かぐやside
(ヤチヨ絶対意識あると思うんだよね〜)
湯船に顔の半分まで浸かり、口からぶくぶくと息を吐きながら思い出すのは、今朝のヤチヨの
咳き込んでいたヤチヨを心配して様子を見に行った私を見つめる、独占欲と警戒心をむき出しにした顔。その瞳孔は完全に開ききっていた。
ヤチヨにあんな顔を向けられたのは産まれて初めて……ではなく、私が地球に来て2週間程が経った頃──
(ミコトには娘として受け入れてもらった上に、勉強まで教えてもらったりしてるし……今までお世話になった分、ちゃんと感謝を伝えたいんだよねー)
シンプルに「ありがとう」と伝えるだけでもいいのだが、せっかくなら、今までお世話になった感謝をちゃんと形にして伝えたい。そこで、世の父親はどんな言葉をかけられると嬉しいのかをパソコンでいくつか調べてみると、『どうやら、これが一番喜ばれるらしい』という言葉を見つけた。
(ふむふむ、なるほど……? よくわかんないけど、"これ"を言われると父親は嬉しいんだ!!)
「ねぇねぇ、ミコト!」
「……ん? どうした、かぐや?」
「かぐやね……? 将来──」
そして、両親が不思議そうな顔をしてこちらを見る中、大きく息を吸って一言。
「大きくなったらミコトと結婚する!!」
──と言ったとき以来だった。
ミコトは「いや、もう既にでかいだろ。そもそもお前、結婚の意味わかってんのか?」と、まるで本気にはしていなかった。
まあ、当然だと思う。当時の私は結婚というものがどういうものなのかよく分かっておらず、調べた言葉をそのまま伝えただけなのだから。
けれど──ヤチヨは違った。
「……やっぱり、
……何より怖かったのは、そのとき私に向けられたヤチヨの目であった。
あれは子供の言葉を微笑ましく受け止める親の目ではなく、『この邪魔者をどうやって排除するか』と本気で検討している人間の目だった。
今思えば、今日私に向けられたあの視線もよく似ている。
「……あれ、どう考えても"純真無垢な赤ん坊の目"じゃないよな〜」
湯船に身体を預けたまま、ぼんやりと考えを巡らせていると、
──ピコン。
「ん?」
不意に浴室の隅から通知音が響く。見ると、防水ケースに入れて浴室へ持ち込んでいたスマホの画面に、新着メッセージの通知が表示されていた。
誰だろうと思いながら、私はスマホを手に取る。
「……彩葉?」
画面に表示された名前を見て、私はそのまま通知をタップした。
──────────────────────
<彩葉
8/29(水)
彩葉
もうそろそろ夏休みも終わるけど、あんたちゃんと宿題終わってんでしょうね?
かぐや
やっべ! それどころじゃなくてやるの忘れてた!
彩葉
まったく……そんなことだろうと思った。
かぐや
彩葉〜、宿題写させて〜〜? お願〜〜い♡
彩葉
自分でやれ!!
彩葉
まあ、写すのはダメだけど……手伝うくらいならしてあげてもいい……けど?
かぐや
うお〜〜!! 彩葉さまマジ神! やっぱり持つべきものはしっかり者で頭のいい親友だね!
彩葉
はいはい……じゃあ今度うち来る?
かぐや
行く──! じゃあ都合のいい日決まったら連絡するね!
彩葉
りょーかい
彩葉
……そう言えばさ。さっき「それどころじゃなくて」って言ってたけど、なんかあったの?
かぐや
あー、色々あったんだけど今は
彩葉
──は??
既読
かぐや
それじゃあ、ありがとう彩葉! また連絡するね!
彩葉
いや待って待って待って……赤ちゃんになったってどういうこと? 全然意味わかんないんだけど!?
彩葉
ねえ、聞いてる!? かぐやー!?
彩葉
また未読スルーか!!
彩葉
一体、私の推しに何があったんだ──!?
──────────────────────
彩葉とのやり取りを終えて湯船から上がると、そのまま火照った身体をタオルで拭き服を着て、ひと息ついてからリビングへ向かった。
(でも、さすがに自我を取り戻すには早すぎるし……かぐやの勘違いかなー?)
──なんて考えながら廊下を歩き、リビングの扉を開ける。
「お風呂上がったよー」
「あうぅ〜〜! う"ぅ"〜〜〜!!」
「ごめんな〜、ヤチヨ。俺の"そこ"からミルクは出ないんだ……だからシャツめくろうとするのはやめて、哺乳瓶の方を飲もうな〜?」
聞こえてきたのはヤチヨの駄々をこねるような声と、それに困り果てたミコトの声だった。
何事かと思ってそちらを見れば、哺乳瓶を持ったミコトの腕の中でじたばたと暴れる赤ん坊──ヤチヨは必死にシャツへと小さな手を伸ばしていた。
どうやら、先ほどから何度も服をめくってはミコトのおっぱいを吸おうとしているらしい。
……いや!!
(──絶対意識あるでしょ、このエロガキ!!)
ミコトは困ったように笑いながら、伸びてくる手をやんわりと押さえていた。
「でも、仕方ないか……やっぱり、"ここ"から吸いたいと思うのは赤ちゃんとしての”
いいえ、思いっきり”
その赤ちゃんは私利私欲に満ち溢れています。
私は二人のやり取りを横から眺めながら、呆れたように目を細めた。どうやら、本人はヤチヨがなぜそこまで必死になっているのか本気で分かっていないらしい。
それからしばらく攻防を繰り広げるとようやく諦めたのか、ヤチヨはミコトに抱かれたまま哺乳瓶へ口をつけた。小さな口でちゅぱちゅぱとミルクを飲み干していくその姿だけを見れば、どこからどう見ても普通の赤ちゃんであった。
「ぷはっ…。 ・・・・・」ジ──
やがて哺乳瓶が空になると、ヤチヨは口を離してミコトをじっと見上げた。
……その顔は完全に褒められるのを待っている顔であった。
「よ〜しよ〜し。全部飲めて偉いぞ〜!」
その言葉を聞いた途端、ヤチヨの顔がぱあっと輝いた。そして、嬉しそうに両腕を精一杯伸ばす。
「あぅ〜〜♪ あうぅ〜〜♪」
ミコトは思わず頬を緩め、その小さな身体を抱き上げた。
「はいはい、抱っこな〜」
胸元へ抱き寄せられた瞬間、ヤチヨは待ってましたとばかりに頬をすり寄せ、離れないように服をぎゅっと握りしめる。小さな身体はすっぽりとミコトの胸に収まり、まるでそこが自分の居場所だと言わんばかりにぴったりとくっついた。
その光景は、側から見れば親に甘える子供とそれを優しく抱きしめる父親──そんな微笑ましく尊い光景にしか見えなかった。
「ぐへっ! ……ふへっ! うえへへぇ〜//」
──ヤチヨの"下心丸出しの顔"さえなければ。
愛らしい赤ん坊の顔をしているくせにその目だけは妙にギラついていて、ミコトの顔から首元、そして服のあたりへとねっとりと視線を這わせている。
さらにはミコトが赤ちゃんに甘いのをいいことに、身体を寄せてはベタベタと甘え、匂いを嗅ぎ、果ては胸元までぺたぺたと触り始める始末である。
どうやら赤ちゃんになったことで良心まで一緒に退化してしまったらしい。
すると何かを感じ取ったのか、ミコトはわずかに眉を寄せてヤチヨをじっと見つめる。
「……なんか今一瞬、赤ん坊らしからぬ邪な気配を感じたような……」
「………」彡( ; ∩ ∩) スッ
ヤチヨは一瞬だけ目を泳がせたものの、すぐにぱちぱちと瞬きをすると、上目遣いをしながらこてんと小さく首を傾げた。
「きゅぅ……?」(✨o̴̶̷̤ ᴗ o̴̶̷̤✨)
(いや、そんなあざとい赤ん坊がいるか!!)
さすがにあれだけ露骨な視線を向けてはいくらミコト相手とはいえ、もう誤魔化すのは無理d──
「ははっ、ヤチヨは甘えん坊だな〜」
(騙されないでミコト! ヤチヨ今、ミコトの見えないところで『計画通り(ニチャァ)』って顔してるから!)
どうやらあの可愛らしい顔の裏に潜む、ヤチヨの腹黒い本性まで見えているのは私だけらしい。
だが、それをわかっていてもミコトに言うつもりはない。なぜなら、言ったらヤチヨに何をされるかわからないからだ。
そうして、無事?にヤチヨの赤ちゃん生活の2日目が終了した。
────────────────────────
次の日 8月30日
ヤチヨが赤ちゃんになってから2日が経過し、その身体は順調に成長しているのだが──反対にその甘えん坊ぶりは加速してゆき、何かにつけてミコトを頼るようになっていった。
「あぅ〜〜……」
「ミルクかな……もう自分で飲めるくらいになってきたし、ちゃんと見てれば大丈夫か……」
そう言って布団の上で座るヤチヨに哺乳瓶を差し出す。
「……」(˘^˘ )彡プイッ
──ところが、ヤチヨは哺乳瓶を渡されても受け取るどころか露骨に顔を背けてしまった。
「……あれ、昨日は自分で飲んでたのに……ん?」
そして、ヤチヨは困ったように覗き込むミコトの服をきゅっと掴むと、何かを訴えるようにその顔をじっと見つめる。
「う〜ん、昨日誤嚥しちゃったから自分で飲むのは怖いってことか?」
ヤチヨは返事のかわりのようにその両手を伸ばした。
「……しょうがないか。まだまだ赤ちゃんだもんな」
普段なら「甘えんな、自分で飲め」とバッサリ切り捨てそうなところだが、ミコトは素直にその体を抱き上げる。そして、哺乳瓶を口元に当てると、先ほどまでの拒否は嘘だったかのように嬉しそうにごくごくと飲み始めた。
どうやら自分で飲むのが怖いから嫌なのではなく、ミコトに飲ませてもらうのがお望みだったらしい。ほんと、図々しい赤ん坊だなー。
「ほら、口の周り汚れてるぞ?」
「んぅっ……きゃっ♡」
ミコトに口元を拭いてもらうとヤチヨは満足そうに笑う。二人の間にはなんとも微笑ましい親子の光景が広がっていた。
(……いや、絶対自分で飲めるよね? それにわざとこぼして、ミコトに拭いてもらってるでしょ。赤ちゃんの立場便利に使いすぎじゃない?)
なぜこんなにもヤチヨに文句を言っているのかはわからないが。気づけば、昨日から心の中での小言が止まらなくなっていた。
そして、ミルクを飲んで満足したかと思えば──
「ふぁ〜〜っ……」ウトウト
「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったか? じゃあベッドに──」
「うぅ〜〜……」ギュッ
「……はいはい。お姫様は抱っこを御所望ですね」
どうやら今度は、まだミコトに構ってもらいたいらしい。
そして、どうにかこうにか寝かしつけることに成功したミコトは、スースーと寝息を立てているヤチヨの横に寝転がるとようやく大きく息を吐いた。
「ふぅ、やっぱりかぐやの時よりも大変な気がする……とはいえ、やっとスマホいじれる──」
ミコトがスマホを手に取った、その瞬間。
「う”ぅぅぅぅぅ〜! あ”ぅぅぅぅぅぅ〜!」
突然、ヤチヨが泣きじゃくり始めた。さっきまで特に不満もなさそうに寝転がっていたというのに、ミコトの意識がスマホへ向いた瞬間、「スマホじゃなくてわたしに構え!」と訴えるように声を張り上げている。
(……うわ、今トラップしかけてた!)
ヤチヨの目は完全には閉じていなかった。ほんの少しだけ開いた瞼の隙間から、ミコトが自分から目を離さないかをじーっと監視しているのを私は見逃さなかった。
赤ちゃんの姿でそんなことをされると、もはや呆れるどころか若干の恐怖すら覚えるのだが……
「はいはい、どうした? まだ眠れないのか?」
ミコトはスマホを置くと、ヤチヨの頭を撫でながら「しょうがないなー」と少しだけ声を落とした。そして──ゆっくりとした、穏やかな子守唄を歌い始める。
「この一瞬を──最高の──パーティーにしよ──……」
また、それに合わせるように一定のリズムで背中を優しく叩いていった。
「……ぁぅ……」
"その歌"はよほどヤチヨの心に響いたのだろう。さっきまで大声を上げていたヤチヨの瞼が少しずつ重くなっていく。
「大丈夫だぞー。ちゃんとここにいるからな」
その言葉に安心したのか、ヤチヨの瞼がゆっくりと閉じていく。やがて、小さな口から寝息が漏れ始めた。
「……ふぅ」
ミコトは今度こそ安心したように息を吐く。
(……完全に赤ちゃん生活を満喫してるなぁ)
身の回りのことはすべてミコトがやってくれ、甘えればいつでも構ってもらえる。しかも、普段はそう簡単に褒めないミコトから、何かあるたびに褒めてもらえる。
大人だった頃には得られなかったものばかりに囲まれた、ヤチヨにとってはまさに天国のような生活だった。
それはそれとして──
(ミコトって、将来いいお父さんになりそうだよねー)
赤ちゃんのわがままにも嫌な顔ひとつせず、泣けばあやして、困っていればすぐに手を差し伸べる。まさに理想の父親だろう。
そんなことを考えて──ふと、気づく。
(……あれ? そういえばかぐやって、娘としてこんなに甘やかしてもらったこと、あったっけ?)
私の場合、赤ちゃんだったのはほんの四日間ほど。そこからはあっという間に身体が成長して、勉強を教えてもらって、気づけば高校生になって普通にミコトと話していた。
だから、ヤチヨみたいに抱っこしてもらったり、手を繋いで歩いたり、遊園地に連れていってもらったり……そういう、娘として父親に甘えるような時間を、私はほとんど経験していない。
私はもう高校生なのだから、別に今更"目の前の赤ん坊もどき"みたいに、ベタベタと親に甘えたいとは思わない……けれど、
(……かぐやだって、ミコトの娘なんだけどな……)
そう思った瞬間──胸の奥が、ほんの少しだけもやっとした。
────────────────────────
8月31日
赤ん坊になってから4日目──
「おぎゃぁ♪ おぎゃぁ♪ ばぶぅ〜ばぶぅ〜♡」
──ヤチヨは完全におぎゃり散らかしていた。
「はぁ……」
私はリビングのテーブルからため息をつきながらヤチヨを眺める。
最初の頃は赤ん坊らしく振る舞うことにも多少の遠慮があったというのに、今ではなんの躊躇いもなく全力で赤ちゃんを立場を満喫していた。その様子はもはや天国どころか、欲望を何一つ我慢する必要のない理想郷にいるようだった。
「………」
流石に限界が来たのだろう……ミコトはそんなヤチヨを黙ったまま見下ろしていた。
ここまで好き放題されれば、いくらミコトでも呆れたに違いない。
「……かわいい」
(そうそう。もう無理限界って言ってや………)「──へ?」
そして、次の瞬間──
「ああぁぁぁぁ〜〜〜、かわいいぃぃぃぃぃ!!!」
突然ミコトが叫びだし、満面の笑みを浮かべながら頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめ始める。
「ほっぺもぷにぷにだし、ちっちゃい手で俺の服をぎゅって掴んでくるのも可愛い。抱っこしたらすぐ安心したみたいに大人しくなるのも可愛いし、俺の顔見て笑ってくれるのも可愛い。ミルクだってちゃんと飲んで偉いし、眠くなったら俺にくっついてくるのも可愛い。もう、うちの子がいっっっちゃん可愛い!!」
突然始まった、普段のミコトからは絶対に想像できないほどの甘やかしっぷりに、私は思わず引き気味になってしまう。
「えぇ……ミコト、急にどうしたの?」
「普段の
私が呆然と独り言のように呟くと、隣から突然声が聞こえてきた。
「えっ? ………うわっ、
そこにはいつの間にか話せるようになっていたFUSHIが、隣でお座りをしながら二人を見つめていた。
「い、いつ話せるようになったの!?」
「ついさっきだ。犬は人間より成長が早いからな」
昨日まではクンクン言うことしかできず、私にされるがままに嗅がれていたとは思えないほど饒舌な話しっぷりだった。
「ふ〜〜ん……なんだ、もうちょっと話せないままでよかったのに」
「何か言ったか?」
「いや? 今時は何もかものスピードが早いんだな〜って……それで、反動ってどういうこと?」
隣にいたFUSHIが相変わらずミコトとヤチヨを眺めながら、妙に冷静な口調で答えた。
「あれでもミコトは、ヤチヨのことをなんだかんだ言いながら愛しているし大事にも思ってる。だが、もし普段のヤチヨに今みたいなことを素直に言おうものなら……」
『えっ!? 可愛い!? あの普段ぜっっったいに素直に褒めないミコトが!? 熱あるの? ……あっ、ちょっと待って待って! 今の録音したいから、ほら、もう一回言って! 「ヤチヨは可愛いくて、綺麗で、優しくて、頭良くて、可愛くて、料理もできて、歌もうまくて、可愛くて、気遣いもできて、その上可愛くて──もうヤチヨのいない人生なんて想像できない!」って早く言って!!』
『かぁぁぁ〜〜、ミコトに可愛いって褒められちゃったな〜〜!! どうしよう、今日の私はいつもの三割増しくらい可愛いのかもしれない!! ……いや? ミコトの目にはいつも八千割増しくらいで可愛く見えてるだろうから……ミコトにとっては常に世界で一番可愛いお姫様ってことか〜〜!』
『ふふ〜ん、やっぱりそう思うよねぇ〜〜! いやぁ、ミコトもようやくヤチヨの魅力に気づいたかぁ〜! 遅かったねぇ〜。もうちょっと早く気づいてくれてもよかったんだけど……まあ? “可愛い可愛い”ヤッチョは心が広いから? しょうがないから今からでも許してあげるよ! 感謝して?』
『……チッ』
……ああ、なんとなく想像できるなぁ。
「……だから、ミコトは普段から素直にヤチヨを褒めないようにしているんだろう。だが、今のヤチヨは何も知らない赤ん坊だ。どれだけ可愛いと言っても、本人から揶揄われることはないし、抱きしめても、撫でても笑って受け入れるだけだ」
FUSHIはそこで一度ミコトのほうへ視線を向ける。
「だからその分、今まで抑えていたものが一気に溢れ出しているんだろう」
つられるように、しばらく目を離していたミコトの方へ視線を向けてみれば──
「はぁ、ほんと天使みたいにかわいい……この子は俺が産んだ」
いつの間にか想像出産まで行っていた。
動物はよく想像妊娠をする──なんて話は聞いたことがあるけれど、想像出産まで行った生物を見るのはこれが初めてだった。
どうやら人間というものは、思っていたよりも
「……ヤチヨが揶揄うのをやめれば、ミコトももっと素直になると思うんだがな」
「なんかあの二人の関係めんどくさいなぁ。お互いにもっと素直になればいいのに」
思わずそう呟くと、FUSHIは少しだけ間を置いてから答えた。
「言ってやるな……。八千年色々あったせいで拗れに拗れまくってるんだよ、あの二人は」
「ふ〜〜ん……」
「ほ〜〜ら、ヤチヨ〜〜?
見つめる先では、ミコトが腕の中のヤチヨに満面の笑みを向けていた。すると、ヤチヨがふと小さな手を動かし、そして──
「んっ?」
ミコトの人差し指を「きゅっ」と柔らかく握った。ミコトは目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに頬を緩める。
「なんだヤチヨ〜。
「きゃっ」
小さな手が一生懸命にミコトの指を握っており、私もその姿を眺めながら思わず頬を緩めてしまうくらいには微笑ましい光景だった。
そう……その時までは。
──きゅっ
ヤチヨの指がミコトの指を包み込むように、ほんの少しだけ力を込める。
「……あれ?」
ミコトが腕の中に抱いているヤチヨの小さな手を見つめながら、わずかに眉をひそめた。
「……ヤチヨ?」
ミコトが不思議そうに呼びかける。その呼びかけに答える代わりに、ヤチヨの小さな手にはさらに力が込められていく。
きゅううっ。
その様子を見て、ミコトの表情がほんの少しだけ強張った。とはいえ、まだこの時点では余裕があるらしい。
「こ、こらこらw そんなに強く握らなくても、
ミコトの呼びかけに対してヤチヨは何も答えない。さっきまであんなに笑っていたというのに、今はただ無表情のまま「ジッ……」とミコトの方を見て指を握り続けていた。そして──
ぎゅううううううううっ!!
──今度は、明らかにさっきまでとは違う力が加わった。
「ああぁぁぁぁぁぁ!! 指ぎゃああぁぁァァァァ!!」
ミコトの悲鳴が部屋に響き渡る。
突然の事態に、私はおそらく最もヤチヨのことを知っているであろうFUSHIに状況を聞いてみることにした。
「……FUSHI博士。ヤチヨがミコトの指を握り潰そうとしていますが……あれは、一体どのような意図の行動なのでしょうか?」
すると、FUSHIはしばらくヤチヨの様子を観察するように眺めた。
「……おそらく、先ほどミコトが自分のことを『パパ』と言ったことへの
「……抗議? 普通赤ん坊なら、父親が"パパ"と名乗って、自分のことを子供として受け入れてもらえたなら"嬉しい"と感じるのでは?」
私は自分がかつてそうだったことを思い出しながら語る。
「いや、
「逆……?」
FUSHIは真剣な顔で頷く。
「かぐやと違って、ヤチヨは自分を"娘扱い"されたことが大層気に気に食わなかったんだろう。
私は改めて、ミコトの指を容赦なく握り潰そうとしているヤチヨを見る。
「なるほど……意思表示の方法がずいぶんと物理的ですね」
「それだけ強い意思だということだろう」
「……一応聞くんだけど、ヤチヨはまだ自我は芽生えてないんだよね?」
「ああ、犬であるジブンがさっき意識を取り戻したばかりなんだ。だから、当然ヤチヨはまだ自意識なんてないはずだ」
ふ〜〜ん……と、FUSHIの言葉にいまひとつ納得できないままミコトのほうを見ると──突然その手から力が抜け、ふっとヤチヨがミコトの指を離す。
その様子を見た私は再びFUSHIに顔を向ける。
「あっ、ヤチヨが指を離しました! てっきりこのまま指を握り砕いて、壊れたおもちゃみたいにすると思っていたのですが……これは、一体なぜでしょうか?」
「ふむ……」
FUSHIは少し長くヤチヨを観察すると、やがて何かを理解したように頷いた。
「『まあ、世の中にはお互いのことをパパ、ママって呼び合う"夫婦"もいるし……仕方ないから今回は許してやるか……』という判断だろう」
「なるほど! 確かに、夫婦ならミコトが自分のことを『パパ』と呼ぶことにも整合性がありますからね! ……あともう一回聞くんだけど、本当にヤチヨは意識がまだないんだよね?」
「ない……はずだ……。多分、今は本能だけで物事を判断してるんだろう」
「ふ〜〜〜〜ん」
先ほどよりも自信のなくなったFUSHIの返答に私はかけらも納得がいかないまま頷く。そして、一通りヤチヨの行動を観察していた私たちと違い、当のミコトはというと──
「ハァ……ハァ……。コイツ……赤ん坊のくせになんて馬鹿力してんだ……」
よほど痛かったのか目尻にはうっすら涙まで浮かんでいる。恐る恐る自分の指を確認すると心底ほっとしたように息を吐いた。どうやら無事だったらしい。
「……きゅぅ?」
ヤチヨは何事もなかったかのように、きゅるんとした目でミコトを見上げていた。
「……今、ものすごい自我を感じた気がしたんだが……いや、一点の曇りもない純粋な目をしてるし……俺の気のせいか」
「FUSHI博士。なぜミコトはあそまで人を見る目がないんですか?」
「仕方ないさ、ミコトの目は人の顔を見るためには付いていないんだ」
FUSHIはさも当然のことのように言い切ると、二人をじっと見つめる。
「FUSHI博士」
「……どうした?」
私もFUSHIと同じように二人を見つめながら再度同じ問いかけをする。
「おっふぁい♡ おっふぁい♡ ばぶぅ……ばぶぅ〜♪」グイッグイッ
「本当にヤチヨはまだ意識がないんですか?」
どう考えても『おっぱい』って言ってたぞ? あのエロガキ。
「ない……はず、なんだがなぁ…」
さっきまであれほど自信満々だったFUSHIの声が、最後には見る見るうちに弱々しくなっていく。
「……ねぇ、FUSHI」
「……どうした……かぐや」
私は死んだような目をしたまま隣にいるFUSHIへ声をかけると、FUSHIもまた同じように目の前の光景を見つめたまま、どこか疲れ切ったような声で返してくる。
「かぐやはさぁ……」
「ほ〜ら、ヤチヨ! 高い高〜〜い!」
「きゃっ♪ うきゃ〜〜♪」
目の前では、私の母親が赤ちゃんになっていて、それを私の父親がノリノリで世話をしている光景が繰り広げられていた。
「自分の両親が……赤ちゃんプレイもどきをしているのを……どういう感情で見ていればいいのかな……?」
ようやく絞り出した私の問いに、FUSHIはしばらく何も答えなかった。ただ、私と同じように、目の前の二人をじっと見つめる。そして、
「……いや、本当に……。ウチの馬鹿二人がすまないなぁ……」
やがて諦めたように小さく息を吐いた。
とはいえ、ヤチヨがこの姿でいられるのも今日までだ。
今回の異変が起きてから、すでに4日。明日になれば、ヤチヨは一気に少女の姿までに成長するため、今のようにミコトに一から十まで甘えられるのは最後になる。そう考えると、最後の一日くらいは年貢の納め時だと思って好きにさせてあげてもいいのかもしれない。
それに明日には夏休みも終わるため、私自身も学校が始まる。もし学校が始まってからもヤチヨが赤ん坊のままだったら、今のように付きっきりで面倒を見ることはできないため、本当にギリギリ間に合ってよかった。
そう思いながら、私はようやく肩の力を抜いて眠りについた。
こうして、
四日間にわたって続いたヤチヨの赤ん坊騒動は、
ようやく幕を閉じたのであった──
──────────────────
9月1日
ヤチヨが赤ん坊になってから
(………)
朝起きて、学校へ行く支度をした後。
私が無言で見つめる先。そこには、
「………???」
頭に『?』を浮かべるミコトと──
「ちゅぱちゅぱ……ぷはっ! きゃっ♪ きゃっ♪」
嬉しそうにミコトからミルクを傍受するヤチヨの姿があった。
そう──
「………」
すると、隣で見ていたFUSHIがすかさず解説をしてくれる。
「ヤチヨのやつ、ミコトに一から十まで身の回りの世話をしてもらえる生活に完全に味を占めたな。まだ大人になりたくないから、
こ、この
「ていうか……そんなことできたの!? 何その無駄なテクニック!?」
呆れ半分、驚き半分でヤチヨを眺めていると、隣からFUSHIがぽつりと呟いた。
「本来なら必要のない技術だからな。地球という未知の環境で、月人が脆弱な赤ん坊のままでいるメリットなんて何一つない。だから、すぐに成長するようにする機能が『もと光る竹』にプログラミングされてるんだが……」
まさか、自分の成長を自分の意思で止めるなんて。
「まさかここまでするとは……」
「まあ、いいんじゃない?」
FUSHIの嘆きに対して、私は肩をすくめる。
「ミコトもヤチヨの面倒を見るの、なんだかんだで楽しそうだったし。ヤチヨだって幸せそうだし……」
もはや自分は学校に行くため、完全に部外者の気分であった。
「お互いが喜んでるならいいでしょ」
正直、私はまだ呆れていた。
せっかく大人に戻れるはずだったのに、わざわざ赤ん坊のままでいることを選ぶなんて。しかも、そのためにそんな妙な方法まで使うとは思わなかった。
けれど──
「………いや……」
FUSHIはなぜか納得していないようだった。不思議に思ってFUSHIを見るけれど、FUSHIはそれ以上何も言わず、ただ二人をじっと見つめていた。
「……どうしたの?」
「いや……」
「……?」
なんだろう。何か引っかかっているような顔だったけれど、私にはその理由が分からなかった。
「……って、やばっ! 学校遅れる! 初日から遅刻はマズイ……い、行ってきまーす!」
◇ ◇ ◇
──その日の夜。
ミコトside
「ほら、ヤチヨ。もう寝る時間だぞ」
「たい♪」
布団の上で、ヤチヨはまだ楽しそうに笑っていた。
ヤチヨが赤ん坊になってからというもの、俺の生活はすっかりこの小さな身体を中心に回るようになっていた。
……まあ、それ自体は別に嫌じゃない。むしろ、こうしてヤチヨの世話をしている時間は、意外と心地よかったりする。
けれど──今日の朝から、どうしても頭から離れないことがある。
「……なぁ、ヤチヨ」
「……?」
俺の声に、ヤチヨが顔を上げる。その大きな瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
「ヤチヨは……」
言葉が、そこで一度止まる。俺は小さく息を吐いてから、もう一度口を開いた。
「ヤチヨは……もしかして、ずっとこのままなのか?」
「…………」
ヤチヨは答えない。俺も、それ以上すぐには言葉を続けられなかった。
……今のヤチヨは赤ん坊だ。
もちろん、このまま成長しないなんて思っているわけじゃない。時間が経てば、また身体も成長して、いつかは今まで通りのヤチヨに戻っていくんだろう。
それでも──俺とヤチヨの間には、どうしても埋められない年齢差がある。
俺はもう二十二歳だ。これから二十三歳になって、二十四歳になって……そうやって少しずつ歳を重ねていく。
ヤチヨも同じように歳を重ねていくけれど、俺のほうが先に生まれたという事実だけはどうしたって変わらない。
「ごめん……ちょっと、不安になっただけなんだ」
ヤチヨを横に寝かしつけたまま、静かに天井を見上げる。
「俺さ……」
ぽつりと、言葉をこぼす。
「やっと、ヤチヨと一緒に歳をとっていけるって思ったんだよ」
ヤチヨが人としての身体を得て、普通に成長していけると分かったときは、本当に嬉しかった。
これから先も、ヤチヨと一緒に歳を重ねていける。同じ時間を生きて、同じように大人になって、その先もずっと一緒にいられる。
そんな未来を、俺は当たり前みたいに思っていた……けれど──
「……でも、俺のほうが先に歳を取るんだよな」
そう言って、腕の中のヤチヨへ視線を落とす。
「そうやってどんどん時間が経っていって……いつか、ヤチヨを置いていくことになるのかな?」
最後には──ヤチヨを遺して、俺のほうが先にこの世からいなくなる。そんな未来を想像すると、胸の奥が締めつけられるようだった。
「……そんなの、嫌だ」
声が、わずかに震えた。
「我儘かもしれないけど……ヤチヨには、できるだけ長く俺の隣にいてほしいんだ」
だって──
取り残されることが、どれほど辛いのか。
その痛みを、俺は誰よりも知っていたから。
「…………」
ヤチヨは何も言わずに、ただ俺の顔をじっと見つめている。
「ごめんな……こんな話を"今"しても仕方ないよな」
俺は苦笑して、ヤチヨの頭をそっと撫でた。
「おやすみ、ヤチヨ」
やがてヤチヨも眠ったのを確認してから、俺も目を閉じた。
(………)
──────────────────
──そして、翌朝。
朝日が昇り始め、部屋の中にも少しずつ光が差し込んでいくという頃。まだ街が眠りから覚めきっていない中。
「スゥゥゥ………起きろ────!!」
「うおっ!?」
突然の大声に叩き起こされ、俺は布団の上で飛び起きた。
「な、なに!? 何事!?」
寝ぼけた頭のまま周囲を見回す。
そして──
「…………え?」
目の前にいた人物を見て、俺は固まった。
「あっ、やっと起きたー? もう、自分は大学ほとんど行かないからってだらけた生活してちゃダメだからね!」
そこにいたのは──
「…………ヤチヨ?」
いつもの、大人の姿をしたヤチヨだった。
「うん、ヤチヨだよ」
俺はしばらく何も言えなかった。昨日まで、腕の中にいたのは小さな赤ん坊だった。それが今は、見慣れた姿で俺の前に立っている。
「もとに……戻ったのか?」
「みたいだねー」
ヤチヨは自分の身体を眺めながら、どこか呑気に答える。
「いやー、びっくりしたよ。起きたらなぜかすっぽんぽんでさー。慌てて服を着たんだけど、全然記憶ないし。お酒飲んだはずもないしで、状況がさっぱりなんだよね」
「…………」
俺は呆然とヤチヨを見つめる。
そして、ふと我に返った。
「……お前、身体はなんともないのか?」
「ん?」
「どこか痛いとか、具合が悪いとか……」
急に大人になったため、なにか影響はないのか心配になって尋ねると、ヤチヨは一瞬きょとんとした。それから──
「ふふふっ……おりゃっ!」
突然、俺のことをぐっと押し倒した。
「うぉっ……!?」
そのまま布団へ倒れた俺の頭を胸元へ抱え込むようにして、ヤチヨは小さく笑う。
「いきなり、何だよ──」
「ほら、
耳元に、とくん、とくん、と規則正しい音が響く。ヤチヨは俺の頭を優しく撫でながら、静かに呟いた。
「ちゃんと、
「…………」
その言葉を聞いた瞬間──張り詰めていたものが一気に切れた。
「……よかった……っ」
ぽろり、と涙がこぼれる。
「えっ」
ヤチヨが驚いたように目を丸くする。
「ちょ、ミコト?」
「……よかった……本当に……」
「もう……泣かないでよ」
そう言いながらも、ヤチヨは困ったように笑って、俺の背中を優しく撫で続けてくれた。
「ほら、大丈夫だから……私はちゃんと、ここにいるよ」
「……うん」
そうしてしばらくの間、俺たちは何も言葉を交わさず、ただ涙が収まるまで互いの体温を感じていた。
そして、ようやく涙がおさまってきたというところで。
「……落ち着いた?」
「……ああ」
俺が顔を上げると、ヤチヨはやけに楽しそうな顔をしていた。その顔を見て、俺は嫌な予感がした。
「……何だよ、その顔」
「いや〜〜? なんでもないよ?」
そう言いながら、ヤチヨは口元をニヤつかせる。
「ただ──」
そして、いかにも楽しそうに俺の顔を覗き込んだ。
「ミコトって、朝起きたら私がいるのがわかったってだけで、こんなに泣いちゃうんだなーって⭐︎」
「…………」
「こっちの世界に来た時も、ヤチヨがいるのがわかったらすぐ泣いちゃってたよね? ……はぁ〜〜、やっっぱりミコトってなんだかんだ言って、私のこと大好きすぎなんだよね〜〜♪」ヤレヤレ
「…………」
「いやぁ、いつもは何かっていうとすぐ意地張るし、ヤチヨのことだって全ッッ然素直に褒めないくせに……いざ泣いちゃったらこっちにくっついてきて、素直に甘えてくるんだから、ほんとかわいいなぁ♪
その言葉を聞いた途端、体がぴくりと反応した。
「……ヤチヨ」
「ん〜? なんだいなんだい?」
「お前……今、なんて言った?」
「だから、ミコトは素直じゃないな〜って──」
「今、『
「…………」
その瞬間、ヤチヨの頬がピクリとほんの少しだけ引きつった。
「……い、言ったっけ? そんなこと」
「言った」
「き、気のせいじゃないかな〜?」
慌てながら目を泳がすヤチヨをじっと見つめる。
「……赤ちゃんだったときのことを、なんで今のヤチヨが覚えてるんだ?」
「…………」
「お前……」
一歩、近づく。
「途中から意識あっただろ?」
「いや〜、そのぉ……」
露骨に視線を逸らす。
「お前……っ!!」
「きょ、今日は朝からいい天気だねー! FUSHIの絶好の散歩日和だなー、なんて……あははは…は……は…」
「………」
修羅の如き形相で睨みつけていると、俯いていたヤチヨからふと何かが"ポトリ"と布団にこぼれ落ちる。
「あっ……涙……」
ヤチヨが突然、自分の頬に手を当てた。
「ミコト………わたし、泣いてる……っ」
……あ?
そのまま泣き顔で俺を見つめると、いかにも感動的な雰囲気を醸し出しながら話し出す。
「これなら、私……ミコトと一緒に、歳を取れる……っ。やっと、ミコトと一緒に……おばあちゃんにっ……なれr」
「──いや、知ってるよ。この五日間、散々泣いたお前をあやしてきたんだから。話逸らすな?」
「………」
◇ ◇ ◇
かぐやside
「…………?」
ふと、家の中で響く騒がしさに目を覚ました私は布団から身体を起こした。
「……なに? 朝からうるっさぁ……」
眠い目を擦りながら声のする部屋まで歩くと、そこにはチョコンと座ってドアの隙間から中を見ているFUSHIがいた。
「おはようFUSHI〜〜……なに? またヤチヨが泣いてんの?」
相変わらずミコトに構ってほしくて嘘泣きでもしてるんだろうか……まったく、こっちは夏休みが終わって憂鬱な気分だと言うのに、朝からいいご身分だことだ。
「おはよう、かぐや。何が起こってるかは……自分の目で確かめてみろ」
「……?」
なんだか妙に含みのある言い方だった。私は首を傾げながら少しだけ空いているドアの隙間から、中を覗き込んだ。その瞬間──
「びえぇぇぇぇ~~ん! だって、だってぇ……ミコトに手取り足取りお世話してもらえる環境が快適すぎてぇ~~!」
「だからって、赤ん坊のまま成長を止めるとか普通考えついてもしないだろ!! ほんっっとに……あのとき俺がどんだけ不安だったか……!」
「ずびばぜんでした〜〜!!」
部屋の中で、本当にヤチヨが泣いていた。
ただし、赤ん坊の姿ではなく──
「うぅ……う"ぅ"〜〜足が痺れたぁ〜〜」
『私は8000歳のくせに赤ん坊のふりをしてオギャっていました』と書かれた紙を手に持って、正座しながら涙を流すヤチヨの前で腕を組み、ものすごい剣幕で説教しているミコト。
私はしばらく、その良く見慣れた光景を無言で眺めていた。
「はぁ……まったく、戻って早々にやることが感動の再会じゃなくて説教とは……相変わらずコイツらは……」
確かに。せっかく元の姿に戻ったんだから、もう少しくらい感動的な場面があってもいいと思う。
たとえば、『人間の体になれたことが嬉しくって泣いているヤチヨを、ミコトが優しく抱きしめてあげる』とか。
そんな場面とはあまりにもかけ離れた状況に、呆れたような、それでいて少し安心したようにため息をつくFUSHI の横で、私も思わず笑ってしまう。
「ふふっ、そうだね〜」
でも──
「なにさぁ! 昨日まではミコトだってあんなにヤッチョのこと『かわいいかわいい』って言って、ノリノリで撫でて抱っこしてくれたのに〜〜!!」
「なっ……! ほんとに全部覚えてっ──」
「5日前にタイムスリップしてバブりたい! ミコトの腕の中でオギャりたいよぉ〜〜!! 私をオギャバブランドに返して──!!」
「テメェ……! 全然反省してないなぁ!」
こうして二人がいつもの調子で言い合っているのを見ると、胸の奥が妙に落ち着いた。
やっぱり──この二人は、こうでなくっちゃね!
「もう〜二人ともいい加減にしてー! ミコトが怒るのもわかるけど、あれに気づかないミコトも悪いよ! それと、ヤチヨは散々迷惑かけた罰として早く朝ごはん作って! かぐや、久しぶりにヤチヨの作ったご飯食べたい!」
「かぐや……! いやー、愛娘がそう言うならしょうがないね〜♪ それじゃあ腕によりをかけて作ってくるね!」シュバッ
「あっ! まだ話は終わってな……ん? かぐや? お前もしかして、ヤチヨの意識あるのわかってて黙ってた?」
結局いつもみたいに騒いで、怒って、怒られて、
最後にはなんだかんだで一緒にいる──
それが、私たちの日常なのだから!
──────────────────
おまけ
それから、数日後のこと──
夜もすっかり更けた頃、リビングへ戻ってきた私は、ソファに座って本を読んでいるミコトを見つけた。
「ん?……まだ起きてたのか?」
「うん……なんか、まだ寝たくなくて」
私はミコトから1人分スペースをあけた位置へ腰を下ろす。
テレビをつけるわけでもなく、スマホをいじるわけでもない。ただ、なんとなく誰かと同じ部屋にいたかった。静かな時間が流れる中、私はぼんやりとミコトの横顔を眺めながら、ふと先日のことを思い出していた。
ミコトが付きっきりでヤチヨの世話をする中で、私は必要なものを用意したり家事をやったりと、とりあえず自分にできることを手伝った。すると、ミコトは「かぐやは頼りになるな。しっかりしていて助かるよ」と嬉しそうに言ってくれた。
それは、本来なら喜ぶべきことのはずなのに……ヤチヨがミコトに抱っこされ、撫でられている姿を見ていると、胸の奥にほんの小さな引っかかりが残っていった。
……別に羨ましかったわけじゃない。
あまり覚えてはいないけど、多分私も赤ん坊だったころは同じように大切に世話をしてもらっていただろうし。
それに、私だってもう子供じゃない。ヤチヨみたいに、今さら抱っこしてほしいとか、「パパに甘えたい」とか年甲斐もなく口にできるほど幼くもない。
……それでも、ほんの少しだけ。
私も、普通の人として成長していたら、あんな風に子供として過ごしてたのかな──なんて、思ってしまった。
「──かぐや?」
「え?」
いつの間にか、ミコトが私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「さっきから元気ないみたいだけど、どうかしたか?」
「……別に。なんでもないし」
「……そっか」
ミコトはそれ以上聞かなかった。ただ、本を閉じると少し考えるように黙り込む。
「……そういえば、まだ今回のヤチヨの件で、かぐやにちゃんとお礼を言ってなかったな」
それだけ言うと、ミコトは何気なく私の頭を撫でた。
「ありがとうな。かぐやがいてくれて本当に助かったよ。俺一人だったら、たぶん大変すぎて倒れちゃってたと思う」
そう言って、私をまっすぐに見ながら笑いかけてくる。
「もう、やめてよ……別に、あれくらい高校生なら普通でしょ」
私は恥ずかしくなってしまい、頭を撫でるミコトの手を払いのける。
「普通……か。やっぱり、かぐやはちゃんとしてるな」
「え?」
「かぐやって、昔からそうやって『これくらい普通』って言うだろ」
ミコトは苦笑しながら続ける。
「だから俺も、つい頼っちゃうんだよな。かぐやは頭もいいし、しっかりしてるし、ヤチヨと違って結構まともだし」
なんか最後のは若干馬鹿にされてる気がするんだけど。
でも……たぶん。ミコトの中で、私はもう十分に大人なのだ。「守るべきか弱い存在」ではなく「頼れる娘」なのだろう。
「でもさ、」
ミコトはそこで一度言葉を切った。
「別に、俺の前では無理してしっかりしなくてもいいんだからな?」
「……え?」
思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。
「……もう高校生だから、何でも俺に頼るわけにはいかないって思ってるのかもしれないけどさ」
「……」
「親っていうのは子どもが一人で歩けるようになったからって、それで役目が終わるものじゃないんだ。……一人じゃどうにもならないときは支えてあげるし、辛いときには頼ってくれていい。そうやって、ずっと子供の味方でいてやるのが親ってもんだと思うからさ」
(……ミコト)
「俺にとっては今も昔も、かぐやは大事な娘のままなんだから……俺の前では、子どもみたいに思いっきりわがままを言ってくれていいんだよ」
「…………」
その言葉が、思っていた以上に胸へ響いた。
しばらくして私は立ち上がると、ミコトの隣へ移動する。
「…………」
そのまま何も言わずに身体を横たえると、ポスっとミコトの膝に頭を乗せた。
ミコトは一瞬だけ私を見たけれど、何も言わない。驚くことも、からかうこともなく、ただ当たり前のように手を伸ばして、私の髪をゆっくりと撫で始めた。
「……ねえ、ミコト」
「どうした?」
「かぐやね……
「へぇ……例えば?」
「……遊園地に行ってみたい。それで、ジェットコースターとか観覧車とかに乗って、3人の写真をいっぱい撮るの」
「そっか……それから?」
「水族館にも行きたい。イルカのショー見たいし、動物園でパンダも見たい」
「じゃあ、どっちも行くか」
「あとはね。誕生日パーティーとかやって……こんっっっなにでっかいケーキをみんなで分けて、プレゼントもらって、超祝ってもらうの!」
「うん。これから何回でも祝っていこう」
それから私は、思いつくままに話し続けた。
どれも普通の高校生からしたら、『親と一緒になんて子供っぽい』と笑われてしまいそうなことばかりだった。
それでもミコトは笑わずに、一つ一つにしっかりと相槌を打ってくれた。
その声を聞いているうちに、だんだんと瞼が重くなってきた。だけど、寝てしまう前にこれだけは伝えておきたかった。
「……二人が、かぐやが月に帰らないようにするために、毎日頑張ってくれてたことには感謝してるし、嬉しかった」
「………」
でも──
「本当はもっと二人と……夏休みにいろんな場所に行って、思い出作りたかった……」
できなかったことはたくさんある。もっと早く言えばよかったと思うこともあるし、今さらになってしまったこともある。そう思ったから、私は最後に一つだけミコトにお願いすることにした。
「……ミコト」
「ん?」
「遊園地……絶対だからね……」
「ああ。約束する」
「……うん」
その言葉を聞いて、胸の奥がふっと軽くなった。
私たちはもう離れ離れになることはないのだから、これから、たくさん思い出を作っていけばいい。
それを最後に、私は静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
──しばらくして。
ミコトside
膝の上から、規則正しい寝息が聞こえてくる。
「……寝ちゃったか」
俺は小さく笑いながら、かぐやの髪をそっと撫でた。
さっきまで楽しそうに話していたのに、眠ってしまえばずいぶん幼く見える。普段はしっかりしている分、その無防備な寝顔が余計に愛おしかった。
「……よっ、と」
起こさないように身体を抱き上げる。
「ん……」
かぐやは小さく身じろぎしたものの、目を覚ますことはなかった。
そのまま部屋へ運ぼうと廊下へ出たところで、向こうからヤチヨが歩いてきた。
「かぐや、リビングで寝ちゃったの? 珍しいね」
ヤチヨは、俺の腕の中で眠るかぐやを覗き込む。
「そうだな。かぐやはヤチヨと違ってちゃんとしてるからな」
「失礼な。そりゃ、ほんのちょぴっっっっとだけ私のときよりもしっかりだけど……それはやっぱり、母親がちゃんとしてるからかな!」
「そうだな。ちゃんとヤチヨが良い(反面)教師してくれてるからな〜」
「今、絶対心の中で馬鹿にしたような言葉つけたよね!?」
ヤチヨが声を荒らげた瞬間、眠っていたかぐやが「んん……」と身じろぎする。ヤチヨはハッとすると、慌てて自分の口を両手で塞いだ。
それから、かぐやを部屋のベッドにそっと寝かしつける。静かに寝息を立て始めるのを確認すると、ヤチヨはそっと手を離した。
「ていうかお前、その言い方だと自分が彩葉さんよりもちゃんとしてるってことになるけど?」
「うぐっ……それを言われると、ちょっと分が悪いな〜」
先ほどよりも小声でそう言いながら、かぐやの前髪が顔にかかっているのに気づくと、そっと指先でそれを払った。
「……でも、かぐやは昔から頑張り屋さんだからね」
「……そうだな」
「それに、母親に似て可愛いからね」
「……」
「
「………」
「──可愛いって言え?」
「はい、ヤチヨ様が世界で一番可愛いです」
すると、さっきまで殺気を放っていたのが嘘みたいにヤチヨの声が柔らかくなる。
「よろしい……でも、頑張ることを褒めるだけじゃなくて、頑張らなくてもいいって教えてあげるのも、親の仕事だよね」
「それはもう既に俺がしておいた。かぐやはパパっ子だからな。やっぱり父親の方に甘えたかったんだろ」
俺がそう返すと、ヤチヨの表情がぴたりと固まった。
「は? ミコトだけズルッ!……じゃあ、ヤチヨも負けないくらい甘やかさなきゃ!」
「お前はもう十分甘やかしてるだろ」
「えー? まだまだ足りないよ。だって──かぐやは私の可愛い娘なんだから」
そう言って、ヤチヨは眠っているかぐやの頭を優しく撫でる。
「……子供みたいに、安心した顔して寝てるね」
「……そうだな」
安心したように眠るかぐやは、いつものはつらつとした姿からは想像もつかないほど無防備で。
まるで、本当に幼い子供のようだった。
──たまには、こんな日があってもいいだろう。
そんな二人の視線を知らないまま、かぐやは穏やかな寝息を立て続けていた。
一応、エピローグendの最後ちょぴっとだけ加筆しました。まじでちょっとなんで興味があればどうぞ。