帳場の男 ―人を見捨てず頭を下げていたら、みんなの信用で押し上げられていく男の立身出世譚―   作:未雨

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置いていくな

帳場の机には、座る前からものがあった。

 

札が二枚。包みがひとつ。折り返した控え紙が三つ。脇棚の端に小さな革袋。机の下には、誰が置いたのか木箱が半分はみ出している。

 

ジャックは立ったまま、それをひととおり見た。

 

朝の光はまだ浅い。倉前を走る音、宿舎側から飛ぶ声、表の扉が鳴る音。忙しい日の音だった。

 

だが、忙しいことと、ここへ置いていいことは別だった。

 

見習いがさらに小さな包みを抱えて入ってくる。机の端が空いているのを見ると、そこへ置こうとした。

 

「置くな」

 

包みが宙で止まる。

 

見習いが目を上げた。やってはいけないことをしたのか、それともいつも通りでよかったのか、まだ判断のつかない顔だった。

 

「……え」

 

「どこで出た」

 

「倉前です」

 

「なら倉前へ戻せ。帳場は物置じゃない」

 

見習いは包みを抱え直し、慌ててうなずく。その返事を待つ前に、扉が荒っぽく開いた。

 

「ジャック、札が余ってる」

 

飛び込んできたのはレンだった。片手に札を三枚、もう片手に折り控えを抱えている。息は少し上がっているのに、口だけはいつも通りよく回る。

 

「余ってるんじゃない。戻ってきてるだけだ」

 

ジャックは机の札を寄せた。

 

「どれだ」

 

レンが一枚差し出す。

 

「治療棟の呼び。出したはずの兵が来てない」

 

「宿舎は」

 

「もう出たって言ってる」

 

「口で通せ。札を回すな」

 

「また走れって?」

 

「足があるだろ」

 

「あるけどさ」

 

言いながら、レンはもう次の札を出していた。

 

「それと、倉で小荷が二つ止まってる。受け取り札が片方剥げた。あと表に使いがひとり来てるけど、誰に渡す話かわからなくて入口で――」

 

「まだ立ってるか」

 

レンが一瞬だけ言葉を切る。

 

「立ってる」

 

「先に座らせろ。書面があるならこっちへ寄こせ」

 

「これも今?」

 

「立たせたままにして詰まるのはあとだ」

 

レンは顔をしかめたが、すぐ向きを変えた。出ていきかけて、見習いがまだ包みを抱えたままなのに気づく。

 

「お前、それまだ持ってたのか」

 

「倉前へ戻せと言われました」

 

「言われたなら行け。今、何の話してた」

 

見習いはこくこくうなずき、今度こそ扉へ走った。

 

レンもそれに続きかける。

 

「レン」

 

「はいはい、まだある?」

 

「呼びは札じゃなく口で通せ。戻ってきたら、どこで止まったか先に言え」

 

「そこまで見るの、俺?」

 

「お前が走ったんだろ」

 

「最近、注文が細かいんだよなあ」

 

そう言いながら、もう半分笑っている。扉が閉まり、帳場の中が一息だけ静かになった。

 

静かだったのは、ほんの二拍だ。

 

次に入ってきたのは宿舎役だった。眠れていない顔をしている。第5話で戻り組を分けた夜、南棟の静けさを知っている男だ。

 

「悪い、寝床が二つ割れん」

 

ジャックは机の下の木箱を足で寄せたまま顔を上げた。

 

「数か」

 

「いや、顔ぶれだ」

 

「なら宿舎で見ろ」

 

「それが、戻りが一組増えて、片方は静かなのに片方が寝つかん。組み合わせを変えたいが、こっちじゃ所属の細かいところまで見切れん」

 

「数は帳場、顔ぶれは宿舎だ」

 

宿舎役は嫌そうに眉をひそめた。

 

「だがお前のほうが――」

 

「そっちで寝かせるんだろ」

 

短く返されて、相手は口をつぐむ。

 

その沈黙のあいだに、ジャックはひとつだけ聞いた。

 

「今、荒れてるのはどっちだ」

 

「西の二段目」

 

「静かなのは」

 

「南の端」

 

「じゃあ逆にしろ。寝つかんほうを端へ寄せろ。先に横の息を拾え」

 

宿舎役の目が少しだけ変わる。まるごと預けようとしていた顔が、自分で持ち帰る顔になる。

 

「……わかった。組み直す」

 

「帳場へ持ってくるな。寝床はそっちで閉じろ」

 

「お前、今朝ちょっときついな」

 

「朝から置かれすぎだ」

 

宿舎役は鼻で笑った。

 

「そりゃ悪かった」

 

そう言って出ていく。扉が閉まる前に、また別の影が差した。今度は倉役だった。小荷をひとつ脇に抱えている。

 

見ただけで、ジャックは言う。

 

「置くな」

 

「まだ置いてない」

 

「持ってきた時点で同じだ」

 

倉役は苦笑いしながら小荷を持ち直した。

 

「受け取り札が剥げた。誰の荷か曖昧でな。ひとまずここで――」

 

「誰が受けた」

 

「そこまでは」

 

「聞いてこい」

 

「いや、朝から人が多すぎてだな」

 

「帳場へ来る足はあるのに、聞きに戻る足はないのか」

 

倉役が口をつぐむ。ジャックはさらに言った。

 

「剥げた荷をここへ持ってくるな。出た場所へ戻せ。手を離したやつを先に拾え」

 

倉役は舌打ちに近い息を吐いた。

 

「皆、お前に持っていけば早いと思ってるんだよ」

 

「だから詰まる」

 

「それはそうだが」

 

「戻せ」

 

倉役はようやくうなずく。出ていきかけて、机の下の木箱に気づいた。

 

「それもか?」

 

「知らん」

 

「誰だよ置いたの」

 

「それを見ろと言ってる」

 

倉役は苦い顔のまま木箱を覗き込み、自分のところの印を見つけたらしく、無言で引きずって持っていった。

 

 

 

ひとつ消えた。

 

ジャックは机の端の控え紙を二枚だけ重ね直す。すぐ使うものと、返すものを分ける。それだけで机の景色が少し軽くなる。

 

その隙に、見習いが戻ってきた。今度は手ぶらだった。息が上がっている。

 

「倉前です。棚の脇から出てました。受けた人が、そのまま別の荷へ行ってました」

 

ジャックは顔を上げる。

 

「誰だ」

 

「ラドです」

 

名前まで出た。

 

ほんの少しだけ、ジャックはうなずいた。

 

「次から先にそれを言え」

 

「はい」

 

「包みは」

 

「倉前へ戻しました」

 

「置かれたままか」

 

「いえ、戻したら、ラドが持ちました」

 

それでいい、とジャックは言わない。だが言わなくても、見習いの肩は少しだけ下がった。通ったのだとわかった顔だった。

 

また扉が開く。レンが戻ってきた。今度は札を持っていない。

 

「呼び、宿舎の横で止まってた。出したつもりで、声かけただけだった」

 

「来るか」

 

「今引っ張ってる。あと、表の使いは座らせた。書面だけ預かった」

 

差し出された紙を受け取り、ジャックは目を走らせる。受け入れ順の確認。大きな話ではない。だが今日のうちに返さないと、あとで持ち場が噛む。

 

「これは後に回すと面倒だな」

 

「今やるのか?」

 

「通す先だけ決める」

 

ジャックは紙を畳み直し、端に置いた。置いたが、放ったのではない。順をつけた置き方だった。

 

レンがそれを見て、ふっと言う。

 

「今日さ、皆、なんでもここへ持ってきすぎじゃないか」

 

「今さらか」

 

「いや前からだけど、今日は輪をかけてひどい」

 

「お前もその一人だ」

 

「俺は走ってるぶん、許されてもよくない?」

 

「よくない」

 

見習いが少しだけ笑いそうになって飲み込む。帳場の空気が、朝より半歩だけ動いた。

 

その半歩のところへ、もうひとつ人が来た。

 

 

 

 

今度は治療棟の使いだった。

 

「宿舎へ入れる前に、ひとり見てほしいのがいる」

 

レンが「またか」という顔をする。だが使いの顔は軽くなかった。ジャックはその言い方だけで紙から目を上げる。

 

「立てるのか」

 

「立てる」

 

「歩く」

 

「歩く」

 

「食ったか」

 

「まだ」

 

「湯は」

 

「そこまで回ってない」

 

ジャックは椅子に座るのをやめた。

 

「どこだ」

 

治療棟の使いに続いて外へ出ると、朝の空気はもう落ち着いていなかった。人も音も増えている。帳場前を横切る兵、倉へ向かう小走りの足、宿舎側から戻ってくる洗い桶の音。忙しい日の流れだった。

 

その流れの端に、壁へ半分寄るようにして立っている兵がいた。

 

若い。戻り組の札を腰に下げたまま、顔だけがひどく鈍い。倒れてはいない。だが立ち方がよくない。重心が片足に逃げ、呼ばれてから顔を上げるまでに半拍ある。

 

宿舎へ回して寝かせれば済む、と誰かが思う顔だった。

 

ジャックは近づき、その兵の目を見た。

 

「名前」

 

兵が答えるまでに、ほんのわずか間があった。

 

「……セル」

 

声も乾いている。

 

「食ったか」

 

「まだ」

 

「吐いたか」

 

「いえ」

 

いえ、と答えたあと、喉がひくりと動く。唇が荒れていた。湯もまだ入っていないのだろう。

 

宿舎役が追いついてくる。

 

「立てるから、先に寝床へ入れるつもりだったんだが」

 

「寝かせるな」

 

ジャックは兵の顔から目を離さず言った。

 

宿舎役が眉を上げる。

 

「そこまでか?」

 

「夜に戻すな」

 

治療棟の使いが、そこでようやく深くうなずいた。迷いが消えた顔だった。

 

「担架まではいらん。肩を貸して連れていく」

 

「レン」

 

背後で返事が飛ぶ。

 

「いる!」

 

「治療棟へ先に通せ。水だけ先に入れろ。寝床へ落とすな」

 

「了解」

 

レンが駆け寄り、兵の反対側へ回る。兵は自分で歩こうとしたが、一歩目の運びで力が抜けた。レンが「うわ、危な」と言いながら肩を支える。

 

それでも大げさな崩れ方はしない。だからこそ、見過ごされやすい。

 

ジャックは宿舎役へ顔を向けた。

 

「寝床は空けておけ。戻すなら場所を変える」

 

「……わかった」

 

「南の端はまだ使うな。熱を持ったのを混ぜるな」

 

「そこまで見てるのかよ」

 

「見ないと戻る」

 

宿舎役は苦い顔をしたが、今度は預ける顔ではなかった。自分で持って帰る顔だった。

 

「やる。こっちでやる」

 

それでよかった。

 

レンと治療棟の使いが兵を連れて曲がり角へ消えるのを見届けてから、ジャックは帳場へ戻った。戻る途中、入口脇の長椅子に座らされた外の使いが、もう立ったままではなくなっているのが目に入る。膝の上の手が、さっきより少しだけ落ち着いていた。

 

帳場へ戻ると、見習いが机の脇で止まっていた。手には控え紙が一枚。今度は勝手に置いていない。

 

「どこで出た」

 

ジャックが先に聞くと、見習いはすぐ答えた。

 

「西棚の横です。受け取りの印だけあって、人がいません」

 

「誰の印だ」

 

「まだ見てません」

 

「見てこい」

 

「はい」

 

返事が前より早い。見習いは紙を持ったまま向きを変え、二歩行ってから、はっとしたように振り向いた。

 

「帳場へ持ってくる前に、ですね」

 

「そうだ」

 

見習いは今度こそ走っていった。

 

机の端に残っていた書面をジャックは一枚だけ開いた。外からの照会書面だ。受け入れ順の確認と、今日中の返しが要る。手間のかかる話ではない。ただ、後に回すと、夜には二つの持ち場が噛み違う。

 

紙の上で要点だけ拾い、通す先を書き添える。全部を今ここで片づける必要はない。通る形に切ればいい。

 

扉がばたんと開いて、倉役が戻ってきた。今度は小荷を持っていない。

 

「受けたやつ、いた」

 

「誰だ」

 

「ハルム。荷の列変えるときに札だけ剥いで、そのまま走ったらしい」

 

「荷は」

 

「倉へ戻した」

 

それでいい。ジャックは控えの上へ指を一度置いただけで、次を促すように目を上げる。

 

倉役がその視線に気づいて、肩をすくめた。

 

「もう持ってこない」

 

「最初からそうしろ」

 

「皆、お前に寄せれば早いと思ってるんだよ」

 

「だから遅くなる」

 

「……今日はよくわかった」

 

倉役はそう言って出ていった。愚痴ではなく、半分は認める声だった。

 

その入れ替わりにレンが戻る。額に汗がにじんでいる。だが、さっきまでみたいに札を何枚も抱えてはいなかった。

 

「治療棟へ渡した。水入れて、そのまま診るって」

 

「そうか」

 

「顔色、思ったより悪かった」

 

「見ればわかる」

 

「今はな」

 

レンは机の端を見た。朝から散らかっていた札と紙が、少しずつ減っている。減ったというより、残るものの顔が変わっていた。捨て置かれた山ではなく、順のついた束になっている。

 

レンがふっと鼻で笑う。

 

「俺、ひとつ戻してきた」

 

「何をだ」

 

「宿舎から治療棟への呼び。札にして回す前に、口で言えば済むやつだった」

 

「通ったか」

 

「通った。ついでに寝床の件も、宿舎役が自分で抱えてった」

 

ジャックは書面を畳み直した。

 

「ならいい」

 

「……なあ」

 

レンが椅子の背に手をかける。

 

「何でもここへ持ってくるの、楽なんだよな」

 

「そうだろうな」

 

「でも、楽だからって寄せてると、結局ここで詰まるんだな」

 

ジャックは返事の代わりに、机の端の札を一枚だけ裏返した。もう要らない札だった。

 

レンがそれを見て少し笑う。

 

「お前が言う“置くな”って、物のことだけじゃないのか」

 

「今さら気づいたのか」

 

「最近わかりやすくなってきた」

 

「遅い」

 

「厳しいんだよなあ」

 

軽口の調子はいつも通りだったが、目だけは少し違っていた。見ている場所が変わっている目だった。

 

また扉が開く。宿舎役だ。今度は顔つきが少し締まっている。

 

「西の二段目、組み替えた。南の端も空けた」

 

「そうか」

 

「あと、さっきのやつの荷は別にした。混ぜてない」

 

「それでいい」

 

宿舎役はうなずき、机の脇を見た。朝あれだけごたついていた場所が、今は半分ほど空いている。

 

「……助かった」

 

ジャックは紙に目を落としたまま言う。

 

「お前の持ち場だ」

 

「わかってる。だから、次はこっちで持つ」

 

その言い方が少しだけ珍しくて、レンが横で目を瞬いた。

 

宿舎役はそれ以上言わず、すぐ戻っていった。言葉が軽くならないうちに持ち場へ帰る男だった。

 

昼へ寄っていく光が机に差しはじめた頃、見習いがまた戻ってくる。今度も置かない。手にした紙を持ったまま、先に言った。

 

「西棚の印、マルクです。受けたまま別列へ動いてました。今、戻してます」

 

「それでいい」

 

今度はジャックが言った。

 

見習いは目を上げる。ほんの少しだけ、うれしそうな顔をしたのがすぐ消える。

 

「あと、表の使いの返し先、あの……これで合ってますか」

 

差し出してきたのは、さっきジャックが切った照会書面の控えだった。通す先をちゃんと見ている。

 

ジャックは一目だけ見て返す。

 

「合ってる。レンに渡せ」

 

「はい」

 

見習いが出ていき、レンがそれを受け取りながら「俺かよ」と小さく言う。その声にも、もうさっきほどのばたつきはない。

 

帳場の前を通る人の流れが薄くなってきた。止まって問う者が減る。立ったまま札を差し出す手も減る。机の足元にあったはずのものも、気づけばなくなっていた。

 

その静けさの中で、治療棟の使いが戻ってくる。

 

短く息をついて、ジャックの前で止まった。

 

「さっきの」

 

ジャックが顔を上げる。

 

「先でよかった」

 

それだけで足りたが、使いはもうひとつ付け足した。

 

「すぐ熱が上がった。寝床へ入れてたら、夜に戻ってた」

 

「そうか」

 

「水もまともに入ってなかった」

 

「見ればわかる」

 

「お前はな」

 

使いはそこで初めて、少しだけ呆れたように笑った。感心とも違う、半ばうんざりするような笑いだ。

 

「まだ立ってるのか」

 

「座ってる暇がなかった」

 

「今はあるだろ」

 

言われて、ジャックは初めて椅子を引いた。腰を下ろす。木のきしむ音が、やけに静かに聞こえた。

 

使いはそれを見てから出ていく。入れ替わるように、見習いがそっと入ってきた。今度は紙も札も持っていない。

 

手に湯飲みだけ持っている。

 

何も言わず、机の端の、もう何も積まれていない場所へ置く。

 

ジャックは書面を見たまま言った。

 

「置くなと言ったろ」

 

見習いの肩がびくっとした。だがその直後、横でレンが吹き出す。

 

「それはちょっと違うだろ」

 

「違わない」

 

「いや違うって。今のは置けよ」

 

見習いが困ったようにレンとジャックを見比べる。逃げるべきか迷っている顔だ。

 

ジャックはそこでようやく目を上げた。湯気が立っている。置かれたばかりの湯だ。

 

一拍だけ間があってから、湯飲みを取る。

 

熱はまだちゃんとあった。

 

見習いの顔が、少しだけゆるむ。

 

レンが椅子の背にもたれながら、机の脇の空いた場所を見まわした。

 

「ほんと、皆、置いてきすぎなんだよ」

 

ジャックは湯をひと口飲んだ。喉の奥に熱が落ちる。

 

「置くから詰まる」

 

「わかってるなら、もっと言えよ」

 

「言ってる」

 

「俺には言ってるけど、他にも言えって」

 

「お前が言え」

 

レンは一度きょとんとして、それから笑った。

 

「それ、俺の役目になるのか?」

 

「走るついでだ」

 

「増やすなあ」

 

増やすなと言いながら、嫌そうではなかった。

 

帳場の机は、ようやく机の形に戻っていた。端に残るのは順のついた札が二枚と、返し待ちの書面が一枚だけ。足元も空いている。人の流れも、今はちゃんと流れだった。

 

見習いが湯を置いたまま立っていたので、ジャックは顎だけで扉をしゃくった。

 

「行け。今のうちに倉前見てこい」

 

「はい」

 

見習いは今度は迷わず出ていく。レンも照会書面をひらひらさせながら、それに続いた。

 

「じゃ、これ通してくる。今度は置いてこない」

 

「最初からそうしろ」

 

扉が閉まる。

 

少しだけ静かになった帳場で、ジャックはもう一度湯を飲んだ。

 

まだやることはある。

だが、朝みたいな詰まり方ではない。

 

机の向こうの流れが、ようやく人の手で追える形に戻っていた。

 

それで十分だった。

 

この版、かなり完成稿に近い。

さらに詰めるなら次の2方向が効く。

 

ひとつは、会話をもう半歩だけ自然に崩すこと。

もうひとつは、最後の3段落だけ余韻重視で差し替えること。

 

私は今の版かなり好きだけど、次にやるなら最後だけもう少し“余韻が残る締め”にするのがいちばんおいしい。

 

ひとつは、会話をもう半歩だけ自然に崩すこと。もうひとつは、最後の3段落だけ余韻重視で差し替えること。 両方お願い

思考時間: 2 ~ 3 秒

 

もちろん。

では、

 

会話を半歩だけ自然に崩す

 

最後の3段落を余韻重視で差し替える

 

この2つを入れた、完成稿寄り・改稿版を通しで出すね。

大筋は変えず、口調の角を少し落として、終わりはもう少し静かに残るようにする。

 

第6話 置いていくな

 

帳場の机には、座る前からものがあった。

 

札が二枚。包みがひとつ。折り返した控え紙が三つ。脇棚の端に小さな革袋。机の下には、誰が置いたのか木箱が半分はみ出している。

 

ジャックは立ったまま、それをひととおり見た。

 

朝の光はまだ浅い。倉前を走る音、宿舎側から飛ぶ声、表の扉が鳴る音。忙しい日の音だった。

 

だが、忙しいことと、ここへ置いていいことは別だった。

 

見習いがさらに小さな包みを抱えて入ってくる。机の端が空いているのを見ると、そこへ置こうとした。

 

「置くな」

 

包みが宙で止まる。

 

見習いが目を上げた。やってはいけないことをしたのか、それともいつも通りでよかったのか、まだ判断のつかない顔だった。

 

「……え」

 

「どこで出た」

 

「倉前です」

 

「なら倉前へ戻せ。帳場は物置じゃない」

 

見習いは包みを抱え直し、慌ててうなずく。その返事を待つ前に、扉が荒っぽく開いた。

 

「ジャック、札が余ってる」

 

飛び込んできたのはレンだった。片手に札を三枚、もう片手に折り控えを抱えている。息は少し上がっているのに、口だけはいつも通りよく回る。

 

「余ってるんじゃない。戻ってきてるだけだ」

 

ジャックは机の札を寄せた。

 

「どれだ」

 

レンが一枚差し出す。

 

「治療棟の呼び。出したはずの兵が来てない」

 

「宿舎は」

 

「もう出たって言ってる」

 

「口で通せ。札を回すな」

 

「また走れって?」

 

「足、あるだろ」

 

「あるけどさ」

 

言いながら、レンはもう次の札を出していた。

 

「それと、倉で小荷が二つ止まってる。受け取り札が片方剥げた。あと表に使いがひとり来てるけど、誰に渡す話かわからなくて入口で――」

 

「まだ立ってるか」

 

レンが一瞬だけ言葉を切る。

 

「立ってる」

 

「先に座らせろ。書面があるならこっちへ寄こせ」

 

「これも今?」

 

「立たせたまま詰まるのは、あとで面倒だ」

 

レンは顔をしかめたが、すぐ向きを変えた。出ていきかけて、見習いがまだ包みを抱えたままなのに気づく。

 

「お前、それまだ持ってたのか」

 

「倉前へ戻せと言われました」

 

「言われたなら行け。今、何の話してた」

 

見習いはこくこくうなずき、今度こそ扉へ走った。

 

レンもそれに続きかける。

 

「レン」

 

「はいはい、まだある?」

 

「呼びは札じゃなく口で通せ。戻ってきたら、どこで止まったか先に言え」

 

「そこまで見るの、俺?」

 

「お前が走ったんだろ」

 

「最近ちょっと注文細かいんだよな」

 

そう言いながら、もう半分笑っている。扉が閉まり、帳場の中が一息だけ静かになった。

 

静かだったのは、ほんの二拍だ。

 

次に入ってきたのは宿舎役だった。眠れていない顔をしている。第5話で戻り組を分けた夜、南棟の静けさを知っている男だ。

 

「悪い、寝床が二つ割れん」

 

ジャックは机の下の木箱を足で寄せたまま顔を上げた。

 

「数か」

 

「いや、顔ぶれだ」

 

「なら宿舎で見ろ」

 

「それが、戻りが一組増えて、片方は静かなのに片方が寝つかん。組み合わせを変えたいが、こっちじゃ所属の細かいところまで見切れん」

 

「数は帳場、顔ぶれは宿舎だ」

 

宿舎役は嫌そうに眉をひそめた。

 

「だがお前のほうが――」

 

「そっちで寝かせるんだろ」

 

短く返されて、相手は口をつぐむ。

 

その沈黙のあいだに、ジャックはひとつだけ聞いた。

 

「今、荒れてるのはどっちだ」

 

「西の二段目」

 

「静かなのは」

 

「南の端」

 

「じゃあ逆にしろ。寝つかんほうを端へ寄せろ。先に横の息を拾え」

 

宿舎役の目が少しだけ変わる。まるごと預けようとしていた顔が、自分で持って帰る顔になる。

 

「……わかった。組み直す」

 

「帳場へ持ってくるな。寝床はそっちで閉じろ」

 

「お前、今朝ちょっときついな」

 

「朝から置かれすぎだ」

 

宿舎役は鼻で笑った。

 

「そりゃ悪かった」

 

そう言って出ていく。扉が閉まる前に、また別の影が差した。今度は倉役だった。小荷をひとつ脇に抱えている。

 

見ただけで、ジャックは言う。

 

「置くな」

 

「まだ置いてない」

 

「持ってきた時点で同じだ」

 

倉役は苦笑いしながら小荷を持ち直した。

 

「受け取り札が剥げた。誰の荷か曖昧でな。ひとまずここで――」

 

「誰が受けた」

 

「そこまでは」

 

「聞いてこい」

 

「いや、朝から人が多すぎてだな」

 

「帳場へ来る足はあるのに、聞きに戻る足はないのか」

 

倉役が口をつぐむ。ジャックはさらに言った。

 

「剥げた荷をここへ持ってくるな。出た場所へ戻せ。手を離したやつを先に拾え」

 

倉役は舌打ちに近い息を吐いた。

 

「皆、お前に持っていけば早いと思ってるんだよ」

 

「だから詰まる」

 

「それはまあ、そうなんだが」

 

「戻せ」

 

倉役はようやくうなずく。出ていきかけて、机の下の木箱に気づいた。

 

「それもか?」

 

「知らん」

 

「誰だよ置いたの」

 

「それを見ろと言ってる」

 

倉役は苦い顔のまま木箱を覗き込み、自分のところの印を見つけたらしく、無言で引きずって持っていった。

 

ひとつ消えた。

 

ジャックは机の端の控え紙を二枚だけ重ね直す。すぐ使うものと、返すものを分ける。それだけで机の景色が少し軽くなる。

 

その隙に、見習いが戻ってきた。今度は手ぶらだった。息が上がっている。

 

「倉前です。棚の脇から出てました。受けた人が、そのまま別の荷へ行ってました」

 

ジャックは顔を上げる。

 

「誰だ」

 

「ラドです」

 

名前まで出た。

 

ほんの少しだけ、ジャックはうなずいた。

 

「次から先にそれを言え」

 

「はい」

 

「包みは」

 

「倉前へ戻しました」

 

「置かれたままか」

 

「いえ、戻したら、ラドが持ちました」

 

それでいい、とジャックは言わない。だが言わなくても、見習いの肩は少しだけ下がった。通ったのだとわかった顔だった。

 

また扉が開く。レンが戻ってきた。今度は札を持っていない。

 

「呼び、宿舎の横で止まってた。出したつもりで、声かけただけだった」

 

「来るか」

 

「今引っ張ってる。あと、表の使いは座らせた。書面だけ預かった」

 

差し出された紙を受け取り、ジャックは目を走らせる。受け入れ順の確認。大きな話ではない。だが今日のうちに返さないと、あとで持ち場が噛む。

 

「これは後に回すと面倒だな」

 

「今やるのか?」

 

「通す先だけ決める」

 

ジャックは紙を畳み直し、端に置いた。置いたが、放ったのではない。順をつけた置き方だった。

 

レンがそれを見て、ふっと言う。

 

「今日さ、皆、なんでもここへ持ってきすぎじゃないか」

 

「今さらか」

 

「いや、前からだけど。今日は輪をかけてひどい」

 

「お前もその一人だ」

 

「俺は走ってるぶん、ちょっとぐらい許されてもよくない?」

 

「よくない」

 

見習いが少しだけ笑いそうになって飲み込む。帳場の空気が、朝より半歩だけ動いた。

 

その半歩のところへ、もうひとつ人が来た。

 

今度は治療棟の使いだった。

 

「宿舎へ入れる前に、ひとり見てほしいのがいる」

 

レンが「またか」という顔をする。だが使いの顔は軽くなかった。ジャックはその言い方だけで紙から目を上げる。

 

「立てるのか」

 

「立てる」

 

「歩く」

 

「歩く」

 

「食ったか」

 

「まだ」

 

「湯は」

 

「そこまで回ってない」

 

ジャックは椅子に座るのをやめた。

 

「どこだ」

 

治療棟の使いに続いて外へ出ると、朝の空気はもう落ち着いていなかった。人も音も増えている。帳場前を横切る兵、倉へ向かう小走りの足、宿舎側から戻ってくる洗い桶の音。忙しい日の流れだった。

 

その流れの端に、壁へ半分寄るようにして立っている兵がいた。

 

若い。戻り組の札を腰に下げたまま、顔だけがひどく鈍い。倒れてはいない。だが立ち方がよくない。重心が片足に逃げ、呼ばれてから顔を上げるまでに半拍ある。

 

宿舎へ回して寝かせれば済む、と誰かが思う顔だった。

 

ジャックは近づき、その兵の目を見た。

 

「名前」

 

兵が答えるまでに、ほんのわずか間があった。

 

「……セル」

 

声も乾いている。

 

「食ったか」

 

「まだ」

 

「吐いたか」

 

「いえ」

 

いえ、と答えたあと、喉がひくりと動く。唇が荒れていた。湯もまだ入っていないのだろう。

 

宿舎役が追いついてくる。

 

「立てるから、先に寝床へ入れるつもりだったんだが」

 

「寝かせるな」

 

ジャックは兵の顔から目を離さず言った。

 

宿舎役が眉を上げる。

 

「そこまでか?」

 

「夜に戻すな」

 

治療棟の使いが、そこでようやく深くうなずいた。迷いが消えた顔だった。

 

「担架まではいらん。肩を貸して連れていく」

 

「レン」

 

背後で返事が飛ぶ。

 

「いる!」

 

「治療棟へ先に通せ。水だけ先に入れろ。寝床へ落とすな」

 

「了解」

 

レンが駆け寄り、兵の反対側へ回る。兵は自分で歩こうとしたが、一歩目の運びで力が抜けた。レンが「うわ、危な」と言いながら肩を支える。

 

それでも大げさな崩れ方はしない。だからこそ、見過ごされやすい。

 

ジャックは宿舎役へ顔を向けた。

 

「寝床は空けておけ。戻すなら場所を変える」

 

「……わかった」

 

「南の端はまだ使うな。熱を持ったのを混ぜるな」

 

「そこまで見てるのかよ」

 

「見ないと戻る」

 

宿舎役は苦い顔をしたが、今度は預ける顔ではなかった。自分で持って帰る顔だった。

 

「やる。こっちでやる」

 

それでよかった。

 

レンと治療棟の使いが兵を連れて曲がり角へ消えるのを見届けてから、ジャックは帳場へ戻った。戻る途中、入口脇の長椅子に座らされた外の使いが、もう立ったままではなくなっているのが目に入る。膝の上の手が、さっきより少しだけ落ち着いていた。

 

帳場へ戻ると、見習いが机の脇で止まっていた。手には控え紙が一枚。今度は勝手に置いていない。

 

「どこで出た」

 

ジャックが先に聞くと、見習いはすぐ答えた。

 

「西棚の横です。受け取りの印だけあって、人がいません」

 

「誰の印だ」

 

「まだ見てません」

 

「見てこい」

 

「はい」

 

返事が前より早い。見習いは紙を持ったまま向きを変え、二歩行ってから、はっとしたように振り向いた。

 

「帳場へ持ってくる前に、ですね」

 

「そうだ」

 

見習いは今度こそ走っていった。

 

机の端に残っていた書面をジャックは一枚だけ開いた。外からの照会書面だ。受け入れ順の確認と、今日中の返しが要る。手間のかかる話ではない。ただ、後に回すと、夜には二つの持ち場が噛み違う。

 

紙の上で要点だけ拾い、通す先を書き添える。全部を今ここで片づける必要はない。通る形に切ればいい。

 

扉がばたんと開いて、倉役が戻ってきた。今度は小荷を持っていない。

 

「受けたやつ、いた」

 

「誰だ」

 

「ハルム。荷の列変えるときに札だけ剥いで、そのまま走ったらしい」

 

「荷は」

 

「倉へ戻した」

 

それでいい。ジャックは控えの上へ指を一度置いただけで、次を促すように目を上げる。

 

倉役がその視線に気づいて、肩をすくめた。

 

「もう持ってこない」

 

「最初からそうしろ」

 

「皆、お前に寄せれば早いと思ってるんだよ」

 

「だから遅くなる」

 

「……今日はよくわかった」

 

倉役はそう言って出ていった。愚痴ではなく、半分は認める声だった。

 

その入れ替わりにレンが戻る。額に汗がにじんでいる。だが、さっきまでみたいに札を何枚も抱えてはいなかった。

 

「治療棟へ渡した。水入れて、そのまま診るって」

 

「そうか」

 

「顔色、思ったより悪かった」

 

「見ればわかる」

 

「今はな」

 

レンは机の端を見た。朝から散らかっていた札と紙が、少しずつ減っている。減ったというより、残るものの顔が変わっていた。捨て置かれた山ではなく、順のついた束になっている。

 

レンがふっと鼻で笑う。

 

「俺、ひとつ戻してきた」

 

「何をだ」

 

「宿舎から治療棟への呼び。札にして回す前に、口で言えば済むやつだった」

 

「通ったか」

 

「通った。ついでに寝床の件も、宿舎役が自分で抱えてった」

 

ジャックは書面を畳み直した。

 

「ならいい」

 

「……なあ」

 

レンが椅子の背に手をかける。

 

「何でもここへ持ってくるの、楽なんだよな」

 

「そうだろうな」

 

「でも、楽だからって寄せてると、結局ここで詰まるんだな」

 

ジャックは返事の代わりに、机の端の札を一枚だけ裏返した。もう要らない札だった。

 

レンがそれを見て少し笑う。

 

「お前が言う『置くな』って、物のことだけじゃないのか」

 

「今さら気づいたのか」

 

「最近わかりやすくなってきた」

 

「遅い」

 

「厳しいんだよなあ」

 

軽口の調子はいつも通りだったが、目だけは少し違っていた。見ている場所が変わっている目だった。

 

また扉が開く。宿舎役だ。今度は顔つきが少し締まっている。

 

「西の二段目、組み替えた。南の端も空けた」

 

「そうか」

 

「あと、さっきのやつの荷は別にした。混ぜてない」

 

「それでいい」

 

宿舎役はうなずき、机の脇を見た。朝あれだけごたついていた場所が、今は半分ほど空いている。

 

「……助かった」

 

ジャックは紙に目を落としたまま言う。

 

「お前の持ち場だ」

 

「わかってる。だから、次はこっちで持つ」

 

その言い方が少しだけ珍しくて、レンが横で目を瞬いた。

 

宿舎役はそれ以上言わず、すぐ戻っていった。言葉が軽くならないうちに持ち場へ帰る男だった。

 

昼へ寄っていく光が机に差しはじめた頃、見習いがまた戻ってくる。今度も置かない。手にした紙を持ったまま、先に言った。

 

「西棚の印、マルクです。受けたまま別列へ動いてました。今、戻してます」

 

「それでいい」

 

今度はジャックが言った。

 

見習いは目を上げる。ほんの少しだけ、うれしそうな顔をしたのがすぐ消える。

 

「あと、表の使いの返し先、あの……これで合ってますか」

 

差し出してきたのは、さっきジャックが切った照会書面の控えだった。通す先をちゃんと見ている。

 

ジャックは一目だけ見て返す。

 

「合ってる。レンに渡せ」

 

「はい」

 

見習いが出ていき、レンがそれを受け取りながら「俺かよ」と小さく言う。その声にも、もうさっきほどのばたつきはない。

 

帳場の前を通る人の流れが薄くなってきた。止まって問う者が減る。立ったまま札を差し出す手も減る。机の足元にあったはずのものも、気づけばなくなっていた。

 

その静けさの中で、治療棟の使いが戻ってくる。

 

短く息をついて、ジャックの前で止まった。

 

「さっきの」

 

ジャックが顔を上げる。

 

「先でよかった」

 

それだけで足りたが、使いはもうひとつ付け足した。

 

「すぐ熱が上がった。寝床へ入れてたら、夜に戻ってた」

 

「そうか」

 

「水もまともに入ってなかった」

 

「見ればわかる」

 

「お前はな」

 

使いはそこで初めて、少しだけ呆れたように笑った。感心とも違う、半ばうんざりするような笑いだ。

 

「まだ立ってるのか」

 

「座ってる暇がなかった」

 

「今はあるだろ」

 

言われて、ジャックは初めて椅子を引いた。腰を下ろす。木のきしむ音が、やけに静かに聞こえた。

 

使いはそれを見てから出ていく。入れ替わるように、見習いがそっと入ってきた。今度は紙も札も持っていない。

 

手に湯飲みだけ持っている。

 

何も言わず、机の端の、もう何も積まれていない場所へ置く。

 

ジャックは書面を見たまま言った。

 

「置くなと言ったろ」

 

見習いの肩がびくっとした。だがその直後、横でレンが吹き出す。

 

「それはちょっと違うだろ」

 

「違わない」

 

「いや、そこは違うって。今のは置け」

 

見習いが困ったようにレンとジャックを見比べる。逃げるべきか迷っている顔だ。

 

ジャックはそこでようやく目を上げた。湯気が立っている。置かれたばかりの湯だ。

 

一拍だけ間があってから、湯飲みを取る。

 

熱はまだちゃんとあった。

 

見習いの顔が、少しだけゆるむ。

 

レンが机の脇の空いた場所を見まわして、ぽつりと言う。

 

「ほんと、皆、置いてきすぎなんだよ」

 

ジャックは湯をひと口飲んだ。喉の奥に熱が落ちる。

 

「置くから詰まる」

 

「わかってるなら、もっと言えよ」

 

「言ってる」

 

「俺にはな」

 

「なら他にも言え」

 

レンは一度きょとんとして、それから笑った。

 

「それ、俺の役目になるのか?」

 

「走るついでだ」

 

「ついでで増やすなあ」

 

そう言いながら、嫌そうではなかった。

 

見習いが湯を置いたまま立っていたので、ジャックは顎だけで扉をしゃくった。

 

「行け。今のうちに倉前見てこい」

 

「はい」

 

見習いは迷わず出ていく。レンも照会書面をひらひらさせながら、それに続いた。

 

「じゃ、これ通してくる。今度は置いてこない」

 

「最初からそうしろ」

 

扉が閉まる。

 

帳場の机は、ようやく机の形に戻っていた。端に残るのは順のついた札が二枚と、返し待ちの書面が一枚だけ。足元も空いている。

 

ジャックは湯をもうひと口飲んだ。

 

まだやることはある。

だが、朝みたいな詰まり方ではない。

 

机の向こうを人が通っていく。呼ぶ声がして、返す声がある。止まっていたものが、今は止まらずに流れていた。

 

それで十分だった。




帳場

兵や荷、札や書面の出入りを受ける場所。机ひとつ分の持ち場に見えて、宿舎・倉・治療棟・伝令のあいだにあるため、詰所の流れが悪い日は何でも寄ってきやすい。
本来は、物を置く場所でも、判断を預けておく場所でもなく、話と順を通す場所である。
だが忙しい日ほど、「ひとまず帳場へ」が増える。第6話の頃には、ジャック個人の見立ての早さもあって、持ち場ごとに抱えるべき半端まで帳場へ寄せられはじめている。
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