ルノワール男爵の憂鬱 作:道造
死のうと思ったのだ。
死にたいと思ったのだ。
この私は、シゼルは、もうどうしようもなかった。
思えば、屈辱の人生を送ってきた。
魔力がないのだ、魔法の素質がないのだ。
貴族として魔力と魔法の素質は、生まれとして当然持っていなければならないもの。
平民とて皆無ではない、それを私は抱いて生まれてこなかった。
「この出来損ないが!」
そう最初に罵ったのは世間ではない。
私の父であった。
五歳の時、魔力測定の儀において、何の素質もないことが発覚した。
からっけつ、無一物、どうしようもない、ただの「石ころ」。
そう測定後に判断を下したのは教会の司祭様であった。
酷く戸惑うような表情で、怒鳴り散らす父を諫めていたのを覚えている。
歴史上、いわゆる「魔力が低い。ほぼゼロに近い」人間が生まれてこなかったわけではない。
ただ本当にゼロの「石ころ」としか呼べない子が、貴族から生まれてくるのは本当に稀である。
当然、自然と侮蔑される。
腫れ物扱いをされる。
ただし、世間というものは完全な弱者には比較的有情であり、「石ころ」と呼ばれた私に対して、本当に石を投げて侮蔑する行為には眉を顰めた。
生まれた国が良かったのかもしれない。
侮辱というものが、どれだけ人を傷つけ、場合によっては報復を受ける行為かを皆が理解していた。
幾ばくかの悪意ある人間を除いては、私より恵まれぬ人間を除いては、私に直接危害を加えようと考える人間はいなかった。
非力なる者に侮蔑や暴力を加えるなど、それこそ愚劣のする唾棄すべき行為だという良識があった。
逆に言えば、幾ばくかの悪意ある人間はいた。
良識のない阿呆だ。
その代表が私の父だった。
父はこう言った。
「私の血が悪いのではない。女の血が悪いのだ」
と。
そして私の母はこう口にした。
「お前など産むんじゃなかった。お前に魔力さえあれば、正妻にだって……」
母は正妻ではなく、妾であった。
子が産めぬ正妻の代わりとして、とある男爵家の三女が宛がわれたのだ。
私の味方は。
ただ一人だけ、その子が産めぬ正妻のマリアンヌ様であった。
私が父に怒鳴られ、殴られるなどの折檻を受けていると。
マリアンヌ様が必死になって私を庇おうとするのだ。
時に、私の代わりに罵倒された。
お前が子供を産めないからこうなった。
このままでは、弟や親族に爵位を奪われてしまうだろう。
父は焦っていた。
自分の血を後世に残せないことについて。
それは男として何よりも屈辱であるかのように捉えていた。
マリアンヌ様は黙ってその罵倒を受け止め、ただ私を背後に庇っていた。
私が五歳の時から、十年もの間、ずっと。
哀れんだのであろうか。
自分の子が産めぬからこそ、ただ眼前の子供が折檻を受けることを許せないという愛情を持ったのか。
アガペー(無償の愛)、フィリア(配慮)、ストルゲー(家族愛)。
どれに類するのかはわからない。
ただ、マリアンヌ様が私を愛してくれたこと。
父の折檻から身を隠すために、自室に匿ってくれたこと。
何も教えてくれぬ実母の代わりに、貴族として必要な様々な教養を教えてくれたこと。
それだけは理解している。
そうして、十五に私が無事育ったのを見届けて、マリアンヌ様は死んだ。
私が本当にその胎から産まれ落ちられれば良かったと思った、母だと思った人は死んだ。
流行病にかかったのだ。
生まれつき身体の弱い彼女の体力では、医薬品なしでは乗り切れなかったのだ。
私は滂沱した。
「やっと死んだか、あのろくでなし!」
墓前で父が、そう口にした。
医薬品もろくに買ってこない男だった。
役に立たない。
子供が産めない以上、何の役にも立たないというのが父から見たマリアンヌ様の評価だった。
私はそれに腹が立ったが、何も出来ない。
遺産に一つ、マリアンヌ様から譲り受けたものがある。
父の紋章でもない。
実母の紋章でもない。
マリアンヌ様が嫁いでくる前の、実家の蝶紋章が刻まれた懐剣である。
死のうと思うのだ。
死にたいと思ったのだ。
殉死という概念が遠い遠い東の国にはあるらしい。
私は私を庇ってくれた、血の通わぬ『本当の母』のためならば殉死出来た。
だが、それは我慢できた。
もう少しの我慢だった。
「ようやく、お前とお別れの時間だ。安心しろ、家は息子が引き継いでくれるでな」
会ったこともない弟。
母親は違って、父にとっては三番目の女で、まだ五歳。
その子に対する恨みはないので、多少は申し訳なく思うのだが。
「今度、公爵家のパーティーに招かれた。そこでだ。適当に相手を見繕え。そうして家から出て行け」
私は精一杯の反抗をしようと思う。
しでかそうと思うのだ。
この懐剣で、このクズの父親を刺殺する以上のことを『しでかしてやる』。
「見繕えなければ、追放だ。売春婦になって、市井で春でも売って暮らせ。もう貴様とは縁切りなので、貴族は名乗るな」
笑わせるな、何の判断能力もないゲスが。
私はお前の下賤な血を引いているのを世に証明するためにだ。
とんでもない下賤な行為をしでかすぞ!
自殺だ。
ホストである公爵に招かれて、ゲストである辺境伯の眼前でだ。
自分の娘を出来損ないとお前が場も弁えずに罵った、集まった賓客の御前にて。
私は自殺をする。
この私の本当の母親にして教育者である、マリアンヌ様から形見分けで頂いた蝶紋章の懐剣にて。
私は自分の喉を突き刺すのだ。
そうすれば。
そうしてしまえば。
お前の立場はもうお仕舞いだ。
衆目の目が集まり、誇りを誇示せんとする人々のパーティーを、大して大きくもない封建領主風情が滅茶苦茶にしたのだ。
自分の娘を、その罵りで自死させたのだ。
貴族としての立場を取り戻すことなど、二度と出来ない。
弟にだけは、そしてその母親を巻き込むことだけは一抹の申し訳なさを感じるが。
なにせ、顔も会わせたことのない相手。
情をかけるには浅すぎた。
「くたばりやがれ」
小さく罵倒を囁いた。
誰にも耳にも聞こえぬ罵りであった。
私は愚かな父が賓客の視線を集め、その怒りを買ったこの場にて。
ドレスの下に隠し持った懐剣にて、喉を突き刺そうとして。
目を閉じて、何の躊躇いもなく殉死をしようとした瞬間に。
「そいつは頂けないな、お嬢様」
優しい声だった。
そして、何か何処か遠いところに意識を飛ばそうとした私を、引きとどめる声だった。
私は彼を認識した。
野太い声だった。
「まあ、すまんが落ち着いてくれたまえ。これでも、一応は男爵なのでね。辺境伯や公爵が責任を取る様を見たくないのだ」
私が両手で握りしめ、喉を突き刺そうとした懐剣の先。
そこには声の主が、必死になって掌で刃を受け止めていた。
掌を貫いている。
痛みは強靱な騎士ですら泣き叫ぶほどの、凄まじいものだろう。
だが、彼は泣き声一つあげず、もう片方の右手で、私の背を優しく撫ぜた。
赤子を泣き止ませるように。
彼は流血していた。
私にはその赤い血の色が、何故だかとても美しく思えた。
私を泣き止ませようとする男は、金壺眼の何処となく胡散臭げで。
美形とは遠く離れて。
いっそ凶相とさえ言い切ってもよい顔の男。
確か、マリアンヌ様から聞いた限りでは、名を。
「ルノワール男爵?」
黒という意味を示す、その姓をもった男爵家の貴族であった。