翌朝、空気は最初から悪かった。
誰も昨日のことを忘れていない。寝所から訓練場へ向かう足音の中にまで、それが混じっていた。イェーガーは本当に駄目になったのか。装置の故障か。ただの実力か。できる側から落ちる瞬間を、人は見たがる。
スバルはその視線の流れが気に食わなかった。
だが、気に食わないで済むほど、この場所は甘くない。
「整列!!」
号令。
朝一番の点呼。
キース教官の目が列を舐めるように動き、当然のようにエレンのところで一瞬止まる。
「本日も立体機動適性を確認する!! 昨日できた者が今日もできる保証はない!! 昨日できなかった者が今日も無能とは限らん!! だが、できん者は死ぬ!!」
訓練場の空気が凍る。
エレンの肩が強張るのが、少し離れた位置からでも分かった。
基礎訓練は最低限だった。走る。姿勢。短い号令確認。そしてすぐ、装置の前へ並ばされる。
早い。
昨日よりずっと早い。
問題を引き延ばさないつもりだ、とスバルは思った。キース教官はこういう時、変に情けをかけない。痛いなら痛いうちにえぐる。
数人が先に試す。
ミカサは当然のように安定。
ジャンも問題ない。
ライナーも、ベルトルトも。
アルミンは危なげなくはないが、昨日より少しマシだった。
スバルの番も来る。
「ナツキ・スバル!」
「はい!」
装置をつける。吊られる。浮く。怖い。だが昨日よりは少しだけ分かる。腰。足。呼吸。ぶれる。修正。まだぶれる。でも落ちない。
「――やめ!」
地面に戻る。
悪くない。いや、良くもない。だが、昨日よりはましだ。
キース教官は一言だけ言った。
「見苦しさが減った」
「褒めてます?」
「次!!」
褒めてはいないが、完全な罵倒でもない。スバルはそれだけで少し息を吐いた。今日は、自分のことを考えている余裕がない。問題は次だ。
「エレン・イェーガー!」
来た。
訓練場の空気がまた張る。昨日見た連中は全員、無意識に注目していた。見ていないふりをしていても分かる。
エレンが前へ出る。
顔色は悪くない。むしろ静かすぎる。昨日みたいな剥き出しの苛立ちはない。そのぶん危うい。
装置をつける。
吊られる。
浮く。
そして――。
崩れた。
「……っ」
スバルの喉が鳴る。
昨日と同じだ。片側へ大きく傾く。エレンは食いしばって戻そうとするが、戻らない。ぐらつきが増す。
キース教官は叫ばない。
ただ見ている。
それが逆に重い。
「やめ」
降ろされる。
ざわめき。
ほんの少しだが、たしかに起きた。誰かが息を呑み、誰かが顔をしかめ、誰かが“やっぱり”みたいな顔をした。
ジャンが睨むように見ている。アルミンは真っ青だ。ミカサは前へ出かけて止まっている。
エレンは何も言わない。
その沈黙を、キース教官が切った。
「ベルトを外せ」
教官補佐が近づき、装置を外す。
「別の装置を持ってこい」
周囲の空気が変わる。
故障確認。
つまり、少なくとも教官は“エレン自身の問題と決めつけてはいない”ということだ。
エレンがわずかに顔を上げる。
新しい装置が運ばれてくる。装着。再度、吊り具へ。
スバルは自分でも気づかないうちに、拳を握っていた。
頼む。
何でもいいから、立て。
立てよ。
「始め!!」
浮く。
一瞬、揺れる。
だが。
今度は止まった。
ぴたりと、ではない。エレンらしく少し力んでいる。だが、明らかに昨日までの“崩れ”とは違う。持っている。保っている。
訓練場の空気が一斉に変わった。
「……やめ」
降ろされる。
沈黙。
そしてキース教官が、壊れた前の装置を一瞥して言った。
「不具合だ」
短い。
だが十分だった。
ざわめきが広がる。昨日からエレンを値踏みしていた連中の顔が変わる。ジャンは眉をひそめたまま、だが何も言わない。アルミンは分かりやすく肩の力を抜いた。ミカサはようやく一歩を戻す。
スバルは息を吐き、同時に変な笑いがこみ上げた。
「よかったぁ……」
声に出ていた。
エレンが戻ってくる。顔はまだ強張っているが、昨日の沈み込みとは違う。悔しさが、今度は外向きに戻ってきている顔だ。
「……故障だったな」
スバルが言うと、エレンは低く答える。
「そうみたいだな」
「よかったな」
「別に」
「この流れで別には無理あるだろ」
「うるせぇ」
だが、声にいつもの棘が戻っていた。それだけで十分だった。
午前の訓練はそこから一気に進んだ。
キース教官は無駄に余韻を残さない。エレンの装置不具合が判明しようが、その場で納得して終わりではない。すぐ次の号令。すぐ次の動き。すぐ次の失敗。
班訓練。
連携。
姿勢変更。
スバルはその速さを、今日はありがたく感じた。変な空気を長引かせる暇がない。昨日の“落ちるかもしれないエレン”の余韻を、訓練そのものが踏み潰していく。
その代わり、今度は別の問題が表に出た。
班単位の突進・停止の訓練で、コニーが早すぎ、サシャが一瞬遅れ、スバルがそれを見て慌てて合わせようとして前に出すぎ、見事に全体が崩れた。
「止まれと言っただろうが!!」
教官補佐の怒声。
「すみません!」
班の声が一応揃う。
揃ったところで許されない。
「貴様ら四人、動きがバラバラだ!! コニーは突出しすぎ、ブラウスは反応が遅い、ナツキは焦って余計なことをする、マルコだけが全体を見ている!!」
マルコが困ったように瞬きする。褒められても嬉しくないだろうな、この文脈だと。
スバルは歯を食いしばった。
図星すぎる。
コニーが小声で言う。
「俺だけ名指し早くないか」
「私も言われました」
サシャ。
「俺だけ“突出しすぎ”って、なんか悪役っぽくない?」
「今そこ気にするなよ!」
スバルが思わず返すと、教官補佐がこちらを向いた。
「ナツキ!」
「はい!」
「貴様は口と身体のどちらか一つに集中しろ!!」
「選べないです!!」
「なら身体にしろ!!」
「はい!!」
笑う余裕すらない。
だが、一度崩れたあと、マルコがすぐ班を寄せた。
「次はスバル、合図が出るまで動かなくていい。コニーはその半歩手前で止まるつもりで。サシャは逆に一拍早く意識して」
「お前さ」
スバルが言う。
「そういうの、どうやってそんなすぐ整理できんの」
「見てるだけだよ」
「それを見てるって言うんだろ、普通は」
マルコは笑った。
「じゃあ、見るのが役目なのかも」
その一言に、スバルは少しだけ気を持ち直した。
午後。
今度は対人訓練が始まった。
殴り合いではない。まだ。組み付き、崩し、体勢の作り方、相手に押された時にどう足を残すか。基礎中の基礎。だが、“人とぶつかる”という意味では、これが初めて一番分かりやすく人間性が出る。
スバルの相手は、まさかのジャンだった。
「なんでだよ」
ジャンが露骨に嫌そうな顔をする。
「こっちの台詞だよ」
スバルも眉をひそめる。
「お前とだと練習っていうか口喧嘩の前座になりそうなんだよ」
「お前が黙ってればならねぇよ」
「その言葉そのまま返すわ!」
教官補佐が怒鳴る。
「始め!」
ジャンは、うまかった。
力任せじゃない。重心の移し方がうまい。相手を正面から押し切るんじゃなく、崩してから持っていく。スバルは初手でそれを食らい、見事に尻もちをついた。
「いって!」
ジャンが鼻で笑う。
「弱ぇ」
「うるせぇ!」
「事実だろ」
「言い方ァ!」
だが二本目、三本目とやるうちに、スバルはジャンの動きが見えてくる。“正しくやろうとする”動きだ。だから綺麗だし強い。だが、逆に言えば少し読める。
四本目、スバルはわざと半歩遅れて、ジャンの引きに体を預けすぎるように見せた。
ジャンが崩しに来る。
その瞬間、逆に手首を掴んで引く。
「っ!?」
ジャンの重心がずれた。
完璧ではない。だが、互いに膝をつく程度には崩した。
「……は」
ジャンが目を細める。
「今のは悪くねぇ」
「褒めた?」
「別に」
「お前もその返しするのかよ!」
そのやりとりを、少し離れたところでエレンが見ていた。
エレンの相手はライナーだ。あっちはあっちで、正面衝突の迫力がすごい。ライナーは体が強い。エレンは負けじと前へ出る。見てるだけで圧がある。
アルミンはベルトルトと組んでいた。苦戦している。だが、崩れながらも目は動いていた。あいつはたぶん、こういう訓練中でも“相手の崩し方”を頭に入れている。
ミカサは、もう何かが違った。
相手が誰でも大きく崩れない。力だけじゃない。反応も姿勢もいい。教官補佐の目があきらかに変わっている。
結局、この日の終わりには、順位の空気がさらに濃くなっていた。
ミカサ、上位。
ライナー、ジャン、ベルトルト、エレンあたりも有望。
アルミンは下位寄りだが頭で補うタイプ。
スバルは――中の下から中くらいをうろついている感じだ。
落ちこぼれではない。だが、秀でてもいない。
その微妙さが、妙に自分らしい気がして少し腹が立つ。
夜。
寝所でパンを齧りながら、スバルはぼそっと言った。
「なあ、俺たちってさ」
「何」
アルミン。
「このままいくと、訓練兵団の中でどういう立ち位置になるんだろうな」
エレンは即答した。
「上に行く」
「お前に聞いた俺が悪かった」
「何でだよ」
「お前はそう答えるに決まってんだろ」
アルミンは少し考えてから言った。
「エレンとミカサは上位に行けると思う」
「アルミン」
エレンが眉をひそめる。
「僕は本当のことを言ってるだけだよ」
「私はどうでもいい」
ミカサ。
「エレンがいれば」
「そういう言い方をやめろって言ってるんだよ!」
スバルが思わず割って入る。
「お前も十分すごいんだっての!」
ミカサは少しだけ目を瞬いた。
「そう」
「そこ疑問形じゃないんだよ!」
アルミンが苦笑する。
「スバルは、たぶん真ん中あたりから上がれる」
「え」
「今のままだと真ん中。でも、自分の焦り方を制御できればもう少し上に行けると思う」
スバルはパンを持ったまま止まった。
「……今日みんなどうした? 急に俺の人事評価始めた?」
「嫌?」
「嫌じゃねぇけど、落差で風邪ひきそう」
エレンが言う。
「お前は、できねぇくせに諦めは悪いからな」
「褒めてる?」
「半分」
「半分って言い方が一番困る」
だが、その夜の空気は悪くなかった。
昨日の“エレンが落ちるかもしれない”重さが抜けたぶん、今日は皆、自分の課題に集中できている。しんどい。痛い。死にたいくらい疲れている。だが、訓練兵団の生活が“ただ怖い場所”から、“戦い方を覚える場所”へ少しだけ変わり始めていた。
その変化は、たぶん大きい。
大きいからこそ、ここから先はもっと残酷になる。
できるやつは伸びる。
できないやつは落ちる。
その差が、もっとはっきりしていく。
そして、その中で人間関係まで絡んでくる。
スバルは寝台へ倒れ込みながら思った。
次は、たぶんもっと面倒だ。
ただ走って、怒鳴られて、装置にぶら下がるだけじゃ済まなくなる。こいつとこいつはぶつかる。あいつはたぶん目立つ。こいつは見てる。あいつは抱え込む。そういう流れが、もう見え始めている。
見え始めているのに、それをうまく止められる未来は、まだひとつも思い浮かばなかった。