「お前、街へ買い物に行ってきてくれ」
「いいですけど……名前で呼んでください」
「ナポリ炭治郎じゃったかの?」
――まだ引っ張るのか、それ。
黒幕博士に対して、ウィンディアスは内心で深いため息をつく。
「ウィンディアスです。親しい人は、ウィンディと呼びます」
「そうか。じゃあ、買い物頼むぞ。
「……」
話にならない。
そう思いながらも、ウィンディアスは渋々、使いを引き受けた。
――助手2号。
ということは、1号もいたのだろうか。 高梨美織は、厄介ごとに巻き込まれていた。
■■■
金曜日の夜。
ストレスだらけの教職員にとって、ようやく激務から解放される時間だ。
いわゆる、花金である。
閉店一時間前。
美織は近所のスーパーマーケットに駆け込み、ありったけの酒とつまみを、かごに放り込んでいた。
――もちろん、金銭的に許す範囲で。
家に帰って一杯やることを思い浮かべると、自然と頬が緩む。
そのときだった。
「あれ、あんた――高梨さんちのお嬢ちゃんじゃないの?」
来た。
振り向くまでもない。
こういう声の主は、大抵一種類しかいない。
――近所のおしゃべり好きのオバさんである。どうしよう……。
名前が、思い出せない。
「昔、あんなにちっこかった美織ちゃんが、こんなに大きくなるとはね」
――誰だ、この人。
昨年の健康診断を思い出す。
身長は164センチ。成人女性としては、まあまあ高い方だ。
なお、肝臓については――お察しの通り、再検査を言い渡された。
「お胸は貧相だけどね」
――黙れ、ババア。
喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込む。
胃のあたりに、どす黒い感情だけが沈殿した。
「ところでさ。あんたのカゴ、中身ほとんど酒じゃない?」
「ええ、まあ……」
声が、やたらとデカい。
「料理とか、しないの?」
「ええと……その、実家暮らしなもので……」
嘘は言っていない。
美織は一人暮らしの経験がない。家事はすべて母任せだ。
「たまには手伝いなさいよ。そんなんじゃ、一生独身よ」
――来た。
いちいち、人の気にしているところを的確に抉ってくる。
言葉の一つ一つが、遠慮なく突き刺さる。
鈍器ではない。細くて鋭い、逃げ場のない刃物だ。
そして、最悪なのは――周囲の視線だった。
買い物客や店員たちが、美織と見知らぬオバさんのやり取りを、ちらちらと見ている。
――恥ずかしい。
その一言に尽きる。
ふと、視界に一人の男性が入った。
背は高い。すらりと伸びた体躯。
180センチ前後だろうか。
服装は地味だが、顔立ちは整っている。
――使える。
美織は即座に判断した。
鮮魚コーナーで商品を見ているその男へ、迷いなく歩み寄る。
「やだ、どこ行ってたの? 探したのよ」
間髪入れずに腕を絡める。
「レジ、あっち。一緒に帰りましょ」
男の反応を待たない。
「あ、この人、旦那なんです。待たせちゃ悪いので、これで」
有無を言わせぬ笑顔。
そのまま引きずるように、レジへと向かう。
――見知らぬ男性に罪はない。
だが、この状況を切り抜けるには仕方がない。
犠牲になってもらおう。
……後で、土下座でもなんでもする。
最悪、代金も全部持つ。
■■■
ウィンディアスは、今晩の献立を考えながら、食料品売り場を歩いていた。
黒幕博士はメタボリック体型だ。
主菜は魚にして、脂質は抑えた方がいいだろう――そんなことを考えつつ、鮮魚コーナーを物色している。
そのときだった。
「やだ、どこ行ってたの? 探したのよ」
腕が、絡め取られる。
――え?
視線を落とすと、見知らぬ女性がぴたりと寄り添っていた。
誰だ。
知り合いではない。少なくとも、地球に来てからの記憶には存在しない。
「レジ、あっち。一緒に帰りましょ」
いや、まだ買い物の途中なのだが。
「あ、この人、旦那なんです。待たせちゃ悪いので、これで」
女性は、背後の中年女性にそう告げた。
――だんな?
その単語の意味を、記憶から検索する。
配偶者。婚姻関係にある男性。
……該当しない。
思考が追いつくより早く、腕を引かれる。
ウィンディアスは、そのまま見知らぬ女性に連行されていった。
■■■
「ごめんなさい! ごめんなさい……っ!」
美織は、何度も頭を下げた。
場所は、先ほどの店から少し離れた公道。
人通りは少なく、車の往来もまばらだ。
ウィンディアスは自転車を押しながら、その隣を歩いている。
「本当に、あのオバさんがしつこくて……」
事情を一通り聞き終え、ウィンディアスは小さく息をついた。
「なるほど」
苦笑が、口元に浮かぶ。
「で、俺は、君の配偶者なのかい?」
「いや、あの、それは……」
彼にとっては冗談のつもりだ。いたずら心を出して、彼女を困らせてみたかっただけ。
しばらく歩くと、五差路に出くわす。ここから、美織の家は目と鼻の先。しばらく自転車を漕ぐと黒幕博士の研究所に行き着く。
二人はそこで別れることにした。
「じゃ、私の家、こっちだから」
と、美織。
「ありがとう。なんだか、楽しかった」
その言葉に嘘はない。日頃のストレスを少しの間だけ忘れられた。それは事実だ。
「あ、待って」
ウィンディアスが呼び止める。
「名前。教えてもらえる?」
「高梨。高梨美織」
「たかなし」
反芻する。
「あなたの名前も教えてよ」
ウィンディアスはまた言葉に詰まる。地球での名前がないのは困る。以前にも同じことがあった。
「ごめんなさい」
美織がまた謝った。
「図々しかったわね。じゃ、さよなら」
そう言って、走り去っていく。
「たかなし――か」
帰り道、自転車を押しながら、支給された端末で地球の携帯網にアクセスする。
そして、「たかなし」という文字を検索する。
「小鳥遊」が予測変換候補に表れた。
■■■
「博士。俺、名前を決めました。小鳥遊――
下の名前は、ネットで検索して決めた。
ゆったりとした響きを持つ「遥」と、戦士としての自戒を込めた「斗」。
――小鳥遊遥斗。
悪くない。
もし、あの女性とまた会うことがあれば、この名を名乗ろう。
同じ「たかなし」という音を聞いて、どんな反応をするだろうか。
そんな想像に、わずかに口元が緩む。
「そんなことよりもじゃ」
黒幕博士の一言で、思考は強制的に断ち切られた。
「飯はまだか」
――この男は。
ウィンディアスの胸中に、不満がじわりと広がった。