地下倉庫の扉には、鍵が掛かっていなかった。
「わざとだな」
ルルーシュは短く言った。
教師が見つけたという追加名簿は、段ボール箱に三つ。どれも行政局の封緘テープが貼られていたが、剥がされた痕はない。つまり、最初から開けられる形で置かれていた。
見つかる前提で。
「趣味が悪いわね」
ミレイが鼻で笑う。
「見せしめにしては回りくどいし、隠し場所にしては雑」
「“偶然見つかった”という体裁が欲しかったんでしょう」
ルルーシュは一枚ずつ名簿をめくった。
学園生徒。卒業生。非常勤講師。用務員。事務員。区分記号は同じだ。C、D、E。分類基準は書かれていない。だが、記号の横に小さく欄外注記がある。
――再適応対象
――監督継続推奨
――移管優先度高
「生徒自治実験だと?」
ルルーシュは乾いた笑いすら出なかった。
「自治の名を借りた、選別と収容の予備実験か」
『予備実験って言うと、ちょっと優しく聞こえるね』
倉庫の壁にもたれながら、球磨川が言った。
『こういうのはさ、だいたい“前からやってたことを、もっと雑に広げます”っていう予告みたいなものだろ』
「お前は知っていたのか」
『全部じゃないよ』
球磨川は肩をすくめる。
『でも、学園だけで終わる話じゃないだろうなとは思ってた。だって選別って、一回始めると対象が足りなくなるからね。落とす人間がいなくなったら、次は落とす基準のほうを増やすんだ』
ミレイが名簿をひったくるように見た。
「教員まで入ってるの、笑えないんだけど」
「笑うな」
「笑ってないわよ」
だがその声音には、いつもの軽さが薄い。
ルルーシュはすぐに整理に入った。感情で止まっている暇はない。
「ニーナ。名簿の紙質、印字、整理番号、全部記録しろ。行政局本体の正式文書か、それとも現場用の仮資料かを見分けたい」
「分かった」
「リヴァルは校内のどこまで漏れてるか再確認。特に教職員側だ。名簿に自分の名前があると知れば、隠蔽より先に自己保身へ走る可能性がある」
「う、うん」
「シャーリーは保健棟周辺の生徒を捌いてくれ。ここへ近づけるな。見せる情報と見せない情報を分ける」
「了解」
ミレイが、そこでわざとらしく手を挙げた。
「私は?」
「教師側の空気を読んでください。誰が行政局と繋がっているか、誰が怯えて黙るか、誰が学園側につくか」
「随分と便利に使うわね」
「先輩ほど適任はいません」
「そういうところだけ可愛げあるのよね」
全員が動く。
倉庫の中に残ったのは、ルルーシュと球磨川だけだった。
数秒、沈黙が落ちる。
段ボールの匂い。紙の乾いた音。外ではまだざわめきが続いている。止まったのは移送だけで、騒ぎそのものは止まっていない。
『で』
球磨川が先に口を開いた。
『ここからどうするの、王様』
「その呼び方はやめろ」
『じゃあ生徒会長』
「どのみち気に障る」
『贅沢だなあ』
球磨川は箱の縁に腰掛けた。
『でも、きみの顔がさっきより面白くなってきたのは本当だよ。学園の制度遊びだと思ってたら、思ったより外まで繋がってた。そこで初めて“消すべきもの”の大きさが変わった、って顔してる』
ルルーシュは名簿から目を離さない。
「消す?」
『うん。きみ、得意だろ。邪魔な制度を、最初からなかったことにするの』
静かな言い方だった。
そこに確信はない。断定もない。だが、皮膚一枚の下まで届く含みがある。
ルルーシュはようやく顔を上げた。
「それはどういう意味だ」
『そのままの意味だよ』
球磨川は、ひどく穏やかに笑っている。
『きみって、ちゃんと“勝ち方”を選ぶじゃないか。手札が一枚しかないふりをして、実際はもっと別のところから盤面をひっくり返せるのに、それをあんまり見せない』
「……妄想もそこまで行くと病気だな」
『そうかもね』
否定しない。
『でも、病人の勘って結構当たるんだぜ? 特に、説明のつかない整い方を見るときは』
ルルーシュは沈黙した。
ここで否定を重ねるのは下策だ。球磨川は嘘の有無ではなく、言い淀みや不自然な必死さから輪郭を取る。
だから、逆に一つだけ本音を混ぜる。
「……たとえ、そういう手段があったとしても」
『うん』
「それを使えば全部解決する、という話ではない」
球磨川がわずかに目を細める。
踏み込ませた。だが同時に、自分からも一歩だけ踏み出した。
「制度の一部を止めることと、制度が生まれる土壌を潰すことは違う。末端の指揮系統を乱せても、上流が無傷なら別の顔で再起する。目の前の群衆を従わせても、その従ったという事実が次の支配の材料になる」
『へえ』
球磨川は本当に少しだけ感心したように言った。
『いいね。ちゃんと万能感がない』
「あるわけがない」
『あるよ、普通は。力がある側って、大抵すぐそうなる』
ルルーシュは冷ややかに返す。
「お前の理屈なら、力がない側はすぐ被害者ぶることになるな」
『あはは。なるなる』
球磨川は楽しそうだ。
『僕なんて特にそうだし』
「自覚があるなら治せ」
『嫌だよ。せっかくの個性だもん』
言いながらも、その目は笑っていない。
ルルーシュはそこで、ようやく本題を切り出した。
「お前は何がしたい」
『大きい質問だなあ』
「小さくしてやろうか。今日、この場で、お前は何を勝ちに設定している」
球磨川は少し考えるふりをした。
『三つくらいあるかな』
「言ってみろ」
『一つ。今日の移送が止まること』
「半分は達成した」
『うん。でも半分だ』
球磨川は指を一本立てる。
『二つ。選ばれる側が、“守ってもらうために黙る”以外の選択肢を持つこと』
「面倒な言い方だな」
『だって“抵抗すること”って言っちゃうと安っぽいだろ。別に暴れろって言いたいわけじゃないし』
二本目の指。
『三つ目。きみが、綺麗な側にいながら綺麗な勝ち方を諦めること』
ルルーシュの視線が冷たくなる。
「それがお前の本命か」
『多分ね』
球磨川は、あっさり認めた。
『だってさ。制度なんて壊れて当然なんだよ。悪い制度は悪いし、偉い人間はたいてい趣味が悪いし。でも、その悪いものを止めようとする側まで、ずっと“自分は正しい手で勝てる”って思ってると、結局また別の制度が生まれるだけだろ』
「だから私に汚れろと?」
『違うよ』
球磨川は首を振った。
『汚れてることを認めろって言ってるだけ』
ルルーシュは数秒、彼を見た。
この男は、政治をしない。統治もしない。勝った後の形をまともに維持する気も薄い。だから責任を持たない。その代わり、責任を持とうとする人間の欺瞞だけは異様な嗅覚で見つけ出す。
最悪だ。
そして最悪である以上、こちらも利用し方を選ばなければならない。
「なら、お前にも答えろ」
『うん?』
「お前は、自分が壊す側にいることを認めるのか」
球磨川は、一瞬だけ黙った。
笑みはそのままだ。だが、まばたきの間だけ、どこか別の温度が混じった。
『認めるよ』
珍しく、迷いのない声音だった。
『だって僕、だいたいそういう役だから』
ルルーシュは、その言い方にわずかな違和感を覚えた。役。性質ではなく、役割として言った。
だが追及する前に、倉庫の外からミレイの声が飛んだ。
「ルルーシュ! 教師会議室、押さえたわ! でも来なさい、ちょっと面倒!」
ルルーシュは即座に名簿を抱え、倉庫を出た。
球磨川もついてくる。
「来るな」
『失礼だなあ。同伴者だよ』
「誰の」
『不穏分子代表候補の』
「立候補制にした覚えはない」
『だって推薦制だろ? じゃあ自薦でも他薦でも似たようなもんじゃないか』
教師会議室の前には、既に数人の教員が集まっていた。顔色は悪い。怒っている者もいる。怯えている者もいる。名簿に自分の名前がなかった教員ほど、「事態の沈静化」を口にしたがる空気が見える。
中へ入ると、昨日の行政局の女ではなく、学園長代理がいた。五十代半ば。普段は温厚さを制服のように着込んでいる男だが、今はその布地が薄い。
「ルルーシュ君、これはいったいどういうことだ」
「こちらが聞きたい」
ルルーシュは名簿を机へ置いた。
「この学園は、いつから教職員まで行政局へ分類提出する場所になった?」
代理は目を逸らした。
「提出という言い方は語弊がある」
「では何だ」
「協力だ」
『うわあ』
球磨川が、会議室の空気をまるで他人事みたいに撫でた。
『一番嫌いな言い換えだ』
「君は誰だね」
『球磨川禊。多分、今一番ここにいてほしくないタイプの生徒です』
「部外者は――」
「違う」
ルルーシュが遮った。
「彼は対象候補だ。部外者ではない」
学園長代理の眉がひくつく。
つまり会議から排除しにくい。球磨川をここに入れたのは、もちろん意図的だ。厄介だが、必要な厄介さでもある。
「説明してもらおう」
ルルーシュは座らずに言った。
「この名簿への教職員情報提供は、どの範囲で、いつから、誰の承認で行われた」
代理は苦い顔をした。
「正式承認ではない。試験区指定に先立つ、予備的な照会だ」
「誰が応じた」
「私と、一部の担当教員だ」
「理由は」
「学園を守るためだ」
球磨川が吹き出した。
『いいねえ』
「何がおかしい!」
代理が声を荒げる。
球磨川は、にこにこしたまま答えた。
『だって“守るために売った”って、すごく完成度の高い言い訳じゃないか。裏切りって、いつもそうやって立派な言葉着るんだよね』
「黙れ!」
『嫌だよ。だって今の、すごく大事なところだろ』
ルルーシュは球磨川を制さず、代理だけを見る。
「守るために、誰を切った」
「切ったわけではない!」
「なら、なぜ教職員の名前がある」
「……行政局は、強硬だった」
「答えになっていない」
代理の額に汗が滲む。
「拒めば、もっと広い介入を招く。だから限定的な情報提供で学園の裁量を残そうとした。それだけだ」
「限定的?」
ルルーシュは名簿を一枚、机へ叩きつけた。
「卒業生まで含めてか?」
代理が言葉に詰まる。
ミレイが低く言った。
「へえ。そこは聞いてなかった顔するんだ」
会議室が冷える。
ルルーシュは、そこで核心へ踏み込んだ。
「つまりお前は、自分が差し出した情報がどこまで使われるかも確認せず、“協力”したわけだ」
「違う、私は――」
「違わない」
『うん、違わないね』
球磨川があっさり重ねる。
『こういうのって、一番面白いのはさ。“悪いことをした自覚がない善人”が中心にいるとこだよ』
「君は人を侮辱しすぎる」
代理が睨む。
球磨川はきょとんとした顔で首を傾げた。
『え? 侮辱じゃないよ。褒めてもないけど』
そして、そのまま淡々と続けた。
『だって本当に悪い人は、売るとき売るって分かってるし。自分の得のためにやってるって自覚もある。でも先生みたいな人は違う。学園のため、生徒のため、波風を立てないためって思いながら、気付いたら他人の名前を並べた紙を渡してる』
代理の顔が赤くなる。
『そういう人が一番便利なんだよね。本人だけが自分を裏切り者だと思ってないから』
「黙れと言っているだろう!」
代理が机を叩いた。
その瞬間、会議室の空気が変わった。
怒鳴ったのは失敗だ。
自分の道徳的優位が削れた。
ルルーシュはそこを逃さない。
「この場で確認する」
彼は教師たちを見渡した。
「学園側は、教職員および生徒情報の追加提供を全面停止する。異論はあるか」
すぐには声が出ない。
出ないのは、同意ではなく、まだ代理の顔色を見ているからだ。
球磨川が、わざとらしく机の上の名簿をぺらりと捲った。
『どうせ今黙っててもさ、次に名前が載るの自分かもしれないのにね』
数人の教員が顔を上げた。
今だ、とルルーシュは判断する。
「この名簿には教員も含まれている。行政局は“協力者”と“対象”を区別していない。情報提供は、身を守る行為ではなく、自分の順番を後ろへずらしているだけだ」
ざわめき。
「だが順番は尽きる」
ルルーシュの声は静かだ。
「選別は、一度始まれば対象を増やすことでしか維持できないからだ」
球磨川が、小さく拍手した。
『いいね。やっと制度の悪口じゃなくて、制度の性質の話になった』
「黙ってろ」
『はーい』
だがその返事は、全く黙る気のない声音だった。
学園長代理が苦しげに言う。
「では、どうしろと言うんだ。全面対決か? 学園にそんな力があるとでも?」
ルルーシュは即答した。
「あるかどうかではない。あるように見せる」
代理が眉を寄せる。
「見せる?」
「行政局は、静かに運ぶとき強い。だが、説明を強いられ、記録を取られ、外部の目が増えるほど鈍る。なら学園全体を、静かに運べない場所へ変える」
ミレイが口元を上げた。
「なるほど。お行儀の悪い学園運営ね」
「平時ではありませんから」
「賛成」
ルルーシュは続けた。
「本日以後、対象候補の個別呼び出しを禁止する。教員の同伴がなければ移動しない。校内掲示は全て複写保存。保護者連絡は学園側主導で行う。さらに――」
彼は一拍置いた。
「評議会を前倒しで開催する」
会議室がざわつく。
代理が思わず聞き返した。
「今この状況でか?」
「今この状況だからだ。制度の外から抵抗すると、向こうは“不穏分子の妨害”として処理できる。なら制度の内側から、制度の顔を奪う」
「危険すぎる」
「承知の上です」
『へえ』
球磨川が、少しだけ愉快そうに言った。
『やるじゃないか、生徒会長。評議会を人質にするんだ』
「人質ではない」
『じゃあ盾?』
「舞台だ」
ルルーシュは言い切る。
「向こうが学園自治実験を掲げた以上、その看板ごと使う。公開の場で、代表選定の基準と移管条項の説明を求める。逃げれば自治の建前が死ぬ。答えれば制度の醜さが露出する」
ミレイが笑う。
「やっぱり詐欺師向いてるわよ、あんた」
『うん、僕もそう思う』
球磨川が素直に同意した。
ルルーシュは彼を一瞥した。
「だが、お前にも役目がある」
『へえ。とうとう使う気になった?』
「最初から使う気はあった。使い方を決めかねていただけだ」
『正直でよろしい』
「評議会で、お前は行政局の推薦代表として出ろ」
会議室の何人かが息を呑む。
球磨川は、少しだけ目を丸くした。
『僕を? ひどいなあ。絶対揉めるぜ?』
「知っている」
『きみの盤面、ぐちゃぐちゃになるよ』
「お前を外で好き勝手に喋らせるよりは、盤上に置いたほうがまだ読める」
球磨川は数秒黙り、それからゆっくり笑った。
『あはは』
その笑いは、今までで一番球磨川らしかった。愉快で、皮肉で、少しだけ残酷で、なにより嬉しそうだった。
『いいねえ、それ。最高に失礼だ』
「受けるのか」
『受けるよ』
即答だった。
『だってさ、生徒会長。きみ今、“問題児を排除する”んじゃなくて、“問題児ごと制度に押し込む”って言ったんだぜ? そんなの断るわけないだろ』
「そうか」
『うん。だから約束してあげる』
球磨川は、会議室の全員がいる前で、やけに優しい声を出した。
『僕、ちゃんとこの評議会を壊してあげるよ』
教師たちの背筋が凍る。
だがルルーシュだけは、表情を変えなかった。
「期待している」
ミレイが、呆れたように笑う。
「終わってるわ、この学園」
「これからです」
ルルーシュがそう言った瞬間、会議室の扉がノックもなく開いた。
昨日の行政局の女が入ってくる。今度は一人ではない。背後に、軍服ではないが軍人の匂いを消しきれていない男を連れている。三十代後半。無駄のない姿勢。階級章は外しているが、ただの文官ではない。
空気が変わる。
本命だ、とルルーシュは直感した。
男は会議室を一瞥し、最後にルルーシュへ視線を止めた。
「初めまして、生徒会長」
声は穏やかだ。だからこそ危ない。
「行政局監査官、ロイド・バルフォア補佐官付の臨時調整官、ヴァイスです」
偽名かもしれない。だが問題はそこではない。
「本日の移送保留について、再協議に来ました」
ミレイが低く呟く。
「早いわね」
『そりゃそうだろうね』
球磨川が楽しげに言う。
『だって向こうからしたら、“一回止まった理由”のほうが怖いんだから』
ヴァイスと名乗った男の視線が、そこで初めて球磨川へ向いた。
そして、ほんのわずかに笑う。
「なるほど。君か」
球磨川の笑みが、そこで一瞬だけ止まった。
今度はルルーシュも見逃さなかった。
初めてだ。
球磨川禊が、相手を見てから一拍遅れた。ほんの僅かだが、明確に。
『へえ』
球磨川はすぐに笑みを戻した。
『僕を知ってるんだ』
「少しだけ」
ヴァイスは静かに答える。
「君のような生徒は、分類表の外にいるので」
その一言で、会議室の温度がさらに下がった。
分類表の外。
それは排除ではない。もっと厄介な意味だ。計測不能。既存の尺度で扱えない。つまり、最初から別枠で見られている。
球磨川は笑っている。
だが、その笑顔の奥で、何かがわずかに軋んだのを、ルルーシュだけは見た。
そしてルルーシュは理解する。
この男には、この男なりの“踏まれたくない地雷”がある。
なら――使える。
「再協議、ですか」
ルルーシュはヴァイスへ向き直る。
「ちょうどいい。こちらも、評議会の前倒し開催を決めたところだ」
ヴァイスが目を細める。
「評議会を?」
「ええ。自治実験を掲げる以上、公開の場で話しましょう。代表選定基準、移管条項、教職員名簿の混入、そのすべてを」
男は黙ってルルーシュを見た。
『あーあ』
球磨川が、妙に楽しそうに呟く。
『始まっちゃった』
ヴァイスは、その声を聞いても視線を逸らさなかった。
「いいでしょう」
その返答は予想より早い。
「ただし、条件があります」
ルルーシュの目が細まる。
「何だ」
ヴァイスは、ゆっくりと会議室を見渡したあと、最後に球磨川へ視線を落とした。
「球磨川禊君にも、必ず出席してもらう」
数人が息を呑む。
ルルーシュは無言で相手を観察する。誘導か、確認か、あるいは挑発か。
球磨川は、笑ったままだ。
『やだなあ』
そう言う声だけが、少しだけ乾いていた。
『まるで僕が主役みたいじゃないか』