白い天井が、やけに遠く感じた。手術が終わったって言われても、何も実感が湧かない。
「……彼方は?」
声を出したつもりなのに、喉がうまく動かない。看護師さんが何か言ってる。でも、意味が頭に入ってこない。
“手術は成功しました”
その言葉だけが、やっと耳に引っかかった。成功って、なに? じゃあ、もう大丈夫ってことじゃないの? なのに……。
「……なんで、目……開かないの」
ベッドにいる彼方は、さっきまでの彼方じゃなかった。血の気の引いた顔。動かないままの体。機械の音だけが規則的に鳴っている。さっきまで、ちゃんと話してたのに。
「……ねぇ、起きてよ」
指先に触れる。冷たくはない。でも、温かくもない。生きてるって言われたのに。生きてるのに、ここにいないみたいで。
「……約束したじゃん」
声が震える。
「死なないって……言ったじゃん……」
視界が滲んで、彼方の顔がぼやける。それでも、手は離せなかった。離したら、本当にどこかに行っちゃう気がして。
「……ずるいよ」
小さく笑おうとして、できなかった。
「私だけ、ちゃんと聞いちゃったじゃん……」
返事はない。機械の音だけが、静かに続いていた。病室にアクアとルビーが入ってくる。
「……何してるんだよ、彼方」
「……パパ?」
病室のベッドで、ボロボロの状態で眠る彼方。数時間前には、一緒にアイのための料理を作って、お祝いをしようと3人で頑張っていたのに。それが今では……。
「早く起きろよ。アイが泣いてる」
「ママ、泣かせたらだめだよ……」
手術を終えたが、その意識は戻っていない。医者曰く……危険な域は脱したが、脳の腫れにより数日〜数週間は予断を許さないとのことだった。
「まだ……私、アイドルになってないよ……」
ルビーは泣いていた。しゃくり上げながらも、彼方の手を必死に握りしめて離そうとしない。
「パパに、ちゃんと見てほしいのに……」
生きてはいるが……いつも3人に向けている笑顔はない。
「だから……起きろよ」
「……起きてよ、パパ」
心配そうにしている2人を抱きしめるアイ。
「……大丈夫。彼方は、生きてる。ちゃんと」
そうだ……辛いのは私だけじゃない。アクアも、ルビーも、社長も、ミヤコさんだって、きっと同じくらい怖くて、不安で、どうしようもない気持ちを抱えてる。
「今は……休んでるだけだから」
彼方のことが好きだからこそ、こんなにも揺れているんだ。なら、今ここで泣いているだけじゃダメだ。私がしっかりしなきゃ。
「ねぇ、ルビー……そんなに泣かないで。アクアも……顔、そんなに強ばらせないで」
この子たちの前で、崩れちゃいけない。怖くても、不安でも……それを全部飲み込んで、立っていなきゃいけない。
「……怖いのは分かる。でもね、彼方は約束してくれた。死なないって……ちゃんと、言ったんだから」
彼方が戻ってくるその時まで、ちゃんとここを守るために。
「だから……信じよう?」
彼方が戻ってくるその時まで、ちゃんとここを守るために。
「きっと起きるよ。その時に、またいつもみたいに……笑えばいいから」
アクアは唇を引き結んだまま、小さく頷いた。
「……うん」
「……ほんとに?」
ルビーは涙で濡れた目のまま、アイを見上げる。
「起きるよ。彼方は約束を破らない」
「……じゃあ待つ」
2人も彼のことを前世から知っている。だから、どういう人間なのかを。だから、2人は信じて待つ。天城彼方を。そして……自らの父親を。
「……ああ」
「早く起きてね、パパ」
『速報です。本日19時頃、都内の公園で人気俳優・天城彼方さんが刃物で刺され、重傷を負う事件が発生しました』
偶々テレビをつけただけだった。そのニュースは、僕の頭の中を一瞬でぐちゃぐちゃにした。
『警視庁は、現場にいた女性を殺人未遂の疑いで事情聴取しています』
その名前を聞いた瞬間、呼吸が止まった。
『天城さんは頭部外傷および両脚に刺し傷を負い、病院へ搬送。現在も治療を受けているとのことです』
手に持っていたリモコンが落ちる。
「………兄さん」
天城彼方のニュースは、瞬く間に広がった。
【速報】天城彼方さん刺傷事件、ネット上でも大きな話題に
【ID:xA72mK1】
え……天城彼方ってあの天城彼方? 嘘だろ……
【ID:qP91Ls8】
重傷ってかなりヤバくないか? 普通に心配なんだけど
【ID:nV44Dz2】
助かってくれ……まだ若いのに……
【ID:tK88Fw6】
最近よくテレビ出てたよな。ショックすぎる
【ID:bE31Hu4】
頭部外傷に刺し傷って相当だぞ……
【ID:rM52Yp9】
犯人女なの怖すぎるだろ……
【ID:wL20Qz7】
天城彼方って割と誠実そうなイメージだったから意外
【ID:uD73Ca1】
いやでも芸能界なんて、表に出てないだけで色々あるだろ
【ID:fJ95Xe3】
最近アイドルと距離近い感じだったし、女関係こじれたんじゃね?
【ID:hS11Vr0】
被害者なのに叩くのは違うだろ……
【ID:mT67Ko8】
でも刺されるレベルって、普通のトラブルじゃない気がする
【ID:cN84Lb5】
天城彼方、女癖良さそうには見えなかったけどな、正直
【ID:zQ41Pe2】
イケメン俳優って裏で何してるか分からんしなぁ
【ID:kY77Ad4】
まだ事情も分かってないのに、憶測で叩く奴多すぎ
【ID:vX02Mn6】
普通に命助かってほしい。それだけだわ
【ID:sP93Re1】
これで亡くなったらマジで洒落にならん……
【ID:aH55Tw9】
人気出すぎて、変なのに執着されたパターンにも見える
【ID:eL28Fs3】
なんか最近の芸能界、男女関係のトラブル多すぎない?
【ID:gB70Qi2】
彼女いるの隠してファン食ってたとかなら印象変わるけど
【ID:pD18Yu5】
いや、刺す方が100悪いだろ……
【ID:jW63Nm1】
とりあえず無事って続報だけ早くくれ
【ID:oR49Vc8】
ニュース見た瞬間鳥肌立った。助かってくれよ、ほんと……
ネットには様々なことが書かれた。心配する声が多かったが、中には根も葉もない言葉や、彼を批判する声も上がっていた。
ルビーの小さな手が、ぎゅっとスマホを握りしめる。画面を見つめる瞳には、涙と怒りが混ざっていた。
「……なに、これ」
震えた声が漏れる。次の書き込みを見た瞬間、表情が歪んだ。
「なんで……なんでパパが悪いみたいに言うの……?」
指先が強く食い込み、今にもスマホを投げそうなほど力が入る。
「知らないくせに……っ」
次々と流れてくる無責任な言葉。憶測。面白半分のコメント。ルビーの肩が怒りで震えた。
「パパは……っ、そんな人じゃないもん!」
涙がぽろぽろ落ちる。けれど拭う暇もなく、画面を睨みつける。
「何も知らないくせに、勝手なこと言わないでよ!」
声を荒げ、息を切らせる。幼い喉では抱えきれないほどの感情だった。
「痛い思いしてるの、パパなのに……なんで、こんなこと言えるの……?」
悔しさで唇を噛む。
「……消えちゃえばいいのに、こんなの」
そう吐き捨てても、画面の文字は消えない。ルビーはとうとうスマホを胸に抱きしめ、その場にうずくまった。
アイは何も言わず、しゃがみ込んでルビーの前に座る。震える手ごとスマホをそっと下ろさせ、そのまま小さな体を抱きしめた。
「……ルビー」
優しく名前を呼ぶ声は、少しかすれていた。
「怒ってくれて、ありがとう」
ルビーはアイの胸元に顔を埋めたまま、嗚咽混じりに声を漏らす。
「だって……ひどいよ……っ」
「うん。ひどいね」
アイの手が、背中をゆっくり撫でる。一定のリズムで、落ち着かせるように。
「でもね、知らない人の言葉って……すごく簡単に投げられちゃうの」
「……っ」
「彼方のことを、本当に知ってるのは私たちだよ」
ルビーの肩が小さく揺れる。
「優しくて、頑張り屋さんで、すぐ無茶して……でも、誰より家族のこと大事にしてくれる人」
アイは少しだけ笑った。涙を堪えるみたいな、不器用な笑みだった。
「それは、誰が何を書いても変わらない」
ルビーの頭を撫で、額にそっと口づける。
「だから、知らない人の言葉で、ルビーの心まで傷つかなくていいんだよ」
「……でも、悔しい……」
「うん。悔しいよね」
アイは強く抱きしめ直した。
「じゃあ、その悔しさは……彼方が起きた時に、いっぱい笑って返そう?」
「……笑って?」
「そ。『みんなで待ってたよ』って、いつも通り迎えるの」
ルビーは泣きながら、小さく頷いた。アイはその頬の涙を拭って、いつもの柔らかい声で言った。
「大丈夫。彼方は、ちゃんと帰ってくるから」
信じて待つ……それが彼女達にできる最大限のことだ……。
「……起きろよ、彼方。父親がいつまでも寝てんじゃねぇよ」
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