遥斗に手を引かれ、美織は助手席へ滑り込んだ。
車種に疎い美織には型式も愛称も分からない。
だが、それどころではない。
今、頭の中を占めるのは、受け持つ子どもたちの安否と、目の前で起きている“怪物”の存在だった。
「行きます!」
遥斗の声に、美織ははっと我に返る。
目の前の危機に気を引き締め、一瞬でも覚悟を決めてシートベルトを締めた。
アクセルが踏まれ、車は静かに――だが確実な勢いで、学校の門を抜けて車道に乗り出した。
美織は窓越しに、校舎や通りの景色を流し見ながら、胸の高鳴りを感じていた。
プジョー403カブリオレ、1959年式。
ツードアの幌付きオープンカーで、ボディカラーはくすんだシルバーグレー。
持ち主は黒幕博士。遥斗はこれを拝借していた。
古い外車であることは明らかだが、博士がどのような基準で選んだのかは不明。彼独特の美意識によるものだろうか。
「ごめんなさい、巻き込んでしまって」
美織はそう言った。
面談中だった遥斗が、自分の生徒を守るために動く――その状況に、少しばかりの遠慮を覚えたのだ。
しかし、遥斗は、まったく気にしていない様子で、淡々と答えた。
「あなたの生徒の安否の方が大事でしょう。そちらを優先してください」
そして__
「スピードを上げます。何かにつかまってください」
遥斗がギアを一段上げると、途端に、年季の入ったプジョーが唸りを上げて加速した。
不意の加速に、美織の身体がシートへ押しつけられる。
思わず顔をしかめ、ダッシュボードに手をついた。
この挙動は車体の古さによるものではない。
黒幕博士が独自に施した改造によるものだ。
だが遥斗は、それを口にしない。
すでに法定速度は超過している。無免許運転に加え、違法改造――余計な情報は伏せておくに限る。
街並みが後方へと流れていく。
やがて、視界の先に鉄骨の林立する建設現場が見えてきた。
「見て。あれ」
美織の声に、遥斗は前方へ視線を向ける。
建設途中のビル群を見下ろすように、巨大な影が鎮座していた。
丸みを帯びた装甲、異様に発達した脚部。
ニュースで報じられていた通り――
それは、巨大なカエルとしか言いようのない存在だった。
次の瞬間。
フロッガーが大きく脚を沈み込ませた。
地面が軋む。
そして――
爆発的な跳躍。
巨体が宙へ舞い上がり、建設現場の一角へと叩きつけられた。
轟音とともに土煙が巻き上がる。
その中心に、まだ人影が残っているのが見えた。
■■■
建設用ロボットは、巨大ガエル――フロッギーに抗っていた。
本来はビルの骨組みとなるはずの鉄骨を拾い上げ、まるで木刀のように振りかぶる。
鈍い風切り音とともに、それを叩きつけた。
「どうだ!」
操縦席から作業員が叫ぶ。
だが――
フロッギーは片腕を上げただけで、それを受け止めた。衝撃は装甲に吸収され、巨体は微動だにしない。
鉄骨が、軋む音を立てた。
次の瞬間。
大きな単眼――カメラアイが、建設用ロボットを正確に捉える。
ぬらり、と口腔部が開いた。そこから伸びたのは舌。
だがそれは生体のそれではない。
伸縮自在のゴム状素材が、鞭のようにしなりながら射出される。
回避する間もなく、建設用ロボットの胴体に絡みついた。
「ウワーッ!!」
機体が大きく傾き、そのまま地面へと転倒した。
フロッギーは舌を巻き取り、絡め取った建設用ロボットを強引に手繰り寄せる。
そして――
ハエでも払うかのように、前肢でなぎ払った。
巨体が宙を舞い、次の瞬間、地面へ叩きつけられる。
コックピットの中で、衝撃が作業員の全身を揺らした。
シートに叩きつけられ、内臓が圧迫される。息が詰まる。
――勝てない。
フロッギーにとって、この機体は玩具に過ぎない。
弄ばれるだけの存在だと、嫌でも理解させられた。
もはや抵抗する余力はない。
それ以上に、ここにいれば死ぬ――その直感が、体を動かした。
作業員は震える手で、開閉式のウィンドウを解放する。
そして――
コックピットから身を投げ出した。
■■■
「嘘……だろ……」
「やられた……あのロボット……」
「もしかして、俺たち、ヤバくね?」
三人組の少年たちは、ようやく自分たちが危難の只中にいることを理解し始めていた。
「逃げよう」
誰かが、かすれた声で言った。
だが――
フロッギーは、すでに彼らを認識している。
ズシン、ズシン。
鈍重なはずの巨体が、一歩ごとに地面を揺らしながら迫ってくる。
逃げなければならない。
分かっているのに、足が動かない。
少年たちの顔が、恐怖に引きつる。
そのとき――
遠くからサイレンの音が響いた。
「……!」
振り向く。
砂煙を巻き上げながら、車列が現場へ突入してくる、二台の軽量トラック。
その先頭を切るように、一台のパトロールカーが突き進む。
「出やがったな。怪物め」
低く、鋭い声。
運転席の男――犬養警部が、フロントガラス越しに怪物を睨みつけていた。
「
パトカーのスピーカーから、大音量が響き渡る。
もともと声の大きい犬養だ。
拡声されると、耳をつんざくような音となって現場に響いた。
「やった!警察だ!」
三人はフロッギーとは逆方向――パトカーへ向かって、一斉に駆け出した。
「ポリスウォーカー部隊、前へ出ろ!!」
後続のトラックが急停止する。
荷台が開き、内部に固定されていた機体がせり上がる。
警察用二足歩行型ロボット――ポリスウォーカー。
二機が地面へと降り立ち、重い駆動音を響かせながら起動した。
操縦席にいるのは楢原と、もう一人――新任の柴崎。
「ポリスウォーカー・改良型“ケーナイン”、二機。目標を捕捉――」
犬養が間髪入れずに怒鳴る。
「あの怪物を仕留めろ!!二対一だ。数はこちらが上だ――やれるな?」
犬養の問いに、二人の声が重なる。
「はい!柴崎、行きまーす!!」
緊迫した現場の空気に似合わない、妙に明るい声。
「フヒヒ……おい、悪党!その単眼、ぶち抜いてやるぜぇ!!」
相変わらず、発砲への執着がにじむ楢原。
二機のケーナインは、地面を踏みしめながらフロッギーへと前進する。
銃口が向けられ、連続して発砲。
だが――
弾丸は、弾かれた。
装甲に当たるたび、乾いた音を立てて跳ね返るだけで、傷一つつかない。
次の瞬間。
フロッギーの巨体が沈み込む。
嫌な予感が走る。
そして――跳んだ。
常識外れの跳躍力で宙へ舞い上がり、そのまま重力を乗せて落下する。
ジャンピング・ニードロップ。
回避も、防御も間に合わない。
二機のケーナインは、ほぼ同時に押し潰された。
地面が震え、衝撃が周囲に走る。
――瞬殺だった。
沈黙。
煙の中で、機体は完全に沈黙している。
もっとも――
コックピットからは、二つの脱出ハッチが開き、人影が転がり出た。
二人とも、命からがらではあるが、生還には成功していた。
「うわ……やられちゃったよ、警察のロボット……」
「期待させといて、それかよ……」
「この、税金泥棒……!」
勝手な言い分ではある。
だが――三人は、まだ危機の只中にいた。
ケーナインの出動も、結果的にはわずかな時間を稼いだに過ぎない。中学生の足で移動できる距離など、たかが知れている。安全圏には、ほど遠い。
背後では、フロッギーがゆっくりと体勢を立て直していた。
重い駆動音。
再び、標的を探すように単眼が光る。
そして――
その視線が、再び三人を捉えた。
そのときだった。
一台のオンボロ――もとい、クラシックカーが、轟音とともに現場へと突っ込んできた。
タイヤが悲鳴を上げ、砂煙を巻き上げながら急停止する。
「君たち!こっちだ!」
運転席の青年がサイドウィンドウを開け、上半身を乗り出して叫ぶ。
見知らぬ顔。
だが、迷っている余裕はない。
三人は、藁にもすがる思いで駆け出した。
足元には瓦礫。
視界には黒煙。
怪物が暴れた痕跡が、逃げ場のなさを物語っている。
「山田くん!こっち、早く!」
助手席のドアが開く。
そこに立っていたのは――見慣れた顔。
三人の担任、高梨美織だった。
「先生!」
その姿は、少年たちにはまるで救いそのもののように映った。
美織は三人の無事を確認すると、すぐに彼らを抱き寄せる。
「よかった……無事で……」
短い言葉に、安堵が滲む。
ようやく、張り詰めていた空気がわずかに遥斗は、美織と生徒たちのやり取りを一瞬だけ見やる。
その光景にわずかな安堵を覚えながらも、すぐに意識を切り替えた。
周囲を見渡す。
――死人はいない。
だが、作業員や警察官――楢原と柴崎は負傷している。重傷ではないが、自力で長距離を走れる状態ではない。
そのとき。
「あーーーー、お前は、胡散臭い科学者の助手じゃないか!」
犬養の声だった。
見れば、本人は無事らしい。
さらに視線を巡らせる。
――動くパトカーが一台。
「犬養警部!」
「な、なんだ!?」
「この人たちを乗せて、パトカーで避難してください」
「おいおい、警察に命令する気か?」
軽口を返す犬養をよそに、遥斗はすでに次の行動へ移っていた。
視線を美織へ向ける。
「美織先生。この子たちを連れて、できるだけ遠くへ」
言い終えると同時に、動く。
後部座席に少年二人を押し込み、残る一人――カケルを助手席へ乗せる。
「あ、あの……運転は?」
「美織先生が」
「え、私……ペーパードライバーで……」
「大丈夫です。ナビがあります」
即答だった。
遥斗は迷いなくカーナビを起動させる。
ナビゲーションシステムが起動し、音声が流れ出す。
――それは、黒幕博士の声だった。
面識のない美織にとっては、見知らぬ中年男性にいきなり話しかけられているようなものだ。
「グヘヘ……お嬢さん。そのおみ足で、アクセルを踏んづけておくれ」
気持ち悪い。
反射的にそう思った。状況が状況でなければ、即座に電源を切っているところだ。
だが――
「美織先生!躊躇わないで。多少のことには目をつむって!」
遥斗の声が飛ぶ。
一瞬の逡巡。そして――
「……っ!」
美織は、意を決してクラッチを踏み込んだ。
エンジンが唸りを上げ、クラシックカーが勢いよく走り出した。
ポリスウォーカー・改良型“
既存のポリスウォーカーにマイナーチェンジを施した改良機。
装甲の強化とコックピットの脱出機構の改善により、生存性は向上している。
ただし、基本構造や出力に大きな変更はなく、性能差は限定的。
現場対応能力は依然として“従来通り”であり、過信は禁物。
状況によっては迅速な撤退判断が求められるだろう。