録音データの波形は、必要以上に整っていた。
ニーナが端末を操作する指先は速い。停止、巻き戻し、増幅、ノイズ除去。画面の上で、評議会開始前の舞台袖マイクが拾った微かな音が、繰り返し引き伸ばされる。
『――一度でも止まった原因を特定しろ』
男の声。
ヴァイスではない。もっと低い。感情が削られた声だ。命令というより、既に決まっている手続きを確認しているだけの声。
続けて、ヴァイスの声が小さく返る。
『候補は三つ。現場判断の逸脱、学園側の事前浸透、あるいは――』
そこでノイズが入る。ニーナが眉を寄せる。
「ここ、どうしても削れない」
『……あるいは、説明不能な外的介入』
球磨川が、横で楽しそうに笑った。
『うわ。説明不能だって』
「黙っていろ」
ルルーシュは低く言った。
ニーナがこちらを見る。
「これ、まずい?」
「まずい」
即答だった。
ヴァイスは止まった理由を“担当者の気まぐれ”では済ませていない。しかも、単なる学園側の工作だけでなく、“説明不能”という分類まで用意している。
まだ何も掴んではいない。だが掘る姿勢がある。姿勢がある相手は、そのうち痕跡を見つける。
「このデータはコピーを三つ。ひとつは校外保管、ひとつは保護者代表経由、もうひとつは生徒会側で管理する。原本は改竄されたときのためにタイムスタンプを残せ」
「分かった」
ニーナが出ていく。部屋に残るのはルルーシュと球磨川だけになった。
夜はもう深い。学園の特別棟の一室。生徒会関連の臨時作業室として押さえた場所だ。窓の外には講堂裏の樹木が黒く沈み、遠くに警備灯だけが浮いている。
球磨川は、その灯りのほうを見たまま言った。
『で、どうするの?』
「何がだ」
『“説明不能”さんのこと』
ルルーシュは答えない。
球磨川は振り向き、薄く笑った。
『あれ、違った? でもさあ、生徒会長。きみ、今日の途中で一回だけ、すごく嫌な速さで物事を曲げたろ』
「妄想だな」
『そうかもね』
否定は軽い。だが、そこで終わらない。
『でも、妄想にしては綺麗すぎるんだよなあ。あの女の人、急に止まったろ。しかも“自分で止めたっぽい形”にまでなってた。うん。普通じゃない』
ルルーシュは、静かに球磨川を見る。
やはり見えているわけではない。だが、異常の輪郭は掴んでいる。そしてこいつは、その輪郭に対する執着が強い。
「それで?」
『別に。それだけ』
球磨川は肩をすくめた。
『ただ、きみがそういう“手っ取り早いこと”を、誰にでもやるタイプじゃないのは分かったってだけ』
「買いかぶりだ」
『どうだろうね』
球磨川は窓際から離れ、机の縁へ腰を預けた。
『でも、少なくとも僕にはやってないだろ?』
ルルーシュは沈黙した。
球磨川の笑みが、ほんの僅かに濃くなる。
『あはは』
「何が可笑しい」
『いや、ちょっと安心しただけ』
「何にだ」
『きみ、僕を雑に片づける気はないんだなって』
ルルーシュは否定しなかった。
否定しても意味がない種類の勘だ。なら、むしろ制御すべきは沈黙の形だ。
「仮に、だ」
『うん』
「人を手っ取り早く従わせる手段があるとして。お前のような不確定要素に対して、それを考えないほど私は甘くない」
『うわ。言い切った』
「だが」
ルルーシュは視線を逸らさない。
「お前には、使っていない」
球磨川が、そこでわずかに首を傾げる。
『へえ。意外だな』
「そうか?」
『うん。だってきみ、必要ならちゃんとズルできる側の人間だろ』
「だからこそだ」
『なにそれ』
ルルーシュは数秒考え、それから言葉を選んだ。
「お前に命令を通したところで、得られるのは“従ったお前”だけだ。だが私が知りたいのは、“なぜお前がそういう歪み方をするのか”のほうだ」
球磨川は静かに聞いている。
「お前の価値は服従性にない。反発の仕方、嘲笑の角度、どの侮辱に反応し、どの大義に噛みつくか。その揺れが読めなくなるなら、強制する意味が薄い」
『うわあ』
球磨川は楽しそうに言った。
『分析されてるなあ、僕』
「不満か?」
『いや、割と嬉しいよ。人ってたいてい僕のこと、もっと雑に嫌うから』
それから、少し間を置いて。
『でも、半分は建前だろ』
「何?」
球磨川は笑う。
『きみ、僕にそれを使わないの、“読めなくなるから”だけじゃない』
ルルーシュの目が細まる。
「どういう意味だ」
『簡単だよ』
球磨川は指先で机を小さく叩いた。
『僕ってさ、もし誰かに“分かったつもり”で上から決められそうになったら、すごく嫌がるだろ。きみ、それを何となく見抜いてるんだよ』
「何となく、だと?」
『うん。きみ、僕のこと分かってないだろ。でも、分からないなりに、“雑に押さえつけるとろくな反応しない”って勘づいてる』
ルルーシュは、そこで初めて短く息を吐いた。
それは当たっていた。
球磨川に対して、ルルーシュが一度もギアスを向けていない理由は、単に利用価値の問題だけではない。
もっと曖昧で、もっと本能的な拒否感がある。
こいつにそういう力を使えば、単に「従う・従わない」では済まない気がするのだ。
説明はできない。根拠も薄い。だが、球磨川と最初に会ったときからずっと、そういう種類の気味の悪さがあった。
言葉の通じない相手ではない。むしろ通じすぎる。
だが、通じた言葉の前提ごと、平然と踏み外してきそうな気配がある。
『ねえ、生徒会長』
球磨川が言う。
『きみ、僕にそれを使ったらさ。“はい、言うこと聞きます”で終わらないかもしれないって思ってるだろ』
ルルーシュは答えない。
球磨川は、それを肯定と受け取ったらしい。
『いい勘してるね』
「自画自賛か」
『いや、自虐』
球磨川は笑った。
『僕、自分に都合の悪い前提って嫌いなんだよね。とくに、誰かに勝手に決められたやつ』
軽い言い方だった。
軽いのに、ルルーシュの内側では警戒が一段深く沈む。
そうだ。
球磨川にギアスを使わなかった理由は、一つではない。
従わせたところで本質が読めなくなる。それもある。
だがもう一つ、もっと単純で、もっと厄介な理由がある。
こいつに“強制された”と気づかれる形で踏み込めば、何が起きるか読めない。
効くかもしれない。効かないかもしれない。あるいは、もっと嫌な壊れ方をするかもしれない。
それが分からない以上、切り札としては危険すぎる。
「……仮にそうだとしても」
ルルーシュは低く言った。
「だからといって、お前の好きにさせる理由にはならない」
『うん、もちろん』
球磨川は即答した。
『僕も、きみに好きにされたくないし』
その返しの速さが、妙に自然で腹が立つ。
『でもさ』
球磨川は机に腰掛けた。
『他の人には使えるんだよな』
ルルーシュは答えない。
『今日のあの女の人とか』
静かに核心へ触れる。
『ああいうの見ると、分かるよ。きみの“速さ”って、ただ頭が回るとか、口が上手いとか、そういうのと少し違う』
「少し?」
『うん、だいぶ』
球磨川は笑った。
『だから、今後ヴァイスがそこ掘ってくるの、結構めんどくさいね』
「分かっている」
『本当に?』
「何が言いたい」
球磨川は、そこで珍しく真面目な顔をした。
『きみ、切り札を秘密にしたいんだろ? でも秘密って、隠してるだけだと、“隠されてるものがある”こと自体が情報になるんだよ』
正しい。
ヴァイスはもうそこまで来ている。ギアスの正体ではなく、“通常の交渉や威圧では説明のつかない停止”があったことを問題にしている。正体が何かは分からなくても、そこに未知の要素があると知れば、あとは観察を重ねるだけだ。
「だから?」
『だから、逆に増やせばいい』
「は?」
球磨川は面白そうに指を一本立てた。
『説明不能を一個だけにするからバレるんだよ。二個、三個って増やして、“何が本物の異常なのか”分かんなくしちゃえばいい』
ルルーシュは数秒、黙った。
馬鹿げている。だが、思考としては筋が通っている。未知の要素一つは追跡できる。未知が複数あれば、相手は分類に困る。
「具体案はあるのか」
『あるよ』
球磨川は即答した。
『次、僕がちょっとわけ分かんないことする』
「それはいつもだろう」
『褒めるなよ』
「褒めていない」
『でも今回は、もう少しちゃんと“説明不能”にする。そうすれば、きみの変な速さと、僕の変な壊れ方が同じ袋に入るかもしれない』
ルルーシュの目が細まる。
「その袋は、私にとって都合が悪い」
『うん。でもヴァイスにとっても悪い』
球磨川は、そこで少しだけ真顔になった。
『あの人さ、理解できないものを嫌うんじゃないんだよ。理解できないものを、“理解不能として整理できない”状態を嫌うんだ。だから、きみ一人が異常だと、頑張ってきみを整理しに来る。でも僕まで混ざると、結構うざいだろ?』
その分析は鋭かった。
ヴァイスは異常を恐れてはいない。むしろ異常を事例化し、管理表へ落とす側の人間だ。だから厄介なのは、異常そのものではなく、異常どうしが干渉して分類不能になること。
『ねえ、生徒会長』
球磨川が言う。
『共犯になろうぜ』
「断る」
即答。
『早いなあ』
「お前と共犯などロクなことにならん」
『もう十分ロクでもないだろ、今さら』
ルルーシュは、その言葉にだけは反論しなかった。
窓の外で、警備灯が一つ消えた。交代の時間か、それとも配置変更か。
ヴァイスは今日引いた。だが引いたままでは終わらない。確実に次を仕込む。そのとき問題になるのは制度の是非だけではない。学園のどこに未知の介入要素があるのか、その特定だ。
球磨川を利用する。
それは危険だ。だが危険であること自体が、今は利点にもなる。
「……一つだけ言っておく」
ルルーシュは低く言った。
「私がお前にそれを使わない理由は、読めなくなるからだけではない」
『へえ』
「お前に使った瞬間、こちらが今批判している側と同じになる。それはまだ早い」
球磨川が、そこで少しだけ目を細めた。
『まだ、ね』
「揚げ足を取るな」
『取ってないよ。嬉しかっただけ』
「何がだ」
『きみ、自分が汚れること自体は否定しないんだなって』
ルルーシュは答えなかった。
球磨川は、それを勝手に肯定と受け取ったらしい。
『いいねえ』
ひどく機嫌よく笑う。
『やっぱり、きみと喧嘩するの楽しいや』
そのとき、扉がノックされた。
ミレイだ。珍しく笑っていない顔で入ってくる。
「二人とも、悪いけどふざけてる場合じゃないわ」
「何があった」
ミレイは一枚の紙を机に置いた。
保護者会名義の臨時通達。だが末尾に見慣れない追記がある。
――行政局より、対象生徒の安全確認のため、明朝七時に校内簡易面談を実施する。
――個別移送ではないため、保留措置には抵触しない。
ルルーシュの目が鋭くなる。
「来たか」
『うわあ』
球磨川が楽しそうに笑う。
『すごいね。ほんとに“より洗練された形”で来た』
移送はしない。だが面談を行う。個別呼び出しではない。安全確認だ。名目を変え、手続の表面だけ磨いて、本質は維持する。
ヴァイスの反撃は早い。
「場所は?」
「中央棟一階の相談室群。六室同時進行」
ミレイが答える。
「保護者も同席可、だって。すごく丁寧そうな顔してる」
「面談記録を取る気だな」
ルルーシュは即座に読む。
「今日の評議会で露出した反発度を測る。場合によっては、保護者ごと分類する」
『いいねえ』
球磨川が机から降りた。
『やっぱり向こう、諦めてない』
「当たり前だ」
「どうするの?」
ミレイが問う。
ルルーシュは答えかけ、そこで一瞬だけ球磨川を見た。
説明不能を増やせ。
さっきの提案が脳裏をよぎる。
『言っただろ』
球磨川がにやりと笑う。
『一個だけだと追いやすいんだよ、異常って』
ルルーシュは数秒考えた。
そして、静かに決める。
「面談は受けさせる」
ミレイが眉を寄せる。
「え?」
「ただし、六室全部で、同じ質問に違う答えが出るようにする」
『あはは』
球磨川が心底嬉しそうに笑った。
『ほら。やっぱりきみ、そういうの好きじゃないか』
「誤解するな。これは防御だ」
『うんうん、防御防御』
全く信じていない顔だ。
だがルルーシュは構わず続ける。
「面談官の記録を汚す。誰が何を基準に見ているかを炙り出す。そのために、回答者をこちらで配置する」
「待って、それって」
ミレイが息を呑む。
「囮を入れるの?」
「囮ではない。鏡だ」
ルルーシュは言い切った。
「向こうの質問の質を映すための」
球磨川が、小さく拍手した。
『いいね。明日の朝、ちょっと楽しくなってきた』
ルルーシュは、その笑みを見ながら冷静に判断する。
明日の面談は、制度の綺麗な顔をした再侵入だ。
ならこちらも、綺麗に壊すだけでは足りない。
見えない異常を、見える矛盾へ変える必要がある。
そして、そのための最悪の材料が、目の前に一人いる。
「球磨川」
『うん?』
「お前は三番目の部屋に入れ」
『へえ。指名制だ』
「面談官に、“お前に何が見えているつもりなのか”を喋らせてこい」
球磨川は、一瞬だけ目を丸くしてから、ひどく嬉しそうに笑った。
『了解』
その返事だけが、やけに素直だった。