初日は、終わった瞬間に終わった気がしなかった。
夕刻。空が赤く焼け、訓練場の土が昼間の熱を少しずつ失っていくころ、新兵たちはようやく解散を許された。許された、というより“これ以上やっても使い物にならなくなるから切り上げた”に近い。
スバルはその場で膝に手をつき、しばらく呼吸を整えた。
全身が痛い。
肩はまだ死んでるし、足は棒だし、腰回りは立体機動装置の締め付けで変な筋肉が生まれそうだった。喉に至ってはもう、自分のものじゃない。
「……無理だろ、これ」
掠れた声で呟く。
「一日目だから」
アルミンが言った。こっちも疲れ切っているくせに、こういう時の口調だけは妙に落ち着いている。
「二日目以降はもっと無理になる可能性あるだろ」
「あるね」
「否定しろよ!」
「嘘になるから」
正しい。腹立つくらい正しい。
エレンは息を整えながら、まだ訓練場の中央を見ていた。見ているのは教官か、装置か、それとも自分ができなかった部分か。たぶん全部だ。
ミカサは汗を拭うでもなく、平然と立っているように見えた。見えるだけで、さすがに多少は疲れているのだろうが、少なくとも表には出ない。
周囲の同期たちも、それぞれに初日の洗礼を受けていた。
吐いているやつ。座り込んで立てないやつ。無言で空を見てるやつ。虚勢で笑っているやつ。キース教官の一言一句を呪詛みたいに繰り返しているやつまでいる。
その中で、一人だけ妙にうるさい声が響いた。
「なんなんだよ、あの教官! 初日から人を家畜以下みてぇに!」
金髪の、背の高い少年だった。眉が太く、顔立ちは悪くないが、今は不機嫌を隠す気ゼロという表情をしている。
「馬鹿か、聞こえるぞ」
隣の少年が肘でつつく。こっちは黒髪の丸顔で、気の弱そうな顔立ちだ。
「聞こえたら何だよ!」
「死ぬほど怒鳴られる」
「もう怒鳴られたあとだろうが!」
スバルは思わずそちらを見た。
エレンも見た。ミカサは一瞬だけ。アルミンは観察するように。
ああ、こいつらだ、とスバルはなんとなく思った。この先、同じ訓練場で何度も顔を合わせることになる連中だ。まだ名前も知らないが、そういう気配がある。
で、その金髪は案の定こちらの視線に気づいた。
「なんだよ」
尖った声。
スバルは疲れた体で肩をすくめる。
「いや、元気あるなって」
「元気じゃねぇよ!」
「声量は元気だろ」
「喧嘩売ってんのか?」
「売ってねぇよ、初日から同業者増やす気はねぇ」
そこで黒髪の方が慌てて割って入る。
「悪い、こいつ今ちょっと機嫌が」
「“ちょっと”で済んでるかこれ?」
スバルが言うと、黒髪は困ったように笑った。
「僕はマルコ。こっちはジャン」
「誰が“こっち”だ」
「自己紹介してくれたんだからいいだろ」
ジャン、と呼ばれた少年は舌打ちしたが、否定はしなかった。
スバルは少しだけ目を細める。
マルコ。ジャン。名前が入るだけで、急に“ただの背景”じゃなくなる。こわい。こういうのは大体、後で痛くなる。
「スバルだ」
「変な名前だな」
ジャンが即答した。
「本日三回目くらいだぞそれ!」
「変な服よりマシだろ」
「それは否定できねぇ!」
ジャンの口元がわずかに動く。笑ったのか、ただ鼻で笑っただけか微妙なところだ。
エレンが横から低く言う。
「お前、やたら絡むな」
「は?」
ジャンが目つきを険しくする。
「何だよ、黒髪」
「エレンだ」
「知らねぇよ」
「今言っただろ」
「名前だけ言われても分からねぇだろ!」
うわ、めんどくせぇ、とスバルは思った。しかも種類の違う面倒くささがぶつかってる。ジャンは自意識が高いタイプ、エレンは真正面から突き抜けるタイプ。相性最悪だ。
マルコがすぐに空気を読む。
「まあまあ、同じ班になるかもしれないんだし」
「ならなおさら最初が肝心だろ」
ジャン。
「何の」
エレン。
「全部だよ」
「意味分からん」
「お前、ほんと喧嘩売る才能あるな!?」
スバルが反射で割り込むと、ジャンの視線が今度はこちらへ向く。
「何だよ」
「いや、お前らこのテンポでやったら日が暮れるぞ」
「もう暮れてる」
アルミンの補足が静かに刺さる。
「分かってんだよ!」
スバルは叫び返した。
そのやりとりで、ジャンの苛立ちが少しだけ逸れたらしい。鼻を鳴らして背を向ける。
「……くだらねぇ」
「初日からみんな余裕ないだけだよ」
マルコは苦笑した。
「たぶん、明日にはもっとひどいけど」
「希望がねぇな」
スバルが言うと、マルコは肩をすくめた。
「でも、少しは慣れると思う」
その“少し”が怖い。
解散後、寝所へ戻るまでの足取りは重かった。
訓練兵団の宿舎は、当然ながら快適とは程遠い。広い部屋に粗末な寝台が並び、男女は棟が分かれている。荷物らしい荷物も少なく、皆まだ“ここが自分の居場所になる”実感を持てていない顔でうろうろしていた。
スバルは割り当てられた寝台に腰を下ろし、そこで初めて、何も支えずに背中を預けた。
「……死ぬ」
「まだ死なない」
向かいの寝台でアルミンが言う。
「お前その返し便利すぎるだろ」
「事実だから」
その横でエレンは無言で靴を脱ぎ、足の感覚を確かめるように軽く動かしている。ミカサはいない。女子棟だ。当たり前だが、いないと少しだけ調子が狂う。あいつ、会話のテンポを壊す役として意外と重要だったのかもしれない。
「なあ」
スバルが天井を見たまま言う。
「今日の立体機動、どうだった?」
「どうって?」
アルミンが聞き返す。
「いや、率直なやつ」
少し間があった。
正直な評価が来るな、とスバルは察する。
「ミカサは別格」
「それは知ってる」
「エレンは粗いけど、体幹が強い。たぶん伸びる」
「だろうな」
「僕は、ギリギリ。今のままだと危ない」
「お前、自分に辛ぇな」
「分析だから」
「分析って言えば何でも冷たくしていいと思うなよ」
「じゃあ、言い方を変える」
アルミンは少しだけ考えた。
「……君は、思ったより良かった」
スバルは天井を見たまま顔をしかめる。
「その言い回し、今日ミカサにも言われた」
「うん。たぶん同じ意味」
「怖ぇよ」
アルミンが少し笑った。
「でも本当にそうだよ。最初は絶対落ちると思ってた」
「率直さに殺意湧くな!」
「でも落ちなかった」
「……まあな」
そこだけは、事実だ。
ぎりぎり。みっともなく。怒鳴られ、助言され、情けない格好で。それでも落ちなかった。
その“落ちなかった”が、妙に胸に残っている。
エレンがようやく口を開いた。
「お前、怖がりのくせに身体は動くんだよな」
「悪口か褒め言葉かどっちかにしろ」
「両方だ」
「最悪だな」
「でも、お前が本当にダメなのは別だろ」
スバルは視線だけ向ける。
「……別?」
「覚悟決めるのが遅い」
エレンは平然と言った。
「動くまでが長ぇ」
「ぐっ」
図星だった。
怖い。迷う。無理かもと思う。そこからやっと行く。だから毎回半拍遅れる。それをエレンは見ている。ずっと。
「お前は早すぎるんだよ」
スバルは言い返す。
「考えろよ少しは」
「考えてる」
「考えた結果があれなら怖ぇんだって」
「何が」
「全部だよ!」
寝台の何人かがこちらを見る。やばい、声がでかい。スバルは慌ててトーンを落とした。
「……とにかく、極端なんだよお前らは」
「お前も十分極端」
アルミン。
「何で俺だけそんな共通認識みたいになってんの」
「事実だから」
「双方向から刺すな!」
だが、少し騒いだおかげで呼吸が楽になる。
疲れているのに、こうして喋っていないと逆に落ち着かない。静かになると、初日の怒号や、装置で浮いた瞬間の不安定さや、もっと前のシガンシナの匂いまで戻ってきそうだからだ。
そのとき、寝所の入口で誰かが声を張った。
「おい、新入りども。夜の点検だ、整列しろ」
年上の訓練兵か、補助役の兵士らしい。容赦がない。休息時間という概念がまだ存在していない。
「……もう寝かせろよ」
スバルが呻くと、エレンが立ち上がる。
「ほら行くぞ」
「お前、こういう時だけ早いな」
「遅れて怒鳴られたいのか」
「それは嫌だ」
嫌なのですぐ立つ。立った瞬間に足が悲鳴を上げる。ああもう無理だ、と思いながら、それでも整列へ向かう。
廊下にはすでに他の新兵たちも並び始めていた。
ジャンが眠そうな顔で悪態をついている。
「くそ……何なんだよこの生活……」
「まだ始まったばかりだよ」
マルコが言う。
「始まりだから余計嫌なんだろ!」
妙に元気だな、とスバルは思う。元気というより、疲れてるから抑えが利いてないだけかもしれない。
整列が済むと、今度は短い規律説明が始まった。就寝時間、起床時間、私語の制限、装備点検、遅刻の扱い、違反への懲罰。
全部が厳しい。
甘えの余地を削ぎ落としていく感じが、壁外より先に人の内側を訓練しているみたいだった。
「……家畜以下って言い方、案外間違ってねぇのかもな」
スバルが小さく漏らすと、前列のジャンが振り返りかけてやめた。聞こえていたらしい。
説明が終わり、ようやく就寝が許される。
寝台へ倒れ込んだ瞬間、スバルはもう動きたくなかった。だが意識だけは妙に冴えている。疲れきってるくせに眠れない。体と頭が噛み合っていない。
暗い天井を見ながら、スバルは思う。
これが日常になるのか。
今日みたいな一日が、これから何百日も続くのか。
気が遠くなりかけた、その時。
「スバル」
アルミンの声が闇の中からした。
「何」
「今日さ」
「うん」
「君が“死にたくない”って教官に言ったの、僕は結構すごいと思った」
スバルは少し黙った。
「……何だよ急に」
「別に」
「お前までその返し使うのやめろよ」
アルミンが小さく笑う気配がした。
「普通、ああいう場だと格好つけたくなるから」
「格好つけられる余裕がねぇんだよ、こっちは」
「だからだよ」
その意味は、すぐには分からなかった。
いや、分かりたくなかったのかもしれない。格好つけられないのを長所みたいに言われると、何か負けた気がするから。
だが、闇の中でエレンがぽつりと言う。
「でも、あれは嘘じゃなかった」
短い一言。
それで十分だった。
スバルは目を閉じた。眠気が来たわけじゃない。ただ、何かを受け取りきれなくて、目を閉じるしかなかった。
初日からこんなこと言われるの、だいぶずるい。
疲れている時に、変なところで人の心を引っかくな。
そう思いながら、スバルはようやく浅い眠りへ落ちていった。
そして。
翌朝の号令は、昨日より容赦なかった。