評議会準備室に用意された椅子は七つだったが、机は八角形だった。
多い一辺が、ひどく目障りだった。
「わざとか」
ルルーシュは誰にともなく呟いた。
答える者はいない。まだ朝だ。教職員代表の席には名札だけがあり、各クラブ連合の席には資料の束が無造作に置かれている。一般生徒代表の席にはアンケート用紙。風紀委員会の席には、既に規律案が三種類。行政局が寄越した書式は、やけに整っていて、だからこそ余計に気に障った。
七議席。だが机は八角。
欠けた一席を、最初から見せつけるための設計だ。
不在を制度に組み込み、その不自然さを「当然」として慣れさせる。ブリタニア的だ、とルルーシュは思った。空白ですら権力の演出に使う。
「会長、早いですね」
振り向くと、ミレイが扉のところに立っていた。いつもの調子に見えるが、目だけは事態の臭いを嗅いでいる。こういうとき、この人は侮れない。
「準備することが多いので」
「建前としては百点ね」
ミレイは室内を見回し、机を見るなり肩をすくめた。
「うわ、感じ悪。こういうの好きそうね、上の人たち」
「ええ。わざわざ形から侮辱する趣味らしい」
「珍しく顔に出てるわよ、ルルーシュ」
「そうですか?」
「ええ。いつもの半分くらい優等生の顔してる」
それはつまり、まだ半分は被れているということだ。十分だ、とルルーシュは判断した。
「他の出席者は?」
「風紀委員長は来る途中。一般代表は選考中。クラブ連合は揉めてる。そりゃそうよね、急に政治ごっこしろって言われても」
「政治ごっこ、ですか」
「だって学園だもの。大人の本気の政治を持ち込まれたら、たいていの子は迷惑するわ」
ミレイはそう言って、机の八つ目の辺を指で叩いた。
「で、ここが問題児の席?」
「正式には違います」
「正式じゃなければいいの?」
「正式名称を変えたところで、本質は変わらない」
「でも変えた」
「変えさせました」
ミレイは、ふっと笑った。
「へえ。ちゃんと嫌がらせは返したんだ」
「最低限の防御です」
「防御、ねえ」
その一言に含みがあったが、ルルーシュは受け流した。ミレイは踏み込まない。だが、見ている。見ていて、必要なときだけ笑う顔のまま刃物みたいなことを言う。球磨川とは別種の厄介さだ。
「で、その席の名前は?」
「『校内不均衡是正枠』です」
ミレイは一秒黙り、それから露骨に嫌そうな顔をした。
「もっとひどくなってない?」
「相手の文言をそのまま使うよりはましです」
「いやあ、どうかしら。『不適合』より上品に差別してる感じ」
ルルーシュは返答しなかった。
正しい。だが、上品な差別は時に露骨な差別より脆い。理屈で飾ったぶん、理屈で崩せる。
「おはようございます!」
扉が勢いよく開いて、シャーリーが顔を出した。その後ろからリヴァル、少し遅れてニーナ。いつもの生徒会メンバーだ。だが今日は空気が違うことを、入室した瞬間に全員が悟ったらしい。声の大きさが、部屋に入るなり自然と一段落ちた。
「何これ、会議室みたい……」
「会議室だ」
リヴァルが言ってから、すぐにしまったという顔をする。
ミレイが肩をすくめた。
「残念だけどね。しばらく本当にそうなるわ」
シャーリーが机の席順を見て、戸惑ったようにルルーシュを見る。
「ルルーシュ、これって昨日言ってた……」
「ああ。評議会の準備室だ」
ニーナは資料を見ただけで顔をしかめた。
「行政局の書式が混ざってる」
「よく分かったな」
「行間が命令文だから」
ぼそりと言う。正確だ。
ルルーシュは資料の束を整えながら、簡潔に指示を出した。生徒会メンバーは正式な議席ではない。だが、学内調整と情報整理では使える。使う。
「シャーリー、一般生徒の反応を集めてくれ。感情的なものでも構わない。むしろ、そのほうがいい」
「う、うん」
「リヴァルはクラブ連合の票読みだ。どの部が行政局に乗りやすいか、逆に反発しそうか、ざっくりでいい」
「了解」
「ニーナはこの規則案の穴を探せ。特に、分類基準と移管条項の接続部分を」
ニーナの目が上がる。
「移管?」
「後で説明する。今は読め」
「分かった」
ミレイが口笛を吹いた。
「やるじゃない、会長」
「役割分担は統治の基本です」
「言い方がもう生徒会じゃないのよ」
そのとき、廊下の向こうがざわついた。
複数の声。甲高いの、低いの、苛立ったの、面白がっているの。足音は軽いが雑然としている。訓練された靴音ではない。学生の群れだ。
リヴァルが扉のほうを見た。
「なんだ?」
ルルーシュはすぐに理解した。速すぎる。昨日の今日で、もう対象生徒が動いている。行政局が情報を流したか、あるいは――誰かが流した。
扉が開き、先頭にいた男子生徒が怒鳴った。
「ふざけんなよ! なんで俺たちが“是正”される側なんだよ!」
その後ろにも十人近い生徒がいる。制服は同じ。だが共通しているのは、目つきだ。怒り、困惑、警戒、そして妙な高揚。自分たちが呼ばれたことへの不名誉と、ようやく舞台に上げられたことへの興奮が混じっている。
最悪の状態だった。
「落ち着け」
ルルーシュが言うと、別の女子生徒が食ってかかった。
「落ち着けるわけないでしょ! いきなり通知が来て、あんたが議長で、こっちは選ばれる側だって!」
通知。
やはり流された。しかも、こちらの準備より先に。
ミレイが小声で舌打ちした。
「汚い」
ルルーシュは生徒たちを見た。ここで威圧は悪手だ。だが迎合も駄目だ。怒りは使えるが、煽られた群衆は使えない。
「まだ選定は決まっていない」
「嘘つけ!」
「議席は一つだろ!」
「どうせ成績悪いやつ集めて見せ物にするんだろ!」
「誰が決めたんだよ!」
矢継ぎ早の声。互いの不安を互いに増幅している。
そのとき、群れの後ろのほうから、妙に通る声がした。
『あはは。やっぱり人って、自分が何者かより、誰に決められるかのほうが気になるんだね』
ざわめきが、一瞬だけ割れる。
生徒たちが左右にずれる。その隙間を、球磨川がひょいと歩いてきた。制服の着方は適当で、寝癖も少し残っている。何事にも遅れてきたくせに、遅れてきたこと自体を手札に変える顔だった。
ルルーシュは、内心で冷ややかに状況を確認する。
来たか。
しかも最悪のタイミングで。
「お前か」
『うん、多分僕だね』
球磨川は軽く手を上げた。
『おはよう、生徒会長。朝から人気者で羨ましいよ』
「貴様が流したのか」
『何を?』
「通知の件だ」
『通知は行政局が流したんじゃないかな。だって、僕にあんな立派な書式は作れないし』
嘘ではない。だがそれで無関係とは限らない。
「ではなぜここにいる」
『呼ばれたから』
球磨川は胸ポケットから紙を一枚出してひらひらさせた。
『ほら。対象候補者だって。ひどいよねえ。僕、ただの善良な転校生なのに』
「善良な転校生は昨日、窓から入らない」
『それは善良さじゃなくて礼儀の問題だろう?』
場違いなやり取りなのに、周囲の生徒たちが少しだけ静まる。言葉の焦点が移ったからだ。怒りは、より面白い対象が現れると一瞬そちらを見る。
球磨川は、その一瞬を逃さなかった。
『でもまあ、みんなが怒るのは分かるよ。だって最悪だもん、この制度。なにしろ“落ちこぼれ代表”を、一番落ちこぼれじゃなさそうな人間が選ぼうとしてるんだから』
その一言で、視線が一斉にルルーシュへ集まった。
露骨だ。しかも上手い。
ルルーシュ個人の資質と制度の歪みを接続した。今この瞬間だけ見れば、生徒会長ルルーシュ・ランペルージは「選ぶ側」の顔をしている。それは事実だ。そこへ「一番落ちこぼれじゃなさそう」という、微妙に侮辱と羨望の混ざった言い回しを加えることで、反発と嫉妬を同時に刺激する。
「……続けろ」
ルルーシュは敢えて言った。
周囲の何人かがぎょっとした顔をした。球磨川も少しだけ目を細める。
『へえ。止めないんだ』
「止めてほしければ最初から黙っているだろう。違うか?」
『違わないね』
球磨川は笑った。そして群衆に向き直る。
『じゃあ続けるけど、別に僕は生徒会長が悪いって言いたいわけじゃないよ。だってこの人、昨日のうちに名前は変えさせたし、承認権ももぎ取った。結構頑張ってる』
ざわめきが変わる。
知らなかった情報を投げる。ルルーシュにとって有利な情報だ。だが、有利であること自体が罠にもなる。
「じゃあ味方なのかよ、お前!」
誰かが言うと、球磨川は首を傾げた。
『味方? まさか。僕、そんな立派なものじゃないよ』
正しい答えだ。だからこそ、空気が不安定になる。
味方でも敵でもない人間は、群衆にとって最も扱いづらい。
『ただねえ』
球磨川は、通知用紙を二本の指でひらひら振った。
『僕は、自分が誰に分類されるかより、どうして分類する側がそんなに堂々としていられるのかのほうが気になるかな』
まただ、とルルーシュは思う。
個人の怒りを構造の怒りへずらす。正義感を煽っているようで、実際には正義そのものを少しずつ中毒に変えていく話し方だ。聞いている側は、自分が高いところから怒れている気分になる。
危険だが、有効でもある。
「堂々としてるのは、会長じゃん」
さっきの男子生徒が言った。
「だってここ仕切ってんの、あんただろ」
「仕切るのと肯定するのは別だ」
ルルーシュは一歩前へ出た。
「私はこの制度を歓迎していない。だから名称も変えたし、選定にも外部の専断を許さなかった」
「でも結局、やるんだろ?」
「やる。やらせる。だがその代わり、記録も責任も表に出す」
「綺麗事だ!」
「そうかもしれないな」
ルルーシュはあえて認めた。
「だが綺麗事を捨てれば、お前たちを裏で運ばせるだけになる」
空気が止まった。
数人の顔色が変わる。そこまで知らなかったか。通知には、移管条項の詳細は書かれていないはずだ。
「……何だよ、それ」
女子生徒が一人、低く言った。
ルルーシュは彼女を見る。
「不適格と見なされた場合、別施設への移管対象となる可能性がある。矯正教育プログラムと称してな」
ざわめきが恐怖に変わった。
怒りよりも深い。自分の居場所が奪われる種類の恐怖だ。
「嘘だ!」
「証拠は?」
「ある」
ルルーシュが資料を掲げようとした、その瞬間だった。
『あーあ』
球磨川が、わざとらしくため息をついた。
『会長、そういうの良くないなあ』
全員の目がまた彼に向く。
『だって今の言い方だと、“自分は知ってたけど昨日のうちには知らせませんでした”って聞こえるよ』
部屋の温度が下がった。
やはり来たか、とルルーシュは思った。
この男は、こちらが得る信用に必ず針を混ぜる。
「……貴様」
『いや、事実確認だよ』
球磨川は笑っていない。
『きみ、昨日の夜のうちに分かってたよね。なのに今朝まで公表しなかった。もちろん理由はあるんだろうけど、知らされる側からしたらさ、“守ってくれるかもしれない優秀な人”っていうより、“知ってて黙ってた選ぶ側”なんじゃないかな』
誰もすぐには喋らなかった。
群衆にとって、正しい糾弾ほど甘いものはない。しかも今のは、完全な嘘ではない。
ルルーシュは昨日の時点で知った。すぐ動いた。だが、この場の生徒全員へ事前に伝えることはしなかった。広げれば行政局に口実を与える可能性もあったし、何より情報が確定していなかった。判断としては妥当だった。
だが、妥当と信頼は別だ。
「本当なの?」
シャーリーが小さく言った。責める声ではない。だが、その分だけ痛い。
ルルーシュは答えた。
「ああ。本当だ」
数人が息を呑む。
「ただし、確定情報として出せたのは昨夜遅くだ。裏を取る前に騒げば、逆に向こうへ正当化の口実を与える」
「じゃあ私たちには黙って、あんたが全部決めるつもりだったの?」
「違う。決めさせないための準備をしていた」
「同じことじゃん!」
その怒声に、何人かが同調する。
球磨川は、その中心で、ひどく静かだった。
『ね? 嫌だろ、こういうの』
誰にともなく、そう言う。
『優秀な人って、悪気なく“待たせる”んだよ。自分が一番いいタイミングを知ってると思ってるから』
あまりに滑らかに、ルルーシュ個人への批判が、優秀な側全体への怨嗟へ接続される。
危険だ。だが同時に、ルルーシュは理解していた。ここで球磨川を否定しきれば、「選ぶ側の論理」が露呈する。かといって受け入れれば、今度は自分の統制が失われる。
「ならお前ならどうした、球磨川」
ルルーシュは正面から切り返した。
『僕?』
「そうだ。昨日の夜に知り、情報が未確定で、相手は行政局、下手に動けば収容を前倒しされる可能性がある。その状況で、お前ならどうした」
問われて初めて、球磨川は少しだけ口元を歪めた。
『嫌な聞き方するなあ』
「答えろ」
『答えは簡単だよ』
球磨川は、一歩だけ前に出た。
『僕なら、最初から“間に合わないようにする”かな』
「何?」
『だって、止めるか止めないかの勝負に乗るから苦しいんだろ? なら、勝負そのものが成立しない盤面にすればいい』
抽象的だ。だが、抽象のふりをした具体だ、とルルーシュは直感した。
「どういう意味だ」
『たとえばさ』
球磨川は、机の一辺を軽く叩いた。
『代表者を決める前に、“代表される側”が消えちゃったらどうなるんだろうね』
部屋が静まり返る。
一人の男子が反応した。
「逃げろってことか?」
『うーん、逃げるって言うと負けっぽいから嫌だなあ。もっとこう、制度のほうを置き去りにする感じ』
「学校からいなくなれって?」
『一晩くらいなら、みんなで姿をくらますのも面白いんじゃない? 学園中の“不均衡”が急に消えたら、是正する側は困るだろうし』
馬鹿げた提案だ。だが群衆は、時に実現可能性より「自分たちで選べる感じ」に飛びつく。
実際、何人かの目が動いた。
「……できるのか?」
「寮とかあるし」
「でも収容されるよりは」
まずい。
ルルーシュは即座に計算する。ここで逃亡案が広がれば、行政局は「不穏分子の組織的離脱」を口実に、正面から制圧に来る。学園内自治どころではなくなる。球磨川がそれを読めないはずがない。
つまり、わざとだ。
「球磨川」
ルルーシュの声が低くなる。
「お前は今、何人を餌にしようとしている」
『餌?』
「逃げれば相手に口実を与える。追い込まれて動いた群衆ほど狩りやすいものはない。分からないはずがないだろう」
球磨川は、数秒だけ黙った。
その沈黙が、妙に素直だった。
『うん、分かるよ』
「なら――」
『でもね、生徒会長』
遮る。
あくまで柔らかく、あくまで人懐こく。それなのに、一番触れられたくないところへ自然に指を差し込む声だった。
『きみは今、“狩られないために従え”って言ったんだ』
ルルーシュの言葉が、ほんのわずかに止まる。
『もちろん、もっと賢い言い方はできるだろうけどさ。でも本質はそうだ。逃げれば危ない。騒げば危ない。だったら残って、選ばれる手続きの中で助けを待てって。うん、正しいよ。すごく正しい』
球磨川は笑った。
『でも、そういう正しさに限って、選ばれる側は嫌いなんだよね』
痛烈だった。
しかも、ただの煽りではない。ルルーシュの打ち手の弱点を、群衆心理の言葉へ翻訳している。統治者の合理は、被統治者の屈辱と紙一重だ。そのことを、この男は理解していて、理解した上で美しくねじる。
「だったらどうしろっていうんだよ!」
誰かが半ば泣きそうな声で叫んだ。
「残っても危ない、逃げても危ないなら!」
球磨川は、その声のほうへ顔を向けた。
『簡単だよ』
全員が、次の言葉を待った。
『危ないって、向こうにも思わせればいい』
ルルーシュの瞳が細くなる。
来る、と直感した。何かを仕掛けている。
「何をした」
『まだ何も』
球磨川は答える。さらりと。
『ただ、もうすぐ“誰を運ぶか”の名簿が、学園中に貼り出されるだけ』
一秒遅れて、その言葉の意味が室内へ染みた。
「……名簿?」
ミレイが先に反応した。
「ちょっと待って、それって」
ルルーシュは扉へ向かって走った。
廊下の先で、悲鳴に近いざわめきが起きている。角を曲がった掲示板の前に人だかり。教師の声。紙を剥がそうとする音。間に合わない。
ルルーシュが掲示板へ辿り着いたときには、すでに数十人が紙を見ていた。
印字された一覧。
学籍番号。氏名。仮判定区分。備考欄には、粗雑な記号。
C、D、E。
まるで商品だ。
「誰が貼った!」
教師が叫んでいる。だが紙はすでに何枚かスマートフォンで撮られている。拡散は止まらない。
ルルーシュの横に、球磨川がいつの間にか立っていた。
『ほらね』
「貴様――!」
『ああ、誤解しないでほしいな。貼ったのは僕じゃないよ』
その顔を見れば分かる。たぶん本当に貼ったのは別だ。だが、こうなることを知っていた。あるいは誘導した。
「どこまで関わっている」
『どこまでだろうね』
球磨川は掲示板を見上げた。
『でも、これで向こうも困る。だってもう“静かな選別”じゃなくなったから』
ルルーシュは紙を剥がしながら思考を回す。
名簿の貼り出しは行政局にとっても早すぎる。だが、内部の強硬派ならあり得る。混乱を前倒しし、反発を可視化し、その反応を理由により強い措置へ移る。あるいは、学園側の統制力を試すためにわざと漏らしたか。
どちらにせよ、事態は変わった。
球磨川の言う通り、もはや静かな制度運用は無理だ。公開された侮辱は、侮辱された側にだけでなく、まだ侮辱されていない側にも感染する。
「ルルーシュ!」
シャーリーが駆けてくる。
「掲示板、他にも! 三か所!」
「全部剥がせ! 撮影データの拡散を止めろ、いや、無理か……くそっ」
行政局が動く前に、こちらが先に意味づけを奪うしかない。
ルルーシュは振り向き、球磨川を睨んだ。
「お前はこれを待っていたな」
『うん』
否定しない。
『だって、きみが“綺麗に戦う”なら、まず綺麗じゃいられなくしないと意味ないだろ?』
「それで何人が傷つく」
『もう傷ついてるよ。きみが整える前の制度で』
「だからと言って、抉っていい理由にはならない」
『なるなんて言ってないさ』
球磨川は、名簿の備考欄を指先でなぞるように見た。
『ただ、見えない傷って、放っておくと“なかったこと”にされるからね』
ルルーシュは答えなかった。
その代わり、ひどく冷静に一つの結論へ至る。
この男は、敵ではない。少なくとも、こちらを倒すことそれ自体が目的ではない。
だが味方でもない。こちらが守ろうとする秩序の手つきを、片端から暴いてくる。必要なら、制度だけでなく、それに対抗しようとする側の欺瞞すらもさらす。
つまり、最悪だ。
最悪で、だからこそ放置できない。
そのとき、廊下の突き当たりから、昨日の行政局の女が現れた。銀縁眼鏡の奥の目は冷たいままだが、その歩調に焦りが混じっている。
「何の騒ぎです」
「見れば分かるだろう」
ルルーシュが言い返すと、女は掲示板の紙を一瞥しただけで表情を消した。
「……撤去しなさい」
教師たちへ命じる。遅い。
球磨川が、横で楽しそうに首を傾げた。
『へえ。“そんなもの存在しません”って顔で来るかと思ったのに』
女の目が初めて球磨川に向く。
「君か」
『僕かもね』
「余計なことをしたな」
『余計って、つまり予定外ってこと? それとも、予定通りだけど早すぎたってこと?』
女の沈黙が、答えだった。
ルルーシュはそこを逃さない。
「行政局は、説明責任を果たせ。今すぐだ」
「その必要はありません」
「もうある」
ルルーシュは鋭く言い切った。
「名簿は公開された。対象生徒は知った。学園全体も知る。ここから隠蔽に入れば、自治実験ではなく拉致計画だと認識されるだけだ」
女は冷ややかに見返した。
「言葉を選びなさい、生徒会長」
「選ぶのはそちらだ。説明か、実力行使か」
廊下の空気が張る。
生徒たちが息を呑み、教師たちが動きを止める。ここが分岐点だ、と全員が感覚的に理解した。
そして、その緊張の真ん中で、球磨川が小さく笑った。
『ねえ、生徒会長』
ルルーシュは視線だけで応じる。
『今の、ちょっと王様っぽかったよ』
「黙っていろ」
『ひどいなあ。せっかく褒めたのに』
だが、その直後だった。
球磨川の視線が、掲示板ではなく、廊下の奥の窓へ向いた。
笑みが、ほんのわずかに薄れる。
ルルーシュはそれを見逃さなかった。
「どうした」
『……あれは、予定より早いな』
「何?」
球磨川が答えるより先に、外でサイレンが鳴った。
学園の非常サイレンではない。もっと低く、無機質な音。校門側から複数。車両の停止音。重い扉の開閉。
行政局の女の眉も、そこで初めてわずかに動いた。
ルルーシュは窓際へ走り、校庭を見下ろす。
黒い輸送車が三台。
そして、その横で整列する武装警備兵。
早すぎる。説明のための人員ではない。確保のための配置だ。
『あーあ』
球磨川が、珍しく少しだけ本気でうんざりした声を出した。
『ほらね。だから僕、待つの嫌いなんだ』
ルルーシュは振り返る。
「お前、何を読んでいる」
球磨川は廊下のざわめきの中で、彼だけを見た。
『きみがまだ、“このゲームには順番がある”って信じてること』