Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

11 / 36
第11話 その二年を、言葉で埋めるしかなかった

 

 人は、壁一枚なくなっただけで別の生き物みたいになる。

 

 そのことを、ナツキ・スバルはその後の二年で嫌というほど知った。

 

 最初の数日は、地獄を地獄と認識する余裕もなかった。

 

 避難民の波は止まらず、広場はすぐに飽和し、別の収容地へ押し出され、そこでもまた人が足りず、水が足りず、食い物が足りず、寝床が足りない。昨日まで家族だった単位は簡単に崩れ、名前のある人間は番号みたいに扱われ、泣いていた子どもはすぐに泣かなくなる。

 

 泣いても何も変わらないと、覚えるのが早すぎるのだ。

 

 スバルは最初、ただの労働力だった。

 

 水を運び、食料を配り、汚れた布を運び、吐瀉物を片づけ、怪我人を支え、死体に布をかける。

 

 死体。

 

 その単語も、最初の数日は頭の中でやたら反響した。だが、一週間もすれば、反響は鈍る。鈍らないと動けないからだ。鈍ったことに気づくと、今度はそれが嫌になる。嫌になっても、次の桶を運ばなきゃならない。

 

 そんな毎日だった。

 

 エレンたちとも、毎日ずっと一緒にいられたわけじゃない。

 

 避難民の振り分けで区画は分かれ、年齢や役割で回される場所も違う。会える日もあれば、数日まともに顔も見ない日もある。見つけたと思ったら向こうは疲れ切っていて、ろくに喋らず終わることもあった。

 

 だが、不思議と切れはしなかった。

 

 切れなかったのは、たぶん四人とも、どこかで“あの日を一緒に通った”という事実にしがみついていたからだ。

 

 最初に再会したのは、収容地の配給列だった。

 

 エレンはやせていた。目だけは相変わらず強いくせに、頬が少しこけている。ミカサはもっと分かりやすかった。食事をエレンへ回しているのだと、見れば分かる痩せ方だった。アルミンは疲れていたが、目の焦点はまだ合っていた。

 

「お前、まだその服なんだな」

 

 再会一言目がそれだった。

 

 スバルは配給の黒パンを受け取りながら、思わず笑いそうになった。

 

「衣替えの余裕がある世界に見えるか?」

 

「見えない」

 

「だろ」

 

 エレンは鼻を鳴らした。

 

 それだけだった。

 

 それだけだったのに、“まだお前はお前か”と確認された気がして、スバルは妙に救われた。

 

 その冬、壁の内側の空気はさらに悪くなった。

 

 食料が減る。仕事が増える。避難民と元からいた住民の空気がささくれる。口に出さなくても分かる。“余計な口が増えた”と思われていることくらい。

 

 ある日、パンの配給で揉めた。

 

「避難民にやる分はもうない!」

「ふざけるな、子どもがいるんだぞ!」

「こっちだっている!」

 

 大人が怒鳴り合う横で、子どもは黙っていた。

 

 スバルはその場にいて、何も言えなかった。どっちが正しいとか、そんな話じゃなかったからだ。足りないものを分ける時、誰かが正しくて誰かが間違っているわけじゃない。全員が足りないだけだ。

 

 その夜、スバルは珍しく言葉を失っていた。

 

 薄い毛布を肩にかけ、仮設寝床の壁にもたれて座っていると、隣にアルミンが来た。

 

「珍しいね」

 

「何が」

 

「静か」

 

 スバルは乾いた笑いを漏らす。

 

「毎日うるさい扱いされてるの根に持ってるからな、俺」

 

「今日は違う」

 

 アルミンは前を見たまま言う。

 

「今日の君は、喋ったら壊れそうな顔してる」

 

「……お前さ」

 

「うん」

 

「ときどき本当に嫌なとこ刺してくるよな」

 

「褒め言葉?」

 

「最悪の意味でな」

 

 アルミンは少しだけ笑った。

 

 それから言う。

 

「壁が一枚なくなったって、たぶんこういうことなんだと思う」

 

「……こういうこと?」

 

「巨人に食べられる、だけじゃない。中で押し合って、削り合って、だんだん人が人じゃなくなる」

 

 スバルは返せなかった。

 

 アルミンは静かな声で続ける。

 

「巨人は怖いよ。でも、本当に怖いのは、あれが来たあとに残るものかもしれない」

 

 その言葉は、嫌になるほど腑に落ちた。

 

 冬を越える頃には、スバルもこの世界の“見えない力関係”を少しずつ覚えていた。

 

 パン一つで顔色が変わること。

 

 仕事を押しつけやすい人間と、そうでない人間がいること。

 

 兵士にも当たり外れがあること。

 

 大人の中には、子どもを守る者もいれば、真っ先に切り捨てる者もいること。

 

 そしてエレンは、そういう現実を見るたびに余計に尖っていくこと。

 

「お前、また喧嘩したのか」

 

 春先、スバルがそう聞くと、エレンは頬の青あざを隠しもせず言った。

 

「向こうが絡んできた」

 

「その言い方するやつ、大抵半分は自分から行ってるんだよ」

 

「半分じゃない。三割だ」

 

「自己申告で悪化してんじゃねぇか」

 

 エレンは鼻を鳴らす。

 

「黙って殴られてろってのか」

 

「そこまでは言ってねぇ」

 

「じゃあ黙ってろ」

 

「会話ができねぇ!」

 

 言い返しながらも、スバルは分かっていた。エレンの喧嘩は、ただ短気だからじゃない。短気なのは事実だが、それだけじゃない。

 

 こいつは、何かを飲み込むのが下手なのだ。

 

 理不尽も、侮辱も、無力感も、全部そのまま内側で腐らせられない。だから外へ出る。怒りの形で。

 

「またやったの」

 

 ミカサが後ろから現れた時の、エレンの顔は見ものだった。

 

 うんざりと、気まずさと、反発と、全部が混ざる。

 

「別に大したことない」

 

「ある」

 

「ない」

 

「ある」

 

「お前、それ会話の省略が過ぎるだろ」

 

 スバルが突っ込むと、ミカサは当然のように言った。

 

「分かるから大丈夫」

 

「俺には分からねぇよ!」

 

 だが、その直後にアルミンが小さく補足する。

 

「“また無茶したの”って意味」

 

「最初から言えよ!」

 

「君が言う?」

 

「俺は省略じゃなくて冗長なんだよ、そこは違う!」

 

 そうやって言い合っている時間だけが、妙に昔の続きみたいだった。

 

 昔、といってもたった数か月前なのに。

 

 夏になる頃には、兵団の話が現実味を帯び始めた。

 

 年齢の近い子どもたちの間で、噂が広がる。

 

「来年には入れるらしい」

「104期だって」

「訓練兵団に入れば食いっぱぐれはしない」

「でも死ぬ」

「憲兵団なら安全なんだろ?」

「上位十名だけだぞ」

「無理だろ」

 

 そういう話を、スバルは聞き流せなくなっていた。

 

 自分は十七だ。この世界の基準でどう処理されるのか曖昧なままだったが、避難民の労働力として使われる期間が長くなるにつれ、逆に兵士や役人たちの目に止まりやすくなっていた。

 

 変な服の出身不明者で、妙に体力があり、口が回る。

 

 良くも悪くも目立つ。

 

 ある日、配給補助をしていたスバルは、年配の兵士に呼び止められた。

 

「お前、何歳だと言った」

 

「十七ですけど」

 

「戦ったことは」

 

「ないです」

 

「嘘は下手だな」

 

「なんでですか!?」

 

 兵士はスバルの顔をじっと見た。

 

「見たことはある顔だ」

 

 その一言で、背筋が冷えた。

 

 見たことがある。そりゃある。巨人に食われた。壊れた街も見た。死ぬほど見たくなかったものを見た。

 

 だが、それをこの男が知るはずはない。

 

「死にかけたやつの顔だ」

 

 兵士は言った。

 

「生き残るやつと、潰れるやつがいる。お前はまだ潰れていない」

 

「褒められてる感じしねぇな」

 

「褒めてはいない」

 

 兵士は鼻を鳴らす。

 

「だが、いずれ兵に回される可能性は高い。覚悟だけはしておけ」

 

 それだけ言って去っていった。

 

 スバルはその場に立ち尽くした。

 

 覚悟。

 

 そんな便利な言葉で片づけられるなら苦労しない。

 

 だが、その日から、自分にも“訓練兵団に入る未来”がはっきりした輪郭を持ち始めた。

 

 そして、それはエレンたちにとっても同じだった。

 

 秋の終わりごろ、エレンが言った。

 

「俺、入る」

 

 夕暮れの仮設収容地の外れだった。四人で、配給の薄いスープを飲んでいた時だ。いきなりだったが、誰も驚かなかった。

 

「知ってた」

 

 スバルが言う。

 

「お前、それ以外の道ない顔してたし」

 

「あるけど選ばないだけだ」

 

「言い方が強い」

 

 アルミンが苦笑する。

 

 だが、その苦笑にも迷いは混じっていた。迷いはある。あるが、たぶん答えは変わらない。

 

「僕も行くよ」

 

 アルミンが言う。

 

「だろうな」

 

 スバルが返すと、アルミンは少しだけ困ったように笑った。

 

「そんな即答されると複雑だな」

 

「いや、お前は行くだろ。考えて終わるやつじゃねぇし」

 

 ミカサは言った。

 

「私は最初から決まってる」

 

「それも知ってる」

 

 スバルは三人の顔を見る。

 

 もう、ここまで来ると驚きもない。この二年で、何度も形を変えながらも、結局この結論へ流れてきたのだと分かる。

 

 問題は自分だ。

 

 問題が自分なのは、いつものことでもある。

 

「お前は?」

 

 エレンが聞く。

 

 スバルはスープの中の薄い芋くずみたいなものを見つめた。

 

 訓練兵団。

 

 巨人と戦う側。

 

 怖い。嫌だ。死にたくない。できれば別の安全そうな仕事を見つけたい。そういう本音は、二年経っても消えていない。

 

 だが同時に、この二年で嫌というほど分かったこともある。

 

 逃げるだけでは、結局どこかで壁にぶつかる。

 

 そして自分は、逃げたあとに後悔する性格をしている。

 

「……入るよ」

 

 言った瞬間、胃が重くなった。

 

「やっぱりな」

 

 エレンが言う。

 

「何その知ってました感!」

 

「知ってただろ、実際」

 

「知ってたけど言われると腹立つな!」

 

 ミカサがぽつりと言う。

 

「スバルは、怖いって言いながら来る」

 

「その評価ほんとやめろ」

 

「でも正しい」

 

 アルミンまで乗る。

 

「お前まで!?」

 

 エレンが少しだけ笑った。

 

 ほんの少しだったが、それはシガンシナを出てから一番まともな笑い方に近かった。

 

 その笑いを見て、スバルは思う。

 

 ああ、ここからだ。

 

 ここから本当に、始まってしまう。

 

 そして、二年は過ぎた。

 

 845年の地獄から、847年へ。

 

 子どもたちは少し背が伸び、顔つきが変わり、失ったものを失ったまま抱え込むのがうまくなった。

 

 完全にうまくなったわけではない。そんなことはない。エレンは相変わらず怒りを内側に飼っていたし、ミカサは相変わらずエレン中心で、アルミンは考えすぎる癖を捨てられなかった。

 

 スバルも同じだ。

 

 死ぬのは怖い。

 

 それは二年経っても変わらない。

 

 だが、怖いまま進むことだけは、少し覚えた。

 

 そして。

 

 847年。

 

 第104期訓練兵団入団の日。

 

 朝の空気は妙に澄んでいた。

 

 並んだ新兵たちの列。壁内各地から集められた少年少女たち。緊張、虚勢、恐怖、意地、その全部を着込んだ顔が並ぶ。

 

 スバルは借り物の訓練兵服の襟をいじりながら、小さく息を吐いた。

 

「……ついに来たな」

 

 隣でエレンが前を見る。

 

「遅ぇよ」

 

「二年越しの台詞にそれ言うか?」

 

「言う」

 

 前の方ではアルミンが周囲を観察している。ミカサはすでに姿勢がいい。目立つ。嫌でも目立つ。

 

 そして周囲には、まだ見ぬ連中がいる。

 

 それぞれの目に、それぞれの理由を宿した同期たちが。

 

 スバルは列の向こうに立つ教官を見た。

 

 鋭い目。張りのある声。容赦のなさそうな空気。

 

 この先が楽しいわけじゃない。むしろたぶん、もっときつい。

 

 でも、ここから物語が本当に動き始めるのは、間違いなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。