人は、壁一枚なくなっただけで別の生き物みたいになる。
そのことを、ナツキ・スバルはその後の二年で嫌というほど知った。
最初の数日は、地獄を地獄と認識する余裕もなかった。
避難民の波は止まらず、広場はすぐに飽和し、別の収容地へ押し出され、そこでもまた人が足りず、水が足りず、食い物が足りず、寝床が足りない。昨日まで家族だった単位は簡単に崩れ、名前のある人間は番号みたいに扱われ、泣いていた子どもはすぐに泣かなくなる。
泣いても何も変わらないと、覚えるのが早すぎるのだ。
スバルは最初、ただの労働力だった。
水を運び、食料を配り、汚れた布を運び、吐瀉物を片づけ、怪我人を支え、死体に布をかける。
死体。
その単語も、最初の数日は頭の中でやたら反響した。だが、一週間もすれば、反響は鈍る。鈍らないと動けないからだ。鈍ったことに気づくと、今度はそれが嫌になる。嫌になっても、次の桶を運ばなきゃならない。
そんな毎日だった。
エレンたちとも、毎日ずっと一緒にいられたわけじゃない。
避難民の振り分けで区画は分かれ、年齢や役割で回される場所も違う。会える日もあれば、数日まともに顔も見ない日もある。見つけたと思ったら向こうは疲れ切っていて、ろくに喋らず終わることもあった。
だが、不思議と切れはしなかった。
切れなかったのは、たぶん四人とも、どこかで“あの日を一緒に通った”という事実にしがみついていたからだ。
最初に再会したのは、収容地の配給列だった。
エレンはやせていた。目だけは相変わらず強いくせに、頬が少しこけている。ミカサはもっと分かりやすかった。食事をエレンへ回しているのだと、見れば分かる痩せ方だった。アルミンは疲れていたが、目の焦点はまだ合っていた。
「お前、まだその服なんだな」
再会一言目がそれだった。
スバルは配給の黒パンを受け取りながら、思わず笑いそうになった。
「衣替えの余裕がある世界に見えるか?」
「見えない」
「だろ」
エレンは鼻を鳴らした。
それだけだった。
それだけだったのに、“まだお前はお前か”と確認された気がして、スバルは妙に救われた。
その冬、壁の内側の空気はさらに悪くなった。
食料が減る。仕事が増える。避難民と元からいた住民の空気がささくれる。口に出さなくても分かる。“余計な口が増えた”と思われていることくらい。
ある日、パンの配給で揉めた。
「避難民にやる分はもうない!」
「ふざけるな、子どもがいるんだぞ!」
「こっちだっている!」
大人が怒鳴り合う横で、子どもは黙っていた。
スバルはその場にいて、何も言えなかった。どっちが正しいとか、そんな話じゃなかったからだ。足りないものを分ける時、誰かが正しくて誰かが間違っているわけじゃない。全員が足りないだけだ。
その夜、スバルは珍しく言葉を失っていた。
薄い毛布を肩にかけ、仮設寝床の壁にもたれて座っていると、隣にアルミンが来た。
「珍しいね」
「何が」
「静か」
スバルは乾いた笑いを漏らす。
「毎日うるさい扱いされてるの根に持ってるからな、俺」
「今日は違う」
アルミンは前を見たまま言う。
「今日の君は、喋ったら壊れそうな顔してる」
「……お前さ」
「うん」
「ときどき本当に嫌なとこ刺してくるよな」
「褒め言葉?」
「最悪の意味でな」
アルミンは少しだけ笑った。
それから言う。
「壁が一枚なくなったって、たぶんこういうことなんだと思う」
「……こういうこと?」
「巨人に食べられる、だけじゃない。中で押し合って、削り合って、だんだん人が人じゃなくなる」
スバルは返せなかった。
アルミンは静かな声で続ける。
「巨人は怖いよ。でも、本当に怖いのは、あれが来たあとに残るものかもしれない」
その言葉は、嫌になるほど腑に落ちた。
冬を越える頃には、スバルもこの世界の“見えない力関係”を少しずつ覚えていた。
パン一つで顔色が変わること。
仕事を押しつけやすい人間と、そうでない人間がいること。
兵士にも当たり外れがあること。
大人の中には、子どもを守る者もいれば、真っ先に切り捨てる者もいること。
そしてエレンは、そういう現実を見るたびに余計に尖っていくこと。
「お前、また喧嘩したのか」
春先、スバルがそう聞くと、エレンは頬の青あざを隠しもせず言った。
「向こうが絡んできた」
「その言い方するやつ、大抵半分は自分から行ってるんだよ」
「半分じゃない。三割だ」
「自己申告で悪化してんじゃねぇか」
エレンは鼻を鳴らす。
「黙って殴られてろってのか」
「そこまでは言ってねぇ」
「じゃあ黙ってろ」
「会話ができねぇ!」
言い返しながらも、スバルは分かっていた。エレンの喧嘩は、ただ短気だからじゃない。短気なのは事実だが、それだけじゃない。
こいつは、何かを飲み込むのが下手なのだ。
理不尽も、侮辱も、無力感も、全部そのまま内側で腐らせられない。だから外へ出る。怒りの形で。
「またやったの」
ミカサが後ろから現れた時の、エレンの顔は見ものだった。
うんざりと、気まずさと、反発と、全部が混ざる。
「別に大したことない」
「ある」
「ない」
「ある」
「お前、それ会話の省略が過ぎるだろ」
スバルが突っ込むと、ミカサは当然のように言った。
「分かるから大丈夫」
「俺には分からねぇよ!」
だが、その直後にアルミンが小さく補足する。
「“また無茶したの”って意味」
「最初から言えよ!」
「君が言う?」
「俺は省略じゃなくて冗長なんだよ、そこは違う!」
そうやって言い合っている時間だけが、妙に昔の続きみたいだった。
昔、といってもたった数か月前なのに。
夏になる頃には、兵団の話が現実味を帯び始めた。
年齢の近い子どもたちの間で、噂が広がる。
「来年には入れるらしい」
「104期だって」
「訓練兵団に入れば食いっぱぐれはしない」
「でも死ぬ」
「憲兵団なら安全なんだろ?」
「上位十名だけだぞ」
「無理だろ」
そういう話を、スバルは聞き流せなくなっていた。
自分は十七だ。この世界の基準でどう処理されるのか曖昧なままだったが、避難民の労働力として使われる期間が長くなるにつれ、逆に兵士や役人たちの目に止まりやすくなっていた。
変な服の出身不明者で、妙に体力があり、口が回る。
良くも悪くも目立つ。
ある日、配給補助をしていたスバルは、年配の兵士に呼び止められた。
「お前、何歳だと言った」
「十七ですけど」
「戦ったことは」
「ないです」
「嘘は下手だな」
「なんでですか!?」
兵士はスバルの顔をじっと見た。
「見たことはある顔だ」
その一言で、背筋が冷えた。
見たことがある。そりゃある。巨人に食われた。壊れた街も見た。死ぬほど見たくなかったものを見た。
だが、それをこの男が知るはずはない。
「死にかけたやつの顔だ」
兵士は言った。
「生き残るやつと、潰れるやつがいる。お前はまだ潰れていない」
「褒められてる感じしねぇな」
「褒めてはいない」
兵士は鼻を鳴らす。
「だが、いずれ兵に回される可能性は高い。覚悟だけはしておけ」
それだけ言って去っていった。
スバルはその場に立ち尽くした。
覚悟。
そんな便利な言葉で片づけられるなら苦労しない。
だが、その日から、自分にも“訓練兵団に入る未来”がはっきりした輪郭を持ち始めた。
そして、それはエレンたちにとっても同じだった。
秋の終わりごろ、エレンが言った。
「俺、入る」
夕暮れの仮設収容地の外れだった。四人で、配給の薄いスープを飲んでいた時だ。いきなりだったが、誰も驚かなかった。
「知ってた」
スバルが言う。
「お前、それ以外の道ない顔してたし」
「あるけど選ばないだけだ」
「言い方が強い」
アルミンが苦笑する。
だが、その苦笑にも迷いは混じっていた。迷いはある。あるが、たぶん答えは変わらない。
「僕も行くよ」
アルミンが言う。
「だろうな」
スバルが返すと、アルミンは少しだけ困ったように笑った。
「そんな即答されると複雑だな」
「いや、お前は行くだろ。考えて終わるやつじゃねぇし」
ミカサは言った。
「私は最初から決まってる」
「それも知ってる」
スバルは三人の顔を見る。
もう、ここまで来ると驚きもない。この二年で、何度も形を変えながらも、結局この結論へ流れてきたのだと分かる。
問題は自分だ。
問題が自分なのは、いつものことでもある。
「お前は?」
エレンが聞く。
スバルはスープの中の薄い芋くずみたいなものを見つめた。
訓練兵団。
巨人と戦う側。
怖い。嫌だ。死にたくない。できれば別の安全そうな仕事を見つけたい。そういう本音は、二年経っても消えていない。
だが同時に、この二年で嫌というほど分かったこともある。
逃げるだけでは、結局どこかで壁にぶつかる。
そして自分は、逃げたあとに後悔する性格をしている。
「……入るよ」
言った瞬間、胃が重くなった。
「やっぱりな」
エレンが言う。
「何その知ってました感!」
「知ってただろ、実際」
「知ってたけど言われると腹立つな!」
ミカサがぽつりと言う。
「スバルは、怖いって言いながら来る」
「その評価ほんとやめろ」
「でも正しい」
アルミンまで乗る。
「お前まで!?」
エレンが少しだけ笑った。
ほんの少しだったが、それはシガンシナを出てから一番まともな笑い方に近かった。
その笑いを見て、スバルは思う。
ああ、ここからだ。
ここから本当に、始まってしまう。
そして、二年は過ぎた。
845年の地獄から、847年へ。
子どもたちは少し背が伸び、顔つきが変わり、失ったものを失ったまま抱え込むのがうまくなった。
完全にうまくなったわけではない。そんなことはない。エレンは相変わらず怒りを内側に飼っていたし、ミカサは相変わらずエレン中心で、アルミンは考えすぎる癖を捨てられなかった。
スバルも同じだ。
死ぬのは怖い。
それは二年経っても変わらない。
だが、怖いまま進むことだけは、少し覚えた。
そして。
847年。
第104期訓練兵団入団の日。
朝の空気は妙に澄んでいた。
並んだ新兵たちの列。壁内各地から集められた少年少女たち。緊張、虚勢、恐怖、意地、その全部を着込んだ顔が並ぶ。
スバルは借り物の訓練兵服の襟をいじりながら、小さく息を吐いた。
「……ついに来たな」
隣でエレンが前を見る。
「遅ぇよ」
「二年越しの台詞にそれ言うか?」
「言う」
前の方ではアルミンが周囲を観察している。ミカサはすでに姿勢がいい。目立つ。嫌でも目立つ。
そして周囲には、まだ見ぬ連中がいる。
それぞれの目に、それぞれの理由を宿した同期たちが。
スバルは列の向こうに立つ教官を見た。
鋭い目。張りのある声。容赦のなさそうな空気。
この先が楽しいわけじゃない。むしろたぶん、もっときつい。
でも、ここから物語が本当に動き始めるのは、間違いなかった。