 若い伝令が笑う。

 

「だってこの人、何聞いてもだいたい見たからだ、で終わるし」

 

 補助役が鼻を鳴らした。

 

「終わるだけましだ。見えねえまま怒鳴るよりは」

 

 その言葉に、若い伝令が少しだけ目を丸くする。

 

 さっきまで見習いを詰めていた本人の口から出るとは思っていなかったのだろう。

 

「今の、本人にも聞かせときゃよかったのに」

 

「余計なこと言うな」

 

「でもそうだろ」

 

 補助役は返事をしなかった。

 

 しなかったが、否定もしなかった。

 

 帳場の前を、若い伝令が毛布を肩に担いで通り過ぎる。

 

「南棟、行ってくるぞ」

 

「落とすなよ」

 

「落とさねえよ。子どもじゃねえんだから」

 

 言いながら通り過ぎかけて、伝令は帳場の脇で札を抱えている見習いを見た。

 

 少しだけ足を緩める。

 

「お前、さっきよりはましな顔してるな」

 

 見習いはすぐには返せなかった。

 

 何か言われるたびに、まだ一瞬だけ肩が固くなる。

 

「……そう、でしょうか」

 

「さっきは今にも札ごと倒れそうだった」

 

 伝令はそう言ってから、帳場の中のジャックへ顎をしゃくった。

 

「だいたいああいうとき、この人が来るんだよな」

 

 見習いは視線だけをそちらへ向けた。

 

 ジャックは帳面に何か書き込んでいて、こっちを見てもいない。

 

「いつも、ですか」

 

「いつもってほどでもないけど、困ってるやつの前にはよくいる」

 

「……見てるんですね」

 

 その言い方に、伝令は少しだけ笑った。

 

「見てるっていうか、気づいてるんだろうな。こっちは気づいてから“やべ”ってなるけど、あの人はその前に来る」

 

 見習いは札の角を指でそろえた。

 

「さっきも、自分が何て言えばいいか、わからなくて」

 

「だろうな」

 

 伝令はあっさり言った。

 

「お前、ああいうとき絶対だめな顔するし」

 

「……わかるんですか」

 

「わかるよ。俺でもわかる」

 

 横から別の若い下働きが入ってきた。桶を抱え、今の話を半分くらい聞いていたらしい。

 

「でも本当だろ。お前、怒鳴られるとすぐ黙るじゃん」

 

 見習いはうつむきかける。

 

 その前に、若い下働きは続けた。

 

「別に悪いって言ってるんじゃない。黙ると余計に損するって話」

 

 伝令が毛布を担ぎ直した。

 

「だから困ったらジャックのところだよ。あの人、追い返しはしねえし」

 

「また勝手なことを言ってるな」

 

 帳面から目を上げないまま、ジャックが言った。

 

 伝令はにやっとする。

 

「事実だろ」

 

「事実でも大声で広めるな」

 

「広めたほうが早い」

 

 若い下働きが笑う。

 

「もう広まってるだろ。倉前で怒鳴られてても、帳場のほう見てればそのうち来るって」

 

「それ、だいぶ頼り方が雑じゃないか」

 

「でも来たじゃん」

 

 見習いが、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

 笑うところまではいかない。だが、さっきまでみたいに全部を呑み込んで固まっている顔でもなかった。

 

「……みんな、そんなに」

 

 ぽつりとこぼした声に、伝令が肩をすくめる。

 

「頼るよ。変に気づいたときって、自分じゃどうにもなんねえこと多いし」

 

 若い下働きも続ける。

 

「怒鳴られてる最中に、怒鳴り返せるやつばっかりじゃないからな」

 

 二人が笑う。

 

 見習いは少し遅れて、それにつられるみたいに、ほんのわずかに息を漏らした。

 

 ジャックは帳面をめくりながら言う。

 

「話してる暇があるなら手を動かせ」

 

 伝令と若い下働きが散っていく。

 

 見習いも慌てて札の束を抱え直した。

 

 そのとき、すれ違いざまに若い伝令が小さく言った。

 

「ま、でも覚えとけよ。困ったら、ジャックのところだ」

 

 見習いはしばらくその背を見ていたが、やがて視線を戻し、手の中の札を見た。

 

 さっきまでやけに重かった木札が、少しだけ持てる重さになっている気がした。

 

 

 

 

 

 

 昼を回るころには、倉前の混線はどうにか見られる形になっていた。

 

 補給袋は壁際へ寄せられ、帰投組の私物袋は帳場寄りへ切り直された。札の遅れていた分は仮印がつき、夕方までには本札へ差し替えられる段取りもついた。朝のざわつきが嘘みたいに、荷の列はおとなしく収まっている。

 

 だが、収まったからといって仕事が減るわけではない。

 

 帳場の前では、若い伝令がまた何かの札をひっくり返していた。

 

「おい、これ西回りの分どこだ」

 

「お前の右手」

 

「あ、ほんとだ」

 

「見ろ」

 

「見てるよ」

 

「見えてない」

 

 ジャックは帳面へ数字を書き込みながら返した。

 

 若い伝令は口を尖らせたが、すぐ次の札へ手を伸ばす。

 

 帳場の脇では、見習いがまだ札分けをしていた。

 

 もう手は止まらない。早くはないが、朝みたいな危うい硬さもない。ひとつずつ確かめて、迷うものだけを真ん中へ分けている。

 

 何度か、ジャックはそちらを見た。

 

 見るたび、見習いはちゃんと手を動かしていた。

 

 それで十分だった。

 

 夕刻が近づくころ、治療役の使いが帳場へ顔を出した。

 

「南棟の感知兵、少しはましだ。飯も半分入った」

 

 ジャックは顔を上げずにうなずく。

 

「吐いたか」

 

「今のところはない」

 

「ならいい」

 

「いい顔してるわけじゃねえがな」

 

「でしょうね」

 

 使いは鼻を鳴らして去っていった。

 

 横で聞いていた若い伝令が、小さく言う。

 

「南棟のやつ、まだ戻すなよ」

 

「戻す気はない」

 

「お前じゃなくて、上の話」

 

「わかってる」

 

 そう返しながらも、ジャックの手は止まらない。

 

 帳場の外で、誰かが足を止めた気配がした。

 

「何だ」

 

 返事がない。

 

 若い伝令が首を伸ばす。

 

「誰だ」

 

 帳場の入口に立っていたのは、あの見習いだった。

 

 もう持ち場を外れる時間なのか、手は空いている。だが、すぐには言葉が出てこないらしい。札を持っているわけでもないのに、指先だけが少し強張っていた。

 

 若い伝令が半分笑う。

 

「何だよ。今度は怒鳴られてねえだろ」

 

 見習いは首を振り、それからジャックを見た。

 

 目が合うと、少しだけ喉が動く。

 

「その」

 

 そこで止まる。

 

 ジャックは先に言った。

 

「変か」

 

 見習いの目が、ほんの少しだけ丸くなった。

 

「……はい」

 

「何がだ」

 

「治療棟へ運ぶ布束の札が、一つだけ違っていて」

 

「どこだ」

 

「裏の棚です」

 

「誰が見た」

 

「自分が」

 

「他は」

 

「まだ、触ってません」

 

 言い終えるまではたどたどしかったが、今朝よりはずっとましだった。

 

 途中で「すみません」に逃げなかっただけでも十分だった。

 

 若い伝令が目を瞬いた。

 

「お、おう」

 

 ジャックは帳面を閉じる。

 

「それでいい」

 

 見習いが、少しだけ息を止める。

 

「今のうちに持ってこい。こっちで見る」

 

「はい」

 

「走るな」

 

「……はい」

 

 見習いはくるりと向きを変え、今度は本当に走り出しかけて、途中で慌てて歩幅を落とした。

 

 若い伝令がぼそっと言う。

 

「覚えたな、あいつ」

 

 ジャックは立ち上がりながら言う。

 

「一つなら十分だろ」

 

 見習いが戻ってきた。

 

 腕に布束を抱え、上に載った札を崩さないよう、ずいぶん慎重に歩いている。

 

「これです」

 

 差し出された札をジャックが見る。

 

 たしかに一枚だけ、治療棟ではなく倉戻しの印になっていた。

 

「よく見たな」

 

 見習いは返事の代わりに、小さくうなずいた。

 

 褒められるとは思っていなかった顔だった。

 

 ジャックは札を差し替え、布束を若い伝令へ渡す。

 

「治療棟へ回せ」

 

「へい」

 

 伝令が受け取って去る。

 

 見習いはまだ帳場の前に立っていた。

 

 何か言いたいのかもしれないし、もう言うことはないのかもしれない。どちらでもよかった。

 

 ジャックは新しい札を帳箱へ戻しながら言う。

 

「変だと思ったら、先に言え」

 

 見習いは、今度は間を置かずに返した。

 

「はい」

 

 その返事は、朝のものより少しだけまっすぐだった。

 

 帳場の外で、若い伝令の声が飛ぶ。

 

「おいジャック、宿舎のほうでまた寝台札ずれてるぞ」

 

 ジャックは息を吐いた。

 

「行く」

 

 見習いが、少しだけ迷ってから口を開く。

 

「自分も、行きます」

 

 ジャックはそちらを見た。

 

 大丈夫な顔になったわけではない。そういうものは、だいたい一日では戻らない。

 

 それでも、もう黙って責められるだけの顔ではなかった。

 

「札、落とすなよ」

 

「はい」

 

 今度こそ、ちゃんとうなずいた。

 

 ジャックは帳面を閉じ、木札をひとつ掴む。

 

 大丈夫と言えない顔も、大丈夫と言ってしまう顔も、この詰所にはいくらでもあった。

 

 先に拾えるものを拾っておかないと、たいていは弱いところから潰れる。

 

 そういう顔を見つけてしまうのは、あまり得な癖ではなかった。

 

 だが、やめる理由にもならなかった。




この回の下働き見習いは、後に倉と帳場のあいだをよく走る補助役見習いになります。
大声は苦手なままですが、荷や札の違和感には早く気づくようになる子です。
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