帳場の男 ―人を見捨てず頭を下げていたら、みんなの信用で押し上げられていく男の立身出世譚―   作:未雨

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立たせておくな

 その日も、詰所の入口は朝から落ち着かなかった。

 

 木札の音。桶の底が板床を打つ音。帰投組の名を呼ぶ声。倉前から飛ぶ短い怒鳴り声。治療棟のほうから返ってくる、眠そうな返事とも舌打ちともつかない声。

 

 人の流れが多い日ほど、入口には立ち止まる者が増える。

 中へ入るべきなのか、先に待つべきなのか、誰に声をかければいいのか、それがわからないまま、一歩ぶんだけ足を残した人間がたまる。

 

 その朝も、戸口の脇に一人、そういう止まり方をしている影があった。

 

 女だった。

 

 旅装は地味で、色も抑えられている。兵のような重さはなく、かといって町の使い走りの軽さでもない。肩から下げた革筒と、抱えている書面包みだけが、ここへ用があって来たことを示していた。

 

 年は二十前後か、少し上か。

 疲れているのは見ればわかる。だが、疲れを口に出していい立場ではないと、自分で決めている顔だった。

 

 入口に立っていた下働きが一度だけそちらを見て、すぐ別の荷へ手を伸ばす。

 

「客なら、ちょっと待ってくれ」

 

 悪意のない言い方だった。

 ただ、余裕がない。余裕がない場所では、言葉はすぐ平たくなる。

 

 女は「承知しました」とだけ返し、それ以上は言わなかった。

 

 それでまた、少しだけ時間が流れる。

 

 倉前へ走る若い兵が一人。

 治療棟へ桶を運ぶ下働きが二人。

 宿舎役が寝台札を抱えて通り過ぎ、その後ろをレンが追いかける。

 

「待てって、そっち先じゃないだろ!」

 

「お前が遅いんだよ!」

 

 いつもの騒がしさだった。

 いつもの騒がしさの中で、入口の女だけが、少しずつ場から置いていかれていく。

 

 帳場の奥で札を見ていたジャックは、その流れの端を見た。

 

 立っている。

 誰にも通されていない。

 湯も回っていない。

 書面包みを抱えたまま、まだ帰っていない。

 

 客かどうかはどうでもよかった。

 止まらせたままにしておくと、あとで面倒になる顔だった。

 

「レン」

 

 ジャックが呼ぶ。

 

 ちょうど宿舎役へ何か返しかけていたレンが振り向く。

 

「何」

「入口」

「入口?」

 

 レンがそちらを見て、半拍遅れて「ああ」と言った。

 今初めて視界に入れた顔だったらしい。

 

「客だろ」

「立たせるな」

「今?」

 

 ジャックは帳面を閉じる。

 

「今だ」

 

 レンが肩をすくめる。

 

「はいはい」

 

 そう言いながら入口へ寄ると、女の前で少しだけ足を止めた。

 

「悪い。今、誰にも取られてなかったな」

 

 女は一瞬だけ目を上げる。

 その目に、少しだけ警戒があった。誰へ何を言えばいいのか、まだ測りきれていない目だった。

 

「はい。どなたへお渡しすべきか、まだ――」

「ならこっち。立ったままは邪魔になる」

 

 言い方は雑にも聞こえる。

 だが、邪魔だからどけと言っているのではないのは、声の運びでわかる。

 

 レンは半歩下がって道を空ける。

 

「こっち来て。帳場の横、まだ椅子空いてる」

 

 女はほんの少し迷ったあと、小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 そのまま中へ入ってくる。

 抱えている書面包みを放さないところを見ると、やはりただの届け物ではないらしい。

 

 帳場の脇まで来たところで、ジャックが顔を上げた。

 

「そこへ座れ」

 

 女は少し驚いたように見えた。

 

「いえ、急ぎの書面ですので」

「急ぎならなおさらだ。立ったまま抱えてても遅くなる」

 

 そう言われると、反論しにくい。

 女は一度だけ口を閉じ、それから椅子へ浅く腰を下ろした。

 

 見習いが、そのやり取りを帳場の端から見ている。

 まだ自分から出るには半歩足りない顔だったが、ジャックがそちらへ視線をやる前に、レンが先に言った。

 

「湯、残ってたよな」

 

 見習いはすぐにうなずく。

 

「……はい」

 

「小椀で一つ」

 

 言われてから動くまでの間が、前より短い。

 見習いは小走りにならない程度の速さで湯差しへ向かう。

 

 女はその様子を見て、少しだけ息をついた。

 完全に力を抜いたわけではない。だが、入口で立ち尽くしていたときよりは、肩の角がわずかに落ちている。

 

 ジャックは書面包みへ視線を落とした。

 

「誰宛だ」

 

 女は姿勢を整え直す。

 

「受け入れ照会です。詰所宿舎および治療棟、倉前の仮置きに関して」

 

 言葉の整い方で、レンがわずかに目を上げた。

 ただの使い走りの口ではない。

 

「今日中か」

 

 ジャックが聞く。

 

 女はほんの少しだけ目を見開く。

 

「……はい。本日中に確認が通らなければ、次便の受け入れ順に差し障りが出ます」

 

 レンが低く「うわ」と言った。

 

「それ、入口で止めるやつじゃないだろ」

「止まってたんだよ」とジャック。

「見ればわかる」

 

 レンは鼻を鳴らし、見習いが持ってきた小椀を女の前へ置いた。

 

「熱いから気をつけて」

 

 女は一瞬だけ戸惑い、それから小さく頭を下げた。

 

「……重ねて、ありがとうございます」

 

 見習いは、その礼を受けると少しだけ耳を赤くした。

 だが小椀を置く手は震えなかった。

 

 ジャックは包みを受け取る。

 

 紐の結び方、封の押し方、外側の記し。

 派手ではないが、軽い書面ではない。

 

「名前は」

 

 女はすぐ答えた。

 

「ミレナ・セイルと申します」

 

 レンがその名を頭の中で転がすように、少しだけ目を細める。

 

 ジャックは包みを開いた。

 

 中の文面は簡潔だった。

 次便にて、負傷者数名、軽補給若干、受け入れ確認要。宿舎、治療棟、倉前の仮置き余裕を本日中に照会し、返答を求む。

 

 読むというより、見た瞬間に詰まる場所が見える文だった。

 

 治療棟の余裕。

 宿舎の空き。

 倉の仮置き。

 どれか一つでも曖昧だと、明日の受け入れで崩れる。

 

 ジャックは書面を机へ置く。

 

「レン」

 

「はいはい」

 

「治療棟。次便受け入れの余裕、今の見込みだけ聞け。重傷何、軽傷何まで要る。曖昧なら曖昧で持ってこい」

「わかった」

 

「見習い」

 

「はい」

 

「宿舎役に、今夜明日で空けられる寝台数を聞け。南棟と西棟、どっちに逃がせるかまで」

「はい」

 

 見習いが返事をしたあとで、レンが横から口を挟む。

 

「倉は」

「俺が聞く」

 

 ジャックはそう言って立ち上がる。

 

 ミレナが、その動きを目で追った。

 

「今、ここでお決めになるのですか」

 

 ジャックはそちらを見る。

 

「決めるんじゃない。詰まるところを先に拾う」

 

 ミレナはその言い方を、少しだけ意外そうに聞いた。

 たぶんもっと、上へ回して終わりだと思っていたのだろう。

 

「本来でしたら、こちらは上役筋への確認を――」

「上へ持ってく前に、下で詰まる」

 

 ジャックは短く言う。

 

「詰まったまま上へ出しても、あとで返ってくる」

 

 レンが笑う。

 

「それ、ここのいつものやつ」

 

 そう言って、もう戸口へ向かっている。

 見習いも少し遅れて出る。前なら誰かの背を見てから動いていたが、今はちゃんと自分の役目のほうへ足が向いていた。

 

 ミレナは、その二人の背を見送ったあと、手元の小椀へ目を落とした。

 まだ湯気が立っている。

 

 入口で止まっていた数刻前には、こうなるとは思っていなかった顔だった。

 

 ジャックは倉前へ向かいながら、補助役へ声を投げる。

 

「倉戻しの仮置き、あとどこまで入る」

 

 補助役が振り向く。

 

「今日の分だけならまだ半列」

「次便来たら」

「怪しい」

「外に逃がすと濡れるな」

「降れば終わりだ」

「北の空き箱は」

「二つなら使える」

 

 ジャックは短くうなずく。

 

「戻れ」

 

 それだけで補助役はわかった顔をした。

 この場では、その程度で足りる。

 

 帳場へ戻ると、ミレナはもう椅子から立っていた。

 立つなとは言わなかったが、まだ気を抜いていないのが見える。

 

「座ってろ」とジャック。

「確認がつくまで、持ってるほうがいい」

「ですが」

「立たせておくと、また止まる」

 

 ミレナはそこで、ほんの少しだけ目を伏せた。

 痛いところを突かれたのかもしれない。

 

「……承知しました」

 

 今度は素直に座る。

 

 その声音に、少しだけ柔らかいものが混じった。

 

 戻ってきたのはレンが先だった。

 

 治療棟のほうから、息を切らさない程度の急ぎ足で入ってくる。

 

「重傷は二までなら押し込める。軽傷は四。熱持ちが増えると怪しい、だってさ」

「今の入れ替わりは」

「昼までで一。夕までならもう一」

「わかった」

 

 レンはそこで初めて、帳場の脇に座るミレナを見た。

 さっき入口で見たときより、顔色が少しましになっているのを確認するみたいな目だった。

 

「湯、飲んだ?」

「はい。助かりました」

「そりゃよかった」

 

 軽く返してから、レンは机の書面を見下ろす。

 

「今日中なんだろ、これ」

「そうだ」

「じゃあ止めてたらまずかったな」

「だから拾った」

 

 レンは「だよな」とだけ言った。

 

 次に戻ってきたのは見習いだった。

 顔は少し緊張しているが、息は乱れていない。

 

「宿舎役から。南棟は二、西棟は三、明日の入れ替わり込みならもう少し」

「逃がせるのは」

「軽いほうは西棟」

「理由は」

「南棟は今、熱持ちと戻りで詰めてるから」

「よし」

 

 見習いはそこで、ミレナのほうを見ないようにしつつも、さっきよりは声が落ち着いていた。

 

 ジャックは帳面の端へ必要な数を書きつける。

 

「レン、上へ持ってく前に宿舎役へ一声。軽傷は西棟寄せ、重いのは南棟優先で見込みだけ立てろと伝えろ」

「はいはい」

 

 ミレナがそのやり取りを聞いて、静かに言った。

 

「そこまで、今のうちに」

 

 ジャックは書面から顔を上げない。

 

「今日中なんだろ」

「……はい」

「なら後で揉めるところを先に潰す」

 

 ミレナは何か言いかけて、やめた。

 たぶん、言い返す筋がないのではなく、想定していた進み方と違いすぎて、まだ言葉が追いついていない。

 

 そのとき、戸口の外から別の声がした。

 

「ミレナ殿、おいででしたか」

 

 レンがそちらを振り返る。

 

 来たのは詰所付きの人間ではなかった。衣の整い方が少し違う。兵でも下働きでもない。どこか家付きの従者寄りの男だった。

 

 男は帳場の脇のミレナを見つけると、明らかに安堵した顔をした。

 

「探しました。先触れが行き違いで」

「こちらで止まっていました」

 

 ミレナはそう答え、すぐにジャックのほうを見る。

 

 その視線の動きで、従者の男もようやく帳場の机へ意識を向けた。

 開かれた書面、書き足された帳面、出入りする宿舎役とレン。そこでようやく少し顔色が変わる。

 

「あの、そちらは」

 

 ジャックは答えない。

 代わりにレンが口を開く。

 

「帳場役」

 

 従者の男は一瞬だけ間を置いた。

 

 たぶん、もっと上の人間が相手をしていると思っていたのだろう。

 

「……失礼しました。こちら、セイル家付き書記補佐、ミレナ・セイル殿です」

 

 見習いがその名に少しだけ目を上げる。

 宿舎役も、ちょうど通りがかりに耳へ入れたらしく、ほんの少しだけ歩をゆるめた。

 

 ただの文使いではない。

 でも、だからといってここで空気が大きく変わるほどの高位でもない。

 そのあたりが、逆にこの場にはちょうどよかった。

 

 ジャックはようやく顔を上げる。

 

「今日中に通すなら、今これを持っていけ」

 

 書面の横へ、宿舎と治療棟の見込みを記した短い札を添える。

 

「上はそこから切れる」

 

 従者の男が札を見て、目を見開いた。

 

「もう、そこまで」

「遅いと詰まる」

 

 ミレナが、その言葉にほんの少しだけ口元を動かした。

 笑ったのかはわからない。ただ、最初に入口で立っていたときより、ずっと生きた顔になっていた。

 

「ジャック殿」

 

 ミレナが言う。

 

 この回で初めて、名前を呼ぶ。

 

「名を、伺っても」

「ジャック」

「帳場役の」

「そうだ」

 

 ミレナは小さくうなずいた。

 

「覚えておきます」

 

 大げさな礼ではなかった。

 けれど、軽くもなかった。

 

 従者の男が書面を抱え直す。

 

「急ぎます」

「急げ」とジャック。

「でも走るな。落とす」

 

 レンがそこで吹き出した。

 

「そこだけはほんと一緒なんだな」

 

 従者の男は一瞬きょとんとしたあと、頭を下げて去っていく。

 ミレナも立ち上がり、椅子を引いた。

 

「湯を、ありがとうございました」

「見習いだ」とジャック。

 

 急に名を出された見習いが、少しだけ固まる。

 

 ミレナはそちらへ向き直り、ちゃんと頭を下げた。

 

「助かりました」

 

 見習いは耳まで赤くしながら、それでも小さく返した。

 

「……いえ」

 

 ミレナはそのまま戸口へ向かう。

 出る直前、一度だけ振り返った。

 

 帳場、札、レン、見習い、ジャック。

 その並びを、たぶん忘れないように見たのだと思う。

 

 それから静かに去っていった。

 

 少しだけ場が空く。

 

 宿舎役がその隙に鼻を鳴らした。

 

「ただの客じゃなかったな」

「そうだな」とレン。

「でもお前、最初からああだったよな」

 

 ジャックは帳面へ視線を戻す。

 

「止まってたからだ」

「それだけかよ」

「今日中に通らんと詰まる」

「それもそうだけどさあ」

 

 レンが机に片手をつきかけ、やめる。

 

「誰にでもああなんだな、お前」

 

 ジャックは札を一枚繰る。

 

「止まってるなら通す」

「はいはい、出ました」

 

 宿舎役が少し笑う。

 

「外にも漏れるぞ、あれ」

「漏れたら何だ」

「何だって、そりゃ――」

 

 最後まで言う前に、また別の足音が戸口で止まった。

 

 今度は迷っている足ではない。

 用があって、ちゃんとここへ来た足だった。

 

 ジャックは顔を上げる前に言う。

 

「何だ」

 

 返事はすぐ返る。

 

「倉戻しの列、次が入りません」

 

 レンがにやりとする。

 

「ほらな」

 

 ジャックは立ち上がる。

 

 それで十分だった。




ミレナ・セイル

上位筋に連なる家付きの若い書記補佐。補給・受け入れ・照会に関する書面の整理と伝達を担っていた。
当時は次便の負傷者および補給品の受け入れ順に関する照会書面を携えて詰所を訪れていたが、詰所の忙しさと土地勘のなさから入口で止まりかける。
第4話では、ジャックに立たせたままにされず、必要な確認を先に通されたことで、その日のうちに照会を上へ上げることができた。
のちに家付きの書記役としてさらに実務を任されるようになり、現場の流れを理解して話を通す者として重宝される。ジャックの働きを詰所の外側で記憶している人物の一人。
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