帳場の男 ―人を見捨てず頭を下げていたら、みんなの信用で押し上げられていく男の立身出世譚―   作:未雨

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同じ顔じゃない

 戻りが重なる日は、日が傾く前から空気が変わる。

 

 倉前へ運ばれる袋の数が増える。

 治療棟の前を行き来する足が早くなる。

 宿舎役の声が一段低くなり、帳場の机の上では木札の端がいつもより早く減っていく。

 

 その日もそうだった。

 

 夕刻にかかる少し前、東の見回りから二組、西寄りから一組、まとめて戻るという報せが先に入った。小競り合いというほどのものではないが、走り通しで引き返してきたらしい。

 大きな負傷は少ない。少ないが、そういう日のほうが雑に流されやすい。

 

 帳場の前では、宿舎役が寝台札の束を指ではじいていた。

 

「南棟はもう詰めるしかないな。西棟は二つ空くが、戻り三組まとめて入れるには足りん」

 

 ジャックは帳面から目を上げる。

 

「西の二つは誰が抜ける」

「軽傷の戻りが一つ、夜番外れが一つ」

「南は」

「四番と六番がまだ死んでる」

「窓か」

「窓だよ。直ると思うか?」

「思わん」

 

 宿舎役が鼻を鳴らした。

 

「だろうな」

 

 その横を、レンが木桶を抱えて通り過ぎる。

 

「戻り、もう見えたぞ。泥だらけのが三列」

「列で数えるな」とジャック。

「顔見ろ」

「まだ遠いって」

 

 そう言いながらも、レンは戸口の向こうをもう一度覗いた。

 前より少し、そういう見方が先に立つようになっている。

 

 見習いが帳場の脇で札を揃えながら、そっと言う。

 

「飯、先に出しますか」

「まだだ」と宿舎役。

「先に寝台へ入れてからでいいだろ」

「全員か」とジャック。

 

 宿舎役はそこで初めて、少しだけ嫌そうな顔をした。

 

「戻り全部に湯と飯を先に回すほど余ってねえよ」

「余ってるかどうかは聞いてない」

「じゃあ何を聞いてる」

「全員同じ顔か」

 

 宿舎役は答えなかった。

 答えないというより、まだそこまで見ていない顔だった。

 

 遠くから足音が重なってくる。

 引きずるような足、まだ気が立っている足、無理に歩幅を合わせている足。戻りが近づくと、それだけで少しずつ場が決まり始める。

 

 戸口の前へ最初の列が見えた。

 

 泥。汗。乾ききらない血の跡。

 大怪我ではない。大怪我ではないが、だからこそ“寝かせておけばいい”でまとめられそうな顔が並んでいる。

 

 先頭の年長兵が、帳場の前まで来て短く言った。

 

「東回り二組、戻り」

 

 その後ろから、もう一組も流れ込む。

 

 宿舎役が寝台札を抱え直す。

 

「南へ三、西へ二、あとは詰める。とりあえず全部入れるぞ」

 

 それを聞いた何人かが、ほっとしたように息を吐いた。

 戻りにとって、まず寝台へ入れるというだけで一つ救いだ。だからこそ、その先の違いが見えにくい。

 

 ジャックは列を見た。

 

 立っている。

 歩けている。

 返事もある。

 

 でも、同じではない。

 

 端の若い兵は顔色が悪いのに、姿勢だけで持っている。

 その隣は目が冴えすぎて、まだ息が落ちていない。

 後ろの一人は返事が半拍遅い。

 別の一人は空腹で手が細かく震えている。

 また一人は、今は歩けるが、寝台へ押し込んだあとで確実に吐く顔だった。

 

 宿舎役が札を切ろうとする。

 

 その前に、ジャックが言った。

 

「まとめて入れるな」

 

 声は大きくなかった。

 だが、木札の鳴る音の合間に、ちゃんと止まって聞こえた。

 

 宿舎役が眉をひそめる。

 

「は?」

「同じ顔じゃない」

「戻りだろ、全員」

「戻りでも同じじゃない」

 

 宿舎役は札を持ったまま、列を見た。

 見るが、まだ一括の見え方をしている顔だった。

 

「今それどころじゃないぞ。寝床も足りんし、治療棟も詰まり気味だ」

「だから分ける」

「分けるって、何を」

 

 レンがそこで戻り組を見直した。

 さっきまでは“泥だらけが三列”だった目が、少しずつ細かく動く。

 

「……あ」

 

 小さく漏れた声を、ジャックは拾った。

 

「見えたか」

「一人、やばそうなのいるな」

「一人じゃない」

 

 ジャックは列の端を指す。

 

「あれは先に湯か飯だ。寝かせると夜に返ってくる」

「どれだ」

「左端から二番目」

「青いやつか」

 

 次に、別の一人へ顎を向ける。

 

「あれは先に治療棟」

「歩いてるぞ」

「歩いてるだけだ」

「……ああ」

 

 宿舎役もそこでようやく、少し顔つきが変わった。

 

 見えてしまえば早い。

 見えないうちは全部“戻り”で済む。

 

 ジャックは短く切る。

 

「寝かせていい組、先に湯か飯の組、治療棟を先に見る組で分ける」

「人手は」

「振る」

「どこにいる」

 

 レンがすぐに口を出した。

 

「俺いる」

「お前は湯と飯」

「了解」

 

 見習いが、まだ半歩不安げな顔のまま、それでも自分から言った。

 

「宿舎、走ります」

「走るな」とジャック。

「宿舎役へ、西棟二つは軽い組から入れると伝えろ。南は後入り一つ空ける」

「はい」

 

 戻り組の中から、年長兵が少し苛立ったように言う。

 

「おい、寝かせないのか」

 

 それに答えたのはジャックだった。

 

「寝かせる。だが順が違う」

 

 年長兵は舌打ちしかけ、やめた。

 目の前の帳場役が、自分たちを引き留めるために言っている顔ではないとわかったのだろう。

 

 ジャックは列の中へ半歩だけ出る。

 

「左端二人、先にこっちだ。湯が入る」

 

 その二人のうち片方が、ほっとしたより先に、膝から少し力を抜いた。

 もう片方は「自分は平気です」と言いかけて、声が途中で掠れる。

 

「平気なら後だ」とジャック。

「今は先だ」

 

 次に、別の一人を見る。

 

「お前、治療棟」

「大丈夫です」

「返事が遅い。先に行け」

 

 兵はそこでやっと、少しだけ目を瞬いた。

 自分でも、自分の返事が遅れていることに気づいていなかった顔だった。

 

 宿舎役が札を抱えたまま、低く言う。

 

「……夜に返ってくる、か」

「来るぞ」

「吐くか」

「吐く。熱も出る」

「南棟荒れるな」

「だから今分ける」

 

 レンがもう桶を持って戻ってくる。

 

「湯、二つ。飯はどうする」

「固いのはまだだ。飲めるやつに先に入れろ」

「わかった」

 

 見習いは寝台札を抱えて戸口へ向かいかけ、そこでちゃんと歩幅を落とした。

 前なら慌てて走っていた。今は言われたことを一度身体に通している。

 

 戻り組の中に、まだ納得しきれていない顔もある。

 だが、もう列は一つではなくなっていた。

 

 宿舎へ入れる組。

 先に湯を入れる組。

 治療棟へ回す組。

 

 同じ“戻り”でも、同じ顔じゃない。

 その違いが見えた瞬間、場の流れそのものが変わった。

 

 レンが桶を抱えて戻り組の端へ入る。

 

「ほら、先こっち。飲めるやつから」

 

 指された若い兵が、まだ意地を張るみたいに言った。

 

「自分は寝れば――」

 

 最後まで言い切る前に、声が掠れた。

 

 ジャックはそちらを見たまま言う。

 

「だから先だ」

 

 若い兵は何か返そうとして、口を閉じる。

 閉じたあとで、一歩だけ前へ出ようとして、そこで足が止まった。

 

 止まった、というより、止まらざるを得なかった。

 

 膝が一度、浅く折れる。

 

 隣にいた年長兵がとっさに腕を取る。

 

「おい」

 

 その声で、周囲の目が一斉に集まった。

 

 若い兵はすぐ立て直そうとした。

 立て直そうとはしたが、顔色がさっきより明らかに悪い。呼吸も浅く速い。無理に立っているだけだったのが、今やっと表へ出た顔だった。

 

 レンが桶を下ろす。

 

「ほら見ろ」

 

 若い兵は反射で言い返しかける。

 

「平気、です」

「平気な声じゃない」とジャック。

「座れ」

 

 兵はなおも立とうとする。

 その肩へ、今度は年長兵の手が強くかかった。

 

「座れ。倒れるぞ」

 

 ようやくそこで、若い兵は自分の脚が思うように利いていないことを悟ったらしい。

 膝から崩れるほどではないが、腰を落とすまでの動きがもう遅い。

 

 レンが素早く桶の縁を寄せる。

 

「こっち。先に飲め」

 

 若い兵は木椀を受け取ったが、手が少し震えている。

 見習いがその震えを見て、小さく息を呑んだ。

 

 宿舎役も、寝台札の束を抱えたまま、低く言う。

 

「……これ、寝台へ入れてたらどうなってた」

「吐いてたな」とジャック。

「夜半に熱も出る」

「南棟戻しか」

「その前に同室が起きる」

「面倒だな」

「だから今切った」

 

 宿舎役はそこで初めて、反論ではなく納得の顔をした。

 寝台の詰め方は誰より見てきた人間だ。夜に何が返ってくるかも、言われればすぐ想像がつく。

 

 その横で、別の若い兵が小さく言う。

 

「俺も、ちょっと……」

 

 今度は自分からだった。

 さっきまでなら言い出せなかったかもしれない。隣の兵が崩れかけたのを見て、自分の中のまずさをようやく言葉にできた声だった。

 

 ジャックがそちらを見る。

 

「吐き気か」

「そこまでは。でも、腹が空きすぎて、なんか」

「手を出せ」

 

 若い兵が出した手の先が、細かく震えている。

 

「飯だな」とレン。

「湯だけじゃ足りん」

「固いのはまだだ」とジャック。

「柔らかいのから入れろ。見習い、炊事へ一声」

「はい」

 

 見習いはすぐ返事をして出かける。

 前なら、誰がどの程度まずいのかまではまだ見えていなかっただろう。今は少なくとも、「今必要なものがある」という顔で動けていた。

 

 治療棟へ回すよう切られた兵のほうでも、小さな動きがあった。

 

 返事が半拍遅かった兵が、列を外れたあとで壁へ手をついている。

 歩けてはいる。だが、歩けているだけだ。

 

 通りかかった治療棟の使いが、それを見て眉をひそめる。

 

「こいつ、先にこっち回したのか」

「そうだ」とジャック。

「今入れろ」

「助かる」

 

 使いはそれ以上聞かず、兵の腕を取って治療棟のほうへ連れていく。

 その背を見て、宿舎役が小さく舌打ちした。

 

「危ねえな」

「戻りは全部そう見える」とジャック。

「立ってるうちはな」

 

 年長兵が、湯を飲んでいる若い兵の背をさすりながら言う。

 

「……悪かったな。こいつ、さっきまで普通に歩いてたから」

「歩いてるだけだ」とレンが返す。

「さっき言われただろ」

 

 年長兵は言い返さなかった。

 代わりに、自分の組の後ろを振り返って、他の顔を見た。

 

 見る目が、少し変わっている。

 “全員戻り”ではなく、“誰が今まずいか”を見る目だった。

 

 ジャックはそれを横目で確認しながら、宿舎役へ言う。

 

「寝台札、切り直せ」

「西棟二つ、軽い組から」

「南は空ける」

「後入り一つ」

「そうだ」

 

 宿舎役は札束を抱え直す。

 

「……わかった」

 

 さっきまでの「今それどころじゃない」はもう消えていた。

 今それどころだったと、目の前で見えたからだ。

 

 見習いが炊事のほうから戻ってくる。

 

「粥、先に二つ出せるそうです」

「足りる」とジャック。

「今崩れかけてるのに回せ」

「はい」

 

 レンが湯桶の横へしゃがみ込み、若い兵へ木椀を押し出す。

 

「飲んだら次これな。いきなり詰めるなよ」

「……すみません」

「謝る前に飲め」

 

 その言い方に、宿舎役が少しだけ笑った。

 

「お前も似てきたな」

「誰に」

「さあな」

 

 レンは鼻を鳴らしながらも、木椀を持つ手元はちゃんと見ていた。

 

 戻り組の空気が、少しずつ変わる。

 さっきまで“とにかく寝床へ”だった流れが、今は“誰をどこへ先に回すか”へ変わっている。

 

 その変化は、たった一人が崩れかけたことで、一気に見えるようになった。

 

 ジャックは列の端からもう一度顔を見た。

 

 まだいる。

 今は持っているが、このまま押し込むと夜に返る顔。

 今は喋れるが、粥のほうが先の顔。

 逆に、見た目ほど悪くはなく、寝床へ入れたほうが戻る顔。

 

 同じではない。

 だから分ける。

 

 年長兵が、さっきより少し低い声で言う。

 

「帳場役」

 

 ジャックは顔だけ向ける。

 

「何だ」

「……こっちも、顔見て分ける。次から」

 

 ジャックは短く返した。

 

「先にそうしろ」

「覚えとく」

 

 それだけのやり取りだった。

 だが、周囲には十分だった。

 

 宿舎役が札を切り直しながらぼそっと言う。

 

「お前がいなかったら、今夜南棟は荒れてたな」

 

 ジャックは帳面に印を入れる。

 

「返ってくるからだ」

「そればっかだな」

「返ってきたら、お前が面倒だろ」

「……それもそうだ」

 

 宿舎役は苦い顔で認めた。

 

 レンが若い兵へ粥の器を渡しながら笑う。

 

「ほらな。寝りゃ済む顔じゃなかっただろ」

 

 若い兵はもう言い返せなかった。

 代わりに、少し悔しそうな顔で器を受け取り、それでもちゃんと食べ始めた。

 

 その様子を見た戻り組の別の若手が、今度は自分から言う。

 

「俺、先に飯のほうがいいかもしれません」

 

 ジャックがそちらを見る。

 

「ようやく言ったか」

「……すみません」

「それは後だ。先に座れ」

 

 若手は素直に座る。

 さっきまでの空気なら、たぶん立ったまま耐えたふりをしていた。

 

 今は違う。

 違うとわかっただけで、崩れ方はだいぶましになる。

 

 夕刻前の詰所には、まだやることが山ほどある。

 それでも、今この場で分けたことだけは、夜の混乱を確実に減らしていた。

 

 夕刻を過ぎるころには、詰所の騒がしさも少し質を変える。

 

 昼のあいだに飛び交っていた足音は減り、代わりに木椀の触れ合う音や、寝台へ腰を下ろす鈍い音が増えてくる。

 人が減ったのではない。動くべき者がそれぞれの場所へ収まり、ようやく詰まり方が見える時間になる。

 

 帳場の前では、ジャックが札を繰っていた。

 

 宿舎役が寝台札の束を持って戻ってくる。

 顔つきはまだ忙しいが、昼前ほど刺立ってはいない。

 

「南棟、思ったより静かだ」

 

 ジャックは顔を上げずに言う。

 

「だろうな」

 

 宿舎役が鼻を鳴らす。

 

「その言い方、腹立つな」

「荒れてないならいいだろ」

「いいけどな」

 

 そう言いながらも、宿舎役は少しだけ寝台札の束を持ち直した。

 普段ならこの時間、南棟から一人二人は“やっぱり駄目だ”と治療棟へ戻される。吐いた、熱が上がった、同室が騒いで眠れない、そんな理由で夜の流れがまた荒れる。

 

 だが、その日はまだ来ていない。

 

「四番も、文句は出たが寝かせちまえば静かになった」

「窓が生きてるからだ」

「六番へ押し込んでたら面倒だったな」

「言っただろ」

「言ったな」

 

 宿舎役はそこで、少しだけ間を置く。

 

「……あの若いの、先に湯と粥へ回したやつ」

「青い顔のか」

「そうだ。今見たら、ちゃんと食って寝てた」

「ならいい」

「寝台へ直で入れてたら、たぶん夜半に吐いてたぞ」

「吐いてたな」

「南棟が荒れる」

「荒れる」

 

 宿舎役はそこで初めて、小さく笑った。

 

「お前、ほんと嫌な未来だけはよく見えるな」

「返ってくるからだ」

「そればっかりだな」

「返ってきたら、お前が寝られんだろ」

「……それもそうだ」

 

 宿舎役は苦い顔のまま認める。

 

 ちょうどそのとき、治療棟の使いが帳場の前を横切った。

 昼すぎに先へ回した兵を見ていた男だ。

 

「おい、帳場役」

 

 ジャックが顔を上げる。

 

「何だ」

 

 使いは木椀を片手に、少しだけ顎をしゃくった。

 

「さっき回した戻り、二人とも先に見て正解だ」

「返してないならそうだろ」

「一人は熱が上がりかけてた。もう一人はそのまま寝かせてたら夜に息上がってたぞ」

 

 宿舎役がそれを聞いて、低く言う。

 

「やっぱりか」

「やっぱりだ」と使い。

「戻しが少ないぶん、こっちも回る」

 

 治療棟の使いは普段、必要以上に褒める男ではない。

 その男がわざわざ帳場の前で足を止めたこと自体が、もう答えみたいなものだった。

 

 ジャックは帳面の端に短く印を入れる。

 

「ならいい」

 

 使いは鼻を鳴らす。

 

「ならいい、じゃない。先に回したぶん助かったって言ってんだ」

「そうか」

「お前、少しは得意げな顔できんのか」

「してどうする」

「腹が立つ」

「立ってるなら元気だろ」

「お前なあ」

 

 宿舎役が横で笑う。

 

「治療棟まで同じこと言われてるのか」

「こいつ、どこでもこれだ」

 

 使いは呆れたように肩をすくめ、それでもそのまま去らず、帳場の机へ少し身体を寄せた。

 

「で、戻りはもう打ち止めか」

「大きいのはな」

「夜の戻しも少なそうだ」

「少ないといいな」

「お前が分けたから少ないんだろ」

 

 言い切られても、ジャックは特に返さなかった。

 だが宿舎役は、それを聞いて少しだけ真顔になる。

 

「……確かにな」

 

 その声は、昼の

「今それどころじゃない」

とはもう違っていた。

 

 帳場の脇では、見習いが仮札を束ね直している。

 耳はたぶんこちらの会話へ向いているが、手は止めない。

 

 レンが桶を返して戻ってきたのは、その少しあとだった。

 

「南棟、静かだったぞ」

「そうか」とジャック。

「暴れるのも吐くのも、今んとこなし」

「だろうな」

「お前、そこはほんと腹立つくらい“だろうな”だな」

 

 レンは机の端へ肘をつきかけて、見習いにちらりと見られてやめた。

 最近はそのへんも少しずつ覚えてきている。

 

「でもさ」とレンが続ける。

「昼にあのまま全部突っ込んでたら、今ごろ南棟ぐちゃぐちゃだっただろ」

「ぐちゃぐちゃだな」と宿舎役。

「寝床足りない、吐いた、うるさい、治療棟戻し、で一巡してた」

「二巡だ」と治療棟の使い。

「戻されたあと、今度は熱持ちが増える」

「やめろ、想像できすぎる」

 

 宿舎役が顔をしかめる。

 でも、その“想像できる”こと自体が、ジャックの切り分けの意味をみんなにわからせていた。

 

 見習いがそこで、小さく口を開いた。

 

「……昼のうちに分けたから、ですか」

 

 全員の目が少しだけそちらへ向く。

 

 見習いは一瞬だけ肩を固くしたが、逃げずに続けた。

 

「同じ戻りでも、そのまま寝かせていい人と、先に入れるものが違う人がいたから」

 

 宿舎役が「そうだ」と答えるより先に、レンがにやっとした。

 

「お、わかってきたな」

「……少しだけです」

「少しで十分だ」とジャック。

「見えたなら次から早い」

 

 見習いはそれに小さくうなずく。

 耳は少し赤い。だが、前みたいに全部呑み込んで黙る顔ではない。

 

 治療棟の使いが、そんな見習いを見て鼻を鳴らした。

 

「お前んとこ、若いのが妙に育つな」

「勝手に育て」とジャック。

「こっちは忙しい」

「忙しいから見てんだろ、お前は」

「見えたら切るだけだ」

「その“だけ”が足りねえんだよ、他は」

 

 それを聞いて、宿舎役が少しだけ黙る。

 

 黙ったあと、ぽつりと言った。

 

「……帳場役の見る範囲じゃねえよな、もう」

 

 誰に聞かせるでもない言い方だった。

 でも、その場にいた全員の耳へはちゃんと入る音量だった。

 

 レンがそれを拾う。

 

「今ごろかよ」

「うるさい。前から思ってた」

「思ってただけか」

「言うと増長しそうだからな」

「しねえだろ、この人」

 

 宿舎役はそこで、ジャックの横顔をひと目見る。

 

「それもそうだな」

 

 ジャックは札を一枚めくる。

 

「終わったなら戻れ」

「はいはい」

 

 レンが返事をし、治療棟の使いも肩をすくめる。

 宿舎役は寝台札の束を抱え直し、それでも去る前に一度だけ言った。

 

「お前がいなかったら、今夜は荒れてた」

「返ってくるからだ」

「そうじゃねえよ」

 

 宿舎役は半分笑い、半分呆れた顔で続けた。

 

「先に分けたから、持ったんだ」

 

 それだけ言って去っていく。

 

 レンがその背を見送りながら、ぼそっと言う。

 

「ちょっとずつ、みんな言うこと同じになってきたな」

「何が」

「お前がいないと困る、ってやつ」

 

 ジャックは帳面を閉じるでもなく答える。

 

「困るなら先に来い」

「ほら、それだ」

 

 レンが吹き出し、見習いも少し遅れて息を漏らした。

 

 夜はまだ長い。

 だが、今夜は少なくとも、昼のまま一括で押し込んでいた夜ではなかった。

 

 その違いだけで、詰所はずいぶん持つ。

 

 そして、持った分だけ、誰かが朝まで崩れずに済む。




戻り組

見回りや小競り合いの後、詰所へ戻ってくる兵たちの総称。帳面や札の上ではひとまとめに「戻り」と扱われることが多いが、実際にはその状態はかなりばらつく。
第5話の頃は、立って歩ける者の中にも、先に寝かせてよい者、先に湯や飯を入れたほうがよい者、先に治療棟へ回したほうがよい者が混じっていた。
大きな武勲や名の残る集団ではないが、詰所の忙しさの中で最も雑に扱われやすく、それだけに場の差配の良し悪しがよく出るところでもある。
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