「じゃあ今日の午後くらいにはそっち着くから……うん。またね、母さん」
電話を切ったあとも、ミコトはスマホを握ったまま、しばらく何も言わず画面を見つめていた。その横顔はどこかぼんやりとしていて、まるで今、ようやく現実へ追いつこうとしているみたいだった。
途方もなく長い時間を越えて、ようやく繋がった家族との時間。きっと、今まで胸の奥へ押し込め続けていた想いが、一気に溢れ出したんだろう。そんな彼を見ているだけで、私まで思わず涙ぐんでしまう。
「えへへっ……よかったね、ミコト!」
「……ああ」
少し照れくさそうに笑う彼の表情は、さっきまでとはまるで別人だった。ずっと張り詰めていた糸がようやくほどけたような、そんな穏やかな笑顔。その顔を見られただけで、ここまで一緒に来て本当に良かったと思えた。
そんな温かな空気が部屋を包み込んでいた、その時だった。
「……っっ」
──不意に、ミコトの表情が歪んだ。
「え?」
さっきまで浮かべていた笑顔が嘘のように消え去り、みるみる顔色が青ざめていく。そのまま身体をくの字に折るように前かがみになり、苦しそうに息を漏らしながら膝をついた。
「ちょ、ちょっとミコト!? どうしたの!?」
慌てて駆け寄り、その身体を支える。肩越しに伝わる震えが、嫌な想像ばかりを掻き立てた。
(ミコトはさっき不老不死が解けて、人間の身体に戻ったばっかりだし……ま、まさかっ……!)
不老不死という、誰も経験したことのない状態から人間へ戻る。そんな前例なんてあるはずがない。身体へどんな負担がかかるのかも、どんな異変が起きるのかも、誰にもわからない。
──もし、何か取り返しのつかないことが起きていたら。
──もし、ようやく取り戻したこの時間が、もう終わってしまうのだとしたら。
──また、ミコトが私の前からいなくなったら。
嫌だ……そんなの、絶対に嫌だ。もう二度と離れないと決めたのに。もう二度と失わないと誓ったのに。八千年もの間、ずっと追いかけ続けて、ようやく隣へ並べたのに。
そんなの認められるわけがない。
「ぐっ……ヤチヨ……お、俺はもう……ダメかもしれない……」
弱々しく掠れた声。今にも消えてしまいそうなその一言に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「そんな! せっかく一緒に来れたのに……そんなの嫌だよ!! どこか痛いの!?」
半ば泣きそうになりながら問いかける。
もし本当に何かあったら、この世界の医者だろうが薬だろうが何だろうが全部使ってでも助ける。助からないなんて言われても諦めない。どんな手を使ってでも、私は絶対にミコトを手放したりしない。
すると、ミコトは苦しそうに腹部を押さえ、脂汗を浮かべながら答えた。
「
苦しそうに顔を歪めたまま続ける。
「これは、“絶対”何かの病気に違いない……!」
「…………」
その瞬間だった。頭の中でバラバラだった情報が、一気に一本へ繋がる。
(……あ)
嫌な予感が、別の意味で確信へ変わった。
同時に、ほんの数秒前まで「重い後遺症だったらどうしよう」「命に関わる異変だったらどうしよう」と真剣に青ざめていた自分が、とんでもなく馬鹿らしく思えてきた。
「…………」
数秒だけ真面目に心配した自分を、心の底から返してほしい。私は静かにため息を吐くと、呆れ半分で彼を見下ろいた。
「……それ、たぶん病気じゃないよ」
「……え?」
「いいから、早く”トイレ”行ってきな?」
「……トイレ?」
「うん」
「………あっ!」
数秒ぽかんと固まったあと、ようやく理解したらしい。次の瞬間、ミコトは弾かれたように立ち上がり、そのままものすごい勢いで部屋を飛び出していく。
廊下へ響く慌ただしい足音。そして、
バタンッ!!
勢いよくトイレのドアが閉まる音が家中へ響き渡った。
「はぁ…………」
私は静かにため息をつく。
「八千年ぶりの"便意"、かぁ……」
……感慨深いような。まったく感慨深くないような。
さっきまでの感動と涙を返してほしいと思いながら、私は誰もいなくなった廊下をぼんやりと眺めていた。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
「ふぅ……✨」
トイレの扉が開き、ミコトが部屋へ戻ってきた。その顔は、ついさっきまで脂汗を流して苦しんでいた人とは思えないくらい晴れやかで、どこか神々しさすら感じる。
(……いや、本人の中では本当に死闘だったのかもしれないけど)
そう思うと、少しだけ笑いそうになる。
「……大丈夫だった?」
「ああ……」
ミコトはゆっくりと頷く。その横顔は妙に神妙で、まるで人生の真理にでも辿り着いたような雰囲気を醸し出していた。
「すごいな……人間って、毎日こんな痛みと戦いながら生きてたのか……」
(いや、なんでそんな壮大な話になってるの? たかだかトイレ行っただけでしょ?)
八千年ぶりの便意がそんなに衝撃だったのだろうか。本人は至って真剣なのだろうけど、その神妙な顔との温度差があまりにも酷すぎる。
「そっか……」
ミコトは遠くを見るような目をしたまま、わざとらしく間を置いて──
「生きるのって、こんなにも大変なことだったんだな」
「うん、ごめん。トイレでそれ実感するのやめて?」
反射的にツッコんでしまった。こんな感動的な台詞、本来ならもっと別の場面で言うものでしょ。なのに、そのきっかけが便意って……
だけど、そんな私のツッコミなんてどこ吹く風。ミコトは小さく笑うと、自分の手をゆっくり見つめた。
「ははっ……なんかさ……本当に人の体に戻ったんだなって、感動しちゃって」
そう言って自分の手を見つめる。
その何気ない仕草に、"あの日"の思い出が脳裏に甦り重なる。初めて義体を得て、あまりにも嬉しくて、何度も何度も床を踏みしめたこと。鼻をくすぐる部屋の匂い、肌を撫でる空気を8000年ぶりに現実で感じて……喜びと感動が混ざり合った、あの日の感情は今でも鮮明に覚えている。
……だからこそ。
目の前で
「…………」
──なんだろう。ものすごく複雑だった。
感動の種類は似ているのかもしれない……でも、決定的に何かがおかしい。
「ヤチヨが義体を得た時も、こんな感じだったのかなって思ってさ」
感慨深そうに呟くミコト。
心から共感してくれているのは伝わる……だからこそ余計に腹が立った。
「今……やっと、あの時のヤチヨの気持ちがわかった気がするよ……」
「うん。だから、トイレで共感すんのやめろ?」
思わず真顔で返してしまった。
せっかく私の人生でも指折りの感動的な思い出なのに、なんで”八千年ぶりにトイレへ行った記念日”と同じカテゴリにされなきゃいけないのだろうか?
「いや、でも──」
「うるさい! ミコトは感動するポイントがおかしいの! 普通はもっと、こう……お腹が空いたりとか、痛いのがすぐに治らなかったりとか、そういうことで実感するものだから!」
八千年ぶりに現実へ降り立った時と八千年ぶりに便意を感じた時を一緒にするな!!
「だって八千年間、一度も便意なんてなかったんだぞ!?」
「いや、知らないよ!? ていうか、レディーの前で便意とか言うな!!」
「俺、やっと普通の人間に戻れたんだな……」
「その言葉だけ聞けばいい話なのに……気づいた経緯が最悪なんだけど!?」
真面目に感動しているミコトと、それを冷めた目で見つめる私。ついさっきまで涙を流していた空気は、もうどこにも残っていなかった。
(はぁ……。でも……こういうので、いいんだよね)
思わず口元が緩む。泣いて、笑って、くだらないことで言い合って。そんな他愛もない時間を、これからはいくらでも積み重ねていける。
八千年前なら、それがどれだけ幸せなことなのか気付けなかった。
でも今は違う。こうして隣で笑い合えること自体が、私にとって何よりの幸せだった。この時間こそが、私たちが八千年かけて、ようやく取り戻した──”普通”なのだから。
「それじゃ! いつまでもここにいるわけにもいかないし、早く準備しよっ!」
「ああ!」
ミコトも笑って頷く。
「そうだ! FUSHIももちろん一緒に行くでしょ?」
思い出したように声をかける。すると、
「行くわけないだろ……。こっちに来て早々に、お前たちの尻拭いをするのは懲り懲りだからな。家でゆっくりしてるさ」
「えぇ〜、つれないなぁ」
ミコトはともかくとして、まるで私が普段から迷惑をかけているみたいな言い方に少し違和感を覚えたが、FUSHIのその態度を見る限り、何を言ったところで気が変わることはなさそうだった。
今日はこれから、ミコトの実家へ向かう。八千年越しの帰省。きっと今日という日は、ミコトにとって一生忘れられない日になる。
(よぉ〜〜し……!)
私は心の中でぎゅっと拳を握る。
ミコトは、ついさっきまで不老不死だった身体で生きていた。今の彼は、この世界だけじゃなくて、自分自身の身体の扱い方ですらまだ完全には思い出せていないはずだ。空腹も、疲れも、痛みも、眠気もその全部が八千年ぶり。言ってしまえば、ミコトは自分の身体に対して"浦島太郎状態"なのである。
その点、私は義体だったとはいえ七十年近く人間らしい生活を送ってきた。今なら、たぶん私の方が自分の身体の先輩だ。だから、ミコトが安心して家族と再会できるように、隣でちゃんと支えてあげられるように……
(今日はミコトの分まで、ヤチヨがしっかりしなきゃ!)
そんな決意を胸に、私は元気よく立ち上がった。
◇ ◇ ◇
「うわっっはぁぁぁ〜〜〜✨ なぁにこれ〜〜〜✨✨」
ミコトside
駅構内へ足を踏み入れた瞬間、ヤチヨの瞳がぱっと輝いた。視線は落ち着きなくあっちへ、こっちへ忙しく動き回り、そのたびに新しい発見を見つけた子どものように表情がころころと変わっていく。
「あっ!! ミコト見て!!」
振り向けば、ヤチヨはガラス張りの自動販売機の前でぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「これ本物のオレンジが入ってるよ!? しかも今から絞ってくれるの!?」
「おぉ、生搾りジュースのやつか」
「すごぉーい!! 見たい見たい!! 買っていい!? ねぇ買っていい!?」
ガラス越しに並んだオレンジへ鼻先がつきそうなくらい顔を近づけ、期待に満ちた目で何度も俺と機械を見比べている。
「だから落ち着けって……」
苦笑しながら頭をぽんと軽く叩くと、ヤチヨは「えへへ」と照れくさそうに笑った。その無邪気な笑顔を見ていると、自然とこちらまで頬が緩んでしまう。
向こうの世界の、しかも義体が出来て動き回れるようになってからしか知らないヤチヨにとって、この時代は見るものすべてが新鮮なんだろう。言ってしまえば、ヤチヨはこの世界対して"竜宮城から地上へ出てきた乙姫状態"なのである。
その点、少なくともこの世界では俺の方が先輩のはずだ。だから──
(今日はヤチヨの分まで、俺がしっかりしないとな!)
「ミコトミコト! 見て見て!!」
決心した直後に、やたらとテンションの高いヤチヨが俺の腕をぐいぐいと引っ張る。今度は何を見つけたんだ……と振り向くと、両手で大事そうに掲げていたのは一枚の紙だった。
「ほら、これ! “紙の切符”だよ!! 私、初めて買ったんだけど〜!!」
嬉しさを隠しきれず、頬を緩めながら何度もその場で足踏みした。
ヤチヨは、今まで義体に埋め込まれたチップで改札処理を済ませていたため、券売機へ並び、お金を入れ、紙を受け取る。そんな、ごく当たり前だった行為すら経験したことがなかったのだ。
「すごくない!? 機械にお金入れたら、本当に紙が出てきたんだよ!」
「おお──っ!!」
思わず俺まで目を輝かせてしまう。なぜなら、
「すげぇ! 本当に
「そうなんだよ! しかも行き先ごとに値段が違うんだって!」
「うわぁ〜〜!
二人で切符を覗き込みながら、「うぉー!」と声を上げる。
向こうの世界では、すでにほとんどの駅でゲートレス改札が普及していた。駅へ足を踏み入れ、そのまま歩くだけで、天井や壁に設置されたセンサーが顔認証や虹彩認証など複数の生体情報を照合し、本人確認から運賃の精算までを一瞬で終わらせてしまう。
だからこそ、お金を入れて紙を買い、それを改札へ通すという少し手間のかかる仕組みが、今の俺たちにはたまらなく新鮮だった。
「これ、なくしたらどうなっちゃうのかな〜!」
「そりゃ、駅から一生出られなくなるに決まってるだろ!」
「さすがにそれが嘘っていうことくらいわかるからね!?」
けれど、その顔は怒っているというより、俺とのやり取りを楽しんでいるようにしか見えない。その様子が可笑しくて、俺もつられて笑ってしまった。
笑いがひと段落したところで、ふと思い出したように財布へ手を伸ばす。
「紙の切符もレアだけどな……"これ"もこっちの世界限定のレア物だぞ!」
「え? ま、まさか……」
ヤチヨがごくり、と唾を飲んだ。
「じゃじゃーん! ◯ASMO〜!」
「うわぁーっ!! かわいい──!!」
ヤチヨが勢いよく身を乗り出してくる。
俺の手にあるのは、一枚の交通系ICカード。向こうの世界では存在しないデザインだからか、ヤチヨは目をきらきらと輝かせながら眺めていた。
「向こうでは見たことないICカードだ〜!!」
「しかも、これが今でも現役なんだぞ?」
改めて見ても、少し懐かしい気持ちになる。
「で、これをこうやって──」
カードを改札へかざす。すると、
ピッ……ガコン!
「「おおおおおっ!!」」
二人同時に歓声を上げた。
便利さだけを比べれば、向こうの世界の方が圧倒的に優れている。それでも、カードをかざして改札が開く。ただそれだけのやり取りが、妙に楽しくて仕方なかった。
「いいなー! ヤチヨもそれ欲しいー!!」
「どうせこれから必要になるんだし、今度作るか!」
「やったぁ──!」
ヤチヨが嬉しそうにガッツポーズを作る。その姿を見て、思わず笑みがこぼれる。
……と思ったのも束の間。
「わぁっ! あっちは何!? クレープ!? え、たい焼き!? アイス!? 全部食べたいんだけど!!」
「おいっ、待て待て待て! 勝手に走り回るな!」
今度は店という店へ一直線。ショーケースへ顔を近づけて歓声を上げ、メニューを見つけるたびに「これ食べたい!」と目を輝かせる。そのたびに俺の腕を遠慮なく引っ張るものだから、気付けば完全にヤチヨのペースだ。
「ほら! なにこんなので疲れてんのっ、ミコト!! 早く次行こ、次!!」
「ちょ、ちょっと待って……はぁ…この体、疲れが全然回復しない……」
ヤチヨに無理矢理引っ張られていく俺は、まるで散歩中の大型犬に振り回される飼い主みたいだった。
◇ ◇ ◇
なぜか俺が母親の目の前で、無理矢理ヤチヨへの告白をさせられた後──
母さんが手際よく料理を運び終えると、あっという間に食卓は湯気と香りで満たされていった。湯気の立つ肉じゃが。こんがりと焼き目のついた焼き魚。鰹と味噌の優しい香りがふわりと立ち上る味噌汁。どれも決して豪華な料理ではない。それでも、そのすべてが懐かしくて、胸の奥がじんわりと熱くなっていった。
「いただきます」
「いただきまーす!」
ヤチヨも満面の笑みで手を合わせる。まずは味噌汁を口へ運ぶ。ふう、と息を吹きかけてから一口飲むと、
「……美味しい」
気付けば、自然とそんな言葉が漏れていた。
「ふふ、でしょ?」
母さんが少し誇らしげに笑う。
「……なんか、すごく落ち着く味がする」
自分でも驚くほど素直に言葉が出てくる。八千年というあまりにも長すぎる時間を経て帰ってきたはずなのに……この味だけは不思議なくらい”帰ってきた”という実感を与えてくれた。
「あっ! これもすごく美味しい!」
隣ではヤチヨが目を輝かせながら肉じゃがを頬張っている。
「
「あらやだ〜、そんな褒めても何も出ないわよ〜」
そう言いながらも、母さんの頬は完全に緩みきっていた。どうやら俺がちょろいのは母親譲りだったらしい。
「今度ぜひ作り方教えてください!」
「もちろんよ! 一緒に作りましょ!」
「やったぁ!」
もう完全に打ち解けている。というか、さっきから俺より二人の方が楽しそうに話している気がする。そんな二人を眺めながら、俺も肉じゃがを口へ運ぶ。
「……っ」
甘辛い味付けが口いっぱいに広がり、思わず目に涙が浮かぶ。
(あっ……そっか)
今までは「美味しい」と感じることはあっても、
「どうしたの? そんなに美味しかった?」
俺の様子を見た母さんが不思議そうに首を傾げる。
「うん……今日のご飯。
思わず、ポツリと言葉が漏れ出す。
「あらまぁ!」
その一言だけで、母さんの顔はぱっと花が咲いたように明るくなった。
「お母さんにそんなこと言ってくれるのは嬉しいけど……」
嬉しそうに目尻を下げながらも、どこか困ったように笑って肩をすくめる。
「
──その言葉を聞いた瞬間にハッと気づく。遅れて恐る恐る隣へ視線を向けると、
「…………」
ヤチヨは、"にこぉ"っと微笑んでいた。
なのに……その瞳だけは底なし沼みたいに真っ黒で、背筋へ冷たいものが走る。
(へぇ〜……)
口には出していない。でも、その視線だけで何を考えているのか痛いほど伝わってくる。
(
笑顔がさらに深くなる。
("その全部"よりも、お義母さんのご飯の方が美味しかったんだぁ……?)
違う。違うんです。そういう意味じゃないんです。
空腹だからとか、この状況だからとか、そういう色々な理由があって──決して料理の優劣をつけたわけではないんです。
必死に言い訳を考えていると、ヤチヨは母さんへ視線を向け、何事もなかったようににっこりと笑い返した。
「いえいえ♪ 本当にお義母さんのご飯すごく美味しいですから!
二人が楽しそうに笑い合う。さっきまで漂っていた殺気も、綺麗さっぱり消え失せていた。その光景を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
(助かった……のか?)
そう思ったのも束の間。母さんが台所へ行ったのを確認すると同時に、ヤチヨは先ほどまで浮かべていた人懐っこい笑顔をすっと消した。そして、じとりと流し目でこちらを見る。
「……今回は、8000年ぶりのお義母さんのご飯だから特別に許してあげる」
細められた瞳が静かに俺を射抜き、先ほどより一段低く抑えられた声だけが耳元へ届いた。
「でも──次にヤチヨのご飯を食べた時に、同じこと言えなかったらどうなるか……わかってるよね?」
「…………」
ゴクリ、と喉が鳴る。
俺は何も答えられなかった。ただ一つだけ確かなのは……次にヤチヨの手料理を食べる日だけは、どんな料理であろうと人生最高の一皿として味わい、全身全霊で褒めちぎらなければならない。
……自分の命が惜しければ。
◇ ◇ ◇
「あああぁぁぁ〜〜〜、疲れたぁぁ〜〜〜」
実家での一日を終え、自分の部屋へ戻ってきた頃には、すっかり夜も更けていた。
ヤチヨの大暴れ、母さんとの再会、そして何故か実家で恋人宣言までさせられて……今日一日で、どれだけ驚いて、どれだけ振り回されたことか。
(一日の密度が高すぎるだろ……こんなん胃もたれ起こすわ)
思い返しただけでどっと疲れが押し寄せ、思わず大きなため息が漏れた。
荷物を部屋の隅へ置き、軽く伸びをしながら部屋を見回す。相変わらず、家具らしい家具は少ない。生活感も最低限。普段は一人で暮らすだけなのだから、それで何も困ることはなかった。
「さて……」
風呂ももう済ませたため、適当に部屋着へ着替えながら俺はベッドへ目を向ける。
「このベッドの大きさだと……二人で寝るにはちょっと狭いな」
そう呟くと──
「いやいやいやいや」
すぐさまヤチヨが首を横に振った。
「そんなことないよ? 全然二人で寝れる範囲だよ?」
にこにこと笑ってはいる……笑ってはいるのだが。
「…………」
何故だろう。『異論は認めません』という無言の圧だけは、しっかり伝わってくる。
「……まあ、確かにそうか」
言われてみれば、寝られないほど狭いわけでもない。
「じゃあ寝るか」
俺はベッドへ近づくと、唯一の枕を持ち上げ、そのままヤチヨの寝る側へ置いた。
「枕はヤチヨが使っていいから」
それだけ言って、何事もないようにベッドの奥へ潜り込む。
「…………え?」
小さく漏れた声。振り返ると、ヤチヨがぽかんと口を開けてこちらを見ていた。
「……? どうかした?」
「い、いや? ……なんでもない」
そう言って視線を逸らす。その耳が、ほんの少し赤くなったような気がした。
「……てっきり、この男のことだから、自分は床で寝るとか言い出すと思ったのに……」
ぼそり、と聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟く。
「何か言ったか?」
「なーんでもないよ〜?」
にへらっと笑って誤魔化しながら、ヤチヨもベッドへ上がってきた。そして布団へ潜り込もうとしたところで、
「……あっ」
声を上げたヤチヨが、何かを思いついたようにこちらを見る。
「首痛めるといけないから、枕はミコトが使っていいよ」
「いや、でも……」
俺が枕へ手を伸ばそうとすると、ヤチヨは先にそれを押し戻した。
「ヤチヨは枕があろうがなかろうが体には影響ないから。ミコトが使って」
「そういうわけには──」
「いいのです!」
ぴしゃりと言い切られる。
「ミコトはもう"普通の人間"なんだから、ちゃんと寝なきゃ駄目なの! 睡眠大事!」
そういえば昔──研究者になってすぐの頃は、徹夜ばかりしていた"とある研究者"に、同じことを口酸っぱく言っては、『いや、ミコトさんに言われても説得力がないんですけど……』と言い返されていたことを思い出す。
「……分かったよ」
俺は大人しく枕を受け取り、頭の下へ置いた。そして部屋の電気を消す。
静かな夜。外から微かに聞こえる車の走る音だけが、静寂をゆっくり流れていく。そんな中──
「……あの〜、ヤチヨさんヤチヨさん?」
「なんだいなんだい? ミコトくん」
呼びかけると、すぐに気の抜けた返事が返ってきた。
「二人ともこっちの世界に来れたんだから……もうこんなにくっ付いて寝る必要ないと思うんだけど?」
いつの間にか、ヤチヨはぴたりと身体を寄せてきていた。肩が触れ合い、腕まで密着している。
「ベッドが狭いんだから、これはしょうがないのです!」
胸を張って言い切るヤチヨ。
(いや、大分そっち側にスペースが余ってるように見えるんだけど……)
「それに、もうずっとこうだったんだから今更じゃない?」
「……まあ、それはそうなんだけど」
言い返せない。ここ最近はずっとこうだったのは事実だし。
「……じゃあ、もう一個聞きたいんだけど」
「ん〜〜?」
眠たげに間延びした返事が、妙に近い位置から聞こえてくる。俺は呆れたように小さく息を吐いた。
「なんで、
いつの間にか、ヤチヨは俺の左腕へ頭をちょこんと乗せていた。
「そりゃあ、ミコトに枕譲っちゃったからね〜〜」
ヤチヨは当然のように俺の腕へ頬を乗せたまま、にへらっと笑う。
「仕方ないから、ヤチヨはミコトの腕で我慢してあげてるのです♪ 気遣いな彼女に感謝してよね〜〜?」
(えっ? なんでこんな上から目線なの? この人……)
「……さっき枕無くっても変わんないって言ってなかったっけ?」
「体には影響ないけど、こうすると幸せホルモンが分泌されてよく眠れるから、精神には良いのです〜」
呆れたように問いかけると、得意げに人差し指を立てる。
(義体なんだからセロトニンなんて出ないだろ……)
心の中だけでツッコミを入れ、俺は小さくため息を吐いた。……まあ、言ったところで絶対に「気持ちの問題なの!」とか返されるだけだろうし。
「はいはい。うちの彼女は優しいですね〜」
「んふふ〜♪」
ヤチヨは満足そうに鼻を鳴らす。
「こちらこそ、自分から腕枕をしてくれる心優しい彼氏を持って、ヤッチョは果報者だな〜♪」
「えっ……? やだ、この人。さも俺が自発的に腕を差し出したように湾曲されてるんだけど……」
思わず真顔になる。
「細かいことは気にしない気にしない♪」
腕へ頬を預けたまま、嬉しそうに笑うヤチヨ。その表情を見ていると、不思議と文句を言う気も失せてしまう。
(……ずるいよなぁ)
結局、俺は昔からそうだった。ヤチヨが心の底から嬉しそうに笑っている時だけは、どうにも甘くなってしまう。
(ああ……でも、こうしてまた隣で笑っていられる)
あの日、一度は失う覚悟までした存在が、今こうして当たり前のように隣にいる。その温もりが、肩へ伝わってくる。もう二度と離れ離れにならなくて済む。それだけで十分だった。
静かな安堵が胸いっぱいに広がり、自然と瞼が重くなっていった。
「おやすみ、ヤチヨ」
「うん……おやすみ、ミコト」
小さな返事が聞こえた直後、腕へ預けられた重みが少しだけ増した。どうやらもう寝始めたらしい。
(寝るの早っ……!)
思わず小さく笑う。その笑みを浮かべたまま、俺もゆっくりと眠りへ落ちていった。
──翌朝。
「ぐぎゃああぁぁぁぁ────!!! 腕があぁぁぁぁぁぁぁ────!!!」
部屋中へ響き渡る絶叫。
目を覚ました瞬間、左腕を襲うびりびりと電流でも流されているような激痛に悶絶する俺。完全に血流が止まっていたらしい。腕は自分のものとは思えないほど感覚がなく、少し動かしただけで激痛が走る。
昨日の幸せな余韻など、一瞬で吹き飛んでいった。
一方で──
「んん〜〜〜! よく寝たぁ〜〜〜♪」
隣では、ヤチヨが昨日よりも機嫌が良さそうな笑顔で、ぐーっと背伸びをしていた。なんという清々しい朝だと言わんばかりの表情である。
「……? ミコトどうしたの? 朝からそんな『俺の腕が疼くぜ』みたいなポーズしちゃって」
腕を押さえて悶絶する俺を見て、きょとんと首を傾げる………犯人、お前だ。
「どうしたもこうしたもないっ! 今すぐ枕買いに行くぞ!」
「えぇ〜? せっかく腕枕があるのにもったいないよ〜」
「俺の腕は寝具じゃねぇんだよ!!」
どうしてこいつの中では、腕枕が枕より優先されているんだ!
「じゃあ今日は右腕にしよっか? 両腕交互に使えば長持ちするよ?」
まるで名案を思いついたと言わんばかりに、人差し指をぴんと立てながら満面の笑みを浮かべるヤチヨに対して。
「〜〜〜だからっ! 人の腕を消耗品みたいに言うな!」
「えへへ〜♪」
「笑って誤魔化すな!」
まったく反省している様子のないヤチヨは、痺れて動かせない俺の左腕へすっと両手を伸ばしながらにじり寄ってくる。
「しょうがないにゃ〜……それじゃあ、ヤッチョが早く治るようにマッサージしてあげるね♪」
「バカっ!やめろ!! お前は経験ないからわかんないかもしれないけどな! 痺れてるところを触ったりなんかしたらとんでもない激痛が──あ"っっ」
次の瞬間──俺の悲痛な叫びだけが朝の部屋へ虚しく響き渡るのだった。
結局、ヤチヨには全力で抵抗されたが、半ば引きずるように寝具売り場へ向かった。ちなみにヤチヨは最後まで、「腕枕の方が安心するのに〜〜」などと不満げに頬を膨らませていたのだった。