ヴァイスが去った廊下には、引き潮みたいに人の気配だけが残っていた。
相談室の扉は半開き。椅子の脚がずれたまま。紙コップの水は飲み残され、記録用紙の端は微妙に折れている。何も起きていないふりをするには、あまりにも生々しい散らかり方だった。
『最高じゃないか』
球磨川が嬉しそうに言った。
「お前だけだ」
ルルーシュは短く返した。
だが、その声音にいつもの余裕は薄い。球磨川も気づいたらしく、楽しそうに首を傾げた。
『へえ。珍しく本当に嫌そうだ』
「嫌に決まっている」
「ルルーシュ」
ミレイが低い声で呼ぶ。
「保護者代表と教師側の数人、すぐ話したいって。面談の記録を止めたい人と、逆にもっと公開したい人で割れてる」
「想定内です」
「それだけじゃないわ」
ミレイは少しだけ言い淀んだ。
「三番目の部屋の録音、東雲側が一時提出拒否してる」
球磨川が吹き出した。
『うわあ。壊れたの、自覚あるんだ』
「当然だ」
ルルーシュは即答した。
「一番渡したくないのが三番目になる。なら、そこが一番価値がある」
「どうする?」
「回収する」
ミレイが眉を上げる。
「強気ね」
「強気ではない。向こうが一番嫌がるものをこちらが欲しがるのは、普通だ」
『詐欺師だなあ』
球磨川がしみじみ言う。
「褒めていないのは分かっている」
『でも褒めてるよ』
廊下の先から、慌ただしい足音が近づいてきた。リヴァルだ。息が上がっている。
「ルルーシュ! 校門の外、記者が来てる!」
「どこの」
「学園新聞とかじゃなくて、ちゃんとした外の。昨日の保護者経由かな。あと、ネットにも“選別面談”って単語がもう出てる」
ミレイが小さく口笛を吹いた。
「早い」
「早すぎるくらいです」
ルルーシュは一瞬で計算を組み替える。
外部の目は盾になる。だが同時に、場の主導権を奪う。こちらが意図した公開と、外から消費される炎上は違う。違うが、もう分けてはいられない。
「リヴァル、外には“本日の面談は中止、詳細は午後に文書で説明予定”とだけ伝えろ。推測で喋るな」
「了解」
「誰が話したがっているかだけ一覧にしてくれ。保護者、教員、生徒、全部だ」
「分かった」
リヴァルが走り去る。
球磨川が、廊下の壁に背を預けたまま言った。
『面白くなってきたねえ』
「面白がるな」
『無理だよ。だって昨日までは学園の中だけで完結するはずの話だったのに、もう外が覗いてる』
その言い方が妙に引っかかった。
覗いている。介入しているではなく、覗いている。
ルルーシュは球磨川を見る。
「何が言いたい」
『別に』
球磨川は笑った。
『たださ。外から見られると、制度って急に恥ずかしがるだろ。でも本当に面白いのって、恥ずかしがる制度じゃなくて、“見られてる前提で上品に振る舞い始める制度”なんだよね』
「ヴァイスのことか」
『うん。あの人、絶対そっちだ』
ミレイが苛立たしげに腕を組む。
「嫌ね。つまり、もっと感じのいい悪役になるってこと?」
『そうそう』
球磨川は嬉しそうだった。
『“強制じゃありません、選択です”“分類じゃありません、支援の優先順位です”“移送じゃありません、環境変更です”って、だんだん日本語が綺麗になっていく』
ルルーシュは、その未来図を嫌というほど正確に想像できた。
制度は正面から殴られて学ぶ。だが学んだ結果、善くなるとは限らない。むしろ、より反発されにくい顔を覚えるだけのことがある。
「なら、その前に固定する」
ルルーシュは言った。
「昨日と今日の言葉を、逃げられない形で残す」
ミレイが頷く。
「保護者会、教師代表、生徒会、三者連名で?」
「足りない」
ルルーシュは即答した。
「面談参加者本人の短い陳述も欲しい。向こうの文言より、聞かれた側の違和感を記録にする」
『へえ』
球磨川が笑う。
『きみ、ほんとにちゃんと“見た側”を増やすんだな』
「お前は減らしたいのか」
『まさか。増やしたほうが壊しやすいだろ』
「最低だな」
『知ってる』
そのとき、第三相談室の奥から、わずかな物音がした。
誰かいる。
ルルーシュはすぐに扉へ向かった。中にはもう誰もいないと思っていた。だが、記録補佐の女が、机の脇に膝をついて何かを探していた。顔色はまだ悪い。
ルルーシュが入ると、彼女はびくりと肩を揺らした。
「……何をしている」
「メモを」
「メモ?」
女は床の下を見たまま答える。
「落としました」
球磨川が後ろから覗き込む。
『へえ。面談中の私的メモ?』
女の指が止まる。
ミレイがルルーシュの横へ来て、柔らかい声で言った。
「見つかった?」
女は答えない。
代わりに、ルルーシュの視界の端が、一枚の小さな紙片を捉えた。机の脚の下に半分入り込んでいる。
彼はしゃがみこみ、先に拾った。
女が、明確に顔色を変える。
紙片は雑だ。公式記録用紙ではない。個人メモだ。
そこに走り書きで、いくつかの語句が並んでいる。
――自己位置づけの揺れ
――定義拒否強
――誘導質問を逆利用
――敵意より観察欲
――「生徒会長」への帰属反応あり
最後の一行で、ルルーシュの目が止まる。
球磨川が横から覗いた。
『うわ』
楽しそうだった。
『ちゃんと見られてるなあ、僕』
ミレイが顔をしかめる。
「何これ。研究対象じゃないのよ」
女が小さく言った。
「補助記録です」
「誰の指示だ」
ルルーシュの声は低い。
「東雲補助官の」
「提出先は」
女は答えない。
ルルーシュは、その沈黙を半分肯定として受け取った。
ヴァイスまで上がる。
当然だ。
球磨川はメモを見ながら、やけに楽しそうに首を傾げた。
『でも、最後のやつは間違ってるかな』
「何がだ」
『“帰属反応あり”ってとこ』
ルルーシュは視線を向ける。
球磨川は、笑みのまま言った。
『帰属じゃないよ。もっと嫌なやつ』
記録補佐の女が、そこで初めて球磨川を正面から見た。観察対象を見る目ではない。少し怯えた目だ。面談で壊れたのは東雲だけではなかったらしい。
ルルーシュはメモを折りたたむ。
「これは預かる」
「困ります」
女が反射的に言った。
「困る?」
ルルーシュは冷ややかに繰り返す。
「なぜだ」
「内部記録なので」
「内部で済ませるつもりか」
女は口を閉ざした。
ミレイがため息をつく。
「もう駄目ね。こういう“うっかり本音が見えた紙”って、一番外に出したくなる」
『分かる分かる』
球磨川が嬉しそうに同意する。
『だって、綺麗な制度っていつも最初に“人をどう見てるか”を隠すからさ』
ルルーシュは、そこで決めた。
「これも写す」
ミレイを見る。
「保護者代表に回してください」
「了解」
「待ってください!」
女の声音が少し上ずる。
「それは、個人の……」
「個人の何だ」
ルルーシュは問い詰める。
「感想か? メモか? 観察か? 分類か?」
女は何も言えない。
ルルーシュは静かに言った。
「自分たちが人を見る言葉だけは非公開でいたい、というのなら、それこそ今日の問題の縮図だ」
沈黙。
球磨川が、そこでくつくつと笑った。
『ねえ、生徒会長』
「何だ」
『今の、結構いいね』
「講評はいらない」
『でも本当に。きみ、最近ちょっと僕の好きな種類の嫌な奴になってきた』
「最悪の評価だな」
『褒めてるんだけどなあ』
第三相談室を出る。
廊下の空気は、さっきよりさらに張っていた。面談が中止になった話が広がっている。保護者たちの表情は一様ではない。安堵、怒り、不信、そして一部には妙な高揚もある。制度が止まる瞬間を見るのは、当事者であっても感情を歪める。
「午後の文書、どうする?」
ミレイが聞く。
「二本立てです」
ルルーシュは答えた。
「ひとつは事実関係だけ。面談の中止、録音保存、記録共有要求。もうひとつは、質問内容の傾向分析。こちらは内部配布に留める」
『あれ』
球磨川が言う。
『外に出さないんだ』
「全部を一度に外へ出すと、向こうが“悪意ある切り取り”で逃げる」
「へえ。珍しく我慢するんだ」
「我慢ではない。順番だ」
球磨川は、その言葉にだけは少し反応した。
『順番、ねえ』
嫌いそうな響きだった。
ルルーシュはそれを承知で続ける。
「今は面談の中止を、向こうの後退として固定するほうが先だ。観察メモまで一緒に出せば、向こうは“担当者個人の不適切メモ”に矮小化してくる」
「まあ、それはしそうね」
ミレイが頷く。
「で、固定してから次に刺す」
「そうです」
球磨川が少し黙り、それから笑った。
『偉いなあ』
「何がだ」
『ちゃんと勝ち方が汚い』
ルルーシュは返さなかった。
その代わり、少し離れた窓の外を見た。校門の向こうに、確かに報道車両らしき影が一台止まっている。まだ本格的な取材陣ではない。だが時間の問題だ。
今ここで必要なのは、熱を失わず、燃やしすぎず、向こうに整理の時間だけは与えないこと。
そのとき、廊下の端から小さな声がした。
「すみません」
昨日、評議会で質問した保護者の女性だ。今度は一人ではなく、もう二人別の保護者を連れている。
「保護者側で、独自に記録をまとめたいんです」
ルルーシュは即座に頷いた。
「歓迎します」
「ただ」
女性は球磨川をちらりと見る。
「この子の扱いだけ、決めておいたほうがいいと思う」
球磨川が口を尖らせた。
『ひどいなあ。荷物みたいに』
「半分は荷物でしょ」
ミレイが即答する。
保護者の女性は続けた。
「さっきの面談、たしかにこの子が壊した。でもそのせいで、向こうがこの子を中心に見始めるなら、制度の問題が“変わった一人の問題”にすり替わる危険もある」
ルルーシュは、それを聞いて短く息を吐いた。
まったくその通りだ。
そして厄介なことに、その危険性はさっきから自分も考えていた。
球磨川禊は強い。だが強すぎる異物は、時に制度の醜さを隠す。全部を「アイツが変だから」で処理させる免罪符にもなりうる。
「どうすればいいと思いますか」
ルルーシュが問うと、女性は少しだけ考えた。
「この子一人に代表させないことです」
球磨川が笑う。
『へえ。僕、代表っぽい?』
「っぽいじゃない。目立つの」
女性はきっぱり言った。
「目立つ人を中心に据えると、あとから“特殊事例への対応だった”って言われる。うちの子みたいな、もっと普通に怯えてる側が見えなくなる」
ルルーシュは頷いた。
その通りだ。
「ありがとうございます。重要です」
女性は会釈して去った。
球磨川は、その背中を見ながら、面白そうに言った。
『嫌われてるね、僕』
「違う」
ルルーシュは言う。
「お前が便利すぎるんだ」
球磨川が、そこで一瞬だけ目を細めた。
『へえ』
「向こうにとっても、こちらにとってもな」
『なるほど』
笑う。
だが、その笑みの奥でほんの少しだけ、別の温度が混じった気がした。
「……何だ」
『いや』
球磨川は肩をすくめる。
『便利って言われるの、ちょっと久しぶりだなと思って』
その一言は軽い。だが、なぜか引っかかった。
ミレイが空気を切るように言った。
「じゃあ決まりね。保護者会の文書は、“複数の参加者が共通して感じた違和感”を軸にする。個別に目立った子は、あくまで一例」
「ええ」
ルルーシュは頷く。
「球磨川は前に出しすぎない」
『えー』
「不満か」
『うん。ちょっと』
「我慢しろ」
『嫌だなあ』
だがその不満も、本気ではなさそうだった。少なくとも半分は演技だ。
そのとき、ルルーシュの携帯端末が震えた。
カレンからだ。
彼は少し離れて応答する。
「何だ」
『悪い報せ』
カレンの声は低い。
『行政局の“簡易面談”担当者のうち二人、正式所属が違う。片方は心理系じゃない。情報局寄りよ』
ルルーシュの目が細まる。
「もう一人は」
『軍の民間協力枠。名前は偽装されてる可能性が高い』
「……やはりか」
ただの制度調整ではない。学園を実験場にした、複数機関の混成運用。
『それともう一つ』
カレンが続ける。
『昨日止まった件、向こうは“発令系統の乗っ取り”を疑ってる』
ルルーシュの呼吸が一拍だけ止まる。
『単なる説得とか脅しじゃなく、命令そのものが変質した可能性があるって』
そこまで来たか。
まだ何も分かってはいない。だが、方向は危険だ。
『どうする?』
「今日以後、行政局の現場責任者クラスには安易に近づかない」
『珍しいわね』
「当然だ」
ルルーシュは低く言う。
「向こうが“何かおかしい”と知っていて、こちらも同じだと知っているなら、次は観察の精度を上げてくる。使うなら、意味ごと偽装できる局面だけだ」
通話を切る。
振り返ると、球磨川が少し離れた位置からこちらを見ていた。
『嫌な顔してるなあ』
「お前に関係ない」
『どうだろうね』
球磨川は笑う。
『きみの嫌な顔って、大体僕にも関係あるよ』
ルルーシュは、その言い方にだけは反論しなかった。
それが気に入ったのか、球磨川は妙に機嫌よく続ける。
『ねえ、生徒会長。さっきの保護者の人、正しかったね』
「どの話だ」
『僕を前に出しすぎると、“制度が悪い”じゃなくて“変な奴が騒いだ”になるってやつ』
「そうだな」
『じゃあさ』
球磨川は首を傾げた。
『今度は、僕が一番後ろにいればいいんじゃない?』
ルルーシュは少し考えた。
「……どういう意味だ」
『簡単だよ』
球磨川は、やけにあっさり言った。
『次の勝負、僕は最初から喋らない』
ミレイが怪訝そうな顔をする。
「あなたが?」
『うん』
球磨川は笑う。
『だって僕、目立つんだろ? じゃあ今回は、もっと普通の人たちが喋るようにしたほうがいい』
ルルーシュはその言葉をすぐには信じなかった。
こいつが自分から一歩引くときは、たいてい別の一歩を深く踏み込むためだ。
「何を企んでいる」
『失礼だなあ』
球磨川はけらけら笑った。
『でもまあ、企んでるよ』
「やはりな」
『だって喋らないのと、何もしないのは別だろ?』
ミレイが額を押さえる。
「最悪」
『知ってる』
球磨川はにこにこしている。
だがルルーシュには、そこで一つの形が見えた。
そうか。
球磨川を前に出さず、なおかつ向こうの視線を攪乱する方法がある。こいつ自身が口を閉じれば、今度は「誰がこの場を歪めているのか」の特定が遅れる。しかも、その裏でこいつが動けば、ヴァイスは異常の起点を見失う。
危険だ。だが、使いどころはある。
「……面白い」
ルルーシュが小さく言うと、球磨川の目が少しだけ輝いた。
『へえ。今の、褒めた?』
「勘違いするな。手としては、だ」
『十分十分』
球磨川は嬉しそうだった。
廊下の窓から差す朝の光が、少しずつ強くなっている。白い床に長く伸びた影が、もう昼へ向かって縮み始めていた。
制度はまだ死んでいない。
ヴァイスも引いていない。
そしてこちらも、もう元の盤面には戻れない。
ルルーシュはゆっくりと廊下を歩き出した。
「午後までに、保護者・教師・生徒の三者文書を揃える。面談録音は複製を確保。外部向け文書は温度を上げすぎず、だが行政局が“自発的停止”に見せる余地は潰す」
ミレイが頷く。
「了解」
「それと」
ルルーシュは少しだけ振り返った。
「球磨川」
『うん?』
「お前、本当に次は喋るな」
球磨川は、一秒だけきょとんとした顔をしてから、吹き出した。
『うわあ』
「何だ」
『いや、きみ、そういうとこ本当にいいよね』
「質問に答えろ」
『分かったよ』
球磨川は、ひどく楽しそうに笑った。
『じゃあ次は、ちゃんと静かにめちゃくちゃにする』
ミレイが顔をしかめる。
「日本語が壊れてるのよ」
『壊れてるのは好きなんだ』
ルルーシュは、その言葉を聞き流しながらも、心の奥で別の警戒を深めていた。
球磨川が静かになるとき。
それは大抵、言葉ではなく構造を壊しに来るときだ。
そして、そういう壊し方こそ、本当に厄介だ。