帳場の男 ―人を見捨てず頭を下げていたら、みんなの信用で押し上げられていく男の立身出世譚― 作:未雨
静かに始まることの少ない一日だった。
木札の音。戸の開く音。湯を運ぶ桶の底が床へ当たる音。誰かの眠そうな返事。誰かの舌打ち。そういうものがひと通り揃って、ようやく詰所の一日は形になる。
ジャックは帳場へ入るなり、夜のうちに積まれた札をざっと見た。帰投組の宿舎割り、南棟の空き、治療棟へ回した者の書き足し。昨夜のうちに一度揃えたはずの帳面も、時間が経てばだいたい別の顔になっている。
帳箱へ手を伸ばしたところで、横から声が飛んだ。
「おい、レン。南棟の札、まだ持ったままか。先に帳場へ返せ」
宿舎役の声だった。
返事はすぐ返る。
「持ったままだよ。持ったままだから今から返すんだろ」
聞き覚えのある軽い声に、ジャックは顔を上げる。
毛布を片手に抱え、もう片手で木札を二、三枚まとめている若い伝令が、戸口のところで宿舎役に半眼を向けていた。
「口だけはよく回るな、お前は」
「脚も回ってるって」
「だったら先に動け」
「はいはい」
若い伝令――レンはそう言って帳場のほうへ来ると、木札の束を机に置いた。
置き方は少し雑だが、札の順までは崩していない。こういうところだけは妙に手癖がいい。
ジャックは札を見て言う。
「南棟の四番、返ってないぞ」
レンがぴたりと止まった。
「……あ」
「見ろ」
「見てるよ」
「見えてない」
レンは机の端に落ちかけていた一枚を拾い上げ、ばつの悪そうな顔をした。
「今ちょうど見えた」
「都合のいい目だな」
「便利だろ」
ジャックは札を受け取り、帳箱へ差し込む。
その横を、年若い下働き見習いが、両手で布束を抱えて通り過ぎようとしていた。
レンがそちらを見て、口の端を上げる。
「お前、今日は最初からちゃんと持ってるな」
見習いは少しだけ足を止めた。
まだ人に声をかけられるたび一瞬固くなるが、二日前ほどではない。
「……落としてません」
「偉い」
「茶化すな」
ジャックが帳面を開いたまま言うと、レンは肩をすくめた。
「茶化してないって。ちゃんと持ってるの、昨日よりだいぶましだろ」
見習いは返事の代わりに布束を抱え直し、そのまま治療棟のほうへ行った。
足取りはまだ慎重だが、止まりはしない。
レンがその背を見送りながら、小さく言う。
「ちゃんと覚えてんだな、あいつ」
「一回潰れかけたやつは、次は先に固くなる」
ジャックは帳面に印を書きつける。
「固くなる前に言えれば十分だ」
レンはその言い方に少しだけ笑った。
「ほんと、お前そういうのばっか見てるよな」
「見えるからだ」
「またそれだ」
帳場の外から別の声が飛ぶ。
「レン、治療棟の湯、先に回せるか」
「今から行く!」
返事だけは威勢がいい。
だがレンはすぐには飛び出さず、帳場の上の札をひと目見た。
「先に西回りの分、二枚だけ返す。あと南棟の毛布、もう一枚いるぞ」
「どこだ」
「六番。夜の冷えが残ってる」
「倉の下段」
「やっぱ知ってる」
ジャックは顔も上げない。
「知ってるなら先に持っていけ」
「人使い荒いなあ」
「口は動いてる」
「脚も動いてるよ」
レンはそう言って、今度こそ帳場を飛び出した。
宿舎役が向こうで「走るな」と怒鳴る。レンが「今日はまだ転んでない!」と返す声が、戸の向こうで遠ざかっていった。
ジャックは帳面の上で一度だけ手を止める。
静かに始まることの少ない日だったが、すでに三つほどの詰まりが見えている。南棟の毛布、治療棟への湯、帰投組の札戻し。どれも小さい。小さいが、放っておけば後ではちゃんと面倒になる。
そして、そういうものはだいたい帳場へ来る。
戸口の前に、今度は倉側の補助役が顔を出した。
「ジャック、仮札の順、ちょっと見てくれ」
ジャックは帳面を閉じる。
やっぱり来たか、と思っただけで、別に嫌でもなかった。
「どこだ」
「倉前。今朝入った西回りの分と、戻し分が半端に重なってる」
「札は」
「仮で振ってある」
「仮ならまだ動くな。行く」
立ち上がるより先に、今度は別の声が帳場の横から飛んだ。
「ジャック、南棟二番、やっぱり毛布もう一枚要る」
宿舎役だった。片腕に寝台札の束を抱え、もう片手で戸枠を叩いている。
「夜の冷えが残ってる。起きたやつが咳き込んだ」
「二番だけか」
「今のところは」
「倉の下段」
「やっぱりそうなるか」
「足りなければ四番から回せ」
「四番が文句言うぞ」
「言わせとけ。咳き込むよりましだ」
宿舎役が鼻を鳴らす。
「お前に言わせると大体それで終わるんだよな」
「終わるように言ってる」
「はいはい」
宿舎役が去りかけたところで、今度は帳場の裏から桶を抱えた下働きが顔を出した。
「湯、治療棟へ先に回していいですか」
「いま残りいくつだ」
「大桶が二つ、小桶が一つ」
「大を治療棟、小を南棟。炊き足しはもう回ってるか」
「まだです」
「レンは」
「さっき出ました」
「なら戻ったら火番に一声入れさせろ」
下働きがうなずいて走りかける。
「走るな」
「……はい」
歩幅だけ小さくして去っていく背を見て、倉側の補助役がぼそっと言った。
「お前のとこ、毎日こんなだな」
「毎日こんなだ」
「よく嫌にならねえな」
ジャックは答えず、倉前へ向かおうとした。
だが二歩も行かないうちに、今度は治療棟帰りらしい使いが、戸の向こうから手を上げる。
「ジャック、治療棟から。帰投組の一人、宿舎より先に診たほうがいいのがいる」
「歩けるか」
「歩けるが、熱がある」
「名前は」
「まだ札が来てない」
「どこにいる」
「裏手の長椅子」
「先に治療棟へ入れろ。宿舎は後でいい」
「寝床は」
「南棟七番を空ける。宿舎役には俺から言う」
使いは「助かる」とだけ言って去っていった。
倉側の補助役がそれを見送って、半分呆れた顔をする。
「お前、帳場役だよな」
「一応は」
「一応で済ませていい量じゃねえぞ」
ジャックはその言葉を流し、倉前へ足を向ける。
帳場に立っているだけで、もう四つほどの詰まりが見えていた。倉の仮札、南棟の毛布、治療棟への湯、熱持ちの帰投兵。ひとつひとつは小さい。小さいが、放っておけば後ではちゃんと面倒になる。
だから、先に崩す。
倉前へ出ると、そこではすでに年嵩の兵が木箱を二つ動かし、補助役が仮札を並べ替えていた。昨日よりはましだが、それでもまだ、置き方に迷いがある。
「どれだ」
ジャックがしゃがみ込むと、補助役が札束を差し出す。
「西回りの戻しが三、補給が四。そこへ朝一で倉戻しが二つ混ざった」
「戻しを先に壁際へ切れ。補給をその後ろ。倉戻しは列を別にしろ」
「場所がねえ」
「木箱を一つ外へ出せ」
年配の兵が眉を上げる。
「外って、雨来るぞ」
「油布かけろ。しばらく持てばいい」
「言うなあ」
「持つか」
「持たせるしかねえだろ」
そのやり取りの途中で、裏手からレンが戻ってきた。毛布を小脇に抱え、額に少し汗をにじませている。
「南棟六番終わり。火番にも言ってきた」
「遅い」
「宿舎役が捕まえるんだよ。ついでに四番の寝台札も直させられた」
そう言いながらも、レンの手はもう次の札へ伸びていた。
「次は」
「治療棟へ湯」
「大桶だろ。人手足りるか」
「見習い呼べ」
「どっちの」
「昨日の」
レンが振り向く。
ちょうど帳場の脇にいた年若い見習いが、その声にぴくりと反応した。
「自分、ですか」
「お前以外に誰がいる」
レンはそう言ってから、少しだけ言い方を緩める。
「桶持てるか」
見習いは一瞬だけ迷ったが、すぐにうなずいた。
「持てます」
「なら来い。熱いからこぼすなよ」
見習いは「はい」と返し、今度はちゃんと最初から歩き出した。
ジャックはそれを横目で見て、仮札を二枚抜く。
言われてから動くのではなく、自分の番だとわかって返事をする。昨日より、それだけましだった。
倉側の補助役がその様子を見て鼻を鳴らす。
「昨日のあいつか」
「そうだ」
「まだ固い顔してるな」
「固いままで動けるなら十分だ」
補助役はそこで少し黙った。
それから、小さく札束を持ち直す。
「……お前、そういうのよく見てるよな」
「見えるからだ」
「またそれか」
年嵩の兵が笑った。
「でも間違ってねえんだよな、それが」
ジャックは返事の代わりに木箱の位置をずらし、仮札を新しい列へ差し込んだ。
順番が決まると、荷は少しおとなしく見える。人も同じだ。どこに入ればいいかわからないと、余計なところでぶつかる。
そのとき、また別の足音が帳場のほうから近づいてきた。
今度は治療棟の使いではない。鎧の擦れる音だった。
若い兵が一人、戸口のところであたりを見回している。誰に聞けばいいかわからない顔だ。
レンが大桶の取っ手を持ち上げながら、あっさり言った。
「困ったのか」
若い兵がぎょっとして振り向く。
「え」
「困ったならジャックのところだ。だいたい先に何とかなる」
それを聞いて、倉側の補助役が苦い顔をする。
「お前ら、ほんとそればっかりだな」
「違うなら違うって言ってみろよ」
レンがそう返すと、補助役は返事をしなかった。
しなかったが、否定もしなかった。
若い兵は戸口のところで少し迷ったあと、視線をジャックへ向けた。
ジャックは立ち上がる。
案の定、またひとつ来たなと思っただけで、嫌ではない。
「何だ」
若い兵が口を開く。
「帰投組の一人が、札の名前と人数が合わなくて」
ジャックは短くうなずいた。
「そこへ置け。順に見る」
若い兵は慌てて胸元から木札を抜き、帳場の端へ置いた。
手つきが少し急いている。まだ若い。何かが一つ合わないだけで、その先にもっと悪いものがある気がしてくる年頃だ。
ジャックは札を引き寄せた。
帰投札には、戻り八。名札は七枚。
ざっと見たところ、書き違いではない。単純に一枚足りない。
「誰の分がない」
若い兵は喉を鳴らした。
「それが、まだ……」
「見ろ」
「はい」
兵は札を覗き込み、二枚、三枚と指先で数える。
だが焦っているときの指は、たいてい役に立たない。
「西回りの第三組です。戻り八で、ここに七」
「一人、先に外したのは」
「え」
「治療か、宿舎か、別働か」
若い兵はそこでようやく考える顔になった。
「熱持ちが一人、いたとは聞いてます」
「先に治療へ回ったか」
「たぶん」
横で大桶の取っ手を持ち上げかけていたレンが、顔だけこちらへ向ける。
「たぶんって、お前な」
若い兵は少しだけ肩をすぼめた。
「自分は途中から戻しの列に入ったので」
「最初から見てたわけじゃないのか」
「はい」
ジャックは札を机の上へ並べた。
人数が合わないんじゃない。流れが割れている。そういうずれ方だった。
「宿舎の寝台札は切ったか」
若い兵が目を瞬く。
「まだ全部は」
「治療棟へ回したのは誰が受けた」
「治療棟の使いか、宿舎役か……」
「か、じゃ足りん」
ジャックはそこで札を指先で弾いた。
「騒ぐ前に拾え。人数だけ見ても詰まる」
若い兵は口を閉じた。
怒鳴られたわけではない。だが、何を先に見るべきかをはっきり示された顔になる。
レンが桶の手を離す。
「治療棟見に行くか」
「お前は宿舎」
ジャックは即座に切った。
「寝台札がもう切れてるか見ろ。南棟七番、さっき空けた分も合わせて確認だ」
「じゃあ治療棟は」
ジャックは帳場の脇にいた見習いを見た。
「お前、行けるか」
見習いは一瞬だけ目を上げた。
自分に来ると思っていなかった顔だが、前みたいに固まりはしない。
「……はい」
「治療棟の仮札だけ見てこい。熱持ちで先に回した兵の札があるか、名前だけ拾え。勝手に動かすな」
「はい」
レンが横から口を挟んだ。
「一人で行かせて平気か」
「平気じゃない顔してるか」
レンは見習いをひと目見る。
昨日までなら、そこで少し迷ったかもしれない。だが今は首をすくめた。
「……いや、昨日よりはましだな」
「なら行ける」
見習いはそのやり取りを聞いていたのか、聞いていなかったのか、布束の横に置いてあった小さい札板を手に取る。
まだ動きは慎重だが、指示を受けてから歩き出すまでの間は、昨日よりずっと短い。
「治療棟、見てきます」
「走るな」
「はい」
見習いが去る。
ジャックは若い兵へ視線を戻した。
「お前は帰投組の列へ戻れ。八人、今どこまで座ってるか見ろ。宿舎へ行ったのが何人、治療へ回ったのが何人、名前で拾え」
「はい」
「人数で数えるな。顔を見ろ」
若い兵はその言葉に、少しだけ背筋を伸ばした。
「……はい」
レンが大桶を持ち上げる。
「じゃあ俺は宿舎だな」
「ついでに南棟の四番、窓の立てつけも見とけ」
「また増えた」
「口は動いてる」
「脚も動いてるよ」
レンはそう言って帳場を出ていく。
戸口のところで半歩だけ振り返り、若い兵へ顎をしゃくった。
「ほら、お前も行け。止まってるとまた札が増えるぞ」
若い兵は慌ててうなずき、帰投組のほうへ駆けかける。
「走るな」
ジャックが言うと、若い兵もまた歩幅を落とした。
倉側の補助役が、その一連を見て鼻を鳴らす。
「お前、よくそんなに一度に振れるな」
「振らないと詰まる」
「そのうちお前自身が詰まるぞ」
ジャックは返事をしなかった。
返さなくても、次の札がもう机の端へ来ている。
帳場というのは、座って待っている場所に見えて、実際は流れの交差点だった。
人も札も、どこかで順がずれれば、だいたい最後にここへ来る。
なら、ここで拾うしかない。
ジャックは若い兵が置いていった帰投札をもう一度見た。
八人。七枚。欠けているんじゃない。分かれているだけだ。
分かれた流れを、元へ戻す。そのために誰をどこへ出したか、自分ではもう考えなくても手が先に覚えていた。
最初に戻ってきたのは、見習いだった。
治療棟のほうから、小走りにならないぎりぎりの速さで戻ってくる。両手は空いている。札を勝手に持ち出さなかったのは、言われた通りだった。
「ありました」
帳場の前で止まり、少し息を整えてから言う。
「熱持ちで先に回った兵の仮札、治療棟の板のところに」
「名前は」
見習いは一瞬だけ目を上に向けた。
思い出すときの癖なのかもしれない。
「ダル。ダルク、です」
「名字は」
「そこまでは」
「十分だ」
見習いの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「宿舎へはまだ回ってませんでした」
「そうか」
ジャックは帳面の端に短く書きつける。
治療棟先回し。宿舎未着。これで流れの半分は見えた。
見習いはそこで一歩引きかけたが、まだ何か言うべきか迷っている顔をした。
「他は」
ジャックが先に聞く。
「熱持ちの札の隣に、治療待ちが二つ」
「見たか」
「はい」
「触ったか」
「触ってません」
「ならいい」
その「ならいい」は短かったが、見習いには十分だったらしい。
今度は迷わず、小さくうなずいた。
「はい」
次に戻ったのは、若い兵だった。
帰投組の列を見てきたせいか、さっきより少し呼吸が荒い。だが、顔つきは最初よりましだった。慌てているだけの顔から、見たものを持って帰ってきた顔に変わっている。
「八人、いました」
「どこに」
「長椅子に六、治療棟の裏手に一、あと一人は南棟へ向かったと」
「誰が見た」
「長椅子の列にいた年長の兵が」
「名前は」
「ダルク、です」
見習いがぴくりと反応する。
自分が拾ってきた名前とつながったのがわかったのだろう。
ジャックは若い兵を見る。
「宿舎札は」
「まだ七で止まってました」
「お前は誰に聞いた」
「列をまとめてた兵に」
「よし」
若い兵はそこで初めて、少しだけ息を吐いた。
「一人足りないわけじゃ、なかったんですね」
「足りないんじゃなく、流れが割れただけだ」
若い兵はその言葉を、ちゃんと頭に置こうとする顔でうなずく。
「……はい」
最後に戻ってきたのはレンだった。
帰ってくるなり戸口で声を上げる。
「南棟七番、空いてる。六番の窓もまだ死んでる。あと、宿舎役が“誰を七番へ入れるんだ”って文句言ってた」
「言わせとけ」
「そう言っといた」
レンは帳場の前まで来ると、机の上の札を見た。
見習い、若い兵、自分。三方向から持ってきた情報が、もうここに揃っているのを察した顔になる。
「で、いたのか」
「いた」
ジャックは帳面を指で叩く。
「熱持ちのダルク。先に治療棟へ回って、札だけ治療側に留まってた」
レンが鼻で笑う。
「やっぱりな」
「やっぱりって何だ」
「消えてる顔じゃなかったってことだよ」
若い兵が少しだけ眉を寄せる。
「顔でわかるものなんですか」
「この人はたぶんわかる」
レンは肩をすくめる。
ジャックは返事をせず、札を一枚抜いた。
「宿舎札を七で止めたのは正しい。治療棟の仮札を見ずに八へすると、今度は宿舎で一つ浮く」
若い兵は目を瞬く。
「……あ」
「人数だけで先に切ると、別のところで詰まる」
「はい」
見習いも、その横で小さくうなずいている。
昨日までなら、自分に関係あるのかないのかも迷っていたかもしれない。今は少なくとも、聞く顔をしていた。
レンが机に肘をつきかけて、ジャックに睨まれてやめる。
「じゃあどうする」
「ダルクは治療優先。宿舎は七番を仮で押さえる。南棟には“熱持ち一、後入り”で先に回す」
「誰が行く」
レンがそう聞くと、ジャックは当たり前みたいに返した。
「お前」
「だと思った」
「口は動いてる」
「脚も動いてるよ」
いつものように返してから、レンは若い兵のほうを見る。
「お前は帰投組の列へ戻って、八人そろってるって伝えろ。誰も消えてない、治療へ一人先回しだってな」
若い兵は一瞬だけ、ジャックを見る。
自分に指示を出したのがレンでも、その元が誰かはわかっている顔だった。
「……はい」
ジャックは見習いへ視線を移す。
「お前は治療棟へ戻れ。ダルクの仮札、まだ動かすな。治療役が見終わるまでそのままだと伝えろ」
「はい」
「言えるか」
見習いの喉が少しだけ動く。
「言えます」
ジャックはそれで十分だというように、短く言った。
「なら行け」
三人がばらばらに動き出す。
先に出たのはレン。次いで若い兵。見習いは半歩遅れたが、それでも止まりはしない。
戸口を抜ける直前、レンが振り返る。
「なあジャック」
「何だ」
「お前、これ全部覚えてんの」
「覚えてない」
「うそつけ」
「流れで見てるだけだ」
レンは呆れ半分で笑った。
「それを覚えてるって言うんだよ」
そう言い残して出ていく。
若い兵も見習いも、今の言葉に少しだけ顔を動かした。
たぶん思っていたことを、先にレンが口にしたのだろう。
帳場が一瞬だけ空く。
だが、静かになったのはほんの数息だった。
次にはまた別の足音が近づいてくる。帳場とはそういう場所だ。
最初に戸口へ顔を出したのは、宿舎役だった。
寝台札の束を片手に、もう片手で戸枠を軽く叩く。
「ジャック、南棟七番、押さえるのはいいが、その代わりに四番へ詰めたやつが文句言ってる」
「何て」
「狭い、だの、毛布が足りん、だの」
「人数は」
「三」
「三なら詰めろ」
宿舎役が眉をひそめる。
「お前、簡単に言うなあ」
「四番は窓が生きてる」
「六番は」
「死んでる」
「だから七番を空けたのか」
「そうだ」
宿舎役は一瞬だけ黙り、それから鼻を鳴らした。
「じゃあ文句は言わせとくか」
「咳き込まれるよりましだ」
「そういうことを、先に言え」
「今言った」
宿舎役は肩をすくめて去る。
去りながらも寝台札の束を持ち直しているから、文句そのものはもう終わった顔だった。
その背中と入れ違いに、今度は倉側の補助役が戻ってくる。
片手に仮札、もう片手に小さな袋の口紐を持っていた。
「ジャック、これ見ろ。倉戻しの札、一枚だけ書き手が違う」
「どれだ」
札を受け取る。
確かに字癖が違う。倉付きの手じゃない。たぶん帰投組の誰かが、自分の荷に仮で打った札だ。
「勝手札だな」
補助役が顔をしかめる。
「やっぱりか」
「誰の袋だ」
「西回りのやつ」
「名前あるなら帳場へ先に寄こせ。倉で抱えるな」
「倉で抱えるなって、お前な」
「列が増える」
「増えてから言うなよ」
「増える前に来ただろ」
「それもそうだ」
補助役はそこで小さく舌打ちしたが、もう怒ってはいなかった。
舌打ちの向きが、誰か個人じゃなく手順そのものへ向いていた。
次に飛び込んできたのは、治療棟帰りの使いだった。
今度は呼吸が少し荒い。
「ジャック、湯、足りねえ」
「あと何桶だ」
「大が一つで終わる」
「火番は」
「今炊いてる」
「間に合わん」
「わかってるから来た」
ジャックは一瞬だけ机の上の札を見た。
見るというより、頭の中で置き場をずらした。
「南棟の小桶を一つ回せ」
使いが眉を上げる。
「宿舎が文句言うぞ」
「言わせとけ。治療棟で冷えるほうが先にまずい」
「宿舎役には」
「俺から言う」
使いはそれだけで十分だったらしい。
短くうなずいて引き返す。
「助かる」
その背中を見送る暇もなく、今度は帳場の裏から下働きが二人、譲り合うみたいに戸口で止まった。
「何だ」
ジャックが声をかけると、年上のほうが一歩出る。
「帳場の紙束、次がもうない」
「予備は」
「下の箱」
「見たか」
「見ました。あと三枚」
「じゃあ倉の横の棚。紐で二つ結んである」
「持ってきていいやつですか」
「いい。帳場に入れろ」
もう一人がその横から口を出した。
「あと、裏口の木箱、一つだけ濡れてます」
「中身は」
「まだ開けてません」
「開けるな。油布かけて倉の外へ寄せろ。札だけ先に外せ」
「わかりました」
二人とも返事をして散る。
誰も長くは止まらない。聞いて、決めてもらって、持ち場へ戻る。その流れがもう自然になりかけていた。
机の上には、いつの間にか新しい札がまた三枚増えていた。
さっき自分で片づけたばかりの端が、もう別の案件で埋まりかけている。
レンが戻ってきたのはそのときだった。
今度は息を切らしてはいないが、明らかに急ぎ足の顔をしている。
「治療棟の湯、あと一つで切れる」
「わかってる。南棟の小桶を回せ」
「やっぱりそうか。宿舎役が嫌な顔してた」
「させとけ」
「言っとく」
レンはそこで机の上を見た。
札がまた増えているのを見て、呆れたように笑う。
「一件片づくと二件増えるな、ここ」
「三件だ」
ジャックが即答すると、レンは吹き出した。
「そういうとこだけ正確だよな」
「数が違うと詰まる」
「はいはい」
そう言いながらも、レンの視線はもう机の札を追っている。
前なら軽口だけで終わっていたかもしれない。今はどれが先かを先に見ようとしていた。
帳場の脇では、見習いが新しい仮札の束を抱えて立っていた。
「これ、倉戻し分です」
「何枚」
「四」
「多いな」
見習いはそこで少し迷ったが、ちゃんと言葉を足した。
「その、戻し先の棚が埋まりかけてるって」
「誰が言った」
「倉側の補助役です」
「見たか」
「……見てません」
「なら“言った”で止めとけ。次は見てこい」
「はい」
少しだけ耳が赤くなる。
けれど、声は引っ込まない。そこが昨日とは違った。
ジャックは札を受け取り、机の端へ置く。
「レン」
「はいはい」
「倉の横、棚の空き見てこい。戻し先、どこまで詰まってる」
「ついでに勝手札の袋も見ろって?」
「言う前に動け」
「口は動いてる」
「脚もだ」
レンが戸口へ向かう。
その横を、別の若い兵がのぞき込むようにして入ってきた。
さっきの帰投組とは別だ。鎧の留め具に泥がついているから、外から戻ったばかりらしい。
「すみません、帳場ってここで」
「そうだ」とレンが先に返す。「困ったならジャックのところ」
若い兵は少し迷ってから、中へ半歩入る。
「宿舎で、寝台札が一つ余るって」
「余るんじゃなくて、治療棟先回しが一つある」とジャックが言う。「後入り分だ。札を切るなと伝えろ」
「はい」
兵は返事をしてすぐ戻っていく。
その背中を見て、レンが感心したように言う。
「今の、もう半分俺が答えられそうだった」
「半分なら黙っとけ」
「ひでえな」
だがレンの声には、少しだけ弾みがあった。
自分の中でも流れがつながり始めているのが、たぶんわかっている。
帳場の前に立つ声は、減るどころか増えていく。
宿舎、倉、治療棟、帰投組、下働き。持ち場は違っても、少しずつ詰まり始めたものは、いったんここへ来る。
ジャックはそのたび、順番をつける。
どれを先に抜くか。どれは後でも死なないか。どこで人を回すか。
そういうものを、もう考えるというより先に見ていた。
そして、見ている人間も少しずつ増えていた。
帳場の少し手前、倉前へ抜ける通路の脇で、ひとり足を止めている男がいた。
年は二十代の終わりか、三十にかかるか。若い兵の軽さはもうないが、上役と呼ぶにはまだ現場の埃が残っている顔だった。肩当てには東寄り見回り隊の印。詰所付きではない人間だ。
男は最初から話しかけるつもりで立ったわけではなさそうだった。
ただ、通りすがりに目に入った流れが妙で、そのまま足を止めた。そんな顔をしている。
宿舎役が来る。
倉側の補助役が来る。
治療棟の使いが来る。
若い伝令が走り、下働き見習いが札を抱え、帰投組の若い兵がまた一人、何かを抱えて帳場の前で口を開く。
そのたび、帳場役は声を荒げるでもなく、人を振り、札を見て、短く返す。
大げさに仕切っているわけではない。
だが、人はその短い一言でちゃんと散っていく。
男は眉を寄せた。
詰所の帳場が忙しいのは珍しくない。
だがこれは、ただ忙しいのとは少し違って見えた。
忙しさが帳場へ集まっている、というより、いったん帳場を通してからでないと、みなが動かないように見える。
そのとき、レンが倉の横から戻ってきた。
「棚、あと半段しか空いてない。戻し分、次が来たらあふれる」
「外に切るな」とジャックが返す。「濡れる」
「じゃあどこに逃がす」
「北の空き箱を二つ使え。中身のないやつだ」
「さっき木釘割れてたぞ」
「上段のほうだ。下はまだ生きてる」
「よく覚えてんな」
「見たからだ」
レンが鼻で笑う。
「またそれだ」
言いながらも、もう踵を返している。
男はその背を見送ってから、ようやく口を開いた。
「……忙しそうだな」
ジャックはそこで初めて顔を上げた。
「ああ」
感情の薄い返事だった。
それが気に障ったわけでもないだろうが、男は少しだけ口元を引いた。
「忙しそうだな、で済む量か、それ」
ジャックは帳面を閉じる。
「済まなきゃ困る」
その返しに、男は一瞬だけ黙った。
軽口のつもりだったのかもしれないが、返ってきたのが妙に真っ当だったせいで、次の言葉の置き場所を測り直した顔になった。
横から宿舎役が言う。
「こいつに話しかけるなら今のうちだぞ。次が来る」
「来るのが前提なのか」
「前提だ。今日はまだ少ないほうだろ」
男は本気で少しだけ目を細めた。
少ない、という量ではない。少なくとも外から見ている分にはそう思えた。
「お前ら、何でそんなにここへ来る」
誰に向けたともつかない言い方だった。
だが答えたのはレンだった。ちょうどまた一度戻ってきたところで、戸口の内側から肩をすくめる。
「何でって、話が早いからだろ」
「帳場役にか」
「帳場役だからだよ」
レンはそう言ってから、机の上の札をひとつ摘まんだ。
「宿舎へ行っても治療棟へ行っても、結局どっちを先にするか決めないと詰まるし。倉は倉で仮置き増えるし。だったら先にここへ持ってきたほうが早い」
男はレンを見る。
軽い顔で言っているが、内容はずいぶん実務的だった。
「お前、伝令だろ」
「伝令だよ」
「そこまで考えるのか」
「考えないと今日みたいな日は脚が死ぬ」
レンはけろりとして言う。
男はその返しに少しだけ笑いかけて、やめた。
目の前で起きていることが、冗談半分で流していい量ではないと、ようやく腹に落ちてきた顔だった。
帳場の脇では、見習いが仮札を抱えて立っている。
昨日ならそこで固まっていたかもしれない。今はジャックが目を向けるより先に、自分から言った。
「倉戻し分、四です。棚は半段」
「見たか」とジャック。
「見ました」
「よし。そこへ置け」
見習いは短くうなずいて動く。
男はそのやり取りを見て、今度こそはっきり眉を寄せた。
「……あの見習い、昨日倉前で詰められてたやつじゃないか」
「よく見てるな」と宿舎役。
「嫌でも目についた」
「今日はもう自分で言いに来るぞ」
「一日でか」
「一日だからだろ」
男はそこで、視線をジャックへ戻した。
帳場役。そう聞いて思い浮かべる顔とは、少し違う。札を書き、寝床を割り、戻ってきた連中の名前を帳面へ落とすだけの人間ではない。少なくとも今、目の前にいるのはそうではなかった。
人が集まる。
仕事が集まる。
そのどちらも、一度ここで順番をつけられてから、またそれぞれの持ち場へ返っていく。
まるで帳場が、ただの記録の場所ではなく、流れの継ぎ目みたいに見えた。
「お前」
男が言う。
ジャックは顔だけ上げた。
「何だ」
「それ、本来は誰の仕事だ」
宿舎役が吹き出しかけ、レンが露骨に目を逸らす。
見習いだけが少し遅れて顔を上げた。
ジャックは少し考えるでもなく答えた。
「詰まった先のやつだろ」
男は一瞬だけ言葉を失う。
「そういう意味じゃない」
「なら知らん」
あっさり返されて、今度こそ宿舎役が笑った。
「だろうな。そう返すと思った」
男は笑わなかったが、怒りもしなかった。
代わりに、目の前の机と札と人の流れをもう一度見た。
誰か一人が勝手に出しゃばっている、という感じではない。
むしろ逆だった。みなが勝手にここへ持ってきて、勝手にここを通している。その結果、帳場役ひとりの手元に、本来ばらけているはずの流れが集まっている。
それは少し、妙だった。
戸口の向こうからまた別の声が飛ぶ。
「ジャック、南棟の七番、後入りいつだ」
「治療棟終わり次第」
返答はすぐだった。
男はその短さを聞いて、ほんの少しだけ目を細める。迷いがない、というより、迷う時間をもう通り過ぎている返しだった。
「……お前が倒れたら、ここはどうなる」
ふいに出た問いだった。
レンが「縁起でもないこと言うなよ」と小さく言う。
だが男は視線を外さない。
ジャックは帳面を開き直しながら答えた。
「倒れる前に、持ってくる量を減らせ」
宿舎役が今度こそ声を立てて笑った。
「無茶言うなあ」
「言ってるのはそっちだ」
ジャックはそう返して、また札へ目を落とす。
男はしばらく動かなかった。
それからようやく、小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
何がなるほどなのか、自分でもまだ全部は言葉になっていない顔だった。
だが少なくとも、ここで何かが起きていることだけは見えたらしい。
男は踵を返しかけ、それでも最後に一度だけ振り返る。
「また来る」
ジャックは顔を上げずに返した。
「困ってからにしろ」
それを聞いて、男はほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのか、呆れたのかはわからない。だが、最初に立っていたときよりは、ずっとはっきりした顔で去っていった。
レンがその背中を見送りながら、ぼそっと言う。
「誰だ、あれ」
宿舎役が肩をすくめる。
「東寄りの見回り隊の中堅だろ。最近こっちへ出入りしてるやつだ」
「ふうん」
レンはそれ以上は言わなかったが、帳場へ戻る視線の中に、少しだけおかしそうなものが混じっていた。
「何だ」
ジャックが言うと、レンはにやりとする。
「いや。やっぱみんな、思うこと同じなんだなって」
「何を」
「何でお前がそこまでやってんだ、ってやつ」
ジャックは札を一枚めくる。
「詰まるからだ」
レンが吹き出した。
「ほんと、それしか言わねえな」
そう言ったところで、戸口の向こうにまた影が差した。
今度は走ってきた足ではない。
止まるべきか、そのまま入るべきか迷って、結局戸口のところで半歩だけ止まった足だった。
年は見習いと同じくらいか、少し下か。
背はまだ伸びきっておらず、抱えている札板だけが妙に大きく見える。顔にははっきりと書いてあった。
――どこへ持っていけばいいのかわからない。
レンはその顔を見るなり、半分だけ眉を上げた。
「何だ、お前」
新顔の見習いは肩を強ばらせる。
「その、倉の横の棚が……」
そこで言葉が止まる。
止まってから、自分が何を言いたいのかもう一度拾い直そうとしている顔だった。
レンは、少し前までならそのまま茶化していたかもしれない。
だが今は、新顔の見習いが何で止まっているのかを先に見た。
抱えている札板。戸口で詰まった足。誰に言えばいいのかわからないまま、ここまで来てしまった声。
「困ったのか」
新顔は目を瞬く。
「え」
「困ってるなら、ジャックのところへ持ってけ」
その言い方には、もう迷いがなかった。
軽口でもなく、冗談でもなく、単なる手順としてそこに置かれる言葉だった。
新顔は戸口の向こうから帳場の中を見る。
机の上の札。帳面。動く手。横で仮札を揃える見習い。出入りする宿舎役と治療棟の使い。全部が忙しそうで、かえって入り込みにくいのかもしれない。
「でも」
そこで止まる。
レンが肩をすくめる。
「でもじゃない。持ってけ。止まってるほうが詰まる」
その言葉を、帳場の脇にいた見習いも聞いていた。
ほんの少しだけ顔を上げて、新顔を見る。そして小さく、だが昨日よりはずっとはっきりした声で言った。
「……先に、持っていったほうがいいです」
新顔はそちらを見る。
似た年頃の見習いにそう言われたのが効いたのか、ようやく一歩だけ中へ入った。
ジャックが顔を上げる。
「何だ」
新顔は札板を抱え直した。
「倉の横の棚、戻し先が埋まりかけていて」
「見たか」
「はい」
「何段だ」
「半分、少し下まで」
「濡れは」
「まだないです」
「よし。そこへ置け。倉戻しは列を切る」
新顔は一瞬だけきょとんとした顔をした。
怒鳴られも、突き返されも、たらい回しにもされなかったことに、まだ身体が追いついていないみたいだった。
「……はい」
「名前は」
「え」
「お前のだ」
「あ、ルドです」
「ルド。次から変だと思った時点で持ってこい。抱えたまま止まるな」
「はい」
ルドは短くうなずき、札板を机の端へ置く。
その手つきはまだぎこちない。だが、少なくとも最初の詰まりはほどけていた。
レンがその横をすり抜けざま、にやっとする。
「ほらな」
「……はい」
「言っただろ。困ったらジャックのところだ」
今度は、新顔の見習いだけじゃなかった。
宿舎役が向こうで聞いて鼻を鳴らし、倉側の補助役が「違いねえ」と低く返し、治療棟帰りの使いまでが「それが早い」と当たり前みたいに言った。
誰か一人の台詞じゃない。
詰所の空気が、そのまま口を利いたみたいだった。
ジャックは札板を受け取りながら、特に何も言わない。
言わなくても、もうそれで回っていた。
見習いが仮札を揃える。
レンが次の桶へ手をかける。
宿舎役が寝台札を抱え、倉側の補助役が倉戻しの列を切る。
それぞれの持ち場へ戻りながら、それでも一度ここを通る。
帳場とは、本来ただ札を書いて置く場所のはずだった。
だが今は、詰まる前の声がいったん集まり、順番をつけられてまた流れていく、そういう場所になりかけている。
その中心にいる男は、相変わらず大した顔もしない。
ジャックは新しく来た札へ目を落とし、帳面の端に短く印をつけた。
困ったらジャックのところへ。
誰かがそう言い始めたのが、いつだったかはもう覚えていない。
だが少なくとも今は、それがこの詰所でいちばん話の早い道筋になっていた。
戸の外では、また誰かの足音が止まる。
ジャックは顔を上げる前に言った。
「何だ」
今度はためらいなく返事が返ってきた。
「少し、困ってます」
ジャックは立ち上がる。
それで十分だった。
レン・ハーウェル
詰所付きの若い伝令。帳場・宿舎・治療棟のあいだを主な走り場とし、各所の札や言伝の受け渡しを担っていた。
当初は軽口の多い若手であったが、ジャックのそばで場の流れと優先順を覚え、この頃には「困ったらジャックのところへ」という流れを若手の側から自然に支える立ち位置へ移っている。
のちに伝令役の中でも話の通し方と現場感覚を買われ、各持ち場のあいだをつなぐ連絡役として重宝されるようになる。
派手な武勲で名を上げる人物ではないが、詰所の流れを止めない者として長く使われていく。