ルノワール男爵の憂鬱   作:道造

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第八話「この出会いこそ、まさに運命だ!」

 

 この出会いこそ、まさに運命だ!

 私がまだ十歳のルノワール男爵と出会い、そう感じてからもう二十五年にもなる。

 神話の医神が、蛇の巻き付いた杖を彼に譲り与えた。

 彼が生まれ落ちると同時に、その英知の幾ばくかを教えた。

 そうとしか私には考えられぬのだ。

 

「ルノワールと申します。本日はお忙しいところを申し訳ありません」

 

 小さな少年であった。

 私が枢機卿として司教区を担当している、この王国の家督を継いだばかりの男爵で。

 ご両親は荼毘に付され、その死に顔を見ることすら出来なかったと聞く。

 なんと憐れな。

 私が公爵から一度拝謁を許してほしいと頼まれたときに。

 私が真っ先に考えたのは、心のケアが必要であろうと、聖書から神の教えを伝えることでどう慰めようかと。

 そればかりであった。

 だが、あの子は違った。

 印象的な金壺眼の顔で、ともすれば病魔に憑かれたような熱で、こう口にした。

 

「我が両親は医療という戦場にて倒れました。仇を討とうと思います」

「というと」

「流行病の原因の発見と、治療法の確立です。それを成し遂げなければ、両親が浮かばれません」

 

 何を無茶なことを。

 そもそも、ルノワール男爵のご両親とて、医者として知りうる限りの対策はしていたであろう。

 にもかかわらず、患者から感染し、病に倒れた。

 ルノワール男爵はひとりぼっちだ。

 家族はもうおらぬ、頼れる親族はどこにもおらぬ。

 頼りにできるとすれば、もはや彼の後見人となった公爵だけであろう。

 それだけが彼の背景だった。

 

「ですが私はまだまだ未熟。先達の医師を紹介してくださらないでしょうか? 感染症の研究がしたいのです」

「……王国が求めているのは、ルノワール男爵家が続くことであろう。医学の現場に身を置き、腕を磨くことではない。まして感染症の研究などと」

 

 もう十歳だ。

 まだ成人まで四歳ある。

 たしかに知識を蓄えることは必要だ。

 だが、それよりも貴族として優先すべきは血の存続だ。

 彼は聖職者ではない。

 婚約者を探し求め、愛する者と番い、子を為して。

 後継者を作って血を後世に繋ぐことが何よりも優先されることだった。

 家職である医学の道を歩むのは、その後でも良い。

 王とて、それを許すだろう。

 何より後見人たる公爵が十四歳の成人までは庇ってくれるはずだと。

 そう諭した。

 だが、返事はこうだ。

 

「確かにそれはそうでしょう。貴族としてならば、そうであるべきでしょう。ですが、人であらば時に命を擲ってでもやらねばならぬ時があり、それは今ではないかと思います。四年後では遅いのです」

 

 公爵がいたならば、後継人として叱責を口にしただろう。

 この分からず屋め、減らず口を叩きおって、貴族の立場をなんと心得る。

 そのような身勝手な真似を許すために、民はお前を養うための税を納めているのではないと。

 そこまで言い放つかもしれない。

 だが、私は枢機卿であり、一人の聖職者である。

 貞潔を生涯守り通すべき一人の祈り人であって、血統が、家督がと。

 そのような貴族の理屈を述べる権利はなかった。

 だから、代わりに道程の困難を諭そうとした。

 

「医療の現場にいるということは、死に直面するということです。それこそ感染症に立ち向かうとあらば、これ以上の感染を防ぐために建物に火をつけて、生きたまま患者を焼くことすらありえるでしょう。その火を付けるのは貴方かもしれません。いえ、逆に焼かれるのは貴方自身になるかもしれません。その覚悟はありますか?」

「生きることは死に向かう旅にすぎず、人は生まれた瞬間から、日々、死に向かっていく」

 

 十歳の子供が、事もあろうに哲学者の言葉を口にした。

 

「ありとあらゆる生き物は生まれ落ちた瞬間に、死に向かっています。それこそ、過労で突然に気を失ったように眠り、二度と目を覚まさない。転んだ拍子に頭を打っただけでも人は死ぬのです。だからこそ、今やらねばならないのです」

 

 死は恐怖ではない。

 何の意味もない死こそが恐怖なのだと。

 まるで一度無意味な死を受けたかのような口ぶりで、十歳の子供がそう口にした。

 ぞっとしなかったと言えば、嘘になる。

 私はあろうことか、眼前の金壺眼の少年に、恐怖すら抱いたのだ。

 だが。

 聖職者としての私の信仰が、その恐怖に打ち勝った。

 そして、枢機卿としての知識が、彼に対する興味を覚えたのだ。

 

「ふむ」

 

 私は質問をした。

 幾つもの質問を重ねた。

 誰がそのような感染症に対する恐怖を克服し、研究に参加するのだと。

 回答はこうだ。

 

「私のように梃子や螺子を用いても、信念と研究欲を、憧れを止められぬ物好きは何処にでもおりましょうぞ。そもそも――聖職者の振るまいが、目指すところがそうではありませんか。枢機卿が修道士や修道女にこう言えば良い、やりたい奴だけ手を挙げよと。十人に一人はそういう者もいるでしょう」

 

 なるほど、我々にも確かにそういう研究家の変人はいる。

 否定はできんと、くすりと笑う。

 次に尋ねた。

 何処にそのような研究環境があるのだと。

 

「廃れた修道院が何処かにありましょう。人里離れた。そこに人員と、患者と、研究道具を集めればよろしい。私がやります。最初は一人でも、少しずつ少しずつ、石を積むように研究を続けましょう」

 

 なるほど、なるほど。

 更に尋ねた。

 誰が資金を用意するのかと。

 

「我がルノワール男爵家の全財産と、これから私がこの頭で稼ぎ出す全ての金銭にて」

 

 私は恐怖したし、混乱もした。

 それでいて、あの金壺眼の瞳に引き込まれた。

 この者はふざけているのではなく、本気で全てが叶うと思っている。

 何もかもを実現するつもりである。

 さて、だからといって出来るとは限らぬぞ。

 問答の時間である。

 一週間もかかった。

 この枢機卿として何百何千という人間を見てきた私が、たった一人の少年のことを知るのにそれだけかかった。

 どこまでも神機妙算で、何処かふざけているようで、何処までも真剣な。

 私は理解した。

 神話の医神が、蛇の巻き付いた杖を彼に譲り与えたという、たったそれだけの事実を知りえた。

 だから、だからだ。

 

「この出会いこそ、まさに運命だ!」

 

 人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。

 一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。

 縁は求めざるには生ぜず。

 内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁は生ずるに到らずと知るべし。

 なれば、この私と彼が巡り会えた縁は、私が彼を認識したのは、何もかもが神の定めた運命なのだ。

 私は内心で狂喜乱舞した。

 ルノワールという一人の医者の誕生に立ち会えたことを感謝したのだ。

 やるぞ、この子はやるぞ。

 歴史において、何百万もの人間を殺してきた忌むべき感染症をこの世から消し去るだろう。

 もし失敗すれば、この枢機卿の名誉など地に落ちることは知っていた。

 ルノワール男爵をむざむざ死に追いやれば、私はおそらく王国に暗殺者を向けられても不思議ではないし。

 聖職者でありながら、ふざけた真似をしたと教皇からの怒りを買い、石を投げつけられて教会を去ることになっても当然である。

 だが、私は。

 

「私のありとあらゆる力を注ごう。この枢機卿という立場が可能な限りの助力をしよう。優れた医師を集めよう。優れた修道士も修道女も集めよう。その研究機関の名を決めよ」

「では、病を癒やす場所。病院と」

「よろしい。それでは、男爵は本日この日をもってして、ルノワール病院の病院長である」

 

 全てくれてやる。

 何でも与えよう。

 この血肉の一片すら残さず、必要な物はどんな手段を用いても用意しよう。

 そして、事は成し遂げられた。

 感染症の感染経路の発見と、治療薬の創薬である。

 私はルノワール男爵を支援し、後援した枢機卿として、世俗からも宗教界からも多大なる名声を得た。 

 不純物だ。

 そんなもの彼と私との関係には不純物でしかないが、まあ男爵が評価されるのは素直に嬉しかった。

 問題はだ。

 

「いい加減に貴族社会に戻してやってくれ。あれはウチの貴族だ。聖職者にさせるのが目的で貴方に会わせたのではない。人の家臣を横から奪おうとするとは、酷いではないか!」

 

 と。

 そういった、王様や公爵からの文句であった。

 これもまた不純物だ。

 私の後継者は、もはやどう考えても一人しかいなかった。

 誰もが認める彼だ。

 ルノワール病院という修道院の司祭といっても過言ではない、あの子しかいないのだ。

 

「うるせえ、世俗は黙ってろ。アレはもうウチの身内だ。男爵風情より枢機卿の方が良いに決まっている。戦場で功績を挙げねば陞爵も叶わぬだと。そのようなわけもわからぬ、野蛮な世界に彼は合わぬ」

 

 と。

 汚い言葉は使わなかったはずだ。

 あの醜い世俗の王はともかく、こちらからは神に誓ってそのようなことは。

 多分、おそらく、していないはずなのだ。

 だが、いつの間にやら口論となり、襟首を掴み、お互いに怒号を張り上げて。

 世間にそれ以上の醜聞は漏れていないが、最終的に一対一での殴り合いになった。

 私は殴られた数しか殴り返していない。

 一撃を入れられたならば、より強烈な一撃を返しなさいと神も仰っている。

 そして、先に床に膝を着けたのは王だった。

 ふん、世俗の王とは情けないものだ。

 老いては麒麟も駄馬に劣る。

 ルールを考えれば、これはもう明らかに私の勝ちだ。

 そう神が決めた。

 そういったルールを私が後日、聖職者として発見したのだ。

 だから私が正しい。

 間違いない。

 

「……さて、ひとまずは彼の依頼をこなすか」

 

 魔力を持たぬ子の過去の例について。

 いくつかは記憶にある。

 貴族の子に生まれれば不名誉と、こっそり始末された者も残念ながら多かろうが。

 親の情ありて、修道院に金を積んで、その後を頼んだ者もいるだろう。

 根を詰めて調査をすれば何か分かるはずだった。

 少なくとも、あの子が必要とする情報はいくらか集まるだろう。

 私は硝子戸ごしに、後継者である彼が馬車に乗る姿を見つめ、満足げに微笑んだ。

 

 

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