「私は、絶対にアスナを死なせない」
静寂が支配する暗室の中。怯える心を誤魔化して、彼女の肩へと手をまわす。
指先から伝わるのは、すべての元凶である《ナーヴギア》が作り出した偽りの温もり。しかし、作り物のだらけの世界で唯一、私――ミトが心の支えとして信じるものでもあった。
何があっても、目の前の親友――アスナを守ること。それが自分の使命なのだと思えば、ちっぽけな心でも奮われたように錯覚できる。
……目の前で人が消えて無くなる恐怖を少しでも和らげたい一心で、無意識に手は強張っていた。
「今日見かけたパーティーは慎重さと冷静さが足りなかったの。怪しい宝箱に手を出さなければ、あんな事にはならなかった」
調子づいた私は、そんな結果ありきの憶測をアスナへと語る。
リソースが限られるMMORPGで、まだ他のプレイヤーに開けられていない宝箱。しかも
それでも、アスナは所々で頷きながら、私の言葉を真剣に聞いてくれる。いま目の前にいるのは、疑う事を知らない純粋な1人の少女。そんな彼女にとって唯一の頼りが自分であるという事実に、胸の内で暗い喜びが沸き立つ。
「私は違うわ。絶対にアスナを危険な目には合わせない」
そして、誓いの言葉を口に出す。
なんの根拠もない口約束。自分ならば必ず果たせる筈だと、この時は本気で信じていた。
「……そうだよね。ミトが居れば、安全だよね」
アスナは私へ無垢な信頼を寄せ、ようやく表情を綻ばせてくれた。それを見て、私も釣られたように口元を緩める。
――この時間がずっと続けばいいのに。
脱出の目途が無い閉じられた世界の中で、無邪気にそんな事を思うのだった。
しかし世界は残酷で。
これが
私はまだ、気がついていなかった。
浮遊城《アインクラッド》。
かつて世界初のVRMMORPGとして期待を集めた鋼鉄の城は、製作者である
ゲームクリアまでログアウトを禁じられ、HPが0になると脱落。《ナーヴギア》の信号素子が発する高出力マイクロウェーブによって脳を焼き切られて……現実世界でも死亡する。
それがこのゲーム――《ソードアート・オンライン》本来の使用であると告げ、彼は姿を消した。すでに自分の目的は果たしたと言わんばかりに。
これを受けた多くのプレイヤーは、安全エリアである《始まりの街》に留まる事を選んだ。死の恐怖から逃れられる楽園で、外部からの助けを待ち望むらしい……解放がいつになるか、そもそも助けが来るのかすら誰も知らない暗闇の中で、ただ起きて寝てを繰り返す日々。それこそが耐えきれない悪夢のようだと、私には思えた。
だからこそ、ごく少数の者達は
しかし、《始まりの街》から離れた《ホルンカの村》。
そこから更に西側へ抜けた森の中で、私はかつてない危機に見舞われていた。
(早く戻らないと!!)
焦燥に駆られて繰り出した刃は、目の前の怪物を真っ二つに切り裂く。
怪物は緑色の醜悪な肉体を強張らせたかと思えば、青く凍り付き、ポリゴンの欠片となって霧散した。
しかし、その間を縫うようにして植物型モンスター《リトルネペント》はすぐに徒党を組んで目の前に立ちはだかる。
倒しても倒しても、終わりは見えず。眼前に広がる大量のカラー・カーソルは減る気配を一向に見せない。
レベル差、すなわち
とんだ失態だ、と私は内心毒づく。
レアモンスターに釣られてアスナから目を離し。不運にも細剣の切っ先が
崖下では煙へ引き寄せられて来た《リトルネペント》達による出迎え。その絶望的な光景を前に、私は一つの事実を思い知らされてしまう。
約束を違えてしまった。私は今、アスナを守れない局面に立っている。
「ぐっ……この!!」
後悔のつかの間、モンスターの触手が右肩を掠めた。無機質な痛みに顔をしかめ、同時にHPバーが減っていく。
鎌を振り上げて反撃した後に残量を目視。すでに残り僅か、風前の灯火だった。
本来であればポーションによる回復が必要なラインをとっくに超えており、いやでもゲームオーバー……即ち
これが自分だけだったなら、時間をかけてでも脱出の機会を窺えばよかっただろう。
しかし今、私が守りたいのは自分自身じゃない。
ちらりと見上げると、純白の輝きが閃光となってモンスターをまた1匹屠っていた。アスナが操る細剣のソードスキル《リニアー》のエフェクトだ。それが途切れず何度も繰り返される。
アスナも崖の上で、生き残る為に必死で戦っている。そして、彼女のHPバーもまた、目を離した瞬間に尽きそうな長さしかなかった。
私は――そんな彼女の元へ駆けつける事ができない。
それを頭で理解してしまった瞬間、私の背中を氷のように冷たい汗が刺した。
戦意で浮かぶ熱が呆気なく引いていき、胸の奥深くへずっと沈めていたどす黒い本音が代わりに顔を出す。
もう無駄だ。無理なことだ。
あなたは器じゃない。ここで頑張っても無駄だと、本当は理解しているのだろう?
彼女を捨てて逃げてしまえばいいじゃないか。
(うるさい。そんな事を考えるわけが無い……黙ってろ!!)
弱音を隠すように振るった鎌が宙を切り裂き、また1体のモンスターが消え去った。
このままでは埒が明かない。苛ついている自身を必死に宥め、一旦敵から距離を取る。
そして息を吐いてから再び敵を見据えようとしたところで――おもわず止めてしまう。
《リトルネペント》の数が減っていない。いや、正確には倒された分とほぼ同数が補充されていた。醜悪な笑みと共に、緑の肉壁によって通り道が隙間なく塞がれている。
口元が引きつった。
アスナが戦っている崖上へ辿りつくまで、まだ距離はかなりある。その道も大群で占められ、これ以上増えたら流石に対処しきれない。
それらをすべて斬り捨てるまで、アスナが単独で持ちこたえられるのか?
そもそも――私は
「うそ、でしょ……」
決断が迫られていた。
いいや違う。どんなに高尚な言葉で飾った所で、結局の所、私はただ逃げたいだけなんだ。
苦しい。自分がポリゴンの欠片となって、跡形も無く消える事が。
怖い。死力の限りを尽くしたその先で、親友のアスナが目の前で消えてしまうのが。
嫌いだ。その絶望を前に身体が止まってしまう、
これはゲームなのに。
現実じゃなかった筈なのに、どうして。
そう。
最初からわかっていた。
命を懸ける覚悟を持って、何よりも大事なものを守りに行く。
その一歩を踏み出す勇気を、私は――
(むり……だよ)
私は、持っていなかった。
それが本性。親友の傍らでずっと押し殺してきた、ミト――
目を閉じれば、アスナとの思い出が蘇ってくる。学校の教室や屋上、ゲームセンター、そしてアインクラッドでも。たった一人の親友の、変わる事の無かった愛らしい姿を鮮明に思い出す。
私が今から裏切るものを、決して忘れず。自分の胸へ罪の証を焼き付けるように。
自分の心が徐々に冷め、全身から力が抜ける。武器を構える事も既に忘れていたらしい。
完全に熱が消えるのを実感してから、ようやく指だけが動いていた。
気が付けば、システムウィンドウに『Asunaとのパーティを解消しますか?』という一文が刻まれる。
それが免罪符にならない事はわかっている。むしろ自分にとっての重い足枷、あるいは生涯消える事のない傷になるだろう。
けど――もうどうでもいい。
1秒でも早くこの
そして私は、
「……ごめん、アスナ」
罪悪や後悔、絶望によってグチャグチャになった感情の渦へ呑みこまれるように、
(私には、何も守れなかった)
片道切符の分かれ道を踏もうとした――その時。
目の前から、一筋の光がやって来た。
「えっ?」
青い輝きを放つ一本の剣。その光がソードスキルのものだと気づくのに、私は幾ばくかの時を消費した。
それは勢いのまま怪物の群れの真ん中を一直線に貫く。やがて私の目の前まで来た所で消え、代わりに現れたのは1人の剣士。
突然の乱入者を経過してか、プログラムである筈の怪物達は怯えを見せるように距離をとって威嚇する構えをとる。
すべてを投げ出そうとしていた私は、あまりの状況についていけずにただ呆けてしまっていた。
現れた剣士の正体は、自分とそこまで歳の離れていないであろう少年だった。決して高くはない身長に女顔が相まって幼い印象を受けるが、この状況に突っ込んでくる時点で唯者ではないのは明らか。
防具は最低限の胸当てのみで動きやすさを重視した装いに見える。獲物の片手剣《アニールブレード》は恐らく、《森の秘薬》クエストで入手したものだろう。
そして、最も大きな特徴として――
その定石を無視したその佇まいを、どうしてだか私は初めて見たとは思えなかった。
当然ながら顔立ちに覚えはない。なのに、何故――
沈黙を打ち消すように、ネペント達の雄叫びが辺りへ響く。
一瞬とはいえ戦い最中だという事を忘れていた。ハッと我に返ると、剣士は無言でポーションを取り出し投げ渡してきた。慌てて受け取り、口につけると風前の灯だったHPバーがみるみる回復していく。自前のものはとっくに切れていたのでありがたい。
ポーションを飲んでいる最中、視線が交錯する。彼の瞳は戦いの継続を訴えていた。
戸惑いながらも戦況を見渡す。するとほんの少しだけ、ネペントの群れに隙間が生じている事に気づけた。あの一閃によって陣形に乱れが出たのだろう。
あそこを突っ切れば、崖の上まで駆けられるかもしれない。
けど、失敗すれば……
そんな私の負け犬染みた思考を見抜いたのか否か。
名も知らない剣士はグッと脚を溜めると、次の瞬間にネペントの大群へと突貫した。
「えっ――ちょ、ちょっと!」
気付けば叫んでいた。いくらなんでも無茶だ、止まってくれと理性が悲鳴を上げる。
私の声も虚しく、彼は既に突貫していた。しかし、そんな状況もお構いなしと言わんばかりに、彼は剣を振り続ける。軽装を活かしたステップで相手を翻弄し、僅かな隙も見逃さずソードスキルを叩きこむ。コンパクトで美しい、洗練された戦いぶりに思わず見惚れそうになる。
ネペント達もそれに応戦して包囲網を作り上げていた。無機質なアルゴリズムによって、空いた戦列から補填される。しかし数で勝っているにも関わらず、徐々に押され戦線が下げられていく。
ちなみに。この状況を見てる私といえば、そんな死地とは離れた場所に立たされていた。
あの命知らずな突撃によって、私へのヘイトが完全に外されたのだ。まさか状況を全て理解した上で、このチャンスを作る為に敢えて突撃を敢行したのだろうか。だとしたら、彼は間違いなく命知らずの馬鹿に違いない。
けれど。
迷いが無いその姿は、今の私にとってあまりにも――
「今だ! 走れ!!」
ここで初めて剣士の少年が言葉を発した。
一刻を争う叫びに、私は我に返って駆け出す。彼がネペント達を引き付けているのを横目に、その脇をすり抜ける。今を逃せば、突破のチャンスは無い。考える暇なんて無かった。
遅れて反応したネペント達から幾ばくかの反撃を受けるも、もう遅い。後ろを振り返る事もなく、間を擦り抜けるように一気に駆け上がる。
先程までの怯えはすっかり忘れて。今も助けを待っている親友の元へ、ひたすら走った。
「アスナ……!」
一度は諦めた。死の恐怖に負け、この
それを覆したのは、今も戦ってるあの剣士だ。彼の蛮勇とも呼ぶべきその姿が、私の体へ突風のごとく推進力を与えた。私はただそこに乗っただけなのだろう。
……私の持つ強さは虚構だった。
ステータスに装備、そしてベータテストを得た経験も。そういった目に見える強さが全てだと勘違いした大馬鹿者――それが私だ。
だとしても。彼に与えられ、胸中へと舞い戻ったなけなしの勇気だけは裏切れない。
そう信じる事は不思議と心地よかった。
木々に囲まれた道を走り、間もなく。
視界を遮っていた枝と葉っぱが消え去って、開けた場所――最初の小広場へと辿り着いた。
アスナはどこだ? まだ生きている筈だ。
辺りを見渡してすぐに、傷だらけになりながらも奮戦を続けていたアスナの姿を見つけた。
……巨大な獣人型の怪物によって、喰われかけた状態で。
「私の
体を捻らせ、跳躍。渾身のソードスキルを無防備な背中へ叩き込んでやった。
こちら側へ全く注意を向けて無かった怪物は、大きく跳ね飛ばされたものの、入りが浅かった為にHPを残していた。狩りの邪魔をした私を睨みつけると、怒りの咆哮をあたりへと響かせた。
怪物から目線を切らないよう努める一方で、横目でアスナの状態を確認する。彼女はまだ消えず、その華奢な身体を横にしていた。ひとまずの無事に心を撫でおろす。
HPバーは風前の灯だけど、それでもここまで耐えてくれたようだ。しかし捕食の直前にまで追い詰められたショックからか、その目は閉じられ意識も無い。あんな目に合わせてしまったのだから無理もないだろう。
……一瞬でもヘイトを向けられたら、彼女は死ぬ。回復用のポーションを使用する隙を見せる程、目の前の怪物は甘く無い。
自分一人でやるしかない状況だ。私が勝たないと、アスナは――
そこまで考えると、迷いは消えていた。
無意識に腰を落とし大鎌を構える。脚を溜めて狙うのは必殺の一撃だ。
寄しくもそれは、あの少年が先程とっていた突撃の構えだった。
「……はあぁぁぁ!!」
構えた大鎌が強い輝きを放ち、爆発的な加速を生み出す。スピードに身を任せ真っ直ぐ駆け抜け飛び上がり、武器を振り上げて縦一閃の一撃を浴びせた。
私の方に突き出していた頭へと刃の先が突き刺さる。
正面からまともにソードスキルを受けた怪物は、辺りへ断末魔を響かせ、やがて体を青く光らせて消失した。
「やった、の?」
静寂。
先程までの戦いの喧騒は消え失せ、自分の中で沸き立っていた高揚感も徐々に引いていく。
やりきった事実へ実感を持てずに呆けていると、聞き馴染みのある声が耳に入る。
振り返ると、先ほどまで意識を失っていたアスナが額に手を当てていた。無事に目を覚ましてくれた事実に、思わず駆け寄ると正面から抱きしめた。
「アスナ! 良かった、間に合った……」
「ミ、ミト? どうして……ここは、えっと確か――」
どうやら記憶が混乱しているらしい。体制を変えずに後頭部を撫でながら、少しずつ言葉を紡いで、どうにか落ち着かせる。
どうにか状況を把握したアスナへ、ここからの撤退について話そうとした矢先――ふと気づく。
いくらなんでも
あの少年は、どうなった?
「……まさか」
慌てて崖の方へ向かい見下ろす。
そこには文字通り、何も残っていなかった。あれほど大量に蔓延っていたネペントの群れはおろか、あの少年の姿も煙のように無くなっていた。
彼が包囲を単独で突破したのは間違いない。となると、この光景が意味するものは――
(この短時間、しかもたった一人で全部倒したっていうの……?)
それも、私に気づかれず撤退する時間を残した上で、である。
こんな事が可能なプレイヤーはβテスト時代の記憶を含めても思い当たらない。候補として何人か思い浮かんでも、それはあくまでレベル差の暴力になってしまう。
あるいは別の可能性――デスゲームだからこそ起きた、埒外の
「名前はたしか……Kirito。キリト、かな」
戦闘中に見えた、彼のプレイヤーネーム。一瞬だったにも関わらず、その名前と姿は私の目にしっかりと焼き付いている。
卓越した戦闘技術に状況判断。勿論それらも素晴らしいものだったけど……
何よりも、迷わずに命を張って奮戦するその背中が、私には輝いて見えた。
……
あんな強さを持ってるなら、この世界はどんな風に見えているのだろう。絶望で閉ざされた《アインクラッド》の中で、希望を見出す事ができるのだろうか。
それは自分がずっと欲しくて、そして偽ってきたもので。
「ずるい、なぁ」
それが少年への嫉妬か、あるいは自分自身への失望か。
はたまた――未知の英雄に対する憧憬か。
戸惑うアスナと共に撤退する最中でも、私は結論を出せなかった。
次話は完成次第、投稿する予定。
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