Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

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第17話 折れるやつは、音がしない

 

 

 四日目の昼、最初に折れたのは誰だったか。

 

 あとになって思い返しても、スバルにはそこが曖昧だった。

 

 怒鳴られて泣いたやつはいた。吐いたやつもいた。走れなくなって運ばれたやつもいた。だが、それらはまだ“見える破綻”だ。本当に怖いのは、もっと静かなやつだった。

 

 朝の訓練はいつも通り始まった。

 

 号令。整列。基礎体力。装置。連携。反復。キース教官は相変わらず容赦がない。だが、三日も四日も続けば、人間は嫌でも慣れてくる。体が慣れるんじゃない。絶望の受け止め方が慣れる。

 

 怒鳴られる。

 

 失敗する。

 

 もう一回やる。

 

 その単純な地獄の繰り返しに、皆の顔から“いちいち傷ついてる余裕”が少しずつ消えていた。

 

 良いことではない。だが、生き残るには必要な鈍化だった。

 

 その日の班訓練で、スバルは昨日より少しだけましだった。

 

 合図を待つ。

 

 焦って飛び出さない。

 

 コニーが前に出すぎたら、自分が釣られない。

 

 サシャが一拍遅れたら、先回りして埋めようとしすぎない。

 

 要するに、“自分が全部やろうとしない”を覚え始めたのだ。

 

「よし、今のは悪くない」

 

 マルコが言った。

 

 悪くない。

 

 その言葉がこの場所でどれだけありがたいか、スバルはもう知っている。

 

「悪くないって、つまり良くはないんだよな?」

 

「そうとも言う」

 

「正直!」

 

「でも昨日よりいい」

 

 コニーが珍しく素直に言う。

 

「お前、さっき止まったし」

 

「子どもの褒め方みたいで腹立つな」

 

「実際そういう段階だろ」

 

「言い方!」

 

 サシャがこくりと頷いた。

 

「今日は、スバルが大きく慌てる回数が減っています」

 

「回数で管理されてんの俺?」

 

「見てて分かるので」

 

「監視社会だなこの班……」

 

 だが、その軽口の途中で、反対側の班から怒声が飛んだ。

 

「もう一度だ!! 何度言わせる!!」

 

 教官補佐の声ではない。キース教官その人だ。

 

 皆の視線がそちらへ流れる。

 

 ジャンの班だった。

 

 いや、正確にはジャンの班の一人――黒髪の小柄な少年が、何度目かの失敗で完全に固まっていた。装置の前に立ち、顔面を蒼白にし、動けない。吊り具に足をかけることすらできていない。

 

「名は!!」

 

「……ダズ、です」

 

 かすれた声。

 

「ダズ!! 何故動かん!!」

 

「……」

 

「答えろ!!」

 

「こ、怖いんです……!」

 

 訓練場が静かになった。

 

 スバルの喉が詰まる。

 

 怖い。

 

 その一言は、あまりにも正直で、あまりにもこの場所に似つかわしくなかった。いや、似つかわしくないのではない。全員がそう思っているのに、口に出したのがこいつだけだった。

 

 キース教官はダズを見下ろす。

 

「当然だ」

 

 意外な返しだった。

 

 ダズも目を見開く。

 

「当然、怖い。怖くない者などいない」

 

 低い声。

 

「だが、それを理由に止まれば、貴様は戦場で必ず死ぬ」

 

 その言葉は、慰めではなかった。正論でもない。事実そのものだった。

 

 ダズの肩が震える。

 

「……できません」

 

 小さい声。

 

「もう一度言え」

 

「できません!」

 

 今度は叫びだった。半ば泣いている。

 

「僕には、こんなの……!」

 

 空気が張る。

 

 キース教官は数秒だけ黙り、それから教官補佐へ顔を向けた。

 

「下げろ」

 

 短い命令。

 

 ダズは肩を掴まれ、列の外へ出される。泣き崩れてはいない。むしろ逆だった。顔から感情がごっそり抜けたような顔で、ただ足だけがもつれている。

 

 その姿を見て、スバルの背中に冷たいものが走った。

 

 ああいうのだ。

 

 ああいうのが、本当に怖い。

 

 怒鳴り返すやつはまだ折れていない。泣いてるやつも、まだ何かと戦っている。だが、ああやって中身がふっと抜けたみたいな顔になるやつは、もう危ない。

 

「……やばいな」

 

 スバルが思わず漏らすと、マルコが低く返した。

 

「うん」

 

「何が起きたんだ、今」

 

 コニーが珍しく真面目な声で聞く。

 

 マルコは少し考えてから言う。

 

「限界が来たんだと思う」

 

「昨日までやれてたのに?」

 

「昨日まで“やれてたふり”だったのかも」

 

 その言い方が、嫌になるほどしっくりきた。

 

 訓練は続いた。

 

 だが、さっきまでの軽い空気はもうない。皆がダズを見た。自分もああなるかもしれない、と思ったかどうかは別として、少なくとも“ここで本当に落ちるやつがいる”ことは、全員の目に焼きついた。

 

 午後の休憩で、スバルはパンを噛みながら言った。

 

「なあ」

 

「うん」

 

 アルミン。

 

「今の見たらさ、“頑張れば何とかなる”って簡単に言えなくなるな」

 

 エレンが顔を上げる。

 

「何とかするしかないだろ」

 

「お前はそう言うと思ったよ」

 

「違うのか」

 

「違うっていうか……」

 

 スバルはパンを見た。硬い。今日も硬い。

 

「何とかできないやつが実際いるって話だよ」

 

 エレンは黙る。

 

 ミカサが静かに言う。

 

「でも、ここで止まったら終わる」

 

「それはそうなんだけどな」

 

 アルミンが、小さく息を吐く。

 

「エレンの言ってることも、スバルの言ってることも、たぶん両方正しいんだと思う」

 

「便利なまとめ来たな」

 

「便利じゃないよ」

 

 アルミンは首を振る。

 

「“何とかするしかない”のは本当。でも、“何とかできない人がいる”のも本当。だから訓練って残酷なんだと思う」

 

 その言葉に、スバルは返せなかった。

 

 アルミンは続ける。

 

「僕だって、明日いきなり駄目になるかもしれない。エレンだって、ミカサだって、君だって」

 

 エレンが眉をひそめる。

 

「ミカサは違うだろ」

 

「違わない」

 

 ミカサが即答した。

 

「私も人間」

 

「お前が言うと説得力が……あるような、ないような」

 

 スバルが呻くと、ミカサは少しだけ首を傾げた。

 

「どうして」

 

「お前、すごすぎて人間枠からはみ出しかけてるからだよ」

 

「はみ出してない」

 

「自己申告で収まる問題じゃねぇのよ」

 

 だが、そのやりとりのあとでエレンが小さく言う。

 

「……昨日、俺だって危なかった」

 

 スバルは顔を向ける。

 

 エレンはパンを持ったまま、視線を落としていた。

 

「装置が故障じゃなかったら、たぶん今ごろ周りに見下されてた」

 

「周りはどうでもいいだろ」

 

「どうでもよくねぇよ」

 

 その返しは意外だった。

 

 エレン自身も、言ってから少しだけ口をつぐむ。だが続けた。

 

「……ここで落ちるってことは、巨人の前に立てないってことだろ」

 

 その言葉の重さに、皆が少し黙る。

 

 そうだ。

 

 エレンにとって訓練兵団は、食い扶持でも逃げ場でもない。巨人に届くための道だ。だから、ここで躓くことの意味が、他のやつより重い。

 

「だから、見下されるとか以前に」

 

 エレンが低く言う。

 

「置いていかれるのが一番嫌だ」

 

 スバルは、その感覚が分かってしまって嫌だった。

 

 置いていかれる。

 

 昨日の自分もそうだった。ミカサができて、エレンができて、ジャンができて、自分はぎりぎり。その差を見せつけられるのは、単純に怖い。自分だけ違う場所へ落ちる気がするからだ。

 

「……わかるわ、それ」

 

 スバルが言うと、エレンが少しだけ目を上げる。

 

「お前もか」

 

「お前もか、じゃねぇよ。俺のがよっぽどそうだろ」

 

「まあ、そうかもな」

 

「認めんの早ぇな!」

 

 だが、そこでアルミンがぽつりと言った。

 

「だったら、置いていかれないようにする方法を考えないと」

 

 エレンが鼻を鳴らす。

 

「走る」

 

「雑」

 

 スバルが即座に言う。

 

「でも半分正しい」

 

 アルミンが補足する。

 

「もう半分は?」

 

「自分が何で崩れるかを知ること」

 

 その言葉に、スバルは少しだけ黙った。

 

 何で崩れるか。

 

 自分は焦り。

 

 エレンは前に出すぎること。

 

 アルミンはたぶん、考えすぎて体が遅れること。

 

 ミカサは――分からない。今のところ、崩れる像が見えない。

 

 だがきっと、あるのだろう。人間なら。

 

 午後後半、訓練はさらに進んだ。

 

 班ごとに課題を変えられ、失敗の多い点を集中的に叩かれる。スバルの班には、“止まる訓練”が増えた。前に出すぎるな、待て、見ろ、合わせろ。その繰り返しだ。

 

 最初はきつかった。

 

 動きたいのに止まる。取り返したいのに待つ。失敗したのに、次の合図まで我慢する。全部、自分の本能と逆だ。

 

 だが、その反復の中で一回だけ、綺麗に噛み合った瞬間があった。

 

 コニーが突っ込みすぎない。

 

 サシャが遅れない。

 

 マルコが合図を見て動く。

 

 スバルが釣られない。

 

 四人が同時に止まり、同時に向きを変えた。

 

 教官補佐が何も言わなかった。

 

 この場所で“何も言われない”は、かなりの褒賞だ。

 

「……今の」

 

 スバルが小さく言う。

 

「うん」

 

 マルコが笑った。

 

「できたね」

 

「ちょっと感動した」

 

「早いよ」

 

「いや、だって俺たちの班でだぞ!?」

 

 コニーが笑う。

 

「お前、自分の班の評価低くね?」

 

「現実的って言え」

 

 サシャが真顔で言った。

 

「でも今のは、ちょっと嬉しいです」

 

 その言葉に、スバルは思わず笑った。

 

 ああ、こういうのか。

 

 個人でできるようになるのとは別の、“班で噛み合う”感じ。たぶん、これを知ると人は厄介になる。自分だけじゃなく、他人の調子まで気にし始めるからだ。

 

 夕方、訓練が終わる頃には、ダズの姿は見えなかった。

 

 落ちたのか、別の場所へ回されたのか、単に今日は下げられただけか。誰も確かなことを知らない。だがその“不在”が、訓練場の端に小さな影みたいに残っていた。

 

 寝所へ戻る途中、スバルは言った。

 

「なあ」

 

「何」

 

 アルミン。

 

「俺たちさ、このまま慣れてくのかな」

 

「何に」

 

「折れるやつが出ることに」

 

 少し間があった。

 

 エレンは前を見たまま、何も言わない。

 

 ミカサも黙っている。

 

 答えたのはアルミンだった。

 

「慣れないと困るのかも」

 

 スバルは顔をしかめる。

 

「最悪の答えだな」

 

「うん。でも、慣れないと自分が持たない」

 

 それは、嫌になるほど本当だった。

 

 シガンシナでもそうだった。避難民でもそうだった。訓練兵団でも、きっと同じだ。全部にいちいち胸を裂かれていたら、歩けない。

 

 それでも。

 

「でも、慣れきったら嫌だな」

 

 スバルが言う。

 

 今度はエレンが答えた。

 

「嫌でいいだろ」

 

 短い声。

 

「嫌なままやれ」

 

 スバルは少しだけ目を見開く。

 

「……お前、たまにそういうこと言うよな」

 

「何が」

 

「雑なくせに変に刺さるやつ」

 

「知らねぇよ」

 

 だが、その一言はスバルの中に残った。

 

 嫌なままやる。

 

 たぶん、それしかないのだ。

 

 巨人も、訓練も、死も、折れるやつを見ることも、全部に慣れきってしまうのは嫌だ。

 

 でも嫌だからって止まれない。

 

 なら、嫌なまま進むしかない。

 

 その夜、寝所では昨日より少しだけ会話が増えた。

 

 ジャンがエレンに、ライナーがコニーに、サシャが食い物の話をして教官補佐に怒鳴られ、マルコがなだめ、アルミンが聞き、ミカサが静かに見ている。

 

 その雑多な気配の中で、スバルは少しだけ確信した。

 

 ここから先、面白くなる。

 

 楽しくなる、じゃない。

 

 もっときつくて、もっと面倒で、もっと人と人が絡み合って、離れなくなっていく。

 

 たぶん物語として面白いのは、そういうところからだ。

 

 だからこそ、その先で壊れる時は、もっと嫌な音がする。

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