すいません。書き忘れましたが、ミコトたちは二年半の間に一人暮らし用のアパートからもう少し広い二人用の部屋に引っ越しています。
???side
「鮭の塩焼きうま〜〜!!」
思わず叫んでしまうくらいの衝撃だった。
テーブルの上には、湯気の立つ白いご飯と味噌汁。
そして、こんがり焼かれた塩鮭。
(な、なにこれ……!? しょっぱくておいしい!! というか外側がぱりぱりしてるのに、中がふわふわなんだけど!?)
私は箸で鮭を持ち上げながら、何度も瞬きをした。
焼けた皮は香ばしく、ぱりっと小気味いい音を立てる。なのに中の身は驚くほど柔らかくて、噛むたびに脂がじゅわっと広がった。
鼻をくすぐる匂いもずるい。炭火みたいな香ばしさと、魚の旨味が混ざっていて、食欲を無理やり引きずり出してくる。
(地球の料理……なんて恐ろしい……!)
「……リアクションでかいな」
向かい側で、ミコトが味噌汁を啜りながらこちらを見てくる。
ミコトは知らないかもしれないが……
私が今までいた月には"味覚"というものがなかったのだ。
だから、この鮭は昨日食べたオムライスに勝るとも劣らない衝撃だった。
続けて、もう一口食べる。
「~~~~っ!」
……おいしい!
塩気の強い鮭を頬張って、すぐに白米をかき込む。
すると今度は米の甘みが広がって、鮭の旨味をもっと引き立ててきて、無限に食べられる気がする。
これは危険な食べ物だ!
「……ミコト」
私は箸を置き、真剣な顔で向かい側を見る。
「……どうした?」
ミコトは味噌汁の椀を片手に持ったまま、
気の抜けた返事をした。
まるで、"またなんか言い出したよ"……
と言わんばかりに。
でも私は今、かなり重大な事実に気づいてしまった。
「地球人って、天才かもしれない!」
「鮭でそこまで言う奴初めて見たわ」
「これなら、私のことよりも鮭の解凍を優先したのも頷けるね」
「根に持ってたんかい」
正直、夜は私の話よりも優先されたこの鮭に少なからず憎しみを抱いていたが、一口食べた瞬間、それは吹き飛んだ。
続けて、味噌汁をずずっと啜る。
「あ"ぁ"〜〜〜……」
思わず、全身から気の抜けた声が漏れた。
温かい出汁が喉を通り、じんわりと体に染み渡っていく。
ぽやぁ……と蕩けた表情で天井を見上げながら、ポツリと呟く。
「地球、最高……もう絶対帰んない」
「鮭の一切れで故郷見捨てんな」
◇ ◇ ◇
それから朝ごはんを食べ終えると。
「じゃあ、行ってきまーす」
廊下へ続くドアノブに手をかけたミコトが、軽い調子で言う。
「えぇっ? ミコト、どこ行くの!?」
私は慌てて駆け寄り、彼の服を掴む。
せっかく地球に来たのだから、ミコトには今日一日、私と遊んでもらわなければ困る!
「大学のオ-プ……いや、ただの大学」
……今、一瞬別のこと口にしかけて言い直した?
いや、そんなことより!
「えー!ヤダヤダー!一緒に遊んで〜〜!」
彼がどこかに行かないように必死に引き止めようとするが、
「大人はお前と違って忙しいんだよ」
「そんなぁ!?
じゃあ私とその大学、どっちが大事なの!?」
「どっかで聞いたことあるセリフだな……」
呆れたようにツッコミを入れながら振り返り、
ぽんぽんと私の頭を撫でる。
「ヤチヨが家にいるだろ。そっちと遊んでもらえ」
「むぅ……」
完全に子供扱いである。私は頬をぷくっと膨らませた。
しかしミコトはそんな私を気にも留めず、
ひらひらと手を振って玄関から出て行ってしまう。
(む〜〜〜)
せっかく、“楽しいところに逃げた〜〜い”って、地球に来たのに……
ずっと部屋の中にいたら、来た意味がない!
つまんない!!
私はちらりとキッチンを見る。
ヤチヨは鼻歌混じりに食器を洗っていた。
こちらへの警戒はゼロに等しい……
(……いける)
そう判断し、私はそろりと廊下へ出て、忍び足で歩く。
気分は完全に潜入ミッションだ。
(よし! このままミコトの跡をつけて、“大学”というところに行くぞ!)
そう思った、その時。
ヴゥゥゥゥン……
という低く響く音が聞こえてきた。
私はぴたりと足を止める。
(……何の音?)
耳を澄ませると、それは廊下の途中にある、少しだけ扉の開いた部屋から聞こえてきていた。
私は恐る恐る扉の隙間から中を覗き込む。
「
そこには、部屋いっぱいにPCやらストレージ機器が並んでいた。
(この部屋は、一体……?)
私は好奇心に負け、そっと扉を開ける。
その瞬間。
(ん?……茶色くてふわふわの……棒?)
視界の端に、毛の生えた棒みたいなものが見えた。
それは床にだらんと落ちていて、
ふりふりとゆっくり動いている。
まるで、"生き物みたい"に。
(この色……どっかで見たことがあるような…?)
この数日、赤ん坊だった頃の曖昧な記憶が、
断片的に脳裏をよぎる。
私は首を傾げながら、その正体を確かめようと、
さらに扉を開こうとした。
──その時だった。
「何やってるの?」
「っ……!?!?」
突然、真後ろから声をかけられた。
びくぅっ!!と肩を跳ねさせながら振り返る。
そこにはヤチヨが腕を組み、じーっとこちらを見ていた。
「い、いやちょっとトイレの場所がわからなくって!?」
慌てて取り繕うように言い訳を口にする。
──が、声は見事なまでに裏返っていた。
「……ミコトの後、つけようとしてるでしょ?」
「……!」ビクゥッ
図星だった。
私は露骨に視線を逸らしながら、
額にじわりと冷や汗を浮かべる。
まずい。完全にバレてる!
「まったく……」
ヤチヨは呆れたようにため息を吐くと、
肩を落として額を押さえた。
「ご、ごめんなさ──」
「
「……え?」
予想外の言葉に、私はきょとんと目を丸くする。
するとヤチヨは、抱えていた袋を私の手へ、
バサッと置いた。
「……これは?」
「外出用の服」
袋の中を覗くと、可愛らしい服が綺麗に畳まれて入っていた。
「これ……ヤチヨのお下がり?」
「ちゃんと新品。サイズもぴったりだから」
「……なんで、"もう服を買ってあるの"……?」
私は困惑したまま服とヤチヨの顔を交互に見る。
私が大きくなったのは今日なんだから、サイズぴったりの服なんて買えるはずがないのだが……
「それよりも……早く着替えて出かける準備する!ミコトの大学、行きたいんでしょ?」
「でも、ミコト……朝は来てほしくなさそうにしてたよ?」
今朝のやり取りを思い出しながら、
私は不安げにそう呟く。
するとヤチヨは、
なぜか余裕たっぷりに"ふっ"と笑った。
「まだ地球に来て日が浅いから知らないか……」
そう言って、人差し指を立てながらやたら得意げな顔をする。
「いい? 地球にはこんな言葉があるの」
そして勿体ぶるように間を置き、
「──"嫌よ嫌よも好きのうち"、ってね!」
「なるほど!!」
言葉の意味を理解した私は、ぱっと顔を輝かせた。
つまり──。
「朝のミコトは嫌がってるように見えたけど……
「その通ぉり!!」
ヤチヨがびしっと親指を立てる。
──
そうして知識をアップデートさせる。
私はまた一つ賢くなった気分で、大きく頷いた。
「それに──」
ヤチヨはどこからともなくスマホを取り出した。
その顔には妙に自信満々な笑みが浮かんでいる。
「ミコトは今日は13時から暇になるらしいから、それ以降なら一緒に大学を回れるのです!」
「へ──! すごい!! ヤチヨは、
ミコトに"来ていいよ"って言われてるんだ!」
私は素直に感心しながら目を輝かせる。
しかし──
「ううん。言われてないよ〜」
ヤチヨはあっさり首を横に振った。
「え?」
予想外の返答に、私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
するとヤチヨは悪びれる様子もなく、胸を張ってこう言った。
「これはミコトのスマホを
ハッキングして得た情報だから」
「私、昨日ネットで見たよ!
それって
「はぁ〜、これも知らないか……」
ヤチヨはわざとらしく肩をすくめ、私の言葉を遮った。
そう言って額に手を当てる姿は、まるで“常識を知らない子供に説明する大人”そのものだった。
「地球ではね……"本当に愛する人のため"なら、どんなことをしても許されるの」
どこか遠い目をしながら、
やけに重みのある声で言い切った。
「そうなんだー!!」
またしても地球の衝撃的な文化を知ってしまい、
私は思わず感嘆の声を上げる。
地球は思っていたより、かなり自由みたいだ!!
「それに、今日はミコトが若い女と浮k……この家庭がピンチになっちゃうかもしれないから、近くで見守らないといけないの」
ヤチヨは胸に手を当て、やけに真剣な顔でそう言い切った。
その表情には一切の迷いがなく、私には
“嘘をついている人”には見えなかった。
「だからこれは──みんなのための行動でもあるの。
……わかった?」
「わかった!私も、リビングの空気が
常時マイナス五度の家庭はいやだもん!!」
私は納得したように大きく頷く。
そんな私を見て、ヤチヨは満足げに笑った。
「そうと決まれば……」
そのまま、ビシッ!と玄関の方を指さす。
つられるように、私も玄関の方を見る。
「──いざ、行かん!!
◇ ◇ ◇
(
鉄板の前に立ちながら、俺は心の底からそう思っていた。
ジュウウウッ!!という音と共に、ソースの焦げる香ばしい匂いが立ち上る。
大学構内は、いつもの数倍騒がしい。
今の時期は十一月。
多くの大学が"オープンキャンパス"を開催する時期であり、うちの大学も例外ではなかった。
オープンキャンパスとは、受験生や保護者向けに大学を公開するイベントであり、キャンパス中が“大学楽しそうですよ感”を全力で演出する日だ。
模擬授業。
研究紹介。
サークル展示。
学生相談会。
そして、俺たちみたいなゼミの出店。
校内のあちこちから呼び込みの声が飛び交っている。
(本来なら、あいつをヤチヨ一人だけに押し付けるのは気が引けるから、俺も家にいたかったんだけど……)
ゼミの教授が「若者らしく青春をしろ!」と言い出し、半ば強制参加となった結果がこれだった。
俺はヘラで麺を押し付けながら、小さくため息を吐いた。
(ヤチヨのやつ、家で変なこと教えてないと良いんだが……)
正直、ヤチヨは悪ノリし始めるとブレーキの壊れたショッピングカートみたいになるから、子供の前にはあんまり置いときたくない……
とは言え、後少しで今日のシフトは終わるため、午後からはゆっくりできる。
(あと少しの辛抱だな……)
そんなふうに思っていると。
「すいませ〜ん!」
目の前から元気すぎる声が飛んできた。
時間的にも、どうやらこれが最後の客らしい。
「はいはーい」
ヘラを置き、顔を上げる。
すると、そこに立っていたのは──
「え〜と、確か……
頑張って来たから、焼きそば1つちょ〜ぉだい!
もちろん、
「帰れクソガキ」
反射で言葉が出た。
にこにこ笑いながら、ぱちりとウインクをする銀髪の少女。
……うん。見覚えしかない顔だ。
「
そんなに私が来てくれて嬉しいんだ?」
……なんかこいつ、ほんの数時間
目を離しただけでヤチヨに似てきたか?
8000年かけて形成された面倒臭さに、
数日で追いつこうとしてる?
一瞬、“あれ”を二人同時に相手し続ける未来が脳裏をよぎり、軽く憂鬱になったが……
今はそんなことより──
(なんでこいつがここにいる……?)
今日は大学のオープンキャンパスだ。高校生や保護者が見学に来るのは分かる。分かるが……
なぜこいつがいて、そのうえで当然みたいな顔して焼きそばを奢られようとしているのかが分からない。
しかも周囲の視線が痛い。
ゼミの同級生たちは「誰あの美少女……」「娘……?」「あの年の娘がいるということは……」などとざわついていた。
やめろ、俺の人生を勝手に考察するな!
そんな俺の心境など一切気にせず、
騒ぎの元凶は鉄板の上を覗き込み──
「おぉ〜……! いい匂い……!」
目をきらきら輝かせた。
その顔は、完全に屋台にテンションが上がってる子供だった。
「……ごめん、一瞬持ち場任せてもいい?」
「おっけー!というか、もう休憩の時間だから、そのまま抜けちゃっても大丈夫だよ!"家族サービス"は大事だから!」
「“大学生なのに娘がいる苦労人”みたいな扱いすんな」
あと、その生暖かい目で見てくんのやめろ?
複雑な事情なんてないから。
俺は問題児を連れてその場を離れる。
「うぇ〜〜、焼きそばは〜〜?」
「後で買ってやるから……
──それより、なんでここが分かった?」
「へへへ、やっと驚いてくれた……!」
その表情はイタズラが成功して喜ぶ子どもそのものだった。
「……質問に答えろ、俺の跡をつけて来たのか?」
すると、容疑のかかった被告人はあっさりと白状した。
「う〜ん、
「覚えておけ?世間ではそれを"ストーカー"って呼ぶんだ」
「ミコト知らないの?
──"地球では愛があれば何やってもいいんだよ"?」
「なに言ってんだこの宇宙人」
「それよりも!生後間もない娘がわざわざ会いに来てあげたんだよ? 焼きそばの一つくらいくれてもよくない?」
どんだけ焼きそば食べたいんだコイツ……
というか、さっきから気になっていたんだが、
「そもそもお前、
「……えっ?」
“見た目は16歳、でも中身は0歳(3日)♡”
みたいな空気出してるけど、
もともと月で暮らしてたんだから……
「お前って
ちなみにヤチヨは、月に帰ってから七十年ほど向こうで過ごし、その後地球に不時着して数年。それから俺と八千年を生きた。
なので──
「えーとね、それはね──」
もはや誤差かもしれないが、“月で過ごした年数”次第では、
「まだ産まれて間もない娘がせっかく会いに来たのに、随分な言い草だね〜?」
背後から聞こえた声に、反射で背筋が伸びた。
恐る恐る振り返ると、そこには──
「ねぇ……?
ヤチヨがいた。
にこにこと、いつものように柔らかい笑みを浮かべている。
……いや。
あれを“笑顔”に分類していいのかは分からない。
長い付き合いだから分かるが、あれは──
『"それ以上先を聞けば、お前の命はない"』
そう言っている顔だった。
「……な、な〜んだ!保護者の方いたのかー!全く、ダメですよ〜。
俺は乾いた笑みを浮かべながら、必死に話を逸らす。
しかし、そんな努力をあざ笑うように、
電柱で産まれた子は、ぱっと電柱出身の母親へ
駆け寄ると。
「お母さ〜ん。お父さんが頑なに娘の存在を認めてくれなーい」
ヤチヨの腕に抱きつきながら、わざとらしく泣き真似をする。
「まぁ〜可哀想に〜!」
ヤチヨもすぐさまノリノリで合わせた。
やめろ。なんで自然に親子認定が成立してるんだ。
あとお前ら、いつの間にそんな仲良くなった?
「大丈夫よぉ、あとでちゃんと“お父さん”に言って聞かせるから」
「だから誰がお父さんだ!!」
……ダメだ。
この二人を相手にしていたら、こっちの精神が先に持たない。
「あ〜もうわかった。お金やるからそこで焼きそば買ってき──」
「ひゃっほ〜〜い!!」
最後まで話を聞かず、目を輝かせながら金をひったくった。
「話最後まで聞け?」
こちらの言葉など聞かずに、そのまま脱兎のごとく屋台へ駆けていく。
その背中を見送ると。
「はぁ……"それで"?」
俺は深いため息を吐きながら、じろりとヤチヨを睨む。
「なにが〜〜?」
ヤチヨはわざとらしく首を傾げる。
完全にとぼける気満々であった。
「"なにが〜〜?"じゃなくて。あいつが来てるのもそうだけど、ヤチヨにも今日のこと、言ってないはずなんだけど?」
絶対めんどくさいことになるから。
なのに──気づけば、あいつと一緒に普通に大学へ来ているし。
半目のまま睨み続けると、ヤチヨは悪びれもせず胸の前で両手を合わせた。
「だって……」
一歩こちらへ近づきながら、ふわりと微笑む。
「──大切な相手には、隠しごとなんてしたくないでしょ?」
「それ、“隠してる側”のセリフなんだよ。少なくとも、暴く側が言うことじゃねぇから」
しかも、だ。
「オープンキャンパスがあるのは分かるとして、タイミング良すぎない?まるで俺の休憩時間まで把握してたみたいなんだけど……」
「それは愛の力だね♡」
「グレーな手段だろ」
なに綺麗っぽくまとめてんだ。
絶対なんかやっただろ。
これは後に問い詰めるとして……問題は──
「それよりも、あいつ大丈夫なの?変なこと口走ったりしない?」
するとヤチヨは自信満々に親指を立てた。
「お任せあれ!来るときに設定も考えて、"月から来たことは言わないように"って散々言っておいたから。ボロを出すことはないよ!」
「…………」
ヤチヨは親指を立ててそう言うが、どうにも嫌な予感がするため、少し移動して見守ることにした。
出店に視線を向けてみると、
ちょうど焼きそばを買うところだった。
「すいませ〜ん!焼きそば一つ頂戴!」
「はーい。あっ!天津くんの娘さんだ〜」
ゼミの同級生の子が、からかうような口調でそう言う。
当然ながら、本当に娘だとは思っていないのだろう。
「今中学生くらいなのかなー?」
見た目は大体そのくらいなので、年齢差だけ見れば、せいぜい親戚の子供とかその辺りに見えるはずだ。
「ところで、なんでお父さんって呼んでるのー?」
焼きそばをパックへ盛り付けながら、別の女子学生が興味津々といった様子で尋ねる。
それに対して、あいつは少しだけ嬉しそうに目を細めると。
「それはね!昔、訳あって行く宛のなかった私を、ミコトが家族として受け入れてくれたんだ!」
……なるほど、そういう設定なのか。
それならまあ、ギリギリ誤魔化せるか?
「そうなんだ……良かったね」
女子学生がふっと表情を和らげる。
周囲で様子を見ていたゼミ生たちも、「へぇ〜」とどこか感心したように頷いていた。
すると、あいつは胸元でぎゅっと両手を重ねながら、嬉しそうに笑った。
「うん!だから、私もミコトのこと……
"本当の家族"みたいに思ってるんだっ!」
屈託のない笑顔だった。
照れも打算もない、まっすぐな言葉。
「…………」
それを少し離れた場所から聞いていた俺は、
不意に言葉を失う。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
(あいつ……そんなふうに思ってたのか)
この三日間、あの子を世話していた時の記憶が、ふと蘇ってくる。
──最初は、本当に大変だった。
昼も夜も関係なく泣き出すし。
ヤチヨと二人がかりで必死にあやして、ようやく寝かしつけたと思い。
そっと布団へ降ろした途端──
『ふえぇぇぇぇぇぇん!!!』
と、全力で泣き直されて。
思わず二人揃って天を仰いだこともある。
ミルクを作るのだって慣れなくて。
熱すぎてもダメ。
冷たすぎてもダメ。
温度を確かめようとして自分の腕に少し垂らし、
『あっっっつ!?』
なんて、一人で飛び跳ねたこともあった。
……正直、毎日へとへとだったと思う。
なのに。
不思議と今思い出すのは、大変だった記憶よりも、温かい記憶ばかりだった。
ミルクを飲みながら、安心したみたいに小さな手で服をきゅっと掴んできたこと。
眠たそうに目を擦りながら、ふにゃっと笑った顔。
抱き上げた時、胸元に伝わってくる小さな体温。
あんなに小さくて。
あんなに軽くて。
あんなに可愛くって。
だからこそ──
だからこそ、"絶対に守らなきゃ"って思った。
「………」
ふと隣を見ると、ヤチヨがにこにことこちらを見上げていた。
「ミコト……良かったね」
「……そうだな」
思わず少しだけ口元が緩む。
騒がしい中庭の空気も、
今だけは少し穏やかに感じられた。
そうして俺たちは、これなら問題なさそうだと判断し、さっきまでいた模擬店の裏手へ戻ることにした。
◇ ◇ ◇
???side
「あっ……でも」
焼きそばを受け取りながら、
今朝、ミコトが私よりも大学を優先して、取り付く暇もなく出て行ってしまったことを思い出す。
そして、少しだけ視線を落とした。
すると、周りのお姉さんたちが不思議そうにこちらを見る。
「私が
「えっ……?」
鉄板の前にいたお姉さんの手がぴたりと止まった。
周囲の人たちも、なぜか静かになる。
──あれ? どうしたんだろ?
首を傾げていると、お姉さんが少し困ったような顔で口を開いた。
「え、えーっと……天津くんって、その……」
なぜか言いづらそうに視線を泳がせながら。
「……
「
私は素直に頷いた。
だって本当だし!
記憶は少し曖昧だけど、少なくとも"三日前"までのミコトは、今よりも、もっといっぱい構ってくれていた。
「"前"は毎日いっぱい撫でてくれたし、抱っこもしてくれたし、一緒に寝たりもしてたんだ!」
そう言った瞬間。
周りが、ざわっと揺れた気がした。
「へ、へぇ〜……」
「そ、そうなんだ……」
「仲……良かったんだね……」
みんな笑ってはいるけど、
なんだかちょっと顔が引きつっている。
(どうしたんだろう?赤ん坊にそうするのって、
別に普通だと思うんだけど……)
そんなことを考えながら、
私は少しだけしゅんと肩を落とした。
「でも、
さっきも“赤の他人”って言われちゃって……」
すると。
急に周りが静かになった。
みんな、なんとも言えない顔でお互いを見ている。
そして少しして──
「……最っ低…」
誰かがぽつりと呟いた。
その瞬間、周囲からもひそひそ声が広がっていく。
「天津くんって、そういう趣味だったんだ……」
「うわ……もしかしてお父さんっていうのも無理やり呼ばせてるの?」
「いやでも、成長したら興味なくなったって……
それ、完全にロリコ──……」
「……?」
なんだろう?
みんな、さっきから変な顔をしてる。
しかも、なんだかミコトの話をしている気がする。
(……どうしてだろう??)
私はよく分からないまま、首をこてんと傾げた。
◇ ◇ ◇
「ミコト─!ヤチヨー!焼きそば買ってきたー!」
私は焼きそばの入ったプラスチックのパックを両手で大事に抱えながら、中庭を駆けていく。
昼時の中庭は、人でいっぱいだった。
模擬店の呼び込みの声。
鉄板で何かを焼く音。
どこかのサークルが流している音楽。
色んな音が混ざり合っていて、なんだかお祭りみたいで楽しい。
その人混みの向こうに、ミコトとヤチヨの姿を見つけた瞬間。
胸の奥がぱっと明るくなって、自然と足が速くなった。
「おわっ!?」
そのまま飛び込むように近づいたせいで、
ミコトが慌てて私を受け止める。
「ったく、走るな走るな。危ないだろ?」
「えへへ」
注意されても、なんだか楽しくて笑ってしまう。
私はすぐに焼きそばのパックを掲げた。
「見て! 焼きそば、タダにしてくれたんだ!」
ミコトはへぇ〜と感心したように笑った。
「良かったな! やっぱり俺の知り合いだからか?」
「え〜っと……うん!
たぶん
本当は、なんだか途中からみんな変な顔をしていた気もするけど。
でも、いっぱいサービスしてくれたし、優しかったから、きっとそういうことなんだと思う!
ミコトの人徳のおかげだね!
「……? そっか。今度お礼言っておかないとな」
ミコトは特に気にした様子もなく頷いた。
するとヤチヨが、にこっと笑いながら手を叩いた。
「じゃあ、キャンパス回ろっか!どこか行きたい場所はある?」
その提案に対して、私は少しも迷わず、
「他の食べ物の店!!」
そう即答した。
するとミコトは、呆れたように肩を落とす。
「オープンキャンパスって、そういう目的じゃないんだけどな」
そう言いながらも、その声はどこか優しくて。
さっきまでより、ほんの少しだけ柔らかい気がして。
私はなんだか嬉しくなって、思わずえへへと笑ってしまった。
それから、二人と色々な場所を巡り……
(それにしても学校か〜……いいなぁ)
なんだか、自分でも不思議だった。
ついさっきまで食べ物のことしか考えてなかったのに。
今は、それ以上に──
この場所が、少し眩しく見えたから。
(私も……行ってみたいかも!)
※後日から、ミコトは同じゼミの学生に
なぜか少しだけ避けられるようになった。