球磨川禊VSルルーシュ   作:stein0630

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生徒会室のチェス盤には、黒のキングだけがなかった。

 

代わりに、盤の中央へ一本、ねじが立っていた。

 

「……趣味が悪いな」

 

放課後の灯りは薄い。アッシュフォード学園の窓は、外の夕焼けを硝子の向こうで冷たく切り分けていた。ルルーシュは扉を閉めると同時に、机上の配置を一瞥し、荒らされた形跡がないことを確認した。書類の順番、引き出しの角度、椅子の脚の向き。どれも、朝に自分が残した通りだ。

 

違うのは、チェス盤だけだった。

 

黒のキングは、本来なら自分の手元にあるはずの駒だ。意図して盤外に置いた記憶はない。誰かが触れた。だが、盗むならキングだけを抜き、代わりにねじを立てる意味は何だ。

 

盤の横に、一枚の紙片が置いてある。

 

――王様って、案外、いなくてもゲームが進むんだよね。

 

癖の強い、しかし整いすぎてもいない文字だった。挑発にしては軽い。悪意にしては、妙に機嫌がいい。

 

ルルーシュは紙片を裏返した。何もない。

 

「ふざけているのか、試しているのか……」

 

『どっちでもあるんじゃないかな』

 

声は、窓辺からした。

 

ルルーシュの視線がそちらへ走る。いつの間にそこにいたのか、制服姿の少年が、開け放した窓枠にもたれていた。長いスカーフじみた赤いマフラーが風に揺れ、白い指先には、なくなったはずの黒のキングがつままれている。

 

場違いなほど、気安い笑み。

 

「返してもらおうか」

 

『いいよ』

 

少年は素直に言った。

 

だが投げてよこす代わりに、キングを口元まで掲げて、目を細めた。

 

『その前に、ちょっとだけ確認。きみは王様でいたい人間かな。それとも、王様なんていなくても盤面を動かせるって思ってる人間かな』

 

「質問の意図が曖昧だな。曖昧な問いには、曖昧な答えしか返せない」

 

『へえ。じゃあ、質問を変えようか』

 

少年は、黒のキングを指の腹で転がした。

 

『きみは、人を使うのが上手い』

 

一拍。

 

『でも、人に使われるのも、案外嫌いじゃないだろ』

 

静かな言葉だった。断定なのに、証拠を突きつける響きがない。ただ、既に知っていることを雑談のついでに口にしただけの声音。

 

ルルーシュの内側で、警戒が一段深く沈んだ。

 

「初対面の相手にしては、踏み込みが早いな」

 

『そっちもね。初対面の相手をもう敵か味方かで測ってる目をしてる』

 

少年は笑ったまま、キングを机上へ置いた。コト、と軽い音。

 

『球磨川禊。今日から転校してきたんだ。よろしくね』

 

その名に聞き覚えはない。少なくとも、ブリタニア側の資料にも、レジスタンス側の情報網にも、優先的に引っかかる名前ではなかった。

 

それでも、ルルーシュは即座に理解した。

 

厄介だ。

 

こういう類の人間は、力を誇示しない。むしろ、自分を矮小に見せる。脅威ではないふりをして、相手の判断そのものへ入り込む。しかも、そのことを隠す気が薄い。薄いからこそ、掴みどころがない。

 

「歓迎しよう、球磨川。だがアッシュフォードは窓から入るのが校則なのか?」

 

『いやあ、正門から来たかったんだけどさ。案内の先生が迷子になっちゃって。だから僕が先に着いちゃった』

 

「教師を置き去りにしたのか」

 

『僕、置き去りにされる側の人間なんだけどなあ』

 

軽口。だが、その直後に、自分で自分の立場を先回りして定義する。なるほど、とルルーシュは思う。先に「負ける側」「損をする側」を名乗ることで、相手の攻撃から利子を取るタイプか。

 

「それで?」

 

ルルーシュは椅子を引き、生徒会長らしい自然な動作で腰を下ろした。

 

「キングを盗んで、私を待っていた理由は」

 

『待ってたわけじゃないよ』

 

球磨川は即座に否定した。

 

『だって、きみが来るのは知ってたけど、どの顔で来るのかは知らなかったし』

 

「……どの顔?」

 

『生徒会長の顔。優等生の顔。退屈そうな天才の顔。あるいは』

 

球磨川は、窓辺から離れた。歩幅は軽い。無防備に見せるための歩き方が、あまりに自然だった。

 

『王様の顔』

 

ルルーシュは笑った。

 

「妄想癖か」

 

『そうかもね。僕、物事を曲解するの得意だから』

 

「曲解か。便利な言葉だ。間違っても、誤解と言えば可愛げがある」

 

『誤解は正したがるからね。曲解は、正されてもそのまま使える』

 

球磨川はチェス盤のねじをつまみ上げた。

 

『たとえばこれ。普通なら、誰かの悪ふざけだ。でも、きみはそうは見ない。意味を読む。誰が、どういう意図で、何を知っていて、どこまで踏み込んでいるのか。そうやって盤面の外側までゲームにする』

 

「褒めているのか?」

 

『ううん。確認してる』

 

「何をだ」

 

『きみが、僕のことをどこまで“使える”と思ったかを』

 

その一言だけ、ルルーシュは返答を遅らせた。

 

球磨川は、こちらの観察を、まるでこちらの独白みたいに口にする。

 

「使える」と判断したか。否か。

 

もちろん、ルルーシュは人を評価する。手駒として。協力者として。障害として。そのことに今さら恥はない。だが、今この場でそれを見透かされたように言われるのは不快だった。不快である以上、それは相手に主導権を渡す反応でもある。

 

「ずいぶん自信があるようだな」

 

ルルーシュは言った。

 

「転校初日に、生徒会長へ接触。挑発めいた置き手紙。盤上の駒を一つ抜いて、代わりにねじ。自分を目立たせたいのか、試したいのかは知らないが、その程度でこちらの思考を誘導できると思うなら甘い」

 

『へえ』

 

球磨川は楽しそうに首を傾げた。

 

『じゃあ、誘導されてないきみは、どうして今、左の引き出しに手を掛けようとしてるの?』

 

ルルーシュの指が、止まった。

 

そこには、校内非常連絡用の端末がある。対外的には、ただの連絡手段。だが緊急時には、この部屋へ誰かを呼ぶ口実になる。

 

『安心してよ』

 

球磨川は両手を上げた。

 

『僕、暴力は嫌いだから』

 

「その割には、ずいぶん強引な入り方だ」

 

『言葉の暴力なら、むしろ紳士的にやってるつもりだけどなあ』

 

「自己評価の高い敗者だな」

 

その言葉に、球磨川の笑みが、ほんのわずかに深くなった。

 

『それ、いいね』

 

「何がだ」

 

『敗者って言葉。僕、すごく好きなんだ』

 

好き。そんなふうに言う種類の単語ではない。少なくとも普通は。

 

球磨川は、机の上に腰を預けた。行儀の悪さに生徒会長として眉をひそめることもできたが、ルルーシュはしなかった。注意は、相手の土俵に乗る行為だ。

 

『勝者ってさ、勝った理由を世界に求めるだろ。自分が正しかったから勝った、強かったから勝った、選ばれたから勝ったって。でも敗者は違う。負けた理由なんていくらでも捏造できる。運が悪かった、相手が卑怯だった、ルールが悪かった、自分が本気じゃなかった。ね、すごく自由だ』

 

「自由?」

 

『そう。だって勝ちって一つしかないけど、負け方って無限にあるから』

 

球磨川はねじを立て、また倒した。

 

『だから、負け続ける人間は強いんだよ。勝つために形を固定しなくていいから』

 

ルルーシュは黙って聞いた。

 

この男の危険性は、能力ではない。まだ能力など見せていない。だが、思想の持ち方が危うい。勝負を勝つためでなく、勝敗の意味そのものを撹乱するために使う人間だ。ルールの中で最適解を選ぶタイプではない。ルールを守る側の心理に寄生してくる。

 

そして、そういう人間は往々にして――利用しにくい。

 

「面白い話だ」

 

ルルーシュは指を組み、声音だけを少し柔らかくした。

 

「だが、それは単に、敗北を誇ることで自己を守っている臆病者の理屈にも聞こえるな」

 

球磨川は、きょとんとした顔をした。

 

『臆病者だよ?』

 

あまりにもあっさり認めたので、ルルーシュの返しが半拍遅れた。

 

『僕、怖いものだらけだし。期待されるのも嫌い。勝つのも苦手。だって勝っちゃうと、次はもっと上手くやれって言われるだろ? そんなの無理に決まってるじゃないか』

 

「なら、なぜここへ来た」

 

『きみがいるから』

 

「理由になっていない」

 

『なるよ』

 

球磨川は笑う。

 

『王様がいるところには、だいたい大義名分と犠牲者があるから』

 

その瞬間、廊下から足音がした。複数。軽い足取りではない。一定の間隔で近づいてくる、訓練された靴音。

 

ルルーシュの目がわずかに細まる。

 

学園内で、この時間、この歩調。この部屋へ向かってくるなら、ただの教師ではない。

 

球磨川は気付いているはずなのに、窓の外を見ていた。

 

『さて』

 

彼は言った。

 

『ここからは、きみの“顔”を選ぶ時間だ』

 

扉が開く。

 

入ってきたのは、学園の職員ではなかった。黒いスーツに身を包んだ男が三人。その後ろに、銀縁眼鏡の女が一人。ブリタニア行政局の腕章。学園に直接出入りできる階級だ。

 

先頭の男が、室内を見渡す。

 

「失礼。生徒会長、少しよろしいかな」

 

ルルーシュは瞬時に立場を計算した。

 

ブリタニア行政局が、学園へ。しかも自分を名指し。表向きは生徒会長に用事があるように見せているが、実際は監視か確認か。最近の動きが掴まれたとは考えにくい。だが油断はできない。

 

「何の件でしょう」

 

「本日付で、学園に対し特別自治試験区の指定が下りた」

 

男は書類を差し出した。

 

「生徒自治能力の実証実験だ。学園内の各組織に行政参加権を分配する。その第一段階として、明日より学内評議会を設置する。議席は七。生徒会、風紀委員会、各クラブ連合、一般生徒代表、教職員代表、そして――」

 

男の視線が、球磨川へ移った。

 

「新設される“不適合者観察枠”」

 

ルルーシュは、書類を受け取りながら、一秒だけ沈黙した。

 

名称が悪趣味すぎる。わざとだ。自治実験の名目で、学園内に対立軸を作る。差別と選別を制度化し、その反応を観測するつもりか。

 

「不適合者、とは?」

 

「成績、素行、協調性、心理傾向、そのほか複数指標により分類される。自治に不向きと判断された生徒群だ」

 

後ろの女が淡々と補足する。

 

「彼らには限定的な発言権が付与されます。ただし議決権はありません」

 

球磨川が、楽しそうに口笛を吹いた。

 

『うわあ。ひどい。わざわざ負け組専用席を作ってくれるなんて、親切だなあ』

 

先頭の男は、彼を無視して続けた。

 

「議長は生徒会長が務める。ルール整備も任せる。優秀な模範生徒による秩序形成が目的だ。君なら適任だろう、ルルーシュ・ランペルージ」

 

露骨な持ち上げ方だ。

 

優秀、模範、秩序。そういう言葉で責任を被せ、同時に逃げ道を塞ぐ。引き受ければ制度の顔にされる。拒否すれば、自治の機会を無視したと宣伝される。

 

「返答の期限は」

 

「今だ」

 

短い。

 

球磨川が、くつくつと喉で笑った。

 

『いいね。選択肢があるふりをして、実質ひとつしかない質問。僕、大好きだよ』

 

ルルーシュは書類へ視線を落としたまま言う。

 

「私が受けた場合、その“不適合者観察枠”の代表選定権は誰にある?」

 

「暫定的に行政局が指名する」

 

「つまり、管理された反対派を用意するわけか」

 

男の眉がわずかに動いた。

 

「言葉が過ぎるな」

 

「事実確認です」

 

ルルーシュは顔を上げる。

 

「自治を掲げながら、最初から差別的名称の枠を作り、議決権も与えず、代表も外部が指名する。それは学園の自主運営ではなく、見世物でしょう」

 

空気が一段冷えた。

 

後ろのスーツたちがわずかに重心を変える。脅しに移る準備ではない。反応を測っている。

 

ここで引けば、従順な優等生。噛みつけば、扱いにくい理想主義者。どちらのラベルも与えられる。

 

『見世物かあ』

 

球磨川が横から口を挟んだ。

 

『でも、見世物って観客がいて初めて成立するんだよね。つまりきみたち、自分たちが舞台の上じゃなくて、客席にいるつもりなんだ』

 

「黙れ」

 

一人が低く言った。

 

球磨川は嬉しそうに目を細めた。

 

『おっと。発言権のない枠の人間に、もう反応しちゃった』

 

「球磨川」

 

ルルーシュが初めて名を呼ぶと、彼は素直に口を閉じた。

 

一瞬だけ、視線が交わる。

 

そこには奇妙な了解があった。味方ではない。だが今この場で、互いに利用できるだけの知性はある。

 

ルルーシュは書類を机へ置いた。

 

「受けましょう」

 

行政局の女が、満足げに頷く。

 

「賢明な判断です」

 

「ただし条件がある」

 

「何だ」

 

「名称の変更です。不適合者観察枠、という表現は認めない」

 

「規定文言だ」

 

「なら、学内運用名だけでも変える。こちらの自治規則に従って」

 

「本質は変わらん」

 

「ええ、変わらないでしょうね」

 

ルルーシュは冷ややかに言った。

 

「ですが本質が変わらないからこそ、名前だけで他者を侮辱する必要もない」

 

男は不快そうに黙った。反論すれば、侮辱の意図を自白することになる。

 

球磨川が、吹き出すように笑った。

 

『うわあ。やさしいなあ、生徒会長。綺麗だ。綺麗すぎて、逆に怖い』

 

ルルーシュは構わず続けた。

 

「代表選定についても、学内投票とする。行政局は候補者推薦のみ。最終決定権は評議会準備会に置く」

 

「認められん」

 

「なら受諾も見送ります」

 

「今、受けると言ったはずだ」

 

「条件付きで、です」

 

沈黙。

 

先頭の男は、ルルーシュを見た。生徒がする目ではない。交渉人の目。敵対勢力の使者でもおかしくないほど、冷たい利害の計算が宿っている。

 

そして球磨川を見た。こちらはもっと不気味だった。何も背負っていない顔で、場の歪みだけを愉しんでいる。

 

「……学内運用名の変更のみ認める。代表選定は行政局指名だ」

 

「不十分ですね」

 

「これ以上はない」

 

「では、こちらもこれ以上は譲れない」

 

押し問答が続く。だが本質は条件ではない。どこまで強く出るか。どこで切るか。学園側の交渉能力を測っている。

 

そこで、球磨川が手を挙げた。

 

『はいはーい。じゃあ折衷案』

 

誰も求めていないのに、彼は言った。

 

『代表は行政局が指名すればいいよ。ただし、その代表が“不適合”であることを証明できた場合に限る』

 

「証明?」

 

女が眉をひそめる。

 

『客観基準です』

 

球磨川はにこにこしていた。

 

『成績、素行、協調性、心理傾向。さっきそう言ったよね。じゃあ、その全評価記録を公開しよう。公平のために』

 

空気が止まる。

 

行政局側は、公開などできない。分類基準それ自体が差別的で恣意的だからだ。だが拒否すれば、「証明できない分類」を押しつけようとしたことになる。

 

ルルーシュは、内心で舌を巻いた。

 

粗雑に見えて、刺し方が正確だ。相手の制度に含まれた秘密を、あえて公平性の言葉で抉り出す。しかも、要求者が「敗者側」を自称する球磨川であるため、正義の匂いが薄い。そこが逆に厄介だった。善人の抗議なら処理しやすい。だが、ふざけた顔のまま制度の致命傷へ指を入れてくる人間は扱いづらい。

 

「無理な話だ」

 

男が吐き捨てる。

 

「個人情報保護の観点から」

 

『へえ』

 

球磨川の声音が、少しだけ低くなった。

 

『人を分類して見世物にする観点はあるのに?』

 

一瞬、誰も動かなかった。

 

ルルーシュは、その沈黙を利用した。

 

「ではこうしましょう。代表は行政局の推薦、生徒会側の承認制にする。承認理由は公開。却下理由も公開。自治実験に透明性は不可欠でしょう」

 

行政局側は即答できない。完全拒否よりは飲みやすい。だが、飲めば生徒会へ実質的な拒否権を渡すことになる。

 

女が男に耳打ちした。短い協議。

 

やがて男は言う。

 

「……いいだろう。ただし、最終責任は議長である君が負う」

 

「望むところです」

 

ルルーシュが答えると、球磨川がぱちぱちと拍手した。

 

『いやあ、まとまったまとまった。すごいなあ、きみ。ちゃんと“正しく”勝つんだ』

 

その言い方に、ルルーシュはわずかに違和感を覚えた。

 

正しく勝つ。

 

それは称賛ではない。たぶん侮辱ですらない。観察だ。もっと言えば、分類だ。

 

行政局の人間たちは去っていった。扉が閉まる。

 

静寂が戻る。

 

その静けさの中で、球磨川は机上のねじを指で弾いた。ころり、と転がって、チェス盤の中央で止まる。

 

『危ない制度だね』

 

「言われるまでもない」

 

『でも、受けた』

 

「拒否しても別の形で押しつけられるだけだ」

 

『うん。そういう判断、王様っぽいよ』

 

ルルーシュは立ったまま、球磨川を見た。

 

「お前も、よく口を出したな」

 

『だって面白そうだったし』

 

「それだけか?」

 

『それだけじゃ駄目?』

 

「駄目だな。お前は、自分に利がない場面で首を突っ込むタイプじゃない」

 

球磨川は、少し考えるふりをした。

 

『利はあるよ。だって、分類される側って、いつだって僕の仲間だから』

 

「仲間意識か」

 

『ううん、違う』

 

彼は笑った。

 

『見捨てられ方が似てるだけ』

 

その言葉は、妙に軽く、妙に重かった。

 

ルルーシュは、机上の書類を整えながら尋ねる。

 

「お前は、あの枠の代表になるつもりか」

 

『推薦されたらね』

 

「断らないのか」

 

『断る理由がない。僕みたいなのがそこに座ってたら、制度そのものが悪趣味になるだろ?』

 

「もとから悪趣味だ」

 

『そうだね。だから、もっと悪趣味にしようよ』

 

球磨川は窓辺へ戻った。

 

『きみは制度を綺麗に使おうとする。僕は制度が人を汚す瞬間を見たい。たぶん、そのへんで喧嘩になる』

 

「たぶん?」

 

『いや、ほぼ確実かな』

 

風が入る。夕暮れはもう終わり、校舎の外には夜の色が落ち始めていた。

 

ルルーシュは、その背中へ問いを投げた。

 

「一つ聞く。お前は何を知っている」

 

球磨川は振り返らない。

 

『いろいろ』

 

「答えになっていない」

 

『答えだよ。きみのことも、行政局のことも、明日から始まる評議会が“選別”の練習台だってことも、たぶん僕は知ってる』

 

ルルーシュの指先が、書類の端をわずかに強く押した。

 

「……どこまでだ」

 

『どこまでだろうね』

 

球磨川はようやく振り返る。

 

その顔には、今までと同じ笑みがある。だが目だけが、笑っていない。もっと正確に言えば、最初から一度も笑っていなかったことに、そこで初めて気づかされる類の目だった。

 

『でも一つだけ、きみに教えてあげる』

 

「何だ」

 

『これは、きみが思ってるよりずっと小さい話で、ずっと大きい話だよ』

 

球磨川は、黒のキングをルルーシュへ投げた。

 

ルルーシュは片手で受け取る。

 

「王様を決めるゲームじゃない」

 

次の瞬間、球磨川の口元が、ほんのわずかに吊り上がった。

 

『王様が、どこまで“敗者”の言葉を聞けるかっていう、すごく嫌な試験だ』

 

そう言い残して、彼は窓から身を躍らせた。

 

ルルーシュはすぐ窓辺へ出たが、下に人影はない。あり得ない高さではない。だが、着地の音もしなければ、逃げる足音もしない。

 

残されたのは、机の上の書類と、チェス盤の中央に立つねじだけ。

 

ルルーシュは黒のキングを見下ろした。

 

王は一歩しか進めない。

 

それでも盤上の中心に置かれるのは、誰よりも守られるべき駒だからではない。失えばゲームが終わる、という物語を全員が信じているからだ。

 

だがもし、その物語そのものを疑う人間が相手なら。

 

ルルーシュはゆっくりとキングを盤上へ戻した。

 

その直後、机上の端末が鳴る。

 

応答すると、カレンの低い声がした。

 

『ルルーシュ。嫌な報せよ。行政局の新しい実験区計画、ただの学園自治じゃない。対象生徒の一部が、夜のうちに“転送”される予定になってる』

 

「転送?」

 

『収容よ。選別名目で、どこか別施設に』

 

ルルーシュの視線が、書類の末尾へ落ちた。細かい付則。さきほどの短い交渉の間には、読み切れていない箇所。

 

そこに、小さく記されている。

 

――不適格判定者は、矯正教育プログラムへの移管対象となる場合がある。

 

ルルーシュの目が鋭く細まる。

 

表の自治実験。裏の収容。典型的なやり口だ。

 

だが、そのとき彼の脳裏に浮かんだのは行政局ではなく、球磨川の言葉だった。

 

これは、きみが思ってるよりずっと小さい話で、ずっと大きい話だよ。

 

知っていたのか。最初から。

 

いや――知っていたから、先にここへ来たのか。

 

『どうするの、ルルーシュ』

 

カレンの問いに、彼は即答しなかった。

 

盤上のねじが、薄い灯りを受けて鈍く光っている。

 

まるで誰かが、王を刺すためではなく、盤そのものを壁に打ちつけるために持ち込んだみたいに。

 

「……動く」

 

ルルーシュは静かに言った。

 

「だがまず、あの転校生を探せ」

 

『転校生?』

 

「球磨川禊。おそらく、こちらと同じ情報を先に掴んでいる」

 

『味方?』

 

ルルーシュは、窓の外の闇を見た。

 

「いいや」

 

そして、初めてはっきりと断言した。

 

「最悪の場合、敵ですらない。ああいう手合いは、もっと面倒だ」

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