ある日の高梨家。
「う……うう……美織ちゃん……」
一人の女性が、涙を浮かべていた。
「よさないか。美織はもう一人の大人だ」
隣でなだめるのは、五十代ほどの男性。白髪の混じった頭をかきながら、ため息をつく。
二人は夫婦――美織の両親だった。
「でも、あの子……あんなに苦しんでいるのよ……」
そのとき、二階から足音がした。
階段を下りてきたのは、若い女性――真由。
「美織は?」
「薬、飲ませといたよ」
ぶっきらぼうに答える。
美織の妹で、大学一回生。十八歳だ。
「大丈夫かしら……あんなに苦しそうだったのに」
「気持ちは分かる。でも、今は寝かせておくしかない」
両親が神妙な顔でうなずき合う。
――その横で。
「お父さん、お母さん。言っていい?」
「なんだ?」
「どうしたの?」
「お姉ちゃん、ただの二日酔いだからね」
一瞬、沈黙。
真由は思い出す。
ビール、サワー、カクテル。
空き缶、空き瓶、つまみの袋。
足の踏み場もない、惨状。
「大袈裟すぎるでしょ!!」
思わず声を張り上げた。
「だからだよ」
「だからよ」
両親の声が、見事にハモる。
「大人として、あの生活態度はどうかと思う」
「そうよ。あれじゃ彼氏なんてできないわ。一生独身よ」
――それこそ。
異星人でも捕まえてこない限りは。
両親の主張に賛同せざるを得ない真由だった。
■■■
昨晩は、飲み過ぎた。
鈍く響く頭痛。
絶え間なく押し寄せる吐き気。
美織は、自室のベッドの上で、ほとんど死人のように横たわっていた。
――もう二度と、アルコールは飲まない。
そう誓うのは、これで何度目だろう。
少なく見積もっても、五十回は超えている。
なお、その誓いが守られたことは、一度もない。
妹が持ってきた市販薬のおかげで、苦痛は幾分か和らいだ。
布団を頭までかぶり、もう一度眠ろうとする。
今日は日曜日。
日付が変われば、またあの慌ただしい一週間が始まる。
せめて午後までには、体力を戻しておきたい。
――目を閉じる。
すると、不意に。
あの青年の顔が浮かんだ。
スーパーの食品売り場で、騒動に巻き込んでしまった――名前も知らない、あの人。
そのまま、意識が少しだけ沈む。
ぼんやりとした光景の中で。
なぜか、自分とあの青年が、肩を並べて歩いていた。
どこかの街を、他愛もない話をしながら。
はっとして、美織は目を開けた。
なんで、あんな夢を。
■■■
学校の先生になりたい。
そう宣言したはいいが――。
ここ、日本では。
大学に進学し、教職課程を履修し、教育実習を経て、教員採用試験に合格する必要があるらしい。
……思ったより、遠い。
地球赴任の期間内に、それらをすべてこなすのは――現実的ではない。
「ホッホッホ。お前、今から大学受験するか?」
黒幕博士が、イヤらしい笑みを浮かべる。
「その前に、日本じゃ“住民票”というものが必要じゃがな」
――そこか。
「ワシが改竄してやろうか?」
黒幕博士が、悪魔のような笑みを浮かべていた。
この男、本気でやるつもりだ。
「結構です」
遥斗は、きっぱりと言い切った。
「既にありますから」
「……は?」
「日本の住民票。問題ありません」
さらりと告げる。
「住基ネットにアクセスして、“小鳥遊遥斗”として登録しました」
「お前も大概じゃな……」
呆れたように肩をすくめる博士。
「ワシのこと、とやかく言えんぞ。お前の星の倫理観がどうだか知らんが、ここでは立派な犯罪じゃからな」
「任務の一環です」
即答だった。
だが――ほんのわずかに、視線が逸れる。
それが、答えだった。
自分でも分かっている。これは正当化だ。
他の星の法に触れている以上、胸を張れる行為ではない。
――それでも。
遥斗は、それ以上、何も言わなかった。
■■■
黒幕博士は、パソコンの画面とにらめっこを続けていた。
やがて――にやりと笑う。
「成功じゃ」
ディスプレイには、小学校や中学校の一覧がずらりと並んでいる。
「こんなに募集があるんですか?」
「表に出とるのは一部だけじゃ」
博士は、得意げに鼻を鳴らす。
「公開されとる求人に加えて、内部の欠員情報も拾ってきた。急な欠員や、まだ募集をかけとらん穴場も含めてな」
「……それ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫なわけあるか。じゃが効率はいい」
悪びれもせず言い切る。
「ここから手当たり次第、面接を受けてみるといいじゃろ」「なるほど!」
遥斗は素直に感心した。
「後は、履歴書と顔写真、それにスーツを用意すればいいだけじゃな」
黒幕博士は、いかにも簡単そうに言う。
――が。
博士のスーツは、体型が合うはずもなく。
無理やり着せてみれば、腹回りはダボダボ、袖は余り、ズボンはずり落ちそうになる始末。
まるで、子どもが大人の服を着ているようだった。
結局、遥斗はスーツを新調する羽目になった。
そして――
早速、四校ほど面接に赴いたが。
結果は、全滅だった。