午前の光は、残酷なくらい明るかった。
夜のあいだは、泣き声も絶望も闇に溶けて、どこか輪郭が曖昧だった。だが朝になると、全部が見えてしまう。毛布にくるまった子どもの数。家族を失った顔。広場の端まで埋まる避難民。足りない食糧。足りない水。足りない寝床。足りない兵士。
そして、足りない“壁”の大きさ。
「ウォール・マリア全域の放棄……」
アルミンが、兵士たちの会話を反芻するように呟いた。
エレンは何も言わない。だが拳が白くなるほど握られている。ミカサはその袖を掴んだままだった。
スバルは木柵の向こうで慌ただしく動く兵士たちを見ていた。
マリア全域の放棄。
言葉としては短い。だが意味は、街一つの壊滅よりずっと大きい。昨日、自分がシガンシナで見た地獄が、壁沿いのもっと広い範囲で起きているということだ。避難民はまだ増える。内地へ押し寄せる。食糧は足りなくなる。秩序は擦り減る。
この世界は、昨日だけで終わるつもりがない。
「……なあ」
スバルが喉を押さえながら言う。
「壁一枚なくなるって、そんなすぐ決まるもんなのか」
アルミンは顔を上げた。
「たぶん、“守れない”と判断したら切るしかないんだと思う」
「切るって言い方すげぇな」
「でも、そういうことだよ。外側に人を残したままでも、内側を守るほうを優先する」
淡々としている。だが、その声の底は冷えていた。考えたくない現実を、考える側の人間の声だ。
「じゃあ……」
スバルは言葉を探す。
「まだ向こうにいる連中は」
「見捨てられる」
エレンが言った。
短い。硬い。感情が潰れて硬くなったみたいな声だった。
スバルは返せない。
ミカサが静かに言う。
「エレン」
「違うかよ」
「違わない。でも」
「でももくそもあるか」
吐き捨てるような言い方だった。ミカサは黙る。
アルミンが口を開きかけて、結局閉じた。
正しい言葉なんてない。慰めも、反論も、いまのエレンには届かないだろうと分かる。スバルにも、それは分かった。
だから、代わりに別の方向へ目を向けるしかない。
木柵の向こうでは、新しく来た伝令らしい兵士たちが地図を広げていた。別の兵が走り寄り、何やら報告している。
その中の一人が、こちらの保護区画を指さした。
「……あっちの年長者を何人か回せ。水運びと配給補助だ」
「子どもも混ざってます」
「年齢見ろ。動けるやつだけだ」
スバルは嫌な予感がした。
「なあ、今の“年長者”って」
「たぶん、君」
アルミンが言う。
「だよな!」
即答してしまった。
エレンがちらりと見る。
「何だよ」
「いや、現実がさっそく俺を雑用係にしてきたなって」
「訓練兵どころじゃない」
「まだそこじゃないって話だろ」
言いながらも、スバルは少しだけ安堵していた。正直、いきなり兵団だの戦いだのより、雑用のほうがまだましだ。少なくとも巨人と直接殴り合う話ではない。
だが、その安堵も長くは続かなかった。
ほどなくして、木柵が開き、兵士が数人入ってきたからだ。
「十六以上で動ける者、前へ出ろ!」
怒鳴り声が響く。保護区画の中の空気がざわつく。年齢の近い子どもたちが顔を見合わせる。昨日まで家の中で暮らしていたはずのガキどもが、突然“動ける者”として数えられる。
スバルは思わず顔をしかめた。
「……最悪の響きだな」
「出るしかない」
ミカサが言う。
「お前はな」
「エレンも」
「俺も?」
エレンが眉をひそめる。だが、兵士はすでに保護区画の中を見回し、目についた者を指さしていた。
「そこのお前、何歳だ」
「十、十歳です……」
「下がれ。次、お前は」
「十一……」
「下がれ。そっちの背の高いのは」
来る。
スバルは一歩前へ出た。
「十七です」
兵士の視線がジャージに止まる。
「……お前か、出身不明の」
「通ってんだその情報」
「嫌でも目立つ」
ひどい。事実だが。
兵士は帳面をめくり、何か確認してから頷いた。
「お前は来い。あと、そこの三人は年齢が足りん。残れ」
エレンが一歩出る。
「待てよ」
「待たん」
「動ける」
「見れば分かる。だが年齢が足りん」
「そんなの関係――」
「ある」
兵士の声は硬かった。
「今はな」
その“今は”という一言に、妙な含みがあった。エレンもそれを感じたのか、噛みつきかけて止まる。だが目だけは死ぬほど不満そうだ。
スバルはその横顔を見て、言うべきか迷って、それでも言った。
「……お前らは残れ」
エレンが睨む。
「何だよ、その言い方」
「いや、普通にだよ」
「一人で行く気か」
「一人っていうか、向こうに同じようなの何人かいるだろ、たぶん」
「そういう話じゃない」
エレンの声が低くなる。
その感情の向きは分かる。昨日から一緒に地獄を抜けてきた。その流れのまま、“また四人で動く”つもりだったのだろう。自分も、たぶん心のどこかではそうだった。
だが、現実はそう簡単に揃わない。
「年齢が違うんだからしょうがねぇだろ」
スバルは肩をすくめようとして、痛みに顔をしかめた。
「いてっ……」
「大丈夫?」
アルミンがすぐ聞く。
「大丈夫じゃないけど、死ぬほどじゃねぇよ」
「その基準おかしい」
「昨日からこればっかだな!」
軽口を叩く。だが空気は重いままだった。
兵士が苛立ったように言う。
「話はあとだ。動ける者は外へ出ろ」
急かされる。
スバルは三人を見た。
ミカサは静かだ。だが目は逸らさない。アルミンは不安を隠せていない。エレンは怒っている。置いていかれることそのものにではなく、自分が“何もできない側”へ押し戻されることに。
その顔が、少しだけ痛かった。
「……すぐ戻る」
スバルが言う。
言ってから、安っぽい台詞だと思った。戦場に向かうわけでもないのに。でも、それ以外に言えることがなかった。
「戻れなかったら、ぶん殴る」
エレンが言う。
「理不尽!」
「理不尽じゃない」
ミカサが当然みたいに頷く。
「私も」
「お前まで乗るな!」
アルミンが少しだけ笑った。
「僕も、かな」
「お前はそこ、もっと止める側でいてくれよ!」
それでも、その軽いやりとりで少しだけ息ができる。
スバルは兵士に促され、保護区画の外へ出た。
同じように集められた“年長者”は十数人いた。少年とも青年ともつかない年齢の者。避難の途中で怪我をしたのか、腕に布を巻いている者もいる。顔つきは様々だが、共通しているのは“自分が何に使われるのか分かっていない”顔だった。
兵士が前に立つ。
「水運び、配給補助、怪我人の運搬補助、仮設寝床の整備。まずはそれだ。勝手な行動はするな。倒れたら邪魔だ。分かったな」
返事はまばらだった。
スバルも曖昧に頷く。
兵士は続ける。
「いいか。お前らは兵士じゃない。だが今は人手が足りん。だから働ける者に動いてもらう。それだけだ」
言い方は冷たい。だが、変に優しくされるよりマシだった。現実がそうなのだから。
最初の仕事は水運びだった。
広場の外れにある井戸から大桶へ水を移し、それを各区画へ運ぶ。単純だ。単純だが、やってみるとひたすらきつい。桶は重い。肩は痛い。足場は悪い。避難民の間を縫うように進まなければならず、そのたびに泣き声や呻き声が耳に入る。
スバルは二往復目の途中で早くも後悔した。
「っ、重……!」
桶の取っ手が手に食い込む。肩の腫れた場所に重さが響いて、顔が歪む。
「おい、落とすなよ!」
隣で運んでいる年上の男が怒鳴る。ひげ面で、目が死んでいる。だが手つきは慣れていた。
「落としたら困るのは分かってんですけどね!」
「なら踏ん張れ!」
「精神論で解決できる重さじゃねぇ!」
「口は動くな!」
「口止めたら倒れるんだって!」
怒鳴り返しながらも、何とか運ぶ。配給区画では、兵士と手伝いの人間が木のコップへ水を注いでいた。避難民の列が続く。終わりが見えない。
そこで、ふと向こうに赤い布が見えた。
「……ミカサ?」
保護区画の柵越しに、三人がこちらを見ていた。いや、ミカサとアルミンは見ていた。エレンは“見てないふりをして見てる”顔だった。
スバルは思わず片手を上げる。
「よー」
「雑」
ミカサが即答する。距離があっても聞こえる程度の声量だった。
「働いてんだよ今!」
「見れば分かる」
「そこは労えよ!」
アルミンが少し笑う。
「大丈夫そうでよかった」
「大丈夫そう“に”してるだけだぞ!」
「それでもだよ」
エレンはしばらく黙っていたが、やがてぶっきらぼうに言った。
「遅い」
「まだ二往復目だよ!」
「もっと運べ」
「部活の先輩かお前は!」
だが、そのやりとりをしただけで、妙に気が楽になった。
自分だけ外へ出されても、完全に切れたわけじゃない。まだ同じ広場の中にいる。その事実が、予想以上に大きい。
兵士に急かされて再び井戸へ向かう。水。水。水。次は怪我人の運搬補助。簡易担架を持って、足をやられた男を医療区画らしき場所へ運ぶ。その途中で吐く者を見、泣き叫ぶ子どもを避け、動かなくなった老人の前を通る。
地獄は形を変えただけで、終わっていない。
戦っていなくても、十分に削られる。
「おい」
運搬の途中で、一緒に担架を持っていたひげ面の男が言った。
「お前、変な服の」
「またそれですか」
「軽口叩く元気はあるんだな」
「叩いてないとやってられないんで」
男は鼻を鳴らした。
「ふん。まあ、分からんでもない」
それだけだった。
だが、その一言に妙な人間味があった。
昼が近づくころには、広場の空気はさらに重くなっていた。新しい避難民がまた入ってくる。物資は減る。兵士の顔からも余裕が消えていく。
そして、その昼前に――。
新たな命令が飛んだ。
「保護区画の年長の子どもも一部手伝いへ回す! 水運びと食料配布だ!」
スバルはそれを聞いて、思わず足を止めた。
「……は?」
つまり。
エレンたちも、もう“守られるだけの子ども”ではいられなくなる。
視線を向けると、柵の向こうで兵士が子どもたちを選別し始めていた。十歳前後の者、体格のある者、泣いていない者、動けそうな者。
その中に、当然エレンがいる。
アルミンも。
ミカサも。
エレンは兵士に言われる前から一歩出ていた。アルミンは不安そうに息を呑み、ミカサは何の躊躇もなく並ぶ。
スバルの胸の中に、嫌な感覚が広がる。
少しずつだ。
少しずつ、この世界はこいつらを“大人の地獄”へ引きずり込んでいく。
昨日は逃げるだけだった。
今日からは働く。
そして、その先に訓練兵がある。
流れは、もうできている。
エレンが遠くからこちらを見つけ、口だけで言った。
――ほらな。
声は聞こえない。だが、そう言った気がした。
スバルは思わず舌打ちした。
「……全然うれしくねぇ的中だな」
けれど、そのとき同時に思った。
なら、なおさら。
こいつらがそこへ行くなら、自分もその流れの中で何かを掴まなければならない。
守るだの救うだの、そんな立派な言葉はまだ言えない。だが、少なくとも――昨日みたいに、何もできずに飲み込まれるだけでは終わりたくなかった。