Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

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第10話 壁が一枚なくなるということ

 

 

 午前の光は、残酷なくらい明るかった。

 

 夜のあいだは、泣き声も絶望も闇に溶けて、どこか輪郭が曖昧だった。だが朝になると、全部が見えてしまう。毛布にくるまった子どもの数。家族を失った顔。広場の端まで埋まる避難民。足りない食糧。足りない水。足りない寝床。足りない兵士。

 

 そして、足りない“壁”の大きさ。

 

「ウォール・マリア全域の放棄……」

 

 アルミンが、兵士たちの会話を反芻するように呟いた。

 

 エレンは何も言わない。だが拳が白くなるほど握られている。ミカサはその袖を掴んだままだった。

 

 スバルは木柵の向こうで慌ただしく動く兵士たちを見ていた。

 

 マリア全域の放棄。

 

 言葉としては短い。だが意味は、街一つの壊滅よりずっと大きい。昨日、自分がシガンシナで見た地獄が、壁沿いのもっと広い範囲で起きているということだ。避難民はまだ増える。内地へ押し寄せる。食糧は足りなくなる。秩序は擦り減る。

 

 この世界は、昨日だけで終わるつもりがない。

 

「……なあ」

 

 スバルが喉を押さえながら言う。

 

「壁一枚なくなるって、そんなすぐ決まるもんなのか」

 

 アルミンは顔を上げた。

 

「たぶん、“守れない”と判断したら切るしかないんだと思う」

 

「切るって言い方すげぇな」

 

「でも、そういうことだよ。外側に人を残したままでも、内側を守るほうを優先する」

 

 淡々としている。だが、その声の底は冷えていた。考えたくない現実を、考える側の人間の声だ。

 

「じゃあ……」

 

 スバルは言葉を探す。

 

「まだ向こうにいる連中は」

 

「見捨てられる」

 

 エレンが言った。

 

 短い。硬い。感情が潰れて硬くなったみたいな声だった。

 

 スバルは返せない。

 

 ミカサが静かに言う。

 

「エレン」

 

「違うかよ」

 

「違わない。でも」

 

「でももくそもあるか」

 

 吐き捨てるような言い方だった。ミカサは黙る。

 

 アルミンが口を開きかけて、結局閉じた。

 

 正しい言葉なんてない。慰めも、反論も、いまのエレンには届かないだろうと分かる。スバルにも、それは分かった。

 

 だから、代わりに別の方向へ目を向けるしかない。

 

 木柵の向こうでは、新しく来た伝令らしい兵士たちが地図を広げていた。別の兵が走り寄り、何やら報告している。

 

 その中の一人が、こちらの保護区画を指さした。

 

「……あっちの年長者を何人か回せ。水運びと配給補助だ」

「子どもも混ざってます」

「年齢見ろ。動けるやつだけだ」

 

 スバルは嫌な予感がした。

 

「なあ、今の“年長者”って」

 

「たぶん、君」

 

 アルミンが言う。

 

「だよな!」

 

 即答してしまった。

 

 エレンがちらりと見る。

 

「何だよ」

 

「いや、現実がさっそく俺を雑用係にしてきたなって」

 

「訓練兵どころじゃない」

 

「まだそこじゃないって話だろ」

 

 言いながらも、スバルは少しだけ安堵していた。正直、いきなり兵団だの戦いだのより、雑用のほうがまだましだ。少なくとも巨人と直接殴り合う話ではない。

 

 だが、その安堵も長くは続かなかった。

 

 ほどなくして、木柵が開き、兵士が数人入ってきたからだ。

 

「十六以上で動ける者、前へ出ろ!」

 

 怒鳴り声が響く。保護区画の中の空気がざわつく。年齢の近い子どもたちが顔を見合わせる。昨日まで家の中で暮らしていたはずのガキどもが、突然“動ける者”として数えられる。

 

 スバルは思わず顔をしかめた。

 

「……最悪の響きだな」

 

「出るしかない」

 

 ミカサが言う。

 

「お前はな」

 

「エレンも」

 

「俺も?」

 

 エレンが眉をひそめる。だが、兵士はすでに保護区画の中を見回し、目についた者を指さしていた。

 

「そこのお前、何歳だ」

「十、十歳です……」

「下がれ。次、お前は」

「十一……」

「下がれ。そっちの背の高いのは」

 

 来る。

 

 スバルは一歩前へ出た。

 

「十七です」

 

 兵士の視線がジャージに止まる。

 

「……お前か、出身不明の」

 

「通ってんだその情報」

 

「嫌でも目立つ」

 

 ひどい。事実だが。

 

 兵士は帳面をめくり、何か確認してから頷いた。

 

「お前は来い。あと、そこの三人は年齢が足りん。残れ」

 

 エレンが一歩出る。

 

「待てよ」

 

「待たん」

 

「動ける」

 

「見れば分かる。だが年齢が足りん」

 

「そんなの関係――」

 

「ある」

 

 兵士の声は硬かった。

 

「今はな」

 

 その“今は”という一言に、妙な含みがあった。エレンもそれを感じたのか、噛みつきかけて止まる。だが目だけは死ぬほど不満そうだ。

 

 スバルはその横顔を見て、言うべきか迷って、それでも言った。

 

「……お前らは残れ」

 

 エレンが睨む。

 

「何だよ、その言い方」

 

「いや、普通にだよ」

 

「一人で行く気か」

 

「一人っていうか、向こうに同じようなの何人かいるだろ、たぶん」

 

「そういう話じゃない」

 

 エレンの声が低くなる。

 

 その感情の向きは分かる。昨日から一緒に地獄を抜けてきた。その流れのまま、“また四人で動く”つもりだったのだろう。自分も、たぶん心のどこかではそうだった。

 

 だが、現実はそう簡単に揃わない。

 

「年齢が違うんだからしょうがねぇだろ」

 

 スバルは肩をすくめようとして、痛みに顔をしかめた。

 

「いてっ……」

 

「大丈夫?」

 

 アルミンがすぐ聞く。

 

「大丈夫じゃないけど、死ぬほどじゃねぇよ」

 

「その基準おかしい」

 

「昨日からこればっかだな!」

 

 軽口を叩く。だが空気は重いままだった。

 

 兵士が苛立ったように言う。

 

「話はあとだ。動ける者は外へ出ろ」

 

 急かされる。

 

 スバルは三人を見た。

 

 ミカサは静かだ。だが目は逸らさない。アルミンは不安を隠せていない。エレンは怒っている。置いていかれることそのものにではなく、自分が“何もできない側”へ押し戻されることに。

 

 その顔が、少しだけ痛かった。

 

「……すぐ戻る」

 

 スバルが言う。

 

 言ってから、安っぽい台詞だと思った。戦場に向かうわけでもないのに。でも、それ以外に言えることがなかった。

 

「戻れなかったら、ぶん殴る」

 

 エレンが言う。

 

「理不尽!」

 

「理不尽じゃない」

 

 ミカサが当然みたいに頷く。

 

「私も」

 

「お前まで乗るな!」

 

 アルミンが少しだけ笑った。

 

「僕も、かな」

 

「お前はそこ、もっと止める側でいてくれよ!」

 

 それでも、その軽いやりとりで少しだけ息ができる。

 

 スバルは兵士に促され、保護区画の外へ出た。

 

 同じように集められた“年長者”は十数人いた。少年とも青年ともつかない年齢の者。避難の途中で怪我をしたのか、腕に布を巻いている者もいる。顔つきは様々だが、共通しているのは“自分が何に使われるのか分かっていない”顔だった。

 

 兵士が前に立つ。

 

「水運び、配給補助、怪我人の運搬補助、仮設寝床の整備。まずはそれだ。勝手な行動はするな。倒れたら邪魔だ。分かったな」

 

 返事はまばらだった。

 

 スバルも曖昧に頷く。

 

 兵士は続ける。

 

「いいか。お前らは兵士じゃない。だが今は人手が足りん。だから働ける者に動いてもらう。それだけだ」

 

 言い方は冷たい。だが、変に優しくされるよりマシだった。現実がそうなのだから。

 

 最初の仕事は水運びだった。

 

 広場の外れにある井戸から大桶へ水を移し、それを各区画へ運ぶ。単純だ。単純だが、やってみるとひたすらきつい。桶は重い。肩は痛い。足場は悪い。避難民の間を縫うように進まなければならず、そのたびに泣き声や呻き声が耳に入る。

 

 スバルは二往復目の途中で早くも後悔した。

 

「っ、重……!」

 

 桶の取っ手が手に食い込む。肩の腫れた場所に重さが響いて、顔が歪む。

 

「おい、落とすなよ!」

 

 隣で運んでいる年上の男が怒鳴る。ひげ面で、目が死んでいる。だが手つきは慣れていた。

 

「落としたら困るのは分かってんですけどね!」

 

「なら踏ん張れ!」

 

「精神論で解決できる重さじゃねぇ!」

 

「口は動くな!」

 

「口止めたら倒れるんだって!」

 

 怒鳴り返しながらも、何とか運ぶ。配給区画では、兵士と手伝いの人間が木のコップへ水を注いでいた。避難民の列が続く。終わりが見えない。

 

 そこで、ふと向こうに赤い布が見えた。

 

「……ミカサ?」

 

 保護区画の柵越しに、三人がこちらを見ていた。いや、ミカサとアルミンは見ていた。エレンは“見てないふりをして見てる”顔だった。

 

 スバルは思わず片手を上げる。

 

「よー」

 

「雑」

 

 ミカサが即答する。距離があっても聞こえる程度の声量だった。

 

「働いてんだよ今!」

 

「見れば分かる」

 

「そこは労えよ!」

 

 アルミンが少し笑う。

 

「大丈夫そうでよかった」

 

「大丈夫そう“に”してるだけだぞ!」

 

「それでもだよ」

 

 エレンはしばらく黙っていたが、やがてぶっきらぼうに言った。

 

「遅い」

 

「まだ二往復目だよ!」

 

「もっと運べ」

 

「部活の先輩かお前は!」

 

 だが、そのやりとりをしただけで、妙に気が楽になった。

 

 自分だけ外へ出されても、完全に切れたわけじゃない。まだ同じ広場の中にいる。その事実が、予想以上に大きい。

 

 兵士に急かされて再び井戸へ向かう。水。水。水。次は怪我人の運搬補助。簡易担架を持って、足をやられた男を医療区画らしき場所へ運ぶ。その途中で吐く者を見、泣き叫ぶ子どもを避け、動かなくなった老人の前を通る。

 

 地獄は形を変えただけで、終わっていない。

 

 戦っていなくても、十分に削られる。

 

「おい」

 

 運搬の途中で、一緒に担架を持っていたひげ面の男が言った。

 

「お前、変な服の」

 

「またそれですか」

 

「軽口叩く元気はあるんだな」

 

「叩いてないとやってられないんで」

 

 男は鼻を鳴らした。

 

「ふん。まあ、分からんでもない」

 

 それだけだった。

 

 だが、その一言に妙な人間味があった。

 

 昼が近づくころには、広場の空気はさらに重くなっていた。新しい避難民がまた入ってくる。物資は減る。兵士の顔からも余裕が消えていく。

 

 そして、その昼前に――。

 

 新たな命令が飛んだ。

 

「保護区画の年長の子どもも一部手伝いへ回す! 水運びと食料配布だ!」

 

 スバルはそれを聞いて、思わず足を止めた。

 

「……は?」

 

 つまり。

 

 エレンたちも、もう“守られるだけの子ども”ではいられなくなる。

 

 視線を向けると、柵の向こうで兵士が子どもたちを選別し始めていた。十歳前後の者、体格のある者、泣いていない者、動けそうな者。

 

 その中に、当然エレンがいる。

 

 アルミンも。

 

 ミカサも。

 

 エレンは兵士に言われる前から一歩出ていた。アルミンは不安そうに息を呑み、ミカサは何の躊躇もなく並ぶ。

 

 スバルの胸の中に、嫌な感覚が広がる。

 

 少しずつだ。

 

 少しずつ、この世界はこいつらを“大人の地獄”へ引きずり込んでいく。

 

 昨日は逃げるだけだった。

 

 今日からは働く。

 

 そして、その先に訓練兵がある。

 

 流れは、もうできている。

 

 エレンが遠くからこちらを見つけ、口だけで言った。

 

 ――ほらな。

 

 声は聞こえない。だが、そう言った気がした。

 

 スバルは思わず舌打ちした。

 

「……全然うれしくねぇ的中だな」

 

 けれど、そのとき同時に思った。

 

 なら、なおさら。

 

 こいつらがそこへ行くなら、自分もその流れの中で何かを掴まなければならない。

 

 守るだの救うだの、そんな立派な言葉はまだ言えない。だが、少なくとも――昨日みたいに、何もできずに飲み込まれるだけでは終わりたくなかった。

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