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イシュタル
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花々が夏の日差しを受け、彩を広げている。
薄手のドレスでも、少し汗ばんでしまう。
それでも、手を離さないで下さらない。
ずっと繋いでいたいけど、手汗には気づいて欲しくない。
「この一角が気に入っているんだ。
日陰になっているけど、そこにだって花は咲く」
紫陽花に優しく触れるユリウス様。
私の髪に似た、薄い紫色。
思わず顔を背けてしまう。
「ここは日光が遮られて、過ごしやすいですね。
静かに過ごすなら、このような場所の方が……好き、です……」
つい、口ごもってしまった。
「……うん、私も……好き……」
声の方を向く。
普段より、目に見えて赤い気がする。
見ていたいけど、見られたくない。
「なんだか暑くなってきちゃった。イシュタル、そこで少し休もう。
その後は、虫ケラでも潰して遊ぼう」
相変わらず子供のような方。
備え付けられた長椅子に、並んで座る。
人影はおろか、足音もしない。
神書のおかげで誰も近寄れない。
宮殿の中に、二人きり。
暑さとは別の暖かさが、片手に伝わる。
―――――
解放軍と戦ってからは、こうやって過ごせる時間が増えた。
領地が減ったおかげで、私の仕事も減ってくれた。
その分、こうして一緒に居られる。
「……イシュタルは、さ……」
指が少しだけ強く絡められる。
言い出しづらいことなのかしら。
こちらからも、力を強める。
「私のことが、その、怖かったりとかしない?」
本当に、子供らしい。
私達の答えは、決まり切っているのに。
「ユリウス様こそ、どうですか?」
初対面の時もこんなやり取りだった。
直系にして、濃く表れ過ぎた神血。
魔力が強すぎて、末裔の強者以外は圧倒されてしまう。
こちらから歩み寄ることも、切なくなってしまう。
「そんなことないよ。
イシュタルが神器を持っていたって、へっちゃらさ」
父上は、私のために風の傍系を拾って育て上げてくれた。
それでも、彼女たちに恐れを抱かせてしまってる。
長年関わっているからこそ、隠していること自体が分かってしまう。
「ふふ、私もです。
何があっても、恐れたりしません」
私たちにしか、共有できない感覚。
兄上やティニーだって、分からないこと。
音がなくなり、触れている体温だけが高まる。
突如、背後から草が擦れる音がした。
横から、軽い音もする。
「歩み寄る態度を見せろ。
いつまで本に頼る。逢引に同伴?」
振り返ると、いつの間にか赤髪の女性が居た。
花弁や草が所々に張り付いている。
「何をする‼ 私は神だぞ‼」
ユリウス様が魔力を高める。
私も併せる。
女性がため息をつき、装飾の施された箱でユリウス様の頭を叩く。
「女心が全く分かって無い。
アルヴィス様やブルーム様でもしない。
口実には、何回も使われたけどね」
意味不明なことを、不審者が口走る。
「久しぶり。
なんで、久しぶりなんだろうね。
その答えは、誰が答えてくれるのかな?」
女性が青筋を立てている。
隣の魔力が収まったのを感じる。
―――――
ゆっくりと椅子の正面を回り込み、逃げ場を塞ぐように立ちはだかっている。
「あなたたち両方の血縁者にして、命の恩人。
それでも、名前も覚えてもらえない。
ねぇ、イシュタル様?」
私を見据えている。
「いえ……どちらで呼ぶべきか、迷っていたんです」
戦場ではズィーベン、それ以外ではユリスだったかしら。
「良い受け答えだね。ヒルダ様の元で再教育」
……お眼鏡には、適わなかったのかしら。
「何のつもりだ、ズィーベン‼」
三度目の、乾いた音。
「次からは角。その先は急所を狙う。拷問は十八番。
口を開く前に、その茹った頭で考えて」
皇子が叩かれるのは、見慣れないわね。
「……ごめん、ユリス。
でも、その、今は、今のは違うじゃん……」
ユリスさんが身体ごとこちらを向いた。
左腕を垂らしたまま、指先だけを何度も動かしている。
何かしら?
動きが段々と大きくなる。
何かを伝えたいのかしら?
「……あの時は、私のせいだ。
魔が差したというか、なんというか……」
ユリスさんが、声を被せる。
「イシュタル様は、分かるよね」
私だけを見ている。
怒りではない、何かの意思を感じられる。
……もしかして、合図のつもり?
でも、フリージの暗号を知っているはずないわよね。
「私が悪かった。ごめんなさい。
イシュタルは責めないでよ。それに、その変な動きは止めて」
「縫合されたせいかな、勝手に動いてしまうことがある。
余計な事には気が回るんだね」
それにしては、規則的すぎる。
「あのう、私は少し紫陽花を見てきても良いでしょうか」
ユリスさんが顎を動かす。
……やっぱり、信号だった?
父上から似たような動きを覚えさせられた。
母上から教育を受けたと言っていたから、教わっていたのかもしれない。
ということは、ヴェルトマーに筒抜けってこと……。
不味いけど、近い家だし……問題にはならないわよね……。
いや……でも……。
一度母上と話す必要がありそうね。
―――――
椅子から立ち上がり、花壇の影で二人に背中を向けてしゃがみ込む。
動作で乱れた髪を耳にかけ、そのまま指先を頬に残す。
眼前の紫ではなく、耳に意識を集中させる。
「ユリウス様、危なかったね」
さっきとは打って変わって、安心したような声色。
建物で風が遮られ、声が聞こえやすい。
代わりに、汗で服が張り付いてしまうわね。透けてないかしら。
「……何が。救援の時は、どうとでもなった」
ユリウス様はさっきよりも不機嫌そうだ。
二人きりの時間を邪魔されたのだから、仕方ない。
私も、もっと一緒に居たかった。
「違う。今のこと。
もしかして、本気で気が付いていない?」
「良い雰囲気だった。二人きりだったし、完璧だ」
「外見、態度、安全、その他諸々。百年の恋も冷める」
そこまで悪くなかったわ。
見た目には、あまり配慮してもらえなかったけど。
……バーハラを出る前は、気が付いてくれたのに。
「嘘だ。私は完璧だ」
「名誉のために、誰とは言わない。
追及も止めてあげて。絶対に」
どんな爆弾が飛び出すのかしら。
「デートで緊張するからって、神器を持ち出した男がいた。どう思う?」
思わず肩が跳ねる。
暑いけれど、身体を抱いて反応を隠す。
……もしかして、父上⁉
ユリスさんは、母上とティルテュ叔母さんと親しかった。
そんな関係なら、知っていてもおかしくない。
絶対、叔母さんなら話題にする。
知ったかぶりで、披露する。
あたしは詳しいんだ、なんて言いながら。
「男の強さを見せられる。魅力が増したことだろう」
それは、ちょっと……。
ユリウス様なら愛らしいけど、あの父上だと……。
……母上に叱られて、萎んでいる姿しか思い浮かばないわね。
「自信の無さの裏返し。
貴族らしい、義務的な婚姻なら悪くない。血にしか価値がないんだね。
腰抜けにしか思えない。徒手の手弱女に持ち出しているんだよ。
相手も所持しているなら、百歩譲って戦力的に分からなくもない。
女としては引くけど」
上手くぼかしたわね。母上は傍系だもの。
……それでも、何とかしてしまいそうだけど。
父上が蹴られている姿しか思い浮かばない。
「……本当に?」
「世界を周った女、ユリス。
ちなみに学園では、ティルテュと合わせて食堂の双女神と呼ばれていた。
この意味が、分かる?」
何か、小さな軽い音がする。叩いたわけではなさそう。
最近常に感じていた、重さのようなものが消えた。
少しだけ呼吸がしやすくなった気がする。
「神書の次は、どうすればいいかな?」
「色々あるけど、炎天下に居るのは不味い。
茶会とはいかないけど、テラスで涼んで仕切り直そう。
私はイシュタル様のお色直しを手伝う。その隙に、やれることをして」
助かるわ。
お化粧が崩れてないか、心配だったもの。
「うん、分かった。
……あの時のこと、許してくれる?」
「素手であなたの両親を庇いながら、シグルド様に挑むよりはマシだった。
神器三つ相手に、杖とライトニング一つだけで切り抜けて、一人強行軍の羽目になったけどね。
私自身でも驚くくらいうまく切り抜けられた」
「少なくとも、今回は息の根は止まらなかった。
装備が何一つ残らなかったのは許して」
……なんで生きてるのかしら?
思っていたよりも、やれるのかしら。
「……本当に、ごめんなさい。
そんなに辛い目に遭うとは、考えてなかった。
その、神書が僕と離れてばかりで怒ってたんだ。
それで置いて行けばいいやって思っちゃった」
魔導書が意思を持つはずがない。
トールハンマーは、力をくれるだけ。
お優しいユリウス様らしい考え方。
昔似たようなことをディアドラ様やユリア様も言っていた気がする。
「破れないからこそ、誓い。
そんなことばかりしていたら、誰からも愛想をつかされる。
騎士の国はそうやって滅びた。
情で動くような相手なら、猶更。イシュタル様はどうだろうね」
「……ありがとう。ユリスのことも大事にする」
「私はあなたの傅役にして、誓約者。
嫌われ役は私が買う。だから、失点だけは避けて」
「……うん、ごめんね」
「気遣いは、相手に悟らせないこと。
気が付かれた時点で、ただの押し付けと変わらない」
……聞き耳を立てなければ、良かったわ。
ユリスさんの気配りを台無しにしてしまった。
私は気づいていないふりをしなくちゃね。
―――――
回廊を通り、白い石床に二つの靴音が響く。
外よりはほんの少しだけ涼しい。
支度室へと案内される。
鏡や櫛、衣類といった見慣れたものが生前と並ぶ。
庭園よりも強い、花から抽出した香りが漂っている。
ユリスさんが衣装箱を開け、道具を鏡台に並べる。
「ヒルダ様から聞いた。自分で大抵のことは出来るんだって。
会ったことは内緒にして。逃避の最中、止む無く頼った。
どちらの名も出さないで」
そういえば、マンフロイの意向で存在を隠しているんだったわね。
……解放軍の包囲を独力で切り抜けたんだもの。仕方ないわよね。
「ええ、小さい頃に教えてもらったわ。
母上でなく、ティルテュ叔母さんからもね」
化粧道具を取り出す手が、止まった。
「……そう」
深呼吸をしている。
鏡越しに、視線が合った。
大きく目が見開かれている。
「手分けしよう。髪が長いから、大変でしょ」
私が櫛を手に取る。
そのまま、ユリスさんに差し出す。
「ありがとう。じゃあ、お化粧の確認もお願いしようかしら」
無事受け取って貰えた。
それだけで、安心する。
―――――
結いあげていた髪がほどかれていく。
開けていた首元が塞がれ、暑さが増す。
「そういえば、救出の時は助かったわ」
髪が持ち上げられ、うなじが空気に触れる。
「必要なさそうだった。むしろ、邪魔にならなかった?」
櫛が心地の良い音を立てていく。
「そんなことはないわ。来てくれて、嬉しかったもの」
「……無理はしなくていい。恨み言なら、私にぶつけて」
「どうして?
もしかして、さっきのことをかしら?」
歯の狭い櫛をユリスさんに手渡す。
「あなたから、父親を奪ったも同然。
親の仇は憎まれて当然」
……?
髪を梳く音だけが、明瞭に響く。
「父上をユリスさんが倒したの?」
我ながら、おかしなことを言った。
だって、ユリスさんは父上のことをあれだけ知っているんだもの。
それに、政治的にも、戦略的にも一切の利点がない。
ユリスさんが、手を止めた。
「……想像以上。
早急にヒルダ様の元に戻るべき」
母上と何か関係があるのかしら?
「話が掴めないわ。さっきから、何を言っているの?」
「私たちが登場した時のことを、イシュタル様の口から聞かせて」
「いいけど、ユリウス様を待たせてしまうわ……。
テラスで話しましょう」
「もう少し時間が欲しい」
掌で櫛を弄んでいる。
……ああ、ユリウス様のために聞いているのね。
確かに、お一人だけでのご準備となると不安よね。
これが、憎まれ役なのね。
―――――
髪に触れていた手が離れていく。
私の横に椅子を運び、顔を直接見てくる。
かなりの時間的猶予を作り出すつもりね。
私もユリスさんの思惑に付き合いましょう。
「ユリウス様達が突然現れて、制止されたわ。
ユリスさんが剣を弾いてくれたのを覚えているわ」
あれが無くても、神器の加護で避けられただろうけど。
「イシュタル様こそ、私の名前をよく抑えてくれた。
相手に父親の仇だと知られれば、帰ってこれなかった」
あの時は、いきなり現れたものだから、困ってしまったわ。
「ユリスさんは逆賊シグルドと対峙して、王女を守ったのよね。
それだけで、そこまで恨まれるものかしら?」
「仇の周辺も、それと同然の扱い。それが摂理」
そういうものかしら。
私には、よく分からないわね。
「その後は……バーハラにいたの。
どうしてかしら、よく思い出せないわ」
なぜだか、そこの記憶が霞んでいる。
久しぶりの戦場、それに神器まで持ち出したんだもの。
気が高ぶり過ぎてしまったんでしょう。
はしたない姿を見せていなければいいけれど。
「なら、そこからを教えて」
さっきから、一切の揺れなく私の目を見つめてくる。
まるで、観察されているみたいね。
そこまで真剣な雰囲気を出さなくても、付き合うわ。
「この2週間はユリウス様と一緒に過ごしていたわ。
書庫でお互いの本を交換したり、魔術の訓練をしたの。
……流石に、神書をヴァイスリッターに使うのはやり過ぎだったわね」
何とか避けきれていたけど、あの天馬三姉妹ですら恐れていた。
私の魔力に慣れていても、神器級の魔法は怖いわよね。
「他には?
マンフロイさんの指令とか無かった?」
「ほとんどずっと側にいたけど、会っていなかったわ」
「……そう、ありがとう。
後で手紙を書くから、極秘でヒルダ様に直接渡して」
「私はここに滞在するか、フリージ城に戻るんじゃないかしら。
母上のいるクロノス城には行かないわ」
ユリウス様の命令もないでしょう。
解放軍はトラキアを攻め始めていると聞いている。
私がやるようなことは、特にないはず。
「それでも、一度ヒルダ様の元に行って。
そして、口を一切開かずに手紙を渡して。
あなただけでなく、ヒルダ様にとってそれが最善。
その時には、なんでこんなことを頼んだか分かる」
ユリスさんが、止めていた櫛を動かし始めた。
質問を許さないつもりだ。
こんなことを言われる理由は一切思い当たらない。
それでも、きっと私達のことを思ってくれている。
盗み聞きと、私を触る手つきで、そう信じられる。
納得は出来ないけれど、言葉に従いましょう。
―――――
階段をのぼり、上層のテラスに向かう。
靴音に、上から吹き下ろす風音が混じり始める。
登り切ると、既にテラスの扉が開かれていた。
ユリウス様が扉から身を乗り出して、そわそわと待ちわびている。
こちらを見つけると、大声で呼びかけてくる。
「待ってたよ。早く一緒に涼もう」
先導していたユリスさんが、速度を落とす。
横にずれて、肩が触れる距離にまで近づく。
「先に直す?」
少しだけ屈み、囁き返す。
「いらないわ。
私のためにしてくれた所を見たいの。
それに、かわいいでしょ」
折角の準備ですもの。
見せたくてたまらないはずだわ。
「……似たもの母娘。
私が責める、フォローと教師は任せた。併せて」
「ふふ、お茶なのに戦闘みたい。
なんだか楽しいわね」
「まだ~、早く涼もうよ~」
少しだけ足を速め、そのまま先に出る。
―――――
風が髪を撫でる。
ここは石造りの壁に囲まれ、少しだけ気温が低い気がする。
「ここならさっき見えなかった方の庭園が見えるでしょ。
日向の花だって綺麗なんだ。イシュタルもきっと気に入るよ」
テラスの外に机と椅子が置いてある。
景色は良いだろうけど、日光は避けたいわね。
日差しの中へ、ユリスさんが歩み出る。
「暑い中、ぬるいものを飲ませる気?
砂漠に行けば、同じことができる。
私は大移動の末、ここにたどり着いた」
「紅茶だから関係ないよ。淹れ方だって、覚えたんだ。
それに外の温度で冷めづらくなってるよ。合理的でしょ」
覚えたことを見せたくて仕方がないのね。
お可愛いこと。だらしがない顔になってしまうわ。
ユリスさんがハンカチを取り出し、軽く振り始めた。
風を受け、小さな動きで大きく揺られている。
「……違うよね、涼みに来たんだ……」
ユリウス様が俯き、テラスの机を見つめている。
机上には、色とりどりの扇子が並んでいる。
巨大な物も一つだけ立てかけてある。
「私のために、勉強してくださったんですね。嬉しいです。
初めのうちは、そうなってしまいますよね。
それも、私達の思い出になってくれます」
お茶会に失敗はない。
苦い思い出も、甘いお菓子のアクセント。
叔母さんの言葉を思い出す。
「イシュタル様に教わるのも良い経験。
少しだけ二人きりにするから、あれを扇ぐ役は免除して」
「……やっぱり、駄目?
ユリスしか僕達に近づけないんだけど……」
あの扇は物語にでも出てきそうね。
私も興味はあるけれど、教師役を任されているわ。
「客人側にさせるのは、良くありませんね。
大丈夫です。少しの工夫で、何とかなりますよ」
―――――
ティーセットと扇子一つをユリスさんが部屋の外へ運んで行った。
代わりに冷めた飲み物を持ってきてくれるんだろう。
私達は、帰って来るまでに準備をする。
風を考え、一部の窓を閉める。
服の裾がはためき始める。
逆に風が強くなり、快適さが変わる。
何でも多ければ多い程良い、そう思っていた頃もあったわね。
私は甘味だったわ。
その時は家族みんなで文句を言いながら、甘さしかないお茶会を乗り越えた。
作り上げた風の通り道に、机と椅子を配置する。
家具は日光で暖められて、触ると熱い。
大した重量でもないのに、終わるころには二人とも汗をかいてしまった。
ホストと協力して用意する。
こういうお茶会は初めてね。
私はこの形式も好きかもしれない。
それにここ最近で、一番ユリウス様を感じられた気がする。
「ユリスです。入室の許可を賜れますでしょうか」
もう戻ってきたのね。
そんなに時間が経ったかしら。
―――――
ユリスさんが、部屋に入るなり口を開いた。
「見違えた。既に温度が変わってる。
とても上手い工夫。ユリウス様も頑張ったね」
「そうでしょ‼
あえて窓を閉めたんだ。
制限することで、より良くなる。イシュタルから教わったんだ」
扇子開き、顔を隠す。
……嬉しい。
父上や母上が教鞭を振るいたがる理由が分かった気がする。
「他にもあるよ。机と椅子もね、僕がね」
「ユリウス様、気遣いは?」
ユリスさんは、お盆を両手で抱えたまま。
透明なグラスには、雫が伝っている。
「……押し付けない。先ずは座ろう」
もう少しくらい、良かったのに。
―――――
配膳されたグラスには、紅茶が入っていた。
表面にいくつかの果実が浮き、ミントが添えられている。
縁には輪切りの柑橘まで刺さっている。
「間に合わせだから、大したものじゃない」
結露している割に、器は冷たくない。
演出かしら。
早速、一口含む。
紅茶にしては、軽い。
それに果実の甘さもある。
割ってあるのね。
ミントの香りが清涼感を呼び起こす。
「飲んだら息を吸ってみて」
残り香が、呼吸と共に身体深くに広がる。
身体の芯にまで心地の良い冷気が伝わってくる。
窓から通り抜ける風も感じる。
「気持ちがいいね。これはなんていうの?」
「知らない。あえて言うなら、急場しのぎ」
「また飲みたいわね。後で作り方を教えて」
「それなら夏に太陽の下で紅茶を淹れて。
それが無いと作れない」
冷まして二人だけの時間を作ってくれたのね。
「もしかして、さっきのやつ?」
「失敗しても、それを活かせばいい。
私は何度もそれに巻き込まれた。
バターまみれのお茶会には、語れない程の悲しみが詰まってる」
どこか遠い目をしたユリスさん。
この人も、経験したのね。
「へぇー、ユリスはそんなことしたんだ。他には?」
「イシュタル様にも覚えがあるでしょ」
こちらに矛先が受け流された。
「えぇ、まぁ、ありますね」
扇子で風を送る。
肌の熱が少し引き、思考を回せるようになる。
どれなら、ユリウス様にからかわれないかしら。
「ホストは、来賓を気遣うもの。暑くしてどうするの」
「今のはユリスのせいでしょ‼」
「大声もそう。汗を飛ばさないで」
ユリウス様が口を一文字にして、拳を握っている。
ゆっくり大きく、扇いであげる。
表情が柔らかくなった。
こういう連携も楽しいわね。
二人だけでは出来ない遊び。
―――――
ユリスさんが、中身を飲み干す。
音を立てずに、コースターの上に置いた。
「ユリウス様は、この後どうするつもり?
マンフロイさんから何か聞いてない?」
ユリウス様に視線を注いでいる。
上司が分かれていると大変ね。
両方の意向を汲まなきゃならないんだもの。
「会ってもないよ。
それより、何しようか?
ユリスも帰ってきたし、ミレトスまで買い物にでも行こうか。
僕のワープなら、今からだって問題ない」
ミレトスなら母上のいるクロノス城からもそれほど遠くない。
ユリウス様にお願いして、寄ってもらおうかしら。
母上は、また妃にしてもらえたか聞いてくるんでしょうね。
私達の進む速度があるのに。
父上だって、6年も母上を待ったのに。
「休暇はお終い。公務のついでなら構わない」
その一言で、さっきまでの空気が切り離された。
ユリスさんは扇子を広げ始めた。
彼女が仰ぐ音と、外から吹き込む風しか聞こえない。
「僕がするべきことなんて無いでしょ。
……いや、結構あるね。なんで忘れていたんだろう?」
そういえば、私も王女の責務から離れっぱなしだわ。
支度室ではこれを伝えたかったのね。
確かに、腑抜けすぎだったわ。
「そういうこと。明日からはイシュタル様と離れてお仕事」
……寂しくなるわね。
それでも、私は雷の直系。しっかりしなきゃ。
「なんで?イシュタルも帝都に居ればいいでしょ」
そんな目で、私を見ないで下さい。
「私にも役目があります。
ユリウス様と過ごすのが……楽しくて、疎かにしてしまっていました」
「……うん、そうだよね。でも……嬉しいよ……」
「はい……」
風が欲しくなる。
扇子が閉じる音。
指先で、机が軽く叩かれる。
「忠義な女、ユリス。どんな時でも、耳に逆らう」
「……いや、その、ね?」
……必要だって分かってる。
それでも、もう少しだけ、いいじゃない。
「いつまでも旦那を寄越さない主人に対する嫉妬じゃない。
再び強制単独行軍を食らいそうだからって、ここまで黙ってたわけでもない」
扇の先が私に突き付けられる。
「はっきり言って、イシュタル様は奸婦。そうとしか捉えられない」
暑さもないのに、汗が伝う。
……辛口ね。
責務を果たさなかったことは認めるわ。
だとしても、流石にそこまでではないと思うけれど。
「何を言い出すのさ。意味わかんないよ。
それでからかうのは止めてよ。そんなこともうしない。約束したでしょ」
ユリウス様も冗談だと思っている。
今度は、そちらに先端が向けられる。
「誓約を疑い、試したのがユリウス様。軽く見る者は、そのよう扱われる」
手で弄び、扇の端で円を描いている。
「突然皇子が都から居なくなり、帰ってきたと思えば放蕩三昧。
これが一人の女性の存在により引き起こされた」
言い切ると同時に、先端がこちらに戻ってきた。
「……羅列されると、端的に言って私は悪女ですね」
王女、いや貴族子女としてあるまじき行為だったわ。
家族と離れて、忠言してくれる人が居ないせいで抜けていた。
ユリスさんに帰郷を促されるのも、無理はない。
「そんなことはない。そうほざく者は私が排除する」
「そう思われるって話。
少なくとも、家臣からはそういう女だとイシュタル様は扱われる。
表面には出さなくても、心の奥底で蔑視されることになる。
ヴェルトマー家臣なら、拉致監禁計画を走らせている」
未練を断ち切るために、自ら口にする。
「私は一度帝都を離れた方が良さそうですね」
……ユリウス様の重しにはなりたくない。
支え合って、お互いに成長しあえる仲で居続けたい。
「足りない。
対外的に分かりやすい理由か、この2週間を正当化できる行動が必要」
「例えばどんなの?」
「イシュタル様は、どう思う?」
これが嫌われ役。
周りに目を向けている人にしか出来ないわね。
「母上の元で政務補佐と学び直しでしょうか。
フリージは皇帝家と近いため、何かしらの密談を行っていたと判断されるでしょう。
そうでなくと、自省し能力の研磨に努める姿勢を打ち出せます」
事前に聞いていなければ、答えられなかったかもしれない。
「ユリウス様もそういった姿を見せなきゃ駄目。
お互いが未熟を自覚したとアピールすることが必要。
さもないと、イシュタル様だけが悪評を拭おうとしていると扱われる」
扇を広げ、わざとらしく口元を隠す。
「毒婦らしい、取ってつけたわざとらしい反省。
愛人ならそれでいい。処分できるから」
……嫌な役回りね。
私ももう少し強く申し出るべきだったわね。
「そうなんだ……」
「上位者は、見えない所にも目を配る。
高い位置にいるのだから、それが当然と期待される。
位や肩書で視野が広まるわけでもないのにね」
「うん、分かったよ」
「私はこれまでの確認と明日以降の準備がある。目が回って釘付け。
今日までは、イチャイチャしてもいい。大っぴらにはしないで」
言い切ると同時に、三つの空いたグラスを持って部屋を出て行った。
自然とユリウス様と、目が合う。
どちらからともなく笑みがこぼれる。
胸の奥が、少し軽い。
私達だけの時とは違う、安心感がそこにあった。
イシュタルの想いはどのように受け取られましたか?
他にも悲しき過去を引き合いに出すのはいかがでしたか?
(魔法の)天才たちの恋愛頭脳戦を楽しんでいただけたら幸いです。
こちらで設定はしています。
ですが、皆さまの思ったものが正解で良いのです。
どう見えたかを聞かせていただけると嬉しいです。