三日目の朝、スバルは起きた瞬間に悟った。
昨日より痛い。
「……終わった」
「何が」
アルミンが服を整えながら聞く。
「俺の筋肉人生」
「始まってもいないよ」
「それが怖ぇんだって」
寝台から起き上がるだけで背中が軋む。足は重い。肩は相変わらず死んでいる。なのに外ではもう号令が飛んでいた。待ってくれない。訓練兵団は一切待ってくれない。
訓練場へ出ると、空気が昨日までと少し違った。
皆、もう“初日だから”という言い訳を失っている。
昨日までは怒鳴られ、倒れ、ついていくだけで精一杯だった。だが三日目ともなると、それぞれの中に小さな序列意識が生まれ始めていた。できるやつ。できないやつ。上から見られるやつ。見返したいやつ。
その空気の中心にいる一人が、当然のようにミカサだった。
朝の基礎訓練からして別格だ。動きに無駄がない。走ってもぶれない。息も乱れにくい。教官に褒められはしないが、怒鳴られもしない。怒鳴られないこと自体が、この場所では褒賞に近い。
そして、それを面白く思わないやつも当然出る。
「女のくせに」
と、小声で言ったやつがいた。
スバルは聞こえてしまった。たぶんエレンも聞こえた。アルミンも。ミカサは――どうだろう。聞こえていても顔に出さない。
だが、出したのは別の方向だった。
「今の誰だ」
エレンが低く言った。
あー、やめろ、とスバルは思う。思った瞬間にはもう遅い。
列の中ほどにいた短髪の少年が、わざとらしく肩をすくめる。
「何だよ。聞こえたのか」
「聞こえた」
「事実だろ。女であそこまでやれてるの、変だって話してただけだ」
「変なのはお前の頭だろ」
エレンが一歩出る。
最悪である。
「お前、喧嘩売りに行くまでが早すぎるんだよ!」
スバルが小声で引っ張るが、エレンは止まらない。
そこへキース教官の怒声が飛ぶ。
「イェーガー!! ナツキ!! 列を乱すなァ!!」
「はい!!」
声だけは揃う。
その短髪の少年はにやついていたが、それ以上は言わなかった。言えなかった、というべきか。エレンの顔が本気だったからだ。
朝の訓練が一段落し、短い休憩に入ったところで、エレンはまだ不機嫌そうだった。
「放っとけよ」
スバルが言う。
「放っとけるか」
「ミカサ本人が流してんだろ」
「だから何だ」
「だから、お前が勝手に燃え上がると余計ややこしくなんだよ」
エレンが睨む。
「お前は平気なのか」
「平気じゃねぇよ。でも平気じゃないからって全部殴って回るのは違うだろ」
「殴るなんて言ってねぇ」
「顔が言ってる」
そこへ当のミカサが来た。
「エレン」
「何だ」
「放っておいていい」
「よくない」
「いい」
短い応酬。
スバルは頭を抱えたくなる。会話が成立しているようで、成立していない。
「ミカサ、もうちょい補足してくれ」
「必要ない」
「俺にだけ必要なんだよ!」
ミカサは平然としていた。
「弱い犬はよく吠える」
「うわ、今のかなり煽ってるぞ」
「本当のこと」
「お前、静かな顔でそういうこと言うから怖ぇんだよ……」
エレンが少しだけ肩の力を抜いた。完全には抜けていないが、少なくとも今すぐ殴りに行く顔ではなくなった。ミカサ相手だと、怒りの向きが少し変わるのだろう。
その日の訓練は、班行動の比重が増えた。
走る。位置を取る。合図で動く。遅れた者をどうカバーするか。個人の強さより、“崩れた時にどう立て直すか”を何度も叩き込まれる。
スバルはここで、自分の悪癖をさらに思い知らされた。
失敗すると焦る。
焦ると前のめりになる。
前のめりになると、班の動きからはみ出す。
「スバル、早い!」
マルコ。
「え、今そっちじゃねぇの!?」
「次の合図待ち!」
「先に言えよ!」
「言ってた!」
言われていた。たしかに。
コニーが横で叫ぶ。
「お前、勢いで誤魔化そうとすんな!」
「誤魔化してねぇ! 取り返そうとしてんだ!」
「それが余計なんだって!」
サシャまで珍しく真顔で頷いた。
「スバルは慌てると大きく動きすぎます」
「お前にまで言われるの、結構くるな……」
だが、班で動くとその欠点が致命的に見える。
個人で転ぶだけならまだいい。班でズレると、他のやつまで引っ張られる。
キース教官補佐がそれを見逃すはずもなかった。
「ナツキ! 貴様は自分の失敗を取り返すことしか考えていない! 班の呼吸を見ろ!」
耳が痛い。
比喩じゃなく、精神的に。
「はい!」
「返事だけはいいな!」
「すみません!」
「謝罪もいらん! 直せ!!」
「はい!」
無理難題を即答で受けるしかない。だが、言われていることは正しい。腹立つほどに正しい。
昼食のとき、スバルは完全に項垂れていた。
「落ち込みすぎ」
マルコが言う。
「いや、お前さらっと言うけどな、今日かなり足引っ張ってたぞ俺」
「かなり、は言いすぎ。何度か、だよ」
「優しさが痛ぇよ……」
コニーがパンを齧りながら言う。
「でも、お前って分かりやすいよな」
「何が」
「ミスしたあと、顔に“うわやった”って全部出る」
「そんなに?」
「出る」
サシャが即答した。
「すごく出ます」
「お前ら遠慮って言葉知ってる?」
「知ってます」
サシャ。
「でも今は事実確認です」
マルコ。
「優しさがねぇ!」
そこへ、少し離れた班からジャンの声が飛んできた。
「うるせぇな、お前ら」
「そっちも大概だろ!」
スバルが即座に返すと、ジャンは鼻を鳴らす。
「こっちはお前ほど騒いでねぇ」
「俺は騒いで集中保ってんだよ!」
「欠陥機構か」
「言葉の切れ味が嫌な方向に鋭い!」
ジャンの班にはエレンもいる。案の定、空気が微妙に張っていた。
だが以前より露骨にぶつかってはいない。少なくとも訓練中は。互いに相手の嫌なところを認識しながら、同時に“嫌いだからこそ無視できない”段階に入り始めているのが見て取れた。
マルコが小さく言う。
「エレンとジャン、少しは噛み合ってきたかも」
「どこがだよ」
「ジャンはエレンの前に出る力を見てる。エレンはジャンの全体を見る目を無視できなくなってる」
スバルはジャンを見る。ジャンは嫌そうな顔でスープを飲んでいた。
「お前、そういうのよく見えるな」
「見えるっていうか、見ようとしてるだけだよ」
マルコは言う。
「同じ班なんだから、分からないままだと困るし」
その言葉に、スバルは少しだけ黙った。
同じ班なんだから、分からないままだと困る。
それは、たぶんこの訓練兵団全体にも言えることなのだろう。誰が何を見て、何が得意で、何が苦手で、どこで崩れるのか。知れば知るほど面倒も増えるが、知らないままだともっと危ない。
午後は、立体機動装置の反復だった。
そしてここで、はっきり差が出た。
ミカサはもはや別枠だ。エレンも伸びが早い。ジャンも安定している。ライナーと呼ばれていた大柄な少年、ベルトルトという長身の静かな少年、その辺りも目に見えて上手い。
一方で、スバルは。
「ぐっ……!」
保てる。だが、美しくない。
ぶれる。揺れる。修正はできる。だが遅れる。しかもその“なんとか持ちこたえる”感じが、見ていてだいぶ不安を誘う。
着地した瞬間、キース教官が言った。
「ナツキ・スバル」
「はっ!」
「貴様は毎回、落ちそうで落ちんな」
「それ褒めてます?」
「褒めていない」
「ですよね!」
「だが、落ちる者よりはましだ」
その一言に、少しだけ周囲の空気が変わる。
単なる慰めではない。教官が言うと意味が違う。
スバル自身も、わずかに息を吐いた。
落ちる者よりはまし。
最高評価じゃない。下の上か、中の下か、そのあたりだろう。でも、ゼロじゃない。置いていかれるだけの側じゃない。
その時、装置の点検係をしていた教官補佐が、突然顔をしかめた。
「次、イェーガー!」
エレンが前に出る。装置をつける。吊られる。
そして――。
崩れた。
「なっ――」
スバルの口から声が漏れる。
昨日まで保てていたエレンが、今日は明らかにおかしい。片側へ大きく傾き、そのまま制御を失いかける。
「修正しろ、イェーガー!!」
教官補佐の怒声。
エレンは歯を食いしばるが、姿勢が戻らない。異常だ。昨日の粗さとは種類が違う。
着地した瞬間、ざわめきが走った。
エレン自身も愕然としている。
「……なんでだ」
小さな声だったが、近くの者には聞こえた。
ジャンが眉をひそめる。アルミンが顔色を変える。ミカサは一歩前に出かけて止まる。
キース教官が近づいた。
「イェーガー」
「は、はい!」
「再度やれ」
「はい!」
もう一度。
だが、結果は同じだった。むしろさっきより悪い。保持できない。崩れる。落ちる寸前で止められる。
訓練場の空気が、目に見えて冷えた。
エレン・イェーガーは、少なくともここ数日、“できる側”にいたはずだ。そのエレンが急にできなくなる。そんなの、本人にとっても周囲にとっても気味が悪い。
降ろされたエレンは、装置を外しながら低く呟いた。
「……故障か」
その一言で、キース教官の目がわずかに動く。
スバルは嫌な予感がした。
このままエレンが“できない側”へ落ちる展開は、こいつにとって致命傷になりかねない。こいつはそういう屈辱を飲み込むのが下手だ。怒る。暴れる。折れはしないかもしれないが、歪む。
キース教官はしばらくエレンを見ていたが、何も言わなかった。
「次」
それだけ。
訓練は続く。
だが、空気は明らかに変わっていた。
夜、寝所へ戻ったあとも、その話でもちきりだった。
「イェーガー、どうしたんだ」
「昨日までできてたのに」
「故障じゃねぇの」
「いや、実力だろ」
「そんな急に落ちるか?」
ざわめきの中心で、エレンは無言だった。
スバルは寝台に腰かけ、少し距離を置いてそいつを見る。今は下手な声をかけるのも違う気がした。違う、のだが――。
「……おい」
結局、呼ぶ。
エレンは顔を上げない。
「何だ」
「故障って、ありえんのか?」
アルミンが先に答えた。
「ありえるとは思う」
エレンも小さく言う。
「でも、それで通ると思うか?」
通らない。
少なくとも、今の空気では。
“できなかったやつの言い訳”として処理される可能性のほうが高い。
スバルは頭を掻いた。
「……くそ、こういう時の声かけテンプレ持ってねぇんだよな俺」
エレンが初めて少しだけ顔を上げた。
「いらねぇよ」
「そう言われると余計困る」
アルミンが静かに言う。
「明日、もう一回見れば分かるよ」
「分かるって、何が」
「装置か、エレン自身か」
エレンの肩が強張る。
そこへ、珍しく寝所の入口でマルコが立ち止まった。別班なので本来そう長居はできないはずだが、少しだけこちらを見て言う。
「イェーガー」
エレンが視線だけ向ける。
「今日のは、たしかに変だった。僕もそう思う」
それだけだった。
慰めでも断定でもない。ただ、“見ていた”という事実だけを置いていく。
エレンは何も返さなかった。だが、その一言は多少なり効いたはずだ。少なくとも、“お前の実力不足だ”と決めつけられるのとは違う。
マルコが去ったあと、スバルはぼそっと言う。
「……あいつ、ほんと良いやつだな」
「うん」
アルミンが頷く。
エレンは無言のままだった。
スバルは天井を見上げる。
嫌な流れだ、と思った。
まだ死とか裏切りとか、そんな大きな話じゃない。ただ、こういう“小さなずれ”が、あとで人を変な方向へ追い込むのを、自分はもう知っている気がする。
明日、何とかならなければまずい。
何とかなるなら、いい。
ならなかったら?
その先のことを考えそうになって、スバルは無理やり止めた。
まだ早い。
まだ、今日の終わりだ。
だが、その夜の空気は、はっきりと“次の日に持ち越す問題”の匂いをしていた。