ある日の朝、校長の岡本南那江は、教師たちを職員室へ集めていた。
月曜日の朝に行われる、いつもの朝礼。
本来であれば、連絡事項を淡々と伝えて終わるはずの時間だった。
しかし今日は、ひとつだけ違っている点があった。
岡本の隣に、見慣れない若い男性が立っていたのである。
教師たちの視線が、自然とその青年へ集まる。
年齢は二十代前半ほどだろうか。まだあどけなさを残しながらも、どこか落ち着いた雰囲気をまとっている。
岡本と並ぶと、その差は一目瞭然だった。
親子ほどに年の離れた二人は、身長も青年の方が頭ひとつ分ほど高い。
岡本は軽く咳払いをひとつすると、その青年に視線を向けた。
「今日から本校に着任することになりました。簡単に自己紹介をはしてください」
そう言って、一歩前へと促す。
青年――遥斗は、静かに前へ出た。
「小鳥遊遥斗です。よろしくお願いします」
簡潔で無難な挨拶だった。
余計なことは言わない。そう決めて、言葉を選んだつもりだった。
職員室に、まばらな拍手が広がる。
歓迎というよりは、形式に沿っただけの反応。興味の薄さが、そのまま音の弱さに表れていた。
その中で、ひとりだけ明らかに様子の違う人物がいた。高梨美織である。
顔色が悪い。血の気が引いたように青白く、視線は遥斗から外せないまま固まっている。
岡本が、何事もないように続けた。
「小鳥遊先生は期間限定の赴任となります。高梨先生が担任を務める二年三組の、副担任をお願いすることになりました」
その言葉に、職員の何人かが小さく頷く。
だが、美織の反応はそれどころではなかった。
「高梨先生。また二日酔いですか?」
別の教師が、軽い調子で声をかける。
「え、あ……いえ……」
図星だった。
酒癖の悪さは、職員の間では半ば周知の事実である。多少顔色が悪い程度では、誰も深くは気にしない。
昨晩は、ほんの出来心だった。
たまたま面白いドラマが放送されていて、つい夜更かしをしてしまったのだ。
気がつけば、ビールのプルトップを何度も開けていた。
カシュ、と軽い音が積み重なるたびに、もう一本だけ、と自分に言い訳をする。
その結果が、これだった。
だが、それは、二日酔いのせいだけではなかった。
目の前に立っている青年。小鳥遊遥斗という名前の、新任教師。その顔に、どうしても見覚えがあったからだ。
採用面接を途中で、すっぽかして、生徒のために一緒に建設現場へ駆けつけてくれた青年。
「小鳥遊先生。我が校へようこそ」
そんな美織の思考を遮って、岡本が遥斗に歓迎の意を表した。
「我が校は、みな、癖が強いので、心して仕事に臨んでください」
■■■
二年三組の教室。美織は教壇に立ち、出席簿を閉じた。
「それじゃあ、連絡の前に一つ。今日からこのクラスに、新しく副担任の先生が入ります」
ざわ、と教室の空気が少し動く。
「本日付で着任された、小鳥遊先生です」
軽く手で促され、遥斗が前に出た。
「小鳥遊遥斗です。よろしくお願いします」
先ほどの職員室よりも、少しだけ砕けた口調だった。
教室のあちこちから、小さな反応が返ってくる。
無関心とまではいかないが、特別な歓迎でもない。
(第一印象は悪くない、かな)
美織は内心でそう判断する。
そのときだった。
「あーーー!あのときの兄ちゃん!」
ひときわ大きな声が教室に響いた。
視線が一斉に、その方向へ向く。
立ち上がっていたのは、山田カケルだった。
三人組でつるんでいる、あの問題児グループの一人だ。
「……君は、あのときの」
遥斗もすぐに思い出した。
建設現場の騒動に巻き込まれていた少年の一人である。
「おいおい、知り合いかよ」
「へへ、まあな」
カケルは得意げに笑うと、周囲に向かって身振りを交えながら話し始めた。
「この人、ヤベーんだぜ。俺たち、あの現場でマジでヤバかったんだけどさ――」
話は多少誇張されながらも、断片的に事実を含んでいた。
生徒たちの表情が、少しずつ変わっていく。
「へえ……」
「マジかよ」
興味の色が混じり始める中で、カケルが最後に言い切った。
「――俺にとっては、ヒーローだよ」
教室が一瞬だけ静まる。
その言葉は、どこか場違いで、しかし真っ直ぐだった。
美織は思わず、遥斗の横顔を見た。
当の本人は、少し困ったように笑っているだけだった。やはり、あのときの青年だと、美織は、確信した。
授業前のざわめきに紛れるように、美織はわずかに身を寄せた。
「あの……先日は、どうも」
周囲に聞こえないよう、小声で言う。
礼とも確認ともつかない、曖昧な一言だった。
「ああ」
遥斗は、ごく自然に応じた。
「俺も驚きました。まさか、美織先生と同じクラスで働くことになるなんて」
その口調は穏やかで、あくまで“初対面に近い距離感”を保っている。
人の顔を覚えるのが苦手な美織であっても、間違いないと確信を持って言える。
それでも、踏み込むことはできない。
ここは教室で、生徒たちがすぐ近くにいる。
「……よろしくお願いします」
結局、美織はそれ以上何も言わず、形式的な言葉で会話を終えた。
「こちらこそ」
遥斗もまた、それ以上は何も触れなかった。
まるで、お互いに“分かっていて、触れない”ことを選んだかのように。
そのとき、ひとりの生徒が、ふと思いついたように口を開いた。
「でもさ、どっちも“
教室に小さな笑いが起きる。
小鳥遊と高梨。
漢字は違うが、読みは同じだ。
「じゃあ俺、“遥斗にいちゃん”って呼ぼうかな」
カケルが軽い調子で言った。
「ダメよ。あんまり馴れ馴れしい呼び方は」
美織がすぐにたしなめる。
「えー、いいじゃんか」
不満そうに肩をすくめるカケルを横目に、今度は別の声が上がった。
「じゃあさ、私、“遥斗さん”って呼ぼうかな」
机に頬杖をついたまま、
そのまま視線を遥斗へ向けた。
「いいでしょ?」
「ああ、構わないよ」
遥斗はあっさりと応じた。
「ダメです」
間髪入れず、美織が否定する。
藻絵は露骨に頬を膨らませた。
「相変わらずね。胸だけじゃなくて、頭も固いんだから」
遠慮のない一言が教室に落ちる。
「……海野さん?」
美織の声がわずかに低くなる。
「先生をあだ名で呼ぶなんて、別に珍しくないでしょ」
藻絵は気にする様子もなく続ける。
「それに、“さん”付けって、その人への敬意でしょ? 問題ないと思うけど」
筋としては通っている。
実際、社会に出れば役職ではなく“さん”付けで呼び合う文化も存在する。
だが、それをそのまま学校に持ち込むかは別の話だ。
教室のあちこちで、くすくすと含みのある笑いが広がる。
多くの生徒は気づいていた。
藻絵の言動が、単なる理屈だけではないことに。
その視線の先にいる人物へ向けられた、わかりやすい興味。
――つまり、そういうことだ。
結局のところ、呼び方については折衷案に落ち着いた。それぞれの名前に「先生」を付けて呼ぶ。
明確に誰かが決めたわけではないが、教室の空気として、その呼び方が定着しつつあった。