帳場の男 ―人を見捨てず頭を下げていたら、みんなの信用で押し上げられていく男の立身出世譚―   作:未雨

3 / 9
困ったらジャックのところへ

 静かに始まることの少ない一日だった。

 

 木札の音。戸の開く音。湯を運ぶ桶の底が床へ当たる音。誰かの眠そうな返事。誰かの舌打ち。そういうものがひと通り揃って、ようやく詰所の一日は形になる。

 

 ジャックは帳場へ入るなり、夜のうちに積まれた札をざっと見た。帰投組の宿舎割り、南棟の空き、治療棟へ回した者の書き足し。昨夜のうちに一度揃えたはずの帳面も、時間が経てばだいたい別の顔になっている。

 

 帳箱へ手を伸ばしたところで、横から声が飛んだ。

 

「おい、レン。南棟の札、まだ持ったままか。先に帳場へ返せ」

 

 宿舎役の声だった。

 

 返事はすぐ返る。

 

「持ったままだよ。持ったままだから今から返すんだろ」

 

 聞き覚えのある軽い声に、ジャックは顔を上げる。

 

 毛布を片手に抱え、もう片手で木札を二、三枚まとめている若い伝令が、戸口のところで宿舎役に半眼を向けていた。

 

「口だけはよく回るな、お前は」

「脚も回ってるって」

「だったら先に動け」

「はいはい」

 

 若い伝令――レンはそう言って帳場のほうへ来ると、木札の束を机に置いた。

 

 置き方は少し雑だが、札の順までは崩していない。こういうところだけは妙に手癖がいい。

 

 ジャックは札を見て言う。

 

「南棟の四番、返ってないぞ」

 

 レンがぴたりと止まった。

 

「……あ」

 

「見ろ」

「見てるよ」

「見えてない」

 

 レンは机の端に落ちかけていた一枚を拾い上げ、ばつの悪そうな顔をした。

 

「今ちょうど見えた」

「都合のいい目だな」

「便利だろ」

 

 ジャックは札を受け取り、帳箱へ差し込む。

 

 その横を、年若い下働き見習いが、両手で布束を抱えて通り過ぎようとしていた。

 

 レンがそちらを見て、口の端を上げる。

 

「お前、今日は最初からちゃんと持ってるな」

 

 見習いは少しだけ足を止めた。

 

 まだ人に声をかけられるたび一瞬固くなるが、二日前ほどではない。

 

「……落としてません」

「偉い」

「茶化すな」

 

 ジャックが帳面を開いたまま言うと、レンは肩をすくめた。

 

「茶化してないって。ちゃんと持ってるの、昨日よりだいぶましだろ」

 

 見習いは返事の代わりに布束を抱え直し、そのまま治療棟のほうへ行った。

 

 足取りはまだ慎重だが、止まりはしない。

 

 レンがその背を見送りながら、小さく言う。

 

「ちゃんと覚えてんだな、あいつ」

 

「一回潰れかけたやつは、次は先に固くなる」

 

 ジャックは帳面に印を書きつける。

 

「固くなる前に言えれば十分だ」

 

 レンはその言い方に少しだけ笑った。

 

「ほんと、お前そういうのばっか見てるよな」

「見えるからだ」

「またそれだ」

 

 帳場の外から別の声が飛ぶ。

 

「レン、治療棟の湯、先に回せるか」

「今から行く!」

 

 返事だけは威勢がいい。

 

 だがレンはすぐには飛び出さず、帳場の上の札をひと目見た。

 

「先に西回りの分、二枚だけ返す。あと南棟の毛布、もう一枚いるぞ」

「どこだ」

「六番。夜の冷えが残ってる」

「倉の下段」

「やっぱ知ってる」

 

 ジャックは顔も上げない。

 

「知ってるなら先に持っていけ」

「人使い荒いなあ」

「口は動いてる」

「脚も動いてるよ」

 

 レンはそう言って、今度こそ帳場を飛び出した。

 

 宿舎役が向こうで「走るな」と怒鳴る。レンが「今日はまだ転んでない!」と返す声が、戸の向こうで遠ざかっていった。

 

 ジャックは帳面の上で一度だけ手を止める。

 

 静かに始まることの少ない日だったが、すでに三つほどの詰まりが見えている。南棟の毛布、治療棟への湯、帰投組の札戻し。どれも小さい。小さいが、放っておけば後ではちゃんと面倒になる。

 

 そして、そういうものはだいたい帳場へ来る。

 

 

 

 

 

 

 戸口の前に、今度は倉側の補助役が顔を出した。

 

「ジャック、仮札の順、ちょっと見てくれ」

 

 ジャックは帳面を閉じる。

 

 やっぱり来たか、と思っただけで、別に嫌でもなかった。

 

「どこだ」

「倉前。今朝入った西回りの分と、戻し分が半端に重なってる」

「札は」

「仮で振ってある」

「仮ならまだ動くな。行く」

 

 立ち上がるより先に、今度は別の声が帳場の横から飛んだ。

 

「ジャック、南棟二番、やっぱり毛布もう一枚要る」

 

 宿舎役だった。片腕に寝台札の束を抱え、もう片手で戸枠を叩いている。

 

「夜の冷えが残ってる。起きたやつが咳き込んだ」

「二番だけか」

「今のところは」

「倉の下段」

「やっぱりそうなるか」

「足りなければ四番から回せ」

「四番が文句言うぞ」

「言わせとけ。咳き込むよりましだ」

 

 宿舎役が鼻を鳴らす。

 

「お前に言わせると大体それで終わるんだよな」

「終わるように言ってる」

「はいはい」

 

 宿舎役が去りかけたところで、今度は帳場の裏から桶を抱えた下働きが顔を出した。

 

「湯、治療棟へ先に回していいですか」

「いま残りいくつだ」

「大桶が二つ、小桶が一つ」

「大を治療棟、小を南棟。炊き足しはもう回ってるか」

「まだです」

「レンは」

「さっき出ました」

「なら戻ったら火番に一声入れさせろ」

 

 下働きがうなずいて走りかける。

 

「走るな」

「……はい」

 

 歩幅だけ小さくして去っていく背を見て、倉側の補助役がぼそっと言った。

 

「お前のとこ、毎日こんなだな」

「毎日こんなだ」

「よく嫌にならねえな」

 

 ジャックは答えず、倉前へ向かおうとした。

 

 だが二歩も行かないうちに、今度は治療棟帰りらしい使いが、戸の向こうから手を上げる。

 

「ジャック、治療棟から。帰投組の一人、宿舎より先に診たほうがいいのがいる」

「歩けるか」

「歩けるが、熱がある」

「名前は」

「まだ札が来てない」

「どこにいる」

「裏手の長椅子」

「先に治療棟へ入れろ。宿舎は後でいい」

「寝床は」

「南棟七番を空ける。宿舎役には俺から言う」

 

 使いは「助かる」とだけ言って去っていった。

 

 倉側の補助役がそれを見送って、半分呆れた顔をする。

 

「お前、帳場役だよな」

「一応は」

「一応で済ませていい量じゃねえぞ」

 

 ジャックはその言葉を流し、倉前へ足を向ける。

 

 帳場に立っているだけで、もう四つほどの詰まりが見えていた。倉の仮札、南棟の毛布、治療棟への湯、熱持ちの帰投兵。ひとつひとつは小さい。小さいが、放っておけば後ではちゃんと面倒になる。

 

 だから、先に崩す。

 

 倉前へ出ると、そこではすでに年嵩の兵が木箱を二つ動かし、補助役が仮札を並べ替えていた。昨日よりはましだが、それでもまだ、置き方に迷いがある。

 

「どれだ」

 

 ジャックがしゃがみ込むと、補助役が札束を差し出す。

 

「西回りの戻しが三、補給が四。そこへ朝一で倉戻しが二つ混ざった」

「戻しを先に壁際へ切れ。補給をその後ろ。倉戻しは列を別にしろ」

「場所がねえ」

「木箱を一つ外へ出せ」

 

 年配の兵が眉を上げる。

 

「外って、雨来るぞ」

「油布かけろ。しばらく持てばいい」

「言うなあ」

「持つか」

「持たせるしかねえだろ」

 

 そのやり取りの途中で、裏手からレンが戻ってきた。毛布を小脇に抱え、額に少し汗をにじませている。

 

「南棟六番終わり。火番にも言ってきた」

「遅い」

「宿舎役が捕まえるんだよ。ついでに四番の寝台札も直させられた」

 

 そう言いながらも、レンの手はもう次の札へ伸びていた。

 

「次は」

「治療棟へ湯」

「大桶だろ。人手足りるか」

「見習い呼べ」

「どっちの」

「昨日の」

 

 レンが振り向く。

 

 ちょうど帳場の脇にいた年若い見習いが、その声にぴくりと反応した。

 

「自分、ですか」

「お前以外に誰がいる」

 

 レンはそう言ってから、少しだけ言い方を緩める。

 

「桶持てるか」

 

 見習いは一瞬だけ迷ったが、すぐにうなずいた。

 

「持てます」

「なら来い。熱いからこぼすなよ」

 

 見習いは「はい」と返し、今度はちゃんと最初から歩き出した。

 

 ジャックはそれを横目で見て、仮札を二枚抜く。

 

 言われてから動くのではなく、自分の番だとわかって返事をする。昨日より、それだけましだった。

 

 倉側の補助役がその様子を見て鼻を鳴らす。

 

「昨日のあいつか」

「そうだ」

「まだ固い顔してるな」

「固いままで動けるなら十分だ」

 

 補助役はそこで少し黙った。

 

 それから、小さく札束を持ち直す。

 

「……お前、そういうのよく見てるよな」

「見えるからだ」

「またそれか」

 

 年嵩の兵が笑った。

 

「でも間違ってねえんだよな、それが」

 

 ジャックは返事の代わりに木箱の位置をずらし、仮札を新しい列へ差し込んだ。

 

 順番が決まると、荷は少しおとなしく見える。人も同じだ。どこに入ればいいかわからないと、余計なところでぶつかる。

 

 そのとき、また別の足音が帳場のほうから近づいてきた。

 

 今度は治療棟の使いではない。鎧の擦れる音だった。

 

 若い兵が一人、戸口のところであたりを見回している。誰に聞けばいいかわからない顔だ。

 

 レンが大桶の取っ手を持ち上げながら、あっさり言った。

 

「困ったのか」

 

 若い兵がぎょっとして振り向く。

 

「え」

「困ったならジャックのところだ。だいたい先に何とかなる」

 

 それを聞いて、倉側の補助役が苦い顔をする。

 

「お前ら、ほんとそればっかりだな」

「違うなら違うって言ってみろよ」

 

 レンがそう返すと、補助役は返事をしなかった。

 

 しなかったが、否定もしなかった。

 

 

 

 

 

 

 若い兵は戸口のところで少し迷ったあと、視線をジャックへ向けた。

 

 ジャックは立ち上がる。

 

 案の定、またひとつ来たなと思っただけで、嫌ではない。

 

「何だ」

 

 若い兵が口を開く。

 

「帰投組の一人が、札の名前と人数が合わなくて」

 

 ジャックは短くうなずいた。

 

「そこへ置け。順に見る」

 

 若い兵は慌てて胸元から木札を抜き、帳場の端へ置いた。

 

 手つきが少し急いている。まだ若い。何かが一つ合わないだけで、その先にもっと悪いものがある気がしてくる年頃だ。

 

 ジャックは札を引き寄せた。

 

 帰投札には、戻り八。名札は七枚。

 

 ざっと見たところ、書き違いではない。単純に一枚足りない。

 

「誰の分がない」

 

 若い兵は喉を鳴らした。

 

「それが、まだ……」

「見ろ」

「はい」

 

 兵は札を覗き込み、二枚、三枚と指先で数える。

 

 だが焦っているときの指は、たいてい役に立たない。

 

「西回りの第三組です。戻り八で、ここに七」

「一人、先に外したのは」

「え」

「治療か、宿舎か、別働か」

 

 若い兵はそこでようやく考える顔になった。

 

「熱持ちが一人、いたとは聞いてます」

「先に治療へ回ったか」

「たぶん」

 

 横で大桶の取っ手を持ち上げかけていたレンが、顔だけこちらへ向ける。

 

「たぶんって、お前な」

 

 若い兵は少しだけ肩をすぼめた。

 

「自分は途中から戻しの列に入ったので」

「最初から見てたわけじゃないのか」

「はい」

 

 ジャックは札を机の上へ並べた。

 

 人数が合わないんじゃない。流れが割れている。そういうずれ方だった。

 

「宿舎の寝台札は切ったか」

 

 若い兵が目を瞬く。

 

「まだ全部は」

「治療棟へ回したのは誰が受けた」

「治療棟の使いか、宿舎役か……」

「か、じゃ足りん」

 

 ジャックはそこで札を指先で弾いた。

 

「騒ぐ前に拾え。人数だけ見ても詰まる」

 

 若い兵は口を閉じた。

 

 怒鳴られたわけではない。だが、何を先に見るべきかをはっきり示された顔になる。

 

 レンが桶の手を離す。

 

「治療棟見に行くか」

「お前は宿舎」

 

 ジャックは即座に切った。

 

「寝台札がもう切れてるか見ろ。南棟七番、さっき空けた分も合わせて確認だ」

「じゃあ治療棟は」

 

 ジャックは帳場の脇にいた見習いを見た。

 

「お前、行けるか」

 

 見習いは一瞬だけ目を上げた。

 

 自分に来ると思っていなかった顔だが、前みたいに固まりはしない。

 

「……はい」

「治療棟の仮札だけ見てこい。熱持ちで先に回した兵の札があるか、名前だけ拾え。勝手に動かすな」

「はい」

 

 レンが横から口を挟んだ。

 

「一人で行かせて平気か」

「平気じゃない顔してるか」

 

 レンは見習いをひと目見る。

 

 昨日までなら、そこで少し迷ったかもしれない。だが今は首をすくめた。

 

「……いや、昨日よりはましだな」

「なら行ける」

 

 見習いはそのやり取りを聞いていたのか、聞いていなかったのか、布束の横に置いてあった小さい札板を手に取る。

 

 まだ動きは慎重だが、指示を受けてから歩き出すまでの間は、昨日よりずっと短い。

 

「治療棟、見てきます」

「走るな」

「はい」

 

 見習いが去る。

 

 ジャックは若い兵へ視線を戻した。

 

「お前は帰投組の列へ戻れ。八人、今どこまで座ってるか見ろ。宿舎へ行ったのが何人、治療へ回ったのが何人、名前で拾え」

「はい」

「人数で数えるな。顔を見ろ」

 

 若い兵はその言葉に、少しだけ背筋を伸ばした。

 

「……はい」

 

 レンが大桶を持ち上げる。

 

「じゃあ俺は宿舎だな」

「ついでに南棟の四番、窓の立てつけも見とけ」

「また増えた」

「口は動いてる」

「脚も動いてるよ」

 

 レンはそう言って帳場を出ていく。

 

 戸口のところで半歩だけ振り返り、若い兵へ顎をしゃくった。

 

「ほら、お前も行け。止まってるとまた札が増えるぞ」

 

 若い兵は慌ててうなずき、帰投組のほうへ駆けかける。

 

「走るな」

 

 ジャックが言うと、若い兵もまた歩幅を落とした。

 

 倉側の補助役が、その一連を見て鼻を鳴らす。

 

「お前、よくそんなに一度に振れるな」

「振らないと詰まる」

「そのうちお前自身が詰まるぞ」

 

 ジャックは返事をしなかった。

 

 返さなくても、次の札がもう机の端へ来ている。

 

 帳場というのは、座って待っている場所に見えて、実際は流れの交差点だった。

 

 人も札も、どこかで順がずれれば、だいたい最後にここへ来る。

 

 なら、ここで拾うしかない。

 

 ジャックは若い兵が置いていった帰投札をもう一度見た。

 

 八人。七枚。欠けているんじゃない。分かれているだけだ。

 

 分かれた流れを、元へ戻す。そのために誰をどこへ出したか、自分ではもう考えなくても手が先に覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 最初に戻ってきたのは、見習いだった。

 

 治療棟のほうから、小走りにならないぎりぎりの速さで戻ってくる。両手は空いている。札を勝手に持ち出さなかったのは、言われた通りだった。

 

「ありました」

 

 帳場の前で止まり、少し息を整えてから言う。

 

「熱持ちで先に回った兵の仮札、治療棟の板のところに」

「名前は」

 

 見習いは一瞬だけ目を上に向けた。

 

 思い出すときの癖なのかもしれない。

 

「ダル。ダルク、です」

「名字は」

「そこまでは」

「十分だ」

 

 見習いの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。

 

「宿舎へはまだ回ってませんでした」

「そうか」

 

 ジャックは帳面の端に短く書きつける。

 

 治療棟先回し。宿舎未着。これで流れの半分は見えた。

 

 見習いはそこで一歩引きかけたが、まだ何か言うべきか迷っている顔をした。

 

「他は」

 

 ジャックが先に聞く。

 

「熱持ちの札の隣に、治療待ちが二つ」

「見たか」

「はい」

「触ったか」

「触ってません」

「ならいい」

 

 その「ならいい」は短かったが、見習いには十分だったらしい。

 

 今度は迷わず、小さくうなずいた。

 

「はい」

 

 次に戻ったのは、若い兵だった。

 

 帰投組の列を見てきたせいか、さっきより少し呼吸が荒い。だが、顔つきは最初よりましだった。慌てているだけの顔から、見たものを持って帰ってきた顔に変わっている。

 

「八人、いました」

「どこに」

「長椅子に六、治療棟の裏手に一、あと一人は南棟へ向かったと」

「誰が見た」

「長椅子の列にいた年長の兵が」

「名前は」

「ダルク、です」

 

 見習いがぴくりと反応する。

 

 自分が拾ってきた名前とつながったのがわかったのだろう。

 

 ジャックは若い兵を見る。

 

「宿舎札は」

「まだ七で止まってました」

「お前は誰に聞いた」

「列をまとめてた兵に」

「よし」

 

 若い兵はそこで初めて、少しだけ息を吐いた。

 

「一人足りないわけじゃ、なかったんですね」

「足りないんじゃなく、流れが割れただけだ」

 

 若い兵はその言葉を、ちゃんと頭に置こうとする顔でうなずく。

 

「……はい」

 

 最後に戻ってきたのはレンだった。

 

 帰ってくるなり戸口で声を上げる。

 

「南棟七番、空いてる。六番の窓もまだ死んでる。あと、宿舎役が“誰を七番へ入れるんだ”って文句言ってた」

「言わせとけ」

「そう言っといた」

 

 レンは帳場の前まで来ると、机の上の札を見た。

 

 見習い、若い兵、自分。三方向から持ってきた情報が、もうここに揃っているのを察した顔になる。

 

「で、いたのか」

「いた」

 

 ジャックは帳面を指で叩く。

 

「熱持ちのダルク。先に治療棟へ回って、札だけ治療側に留まってた」

 

 レンが鼻で笑う。

 

「やっぱりな」

「やっぱりって何だ」

「消えてる顔じゃなかったってことだよ」

 

 若い兵が少しだけ眉を寄せる。

 

「顔でわかるものなんですか」

「この人はたぶんわかる」

 

 レンは肩をすくめる。

 

 ジャックは返事をせず、札を一枚抜いた。

 

「宿舎札を七で止めたのは正しい。治療棟の仮札を見ずに八へすると、今度は宿舎で一つ浮く」

 

 若い兵は目を瞬く。

 

「……あ」

 

「人数だけで先に切ると、別のところで詰まる」

「はい」

 

 見習いも、その横で小さくうなずいている。

 

 昨日までなら、自分に関係あるのかないのかも迷っていたかもしれない。今は少なくとも、聞く顔をしていた。

 

 レンが机に肘をつきかけて、ジャックに睨まれてやめる。

 

「じゃあどうする」

「ダルクは治療優先。宿舎は七番を仮で押さえる。南棟には“熱持ち一、後入り”で先に回す」

「誰が行く」

 

 レンがそう聞くと、ジャックは当たり前みたいに返した。

 

「お前」

「だと思った」

「口は動いてる」

「脚も動いてるよ」

 

 いつものように返してから、レンは若い兵のほうを見る。

 

「お前は帰投組の列へ戻って、八人そろってるって伝えろ。誰も消えてない、治療へ一人先回しだってな」

 

 若い兵は一瞬だけ、ジャックを見る。

 

 自分に指示を出したのがレンでも、その元が誰かはわかっている顔だった。

 

「……はい」

 

 ジャックは見習いへ視線を移す。

 

「お前は治療棟へ戻れ。ダルクの仮札、まだ動かすな。治療役が見終わるまでそのままだと伝えろ」

「はい」

「言えるか」

 

 見習いの喉が少しだけ動く。

 

「言えます」

 

 ジャックはそれで十分だというように、短く言った。

 

「なら行け」

 

 三人がばらばらに動き出す。

 

 先に出たのはレン。次いで若い兵。見習いは半歩遅れたが、それでも止まりはしない。

 

 戸口を抜ける直前、レンが振り返る。

 

「なあジャック」

「何だ」

「お前、これ全部覚えてんの」

「覚えてない」

「うそつけ」

「流れで見てるだけだ」

 

 レンは呆れ半分で笑った。

 

「それを覚えてるって言うんだよ」

 

 そう言い残して出ていく。

 

 若い兵も見習いも、今の言葉に少しだけ顔を動かした。

 

 たぶん思っていたことを、先にレンが口にしたのだろう。

 

 帳場が一瞬だけ空く。

 

 だが、静かになったのはほんの数息だった。

 

 次にはまた別の足音が近づいてくる。帳場とはそういう場所だ。

 

 

 

 

 

 

 最初に戸口へ顔を出したのは、宿舎役だった。

 

 寝台札の束を片手に、もう片手で戸枠を軽く叩く。

 

「ジャック、南棟七番、押さえるのはいいが、その代わりに四番へ詰めたやつが文句言ってる」

「何て」

「狭い、だの、毛布が足りん、だの」

「人数は」

「三」

「三なら詰めろ」

 

 宿舎役が眉をひそめる。

 

「お前、簡単に言うなあ」

「四番は窓が生きてる」

「六番は」

「死んでる」

「だから七番を空けたのか」

「そうだ」

 

 宿舎役は一瞬だけ黙り、それから鼻を鳴らした。

 

「じゃあ文句は言わせとくか」

「咳き込まれるよりましだ」

「そういうことを、先に言え」

「今言った」

 

 宿舎役は肩をすくめて去る。

 

 去りながらも寝台札の束を持ち直しているから、文句そのものはもう終わった顔だった。

 

 その背中と入れ違いに、今度は倉側の補助役が戻ってくる。

 

 片手に仮札、もう片手に小さな袋の口紐を持っていた。

 

「ジャック、これ見ろ。倉戻しの札、一枚だけ書き手が違う」

「どれだ」

 

 札を受け取る。

 

 確かに字癖が違う。倉付きの手じゃない。たぶん帰投組の誰かが、自分の荷に仮で打った札だ。

 

「勝手札だな」

 

 補助役が顔をしかめる。

 

「やっぱりか」

「誰の袋だ」

「西回りのやつ」

「名前あるなら帳場へ先に寄こせ。倉で抱えるな」

「倉で抱えるなって、お前な」

「列が増える」

「増えてから言うなよ」

「増える前に来ただろ」

「それもそうだ」

 

 補助役はそこで小さく舌打ちしたが、もう怒ってはいなかった。

 

 舌打ちの向きが、誰か個人じゃなく手順そのものへ向いていた。

 

 次に飛び込んできたのは、治療棟帰りの使いだった。

 

 今度は呼吸が少し荒い。

 

「ジャック、湯、足りねえ」

「あと何桶だ」

「大が一つで終わる」

「火番は」

「今炊いてる」

「間に合わん」

「わかってるから来た」

 

 ジャックは一瞬だけ机の上の札を見た。

 

 見るというより、頭の中で置き場をずらした。

 

「南棟の小桶を一つ回せ」

 

 使いが眉を上げる。

 

「宿舎が文句言うぞ」

「言わせとけ。治療棟で冷えるほうが先にまずい」

「宿舎役には」

「俺から言う」

 

 使いはそれだけで十分だったらしい。

 

 短くうなずいて引き返す。

 

「助かる」

 

 その背中を見送る暇もなく、今度は帳場の裏から下働きが二人、譲り合うみたいに戸口で止まった。

 

「何だ」

 

 ジャックが声をかけると、年上のほうが一歩出る。

 

「帳場の紙束、次がもうない」

「予備は」

「下の箱」

「見たか」

「見ました。あと三枚」

「じゃあ倉の横の棚。紐で二つ結んである」

「持ってきていいやつですか」

「いい。帳場に入れろ」

 

 もう一人がその横から口を出した。

 

「あと、裏口の木箱、一つだけ濡れてます」

「中身は」

「まだ開けてません」

「開けるな。油布かけて倉の外へ寄せろ。札だけ先に外せ」

「わかりました」

 

 二人とも返事をして散る。

 

 誰も長くは止まらない。聞いて、決めてもらって、持ち場へ戻る。その流れがもう自然になりかけていた。

 

 机の上には、いつの間にか新しい札がまた三枚増えていた。

 

 さっき自分で片づけたばかりの端が、もう別の案件で埋まりかけている。

 

 

 

 

 

 

 レンが戻ってきたのはそのときだった。

 

 今度は息を切らしてはいないが、明らかに急ぎ足の顔をしている。

 

「治療棟の湯、あと一つで切れる」

「わかってる。南棟の小桶を回せ」

「やっぱりそうか。宿舎役が嫌な顔してた」

「させとけ」

「言っとく」

 

 レンはそこで机の上を見た。

 

 札がまた増えているのを見て、呆れたように笑う。

 

「一件片づくと二件増えるな、ここ」

「三件だ」

 

 ジャックが即答すると、レンは吹き出した。

 

「そういうとこだけ正確だよな」

「数が違うと詰まる」

「はいはい」

 

 そう言いながらも、レンの視線はもう机の札を追っている。

 

 前なら軽口だけで終わっていたかもしれない。今はどれが先かを先に見ようとしていた。

 

 帳場の脇では、見習いが新しい仮札の束を抱えて立っていた。

 

「これ、倉戻し分です」

「何枚」

「四」

「多いな」

 

 見習いはそこで少し迷ったが、ちゃんと言葉を足した。

 

「その、戻し先の棚が埋まりかけてるって」

「誰が言った」

「倉側の補助役です」

「見たか」

「……見てません」

「なら“言った”で止めとけ。次は見てこい」

「はい」

 

 少しだけ耳が赤くなる。

 

 けれど、声は引っ込まない。そこが昨日とは違った。

 

 ジャックは札を受け取り、机の端へ置く。

 

「レン」

「はいはい」

「倉の横、棚の空き見てこい。戻し先、どこまで詰まってる」

「ついでに勝手札の袋も見ろって?」

「言う前に動け」

「口は動いてる」

「脚もだ」

 

 レンが戸口へ向かう。

 

 その横を、別の若い兵がのぞき込むようにして入ってきた。

 

 さっきの帰投組とは別だ。鎧の留め具に泥がついているから、外から戻ったばかりらしい。

 

「すみません、帳場ってここで」

「そうだ」とレンが先に返す。「困ったならジャックのところ」

 

 若い兵は少し迷ってから、中へ半歩入る。

 

「宿舎で、寝台札が一つ余るって」

「余るんじゃなくて、治療棟先回しが一つある」とジャックが言う。「後入り分だ。札を切るなと伝えろ」

「はい」

 

 兵は返事をしてすぐ戻っていく。

 

 その背中を見て、レンが感心したように言う。

 

「今の、もう半分俺が答えられそうだった」

「半分なら黙っとけ」

「ひでえな」

 

 だがレンの声には、少しだけ弾みがあった。

 

 自分の中でも流れがつながり始めているのが、たぶんわかっている。

 

 

 

 

 

 

 帳場の前に立つ声は、減るどころか増えていく。

 

 宿舎、倉、治療棟、帰投組、下働き。持ち場は違っても、少しずつ詰まり始めたものは、いったんここへ来る。

 

 ジャックはそのたび、順番をつける。

 

 どれを先に抜くか。どれは後でも死なないか。どこで人を回すか。

 

 そういうものを、もう考えるというより先に見ていた。

 

 そして、見ている人間も少しずつ増えていた。

 

 帳場の少し手前、倉前へ抜ける通路の脇で、ひとり足を止めている男がいた。

 

 年は二十代の終わりか、三十にかかるか。若い兵の軽さはもうないが、上役と呼ぶにはまだ現場の埃が残っている顔だった。肩当てには東寄り見回り隊の印。詰所付きではない人間だ。

 

 男は最初から話しかけるつもりで立ったわけではなさそうだった。

 

 ただ、通りすがりに目に入った流れが妙で、そのまま足を止めた。そんな顔をしている。

 

 宿舎役が来る。

 

 倉側の補助役が来る。

 

 治療棟の使いが来る。

 

 若い伝令が走り、下働き見習いが札を抱え、帰投組の若い兵がまた一人、何かを抱えて帳場の前で口を開く。

 

 そのたび、帳場役は声を荒げるでもなく、人を振り、札を見て、短く返す。

 

 大げさに仕切っているわけではない。

 

 だが、人はその短い一言でちゃんと散っていく。

 

 男は眉を寄せた。

 

 詰所の帳場が忙しいのは珍しくない。

 

 だがこれは、ただ忙しいのとは少し違って見えた。

 

 忙しさが帳場へ集まっている、というより、いったん帳場を通してからでないと、みなが動かないように見える。

 

 そのとき、レンが倉の横から戻ってきた。

 

「棚、あと半段しか空いてない。戻し分、次が来たらあふれる」

「外に切るな」とジャックが返す。「濡れる」

「じゃあどこに逃がす」

「北の空き箱を二つ使え。中身のないやつだ」

「さっき木釘割れてたぞ」

「上段のほうだ。下はまだ生きてる」

「よく覚えてんな」

「見たからだ」

 

 レンが鼻で笑う。

 

「またそれだ」

 

 言いながらも、もう踵を返している。

 

 男はその背を見送ってから、ようやく口を開いた。

 

「……忙しそうだな」

 

 ジャックはそこで初めて顔を上げた。

 

「ああ」

 

 感情の薄い返事だった。

 

 それが気に障ったわけでもないだろうが、男は少しだけ口元を引いた。

 

「忙しそうだな、で済む量か、それ」

 

 ジャックは帳面を閉じる。

 

「済まなきゃ困る」

 

 その返しに、男は一瞬だけ黙った。

 

 軽口のつもりだったのかもしれないが、返ってきたのが妙に真っ当だったせいで、次の言葉の置き場所を測り直した顔になった。

 

 横から宿舎役が言う。

 

「こいつに話しかけるなら今のうちだぞ。次が来る」

「来るのが前提なのか」

「前提だ。今日はまだ少ないほうだろ」

 

 男は本気で少しだけ目を細めた。

 

 少ない、という量ではない。少なくとも外から見ている分にはそう思えた。

 

「お前ら、何でそんなにここへ来る」

 

 誰に向けたともつかない言い方だった。

 

 だが答えたのはレンだった。ちょうどまた一度戻ってきたところで、戸口の内側から肩をすくめる。

 

「何でって、話が早いからだろ」

「帳場役にか」

「帳場役だからだよ」

 

 レンはそう言ってから、机の上の札をひとつ摘まんだ。

 

「宿舎へ行っても治療棟へ行っても、結局どっちを先にするか決めないと詰まるし。倉は倉で仮置き増えるし。だったら先にここへ持ってきたほうが早い」

 

 男はレンを見る。

 

 軽い顔で言っているが、内容はずいぶん実務的だった。

 

「お前、伝令だろ」

「伝令だよ」

「そこまで考えるのか」

「考えないと今日みたいな日は脚が死ぬ」

 

 レンはけろりとして言う。

 

 男はその返しに少しだけ笑いかけて、やめた。

 

 目の前で起きていることが、冗談半分で流していい量ではないと、ようやく腹に落ちてきた顔だった。

 

 帳場の脇では、見習いが仮札を抱えて立っている。

 

 昨日ならそこで固まっていたかもしれない。今はジャックが目を向けるより先に、自分から言った。

 

「倉戻し分、四です。棚は半段」

「見たか」とジャック。

「見ました」

「よし。そこへ置け」

 

 見習いは短くうなずいて動く。

 

 男はそのやり取りを見て、今度こそはっきり眉を寄せた。

 

「……あの見習い、昨日倉前で詰められてたやつじゃないか」

「よく見てるな」と宿舎役。

「嫌でも目についた」

「今日はもう自分で言いに来るぞ」

「一日でか」

「一日だからだろ」

 

 男はそこで、視線をジャックへ戻した。

 

 帳場役。そう聞いて思い浮かべる顔とは、少し違う。札を書き、寝床を割り、戻ってきた連中の名前を帳面へ落とすだけの人間ではない。少なくとも今、目の前にいるのはそうではなかった。

 

 人が集まる。

 

 仕事が集まる。

 

 そのどちらも、一度ここで順番をつけられてから、またそれぞれの持ち場へ返っていく。

 

 まるで帳場が、ただの記録の場所ではなく、流れの継ぎ目みたいに見えた。

 

「お前」

 

 男が言う。

 

 ジャックは顔だけ上げた。

 

「何だ」

「それ、本来は誰の仕事だ」

 

 宿舎役が吹き出しかけ、レンが露骨に目を逸らす。

 

 見習いだけが少し遅れて顔を上げた。

 

 ジャックは少し考えるでもなく答えた。

 

「詰まった先のやつだろ」

 

 男は一瞬だけ言葉を失う。

 

「そういう意味じゃない」

「なら知らん」

 

 あっさり返されて、今度こそ宿舎役が笑った。

 

「だろうな。そう返すと思った」

 

 男は笑わなかったが、怒りもしなかった。

 

 代わりに、目の前の机と札と人の流れをもう一度見た。

 

 誰か一人が勝手に出しゃばっている、という感じではない。

 

 むしろ逆だった。みなが勝手にここへ持ってきて、勝手にここを通している。その結果、帳場役ひとりの手元に、本来ばらけているはずの流れが集まっている。

 

 それは少し、妙だった。

 

 戸口の向こうからまた別の声が飛ぶ。

 

「ジャック、南棟の七番、後入りいつだ」

「治療棟終わり次第」

 

 返答はすぐだった。

 

 男はその短さを聞いて、ほんの少しだけ目を細める。迷いがない、というより、迷う時間をもう通り過ぎている返しだった。

 

「……お前が倒れたら、ここはどうなる」

 

 ふいに出た問いだった。

 

 レンが「縁起でもないこと言うなよ」と小さく言う。

 

 だが男は視線を外さない。

 

 ジャックは帳面を開き直しながら答えた。

 

「倒れる前に、持ってくる量を減らせ」

 

 宿舎役が今度こそ声を立てて笑った。

 

「無茶言うなあ」

「言ってるのはそっちだ」

 

 ジャックはそう返して、また札へ目を落とす。

 

 男はしばらく動かなかった。

 

 それからようやく、小さく息を吐いた。

 

「……なるほどな」

 

 何がなるほどなのか、自分でもまだ全部は言葉になっていない顔だった。

 

 だが少なくとも、ここで何かが起きていることだけは見えたらしい。

 

 男は踵を返しかけ、それでも最後に一度だけ振り返る。

 

「また来る」

 

 ジャックは顔を上げずに返した。

 

「困ってからにしろ」

 

 それを聞いて、男はほんの少しだけ口元を動かした。

 

 笑ったのか、呆れたのかはわからない。だが、最初に立っていたときよりは、ずっとはっきりした顔で去っていった。

 

 レンがその背中を見送りながら、ぼそっと言う。

 

「誰だ、あれ」

 

 宿舎役が肩をすくめる。

 

「東寄りの見回り隊の中堅だろ。最近こっちへ出入りしてるやつだ」

 

「ふうん」

 

 レンはそれ以上は言わなかったが、帳場へ戻る視線の中に、少しだけおかしそうなものが混じっていた。

 

「何だ」

 

 ジャックが言うと、レンはにやりとする。

 

「いや。やっぱみんな、思うこと同じなんだなって」

「何を」

「何でお前がそこまでやってんだ、ってやつ」

 

 ジャックは札を一枚めくる。

 

「詰まるからだ」

 

 レンが吹き出した。

 

「ほんと、それしか言わねえな」

 

 そう言ったところで、戸口の向こうにまた影が差した。

 

 今度は走ってきた足ではない。

 

 止まるべきか、そのまま入るべきか迷って、結局戸口のところで半歩だけ止まった足だった。

 

 年は見習いと同じくらいか、少し下か。

 

 背はまだ伸びきっておらず、抱えている札板だけが妙に大きく見える。顔にははっきりと書いてあった。

 

 ――どこへ持っていけばいいのかわからない。

 

 レンはその顔を見るなり、半分だけ眉を上げた。

 

「何だ、お前」

 

 新顔の見習いは肩を強ばらせる。

 

「その、倉の横の棚が……」

 

 そこで言葉が止まる。

 

 止まってから、自分が何を言いたいのかもう一度拾い直そうとしている顔だった。

 

 レンは、少し前までならそのまま茶化していたかもしれない。

 

 だが今は、新顔の見習いが何で止まっているのかを先に見た。

 

 抱えている札板。戸口で詰まった足。誰に言えばいいのかわからないまま、ここまで来てしまった声。

 

「困ったのか」

 

 新顔は目を瞬く。

 

「え」

「困ってるなら、ジャックのところへ持ってけ」

 

 その言い方には、もう迷いがなかった。

 

 軽口でもなく、冗談でもなく、単なる手順としてそこに置かれる言葉だった。

 

 新顔は戸口の向こうから帳場の中を見る。

 

 机の上の札。帳面。動く手。横で仮札を揃える見習い。出入りする宿舎役と治療棟の使い。全部が忙しそうで、かえって入り込みにくいのかもしれない。

 

「でも」

 

 そこで止まる。

 

 レンが肩をすくめる。

 

「でもじゃない。持ってけ。止まってるほうが詰まる」

 

 その言葉を、帳場の脇にいた見習いも聞いていた。

 

 ほんの少しだけ顔を上げて、新顔を見る。そして小さく、だが昨日よりはずっとはっきりした声で言った。

 

「……先に、持っていったほうがいいです」

 

 新顔はそちらを見る。

 

 似た年頃の見習いにそう言われたのが効いたのか、ようやく一歩だけ中へ入った。

 

 ジャックが顔を上げる。

 

「何だ」

 

 新顔は札板を抱え直した。

 

「倉の横の棚、戻し先が埋まりかけていて」

「見たか」

「はい」

「何段だ」

「半分、少し下まで」

「濡れは」

「まだないです」

「よし。そこへ置け。倉戻しは列を切る」

 

 新顔は一瞬だけきょとんとした顔をした。

 

 怒鳴られも、突き返されも、たらい回しにもされなかったことに、まだ身体が追いついていないみたいだった。

 

「……はい」

 

「名前は」

「え」

「お前のだ」

「あ、ルドです」

「ルド。次から変だと思った時点で持ってこい。抱えたまま止まるな」

「はい」

 

 ルドは短くうなずき、札板を机の端へ置く。

 

 その手つきはまだぎこちない。だが、少なくとも最初の詰まりはほどけていた。

 

 レンがその横をすり抜けざま、にやっとする。

 

「ほらな」

「……はい」

「言っただろ。困ったらジャックのところだ」

 

 今度は、新顔の見習いだけじゃなかった。

 

 宿舎役が向こうで聞いて鼻を鳴らし、倉側の補助役が「違いねえ」と低く返し、治療棟帰りの使いまでが「それが早い」と当たり前みたいに言った。

 

 誰か一人の台詞じゃない。

 

 詰所の空気が、そのまま口を利いたみたいだった。

 

 ジャックは札板を受け取りながら、特に何も言わない。

 

 言わなくても、もうそれで回っていた。

 

 見習いが仮札を揃える。

 

 レンが次の桶へ手をかける。

 

 宿舎役が寝台札を抱え、倉側の補助役が倉戻しの列を切る。

 

 それぞれの持ち場へ戻りながら、それでも一度ここを通る。

 

 帳場とは、本来ただ札を書いて置く場所のはずだった。

 

 だが今は、詰まる前の声がいったん集まり、順番をつけられてまた流れていく、そういう場所になりかけている。

 

 その中心にいる男は、相変わらず大した顔もしない。

 

 ジャックは新しく来た札へ目を落とし、帳面の端に短く印をつけた。

 

 困ったらジャックのところへ。

 

 誰かがそう言い始めたのが、いつだったかはもう覚えていない。

 

 だが少なくとも今は、それがこの詰所でいちばん話の早い道筋になっていた。

 

 戸の外では、また誰かの足音が止まる。

 

 ジャックは顔を上げる前に言った。

 

「何だ」

 

 今度はためらいなく返事が返ってきた。

 

「少し、困ってます」

 

 ジャックは立ち上がる。

 

 それで十分だった。




レン・ハーウェル
詰所付きの若い伝令。帳場・宿舎・治療棟のあいだを主な走り場とし、各所の札や言伝の受け渡しを担っていた。
当初は軽口の多い若手であったが、ジャックのそばで場の流れと優先順を覚え、この頃には「困ったらジャックのところへ」という流れを若手の側から自然に支える立ち位置へ移っている。
のちに伝令役の中でも話の通し方と現場感覚を買われ、各持ち場のあいだをつなぐ連絡役として重宝されるようになる。
派手な武勲で名を上げる人物ではないが、詰所の流れを止めない者として長く使われていく。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。