瞬きをした、その次の瞬間には、もう世界が変わっていた。
「……は?」
ナツキ・スバルの口から漏れたのは、間抜けにもほどがある一音だった。
右手には、ついさっきコンビニで買ったばかりのビニール袋。中には炭酸飲料とスナック菓子と、値引きシールの貼られたカップ焼きそば。左のポケットにはスマホ。見慣れた夜の街灯も、車のヘッドライトも、信号機も、自販機も、全部ない。
代わりにあったのは、石畳の道と、赤茶けた屋根の群れと、鼻につく土と家畜の臭いだった。
そして。
「……いや、待て待て待て待て」
スバルは顔を上げた。上げたまま、固まった。
空を切り取るようにそびえ立つ、巨大な壁。
高いとか、でかいとか、そういう段階じゃない。視界そのものが、途中で終わっている。街の向こうにあるはずの地平線が、白っぽい石の断崖に丸ごと呑み込まれている。
「なにこれ。映画のセット? え、城壁都市? テーマパーク? つーか規模感どうなってんだよ……」
笑いが込み上げた。乾いた、引きつった笑いだった。
異世界召喚。そんな単語が、頭の中で点滅した。
いやいや、ないない、あるわけ――あるのか?
足元がふわつく。心臓がやけに早い。けれど恐怖より先に、何か別のものが浮かび上がる。熱だ。現実感のなさが、逆に体の奥を煽ってくる。
「……おいおいおいおい、マジかよ」
口元が勝手につり上がった。
「来た? 来ちゃった? そういうやつ? ついに俺にも人生逆転イベント到来ってやつ?」
誰に聞かせるでもなく呟いて、すぐに周囲を見回す。
往来には人がいた。荷車を引く男。水桶を抱えた女。パンを売る露店。子どもの泣き声。鍛冶場みたいな音。皆、服装が妙に古い。ヨーロッパ風、というには生活臭が強すぎて、コスプレの類には見えない。
何人かが、スバルを見た。
黒いジャージ。白黒のスニーカー。片手にビニール袋。見知らぬ土地で、見知らぬ格好。注目されないほうがおかしい。
「……ッス。あ、どうもどうも、怪しい者じゃ――」
笑って手を振った瞬間、通りがかった老婆が露骨に眉をひそめ、足早に去っていった。
「だよね!」
即座にセルフツッコミを入れたが、虚しいだけだった。
とりあえず情報だ。異世界だろうがなんだろうが、まずは状況確認。スバルはそんな当然のことを考えながら、実際にはかなり浮ついた足取りで街を歩き出した。
壁の圧迫感はどこまでもついてくる。見上げれば吐きそうになるほど高い。街はその壁に守られるように、いや、押し込められるように広がっていた。
守られる。そう思った瞬間、妙な違和感が引っかかった。
壁がある街、というのは分かる。だが、どうしてここまでの高さが必要なんだ。
盗賊か。戦争か。砲撃か。
そこまで考えて、スバルは肩をすくめた。
「いやいや、第一村人に聞けば終わる話だろ。こういうのはさ、親切な美少女かやたら意味深なおっさんが案内して――」
「おい」
低い声で呼び止められた。
スバルが振り向くと、三人の子どもがいた。
一人は、鋭い目つきの少年。短い焦げ茶の髪で、妙に睨むのが板についている。年は自分より少し下か、同じくらいか。いや、もう少し幼いかもしれないが、そんな印象を吹き飛ばすくらい目に力があった。
その隣に、黒髪の少女。肩につく程度の髪を真っ直ぐ切りそろえ、赤い巻物を首に巻いている。表情は薄い。だが、薄いままで、こちらをじっと見ている。
もう一人は、金髪の少年。体つきは華奢で、目元も気弱そうに見えるが、そのぶん観察するような視線が落ち着いていた。
三人ともパンやら何やらを抱えている。買い物帰りらしい。
「その服、どこのもんだ」
最初に口を開いたのは、目つきの悪い少年だった。
いきなりそこ?
とは思ったが、当然か。スバルだって逆の立場ならそう聞く。
「えーっと、ジャパン製です」
「ジャパン?」
「えー……遠い国」
「壁内か?」
「……かべうち?」
聞き返した瞬間、三人の目が変わった。
少年の眉が跳ね上がり、金髪の少年がわずかに身を引き、黒髪の少女の視線がさらに細くなる。
やばい。なんか踏んだ。
「待って待って、俺が悪い。いまのは知らない単語が出てテンパっただけで――」
「壁内って言葉も知らないの?」
金髪の少年が、恐る恐る口を開いた。
「いや、はい。知らないです」
「どこから来たの?」
「それが俺にもさっぱりでな。気づいたらここにいて――」
「嘘だな」
少年が即断した。
早い。判決が早い。
「いや、ちょ、早計! 裁判ならもうちょい証拠とか集めよう!? 俺だって好きで不審者やってるわけじゃ――」
「そんな格好のやつ見たことねぇ。訛りも変だし、壁のことも知らない。なのに武器も持ってない。商人にも見えない」
「最後の一言、ちょっとカッコよく分析したっぽく言ってるけど、要するに怪しいって言いたいだけだろ!?」
「実際、怪しい」
少女が言った。
ひどい。正論が鋭利すぎる。
しかし、スバルはめげない。こういう場面で引いたら終わりだ、と、よく分からない確信がある。押してダメならもっと押せ。コミュ力こそ現代人の武器。たぶん。
「オーケー、分かった。じゃあ自己紹介からいこう。俺はナツキ・スバル。十七歳。職業は……まあいまは無職寄りだけど、やる時はやる男。そちらのお名前は?」
「なんで名乗らなきゃならない」
「会話の基本だからだよ! 知らない人同士が仲良くなる第一歩! 人類共通のルール!」
「そんなルールない」
「あるんだよ、俺の中には!」
少年が舌打ちした。
「エレン」
ぽつり、と少女が言った。
少年が睨む。
「ミカサ」
少女は続けた。
「……アルミン」
金髪の少年が、困ったように苦笑して名乗る。
「ほら見ろ! できる子たちじゃねぇか! じゃああらためまして、スバルくんです! よろしく!」
手を差し出した。
エレンと名乗った少年は、その手を見て、スバルの顔を見て、鼻で笑った。
「ふざけてるのか?」
「真面目だよ!?」
「こんな時に?」
「こんな時って、まだ状況説明されてないんですけど!?」
エレンは露骨に苛立った顔をした。スバルもムッとする。
なんだこいつ。初対面のくせに棘がありすぎる。いや、怪しいのはこっちだとしても、もう少しこう、段階ってものがあるだろう。せめて警戒と敵意の比率を調整してほしい。
「エレン、落ち着いて」
アルミンが間に入るように言った。
「落ち着いてるよ。ただ、こいつの話が変すぎるだけだ」
「でも、本当に知らないことが多すぎる。演技にしては不自然だよ」
「だからって信用できるか?」
「それは……」
アルミンが言葉を濁す。
ミカサは無言のまま、スバルの両手を見ていた。手のひら、指先、爪。武器や訓練の痕跡でも見ているのかもしれない。目が静かなぶん、余計に居心地が悪い。
スバルは咳払いした。
「えー、じゃあこっちから質問。ここ、どこ?」
「シガンシナ区」
アルミンが答えた。
「しがん……?」
「ウォール・マリア南端の突出区画」
続く単語は、ほとんど意味が分からなかった。
「待ってくれ。ひとつも頭に入ってこねぇ」
「じゃあ、本当に壁の中のことを知らないんだね」
「だから言ってるだろ。俺、気づいたらここに――」
そこで、地鳴りのような音がした。
いや、音ではない。振動だ。地面の下から響いてくる、重い重い唸り。四人とも一斉に足を止めた。
通りを歩いていた人々も、ざわついて空を見上げる。
「なんだ?」
スバルもつられて見上げたが、空は青い。雲が流れているだけだ。
しかし次の瞬間、遠くで、鐘が鳴った。
ひとつ。ふたつ。いや、何度も何度も。叩きつけるように、街じゅうへ。
雰囲気が変わるのが分かった。さっきまでの生活の音が、一斉に裏返った。荷を捨てる者。子どもを抱き上げる母親。叫び声。兵士が走る。誰かが「門だ!」と怒鳴った。
「な、なに? 避難訓練?」
スバルの問いに、誰も答えない。
エレンが走り出したからだ。
「おい、エレン!」
アルミンが追う。ミカサも当然のように続く。
「は!? ちょ、おい! 説明!」
スバルも慌てて駆け出した。
石畳を蹴る靴音。前方に人の流れがある。皆が同じ方向へ、あるいは逆方向へ走っているせいで、街は一瞬で混乱の渦になった。
エレンは速い。子どものくせにやたら速い。
「おい、待てって! 迷子の異世界人を置いてくな!」
「うるさい!」
「うるさくなるだろ説明なしなら!」
「黙って走れ!」
逆ギレされた。
くそ、なんなんだこいつ――と思いながらも、スバルは全力でついていった。息が切れる。肺が焼ける。ビニール袋が邪魔だ。思わず放り捨てそうになって、なぜかぎりぎりで踏みとどまる。焼きそばに罪はない。
道を曲がるたび、人が増えた。兵士らしき連中が怒鳴り、煙が上がり、壁へ向かう視線が集まっていく。
そして開けた場所に出た瞬間、スバルは足を止めた。
「――――っ」
言葉が、消えた。
壁の向こうから、顔が覗いていた。
人間の顔。いや、人間の形をした何か。皮膚の薄い顔面に、むき出しの筋肉。眼球は異様に生々しく、蒸気を噴くような熱気の中で、あり得ない高さからこちらを見下ろしている。
壁と同じ高さ――いや、壁を越えていた。
世界の前提が、その一瞬で壊れた。
あり得ない、では足りない。脳が理解を拒んで、なのに視界だけは克明にそれを焼きつける。
「あ……」
喉が鳴った。かすれた。息が吸えない。
周囲の悲鳴が遅れて耳に入る。
「超大型巨人……!」
誰かが叫んだ。
巨人。
その単語が、現実として頭に突き刺さる。
壁が必要な理由を、理解したくもない形で理解してしまった。
「おい……なんだよ……」
スバルの足が震える。
「なんだよ、あれ……!」
エレンは顔を強張らせたまま、壁の上を睨んでいた。アルミンは真っ青で、ミカサはエレンの腕を掴んでいる。
「下がって、エレン」
「まだだ!」
「危ない」
「見りゃ分かる!」
怒鳴り返す声すら震えている。それでも、エレンの目は逸れていなかった。
スバルには無理だった。見るだけで全身が逃げろと叫んでいる。膝が抜ける。胃がひっくり返る。頭の芯が冷たくなる。
なのに、その巨人が、動いた。
足を上げた。
「え」
その一音のあとで、世界が砕けた。
轟音。
耳を引き裂くような破壊音とともに、城門が吹き飛ぶ。木片、石片、鉄片、煙、土、熱、悲鳴。全部が一緒くたになってこちらへ襲ってきた。
衝撃波で体が浮く。スバルは何かに弾き飛ばされ、背中から石畳へ叩きつけられた。
「がッ――!」
息が詰まった。視界が白くなる。
何が起きたのか分からない。だが、周囲で人が倒れている。血が飛んでいる。瓦礫が降ってくる。
「逃げろ! 内門へ走れ!!」
「母さん! 母さん!!」
「子どもを連れて――」
「巨人が入るぞ!!」
入る。
その言葉が、スバルの脳を直撃した。
壁の内側に。街の中に。あれが。あの化け物が。
熱い。熱い。腕が焼けるように痛い。見ると、飛んできた破片で切れていた。血が出ている。痛い。なのにそれ以上に、怖い。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い。
「立って、スバル!」
アルミンの声だった。いつの間にか近くにいて、こちらへ手を伸ばしている。顔が泣きそうに歪んでいるくせに、必死に声を張っていた。
「早く!」
「お、俺……」
立てない。腰が抜けたみたいに力が入らない。
エレンが舌打ちして、スバルの襟首を掴んだ。
「ちっ、動け!」
「い、痛っ、引っ張んな首が!」
「じゃあ自分で走れ!」
「無理だってあんなん見たあとで走れとか――」
言い終わる前に、影が差した。
全員が、動きを止める。
ゆっくりと、振り向く。
そこにいた。
壁の破壊口から入り込んだ、異形。
五メートルほど。さっきの怪物に比べればずっと小さい。なのに、恐怖は少しも薄れない。裸の、歪んだ人型。異様に大きい目。だらしなく開いた口。よだれ。歩き方は緩慢なのに、一歩ごとの圧が重い。
巨人。
それがこちらを見た。
見た、気がした。
「ッ……!」
アルミンが息を呑む。エレンが前に出る。ミカサがその肩を掴む。
「下がって」
「でも!」
「死ぬ」
「分かってる!」
分かっていて、前に出る。
その姿に、スバルは一瞬だけ我を失った。
「待て! 行くなって! 死ぬだろ!」
「お前もだ!」
「俺はいいんだよ!」
言ってから、自分で何を言ったのか分からなくなった。
よくない。全然よくない。死にたくない。死ぬのは嫌だ。嫌に決まってる。
なのに口は勝手に動く。手も。体も。
逃げたいのに、目の前で年下の連中が死ぬかもしれないと思った瞬間、足が前に出た。
「こっちだ、バケモン!」
地面の石を掴んで、巨人へ投げつける。
当たるわけがない軌道だった。だが、石は巨人の肩にかすったらしい。巨人の顔が、ゆっくりとスバルへ向く。
「は、はは」
笑え。笑え。笑っとけ。
「どうした、ノロマ。食うなら俺だろ」
喉は震え、声は裏返り、膝は今にも折れそうだった。
巨人が近づく。
一歩。
二歩。
三歩。
逃げろ。
体の中の全部が叫んでいる。けれど、その叫びより速く、エレンが怒鳴った。
「スバル、走れ!!」
「うるせぇ、分かって――」
巨人の腕が振り下ろされた。
視界が、真横に回る。
何が起きたのか理解するより先に、激痛が来た。肩から先が消えたみたいな痛み。骨が砕ける音が、自分の中から聞こえた。
地面を転がる。息ができない。血の味。耳鳴り。空が回る。
「スバル!!」
誰の声だったか、もう判別できない。
巨人の顔が近づく。大きな口が開く。腐臭。熱。唾液。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
こんなの。
こんな死に方。
「やめ――」
噛み砕かれた。
世界が、赤と黒に潰れた。
――そして。
「……は?」
スバルは、石畳の上で立ち尽くしていた。
右手には、コンビニのビニール袋。
目の前には、赤茶けた屋根の群れ。
鼻につく土と家畜の臭い。
空を切り取る、巨大な壁。
さっきと同じ場所。さっきと同じ時間。何ひとつ変わっていない街の音だけが、耳に刺さるように鮮明だった。
喉の奥から、ひゅ、と獣みたいな呼吸が漏れる。
「……なん、で」
肩を掴む。ある。腕がある。指もある。砕かれていない。血も出ていない。
なのに、痛みだけが残っていた。噛み千切られた感触。潰された骨。飲み込まれる直前の、あの湿った熱。
「――ッ、う、あ、あああ、あ……!」
膝から崩れ落ちた。
石畳に手をついて、胃液を吐く。焼きそばも炭酸もまだ開けてないのに、酸っぱいものだけが喉を逆流した。
通行人が怪訝そうに見る。誰も助けない。誰も事情を知らない。
当然だ。何も起きていないのだから。
でもスバルには、起きた。
確かに死んだ。
確かに食われた。
手が震える。歯が鳴る。涙が勝手に滲む。
「ふざ……けんなよ……」
掠れた声が、石畳に落ちる。
「なんだよ、これ……!」
空は青く、壁は高く、街は何も知らずに息をしていた。さっきまでの地獄を、まるで夢だったみたいに、世界は平然と無視している。
スバルだけが、その中で、たった一人取り残されたみたいに震えていた。