Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

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第15話 殴り合う前に覚えること

 

 

 三日目の朝、スバルは起きた瞬間に悟った。

 

 昨日より痛い。

 

「……終わった」

 

「何が」

 

 アルミンが服を整えながら聞く。

 

「俺の筋肉人生」

 

「始まってもいないよ」

 

「それが怖ぇんだって」

 

 寝台から起き上がるだけで背中が軋む。足は重い。肩は相変わらず死んでいる。なのに外ではもう号令が飛んでいた。待ってくれない。訓練兵団は一切待ってくれない。

 

 訓練場へ出ると、空気が昨日までと少し違った。

 

 皆、もう“初日だから”という言い訳を失っている。

 

 昨日までは怒鳴られ、倒れ、ついていくだけで精一杯だった。だが三日目ともなると、それぞれの中に小さな序列意識が生まれ始めていた。できるやつ。できないやつ。上から見られるやつ。見返したいやつ。

 

 その空気の中心にいる一人が、当然のようにミカサだった。

 

 朝の基礎訓練からして別格だ。動きに無駄がない。走ってもぶれない。息も乱れにくい。教官に褒められはしないが、怒鳴られもしない。怒鳴られないこと自体が、この場所では褒賞に近い。

 

 そして、それを面白く思わないやつも当然出る。

 

「女のくせに」

 と、小声で言ったやつがいた。

 

 スバルは聞こえてしまった。たぶんエレンも聞こえた。アルミンも。ミカサは――どうだろう。聞こえていても顔に出さない。

 

 だが、出したのは別の方向だった。

 

「今の誰だ」

 

 エレンが低く言った。

 

 あー、やめろ、とスバルは思う。思った瞬間にはもう遅い。

 

 列の中ほどにいた短髪の少年が、わざとらしく肩をすくめる。

 

「何だよ。聞こえたのか」

 

「聞こえた」

 

「事実だろ。女であそこまでやれてるの、変だって話してただけだ」

 

「変なのはお前の頭だろ」

 

 エレンが一歩出る。

 

 最悪である。

 

「お前、喧嘩売りに行くまでが早すぎるんだよ!」

 

 スバルが小声で引っ張るが、エレンは止まらない。

 

 そこへキース教官の怒声が飛ぶ。

 

「イェーガー!! ナツキ!! 列を乱すなァ!!」

 

「はい!!」

 

 声だけは揃う。

 

 その短髪の少年はにやついていたが、それ以上は言わなかった。言えなかった、というべきか。エレンの顔が本気だったからだ。

 

 朝の訓練が一段落し、短い休憩に入ったところで、エレンはまだ不機嫌そうだった。

 

「放っとけよ」

 

 スバルが言う。

 

「放っとけるか」

 

「ミカサ本人が流してんだろ」

 

「だから何だ」

 

「だから、お前が勝手に燃え上がると余計ややこしくなんだよ」

 

 エレンが睨む。

 

「お前は平気なのか」

 

「平気じゃねぇよ。でも平気じゃないからって全部殴って回るのは違うだろ」

 

「殴るなんて言ってねぇ」

 

「顔が言ってる」

 

 そこへ当のミカサが来た。

 

「エレン」

 

「何だ」

 

「放っておいていい」

 

「よくない」

 

「いい」

 

 短い応酬。

 

 スバルは頭を抱えたくなる。会話が成立しているようで、成立していない。

 

「ミカサ、もうちょい補足してくれ」

 

「必要ない」

 

「俺にだけ必要なんだよ!」

 

 ミカサは平然としていた。

 

「弱い犬はよく吠える」

 

「うわ、今のかなり煽ってるぞ」

 

「本当のこと」

 

「お前、静かな顔でそういうこと言うから怖ぇんだよ……」

 

 エレンが少しだけ肩の力を抜いた。完全には抜けていないが、少なくとも今すぐ殴りに行く顔ではなくなった。ミカサ相手だと、怒りの向きが少し変わるのだろう。

 

 その日の訓練は、班行動の比重が増えた。

 

 走る。位置を取る。合図で動く。遅れた者をどうカバーするか。個人の強さより、“崩れた時にどう立て直すか”を何度も叩き込まれる。

 

 スバルはここで、自分の悪癖をさらに思い知らされた。

 

 失敗すると焦る。

 

 焦ると前のめりになる。

 

 前のめりになると、班の動きからはみ出す。

 

「スバル、早い!」

 マルコ。

 

「え、今そっちじゃねぇの!?」

「次の合図待ち!」

「先に言えよ!」

 

「言ってた!」

 

 言われていた。たしかに。

 

 コニーが横で叫ぶ。

 

「お前、勢いで誤魔化そうとすんな!」

 

「誤魔化してねぇ! 取り返そうとしてんだ!」

 

「それが余計なんだって!」

 

 サシャまで珍しく真顔で頷いた。

 

「スバルは慌てると大きく動きすぎます」

 

「お前にまで言われるの、結構くるな……」

 

 だが、班で動くとその欠点が致命的に見える。

 

 個人で転ぶだけならまだいい。班でズレると、他のやつまで引っ張られる。

 

 キース教官補佐がそれを見逃すはずもなかった。

 

「ナツキ! 貴様は自分の失敗を取り返すことしか考えていない! 班の呼吸を見ろ!」

 

 耳が痛い。

 

 比喩じゃなく、精神的に。

 

「はい!」

 

「返事だけはいいな!」

 

「すみません!」

 

「謝罪もいらん! 直せ!!」

 

「はい!」

 

 無理難題を即答で受けるしかない。だが、言われていることは正しい。腹立つほどに正しい。

 

 昼食のとき、スバルは完全に項垂れていた。

 

「落ち込みすぎ」

 

 マルコが言う。

 

「いや、お前さらっと言うけどな、今日かなり足引っ張ってたぞ俺」

 

「かなり、は言いすぎ。何度か、だよ」

 

「優しさが痛ぇよ……」

 

 コニーがパンを齧りながら言う。

 

「でも、お前って分かりやすいよな」

 

「何が」

 

「ミスしたあと、顔に“うわやった”って全部出る」

 

「そんなに?」

 

「出る」

 

 サシャが即答した。

 

「すごく出ます」

 

「お前ら遠慮って言葉知ってる?」

 

「知ってます」

 サシャ。

 

「でも今は事実確認です」

 マルコ。

 

「優しさがねぇ!」

 

 そこへ、少し離れた班からジャンの声が飛んできた。

 

「うるせぇな、お前ら」

 

「そっちも大概だろ!」

 

 スバルが即座に返すと、ジャンは鼻を鳴らす。

 

「こっちはお前ほど騒いでねぇ」

 

「俺は騒いで集中保ってんだよ!」

 

「欠陥機構か」

 

「言葉の切れ味が嫌な方向に鋭い!」

 

 ジャンの班にはエレンもいる。案の定、空気が微妙に張っていた。

 

 だが以前より露骨にぶつかってはいない。少なくとも訓練中は。互いに相手の嫌なところを認識しながら、同時に“嫌いだからこそ無視できない”段階に入り始めているのが見て取れた。

 

 マルコが小さく言う。

 

「エレンとジャン、少しは噛み合ってきたかも」

 

「どこがだよ」

 

「ジャンはエレンの前に出る力を見てる。エレンはジャンの全体を見る目を無視できなくなってる」

 

 スバルはジャンを見る。ジャンは嫌そうな顔でスープを飲んでいた。

 

「お前、そういうのよく見えるな」

 

「見えるっていうか、見ようとしてるだけだよ」

 

 マルコは言う。

 

「同じ班なんだから、分からないままだと困るし」

 

 その言葉に、スバルは少しだけ黙った。

 

 同じ班なんだから、分からないままだと困る。

 

 それは、たぶんこの訓練兵団全体にも言えることなのだろう。誰が何を見て、何が得意で、何が苦手で、どこで崩れるのか。知れば知るほど面倒も増えるが、知らないままだともっと危ない。

 

 午後は、立体機動装置の反復だった。

 

 そしてここで、はっきり差が出た。

 

 ミカサはもはや別枠だ。エレンも伸びが早い。ジャンも安定している。ライナーと呼ばれていた大柄な少年、ベルトルトという長身の静かな少年、その辺りも目に見えて上手い。

 

 一方で、スバルは。

 

「ぐっ……!」

 

 保てる。だが、美しくない。

 

 ぶれる。揺れる。修正はできる。だが遅れる。しかもその“なんとか持ちこたえる”感じが、見ていてだいぶ不安を誘う。

 

 着地した瞬間、キース教官が言った。

 

「ナツキ・スバル」

 

「はっ!」

 

「貴様は毎回、落ちそうで落ちんな」

 

「それ褒めてます?」

 

「褒めていない」

 

「ですよね!」

 

「だが、落ちる者よりはましだ」

 

 その一言に、少しだけ周囲の空気が変わる。

 

 単なる慰めではない。教官が言うと意味が違う。

 

 スバル自身も、わずかに息を吐いた。

 

 落ちる者よりはまし。

 

 最高評価じゃない。下の上か、中の下か、そのあたりだろう。でも、ゼロじゃない。置いていかれるだけの側じゃない。

 

 その時、装置の点検係をしていた教官補佐が、突然顔をしかめた。

 

「次、イェーガー!」

 

 エレンが前に出る。装置をつける。吊られる。

 

 そして――。

 

 崩れた。

 

「なっ――」

 

 スバルの口から声が漏れる。

 

 昨日まで保てていたエレンが、今日は明らかにおかしい。片側へ大きく傾き、そのまま制御を失いかける。

 

「修正しろ、イェーガー!!」

 

 教官補佐の怒声。

 

 エレンは歯を食いしばるが、姿勢が戻らない。異常だ。昨日の粗さとは種類が違う。

 

 着地した瞬間、ざわめきが走った。

 

 エレン自身も愕然としている。

 

「……なんでだ」

 

 小さな声だったが、近くの者には聞こえた。

 

 ジャンが眉をひそめる。アルミンが顔色を変える。ミカサは一歩前に出かけて止まる。

 

 キース教官が近づいた。

 

「イェーガー」

 

「は、はい!」

 

「再度やれ」

 

「はい!」

 

 もう一度。

 

 だが、結果は同じだった。むしろさっきより悪い。保持できない。崩れる。落ちる寸前で止められる。

 

 訓練場の空気が、目に見えて冷えた。

 

 エレン・イェーガーは、少なくともここ数日、“できる側”にいたはずだ。そのエレンが急にできなくなる。そんなの、本人にとっても周囲にとっても気味が悪い。

 

 降ろされたエレンは、装置を外しながら低く呟いた。

 

「……故障か」

 

 その一言で、キース教官の目がわずかに動く。

 

 スバルは嫌な予感がした。

 

 このままエレンが“できない側”へ落ちる展開は、こいつにとって致命傷になりかねない。こいつはそういう屈辱を飲み込むのが下手だ。怒る。暴れる。折れはしないかもしれないが、歪む。

 

 キース教官はしばらくエレンを見ていたが、何も言わなかった。

 

「次」

 

 それだけ。

 

 訓練は続く。

 

 だが、空気は明らかに変わっていた。

 

 夜、寝所へ戻ったあとも、その話でもちきりだった。

 

「イェーガー、どうしたんだ」

「昨日までできてたのに」

「故障じゃねぇの」

「いや、実力だろ」

「そんな急に落ちるか?」

 

 ざわめきの中心で、エレンは無言だった。

 

 スバルは寝台に腰かけ、少し距離を置いてそいつを見る。今は下手な声をかけるのも違う気がした。違う、のだが――。

 

「……おい」

 

 結局、呼ぶ。

 

 エレンは顔を上げない。

 

「何だ」

 

「故障って、ありえんのか?」

 

 アルミンが先に答えた。

 

「ありえるとは思う」

 

 エレンも小さく言う。

 

「でも、それで通ると思うか?」

 

 通らない。

 

 少なくとも、今の空気では。

 

 “できなかったやつの言い訳”として処理される可能性のほうが高い。

 

 スバルは頭を掻いた。

 

「……くそ、こういう時の声かけテンプレ持ってねぇんだよな俺」

 

 エレンが初めて少しだけ顔を上げた。

 

「いらねぇよ」

 

「そう言われると余計困る」

 

 アルミンが静かに言う。

 

「明日、もう一回見れば分かるよ」

 

「分かるって、何が」

 

「装置か、エレン自身か」

 

 エレンの肩が強張る。

 

 そこへ、珍しく寝所の入口でマルコが立ち止まった。別班なので本来そう長居はできないはずだが、少しだけこちらを見て言う。

 

「イェーガー」

 

 エレンが視線だけ向ける。

 

「今日のは、たしかに変だった。僕もそう思う」

 

 それだけだった。

 

 慰めでも断定でもない。ただ、“見ていた”という事実だけを置いていく。

 

 エレンは何も返さなかった。だが、その一言は多少なり効いたはずだ。少なくとも、“お前の実力不足だ”と決めつけられるのとは違う。

 

 マルコが去ったあと、スバルはぼそっと言う。

 

「……あいつ、ほんと良いやつだな」

 

「うん」

 

 アルミンが頷く。

 

 エレンは無言のままだった。

 

 スバルは天井を見上げる。

 

 嫌な流れだ、と思った。

 

 まだ死とか裏切りとか、そんな大きな話じゃない。ただ、こういう“小さなずれ”が、あとで人を変な方向へ追い込むのを、自分はもう知っている気がする。

 

 明日、何とかならなければまずい。

 

 何とかなるなら、いい。

 

 ならなかったら?

 

 その先のことを考えそうになって、スバルは無理やり止めた。

 

 まだ早い。

 

 まだ、今日の終わりだ。

 

 だが、その夜の空気は、はっきりと“次の日に持ち越す問題”の匂いをしていた。

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