四日目の昼、最初に折れたのは誰だったか。
あとになって思い返しても、スバルにはそこが曖昧だった。
怒鳴られて泣いたやつはいた。吐いたやつもいた。走れなくなって運ばれたやつもいた。だが、それらはまだ“見える破綻”だ。本当に怖いのは、もっと静かなやつだった。
朝の訓練はいつも通り始まった。
号令。整列。基礎体力。装置。連携。反復。キース教官は相変わらず容赦がない。だが、三日も四日も続けば、人間は嫌でも慣れてくる。体が慣れるんじゃない。絶望の受け止め方が慣れる。
怒鳴られる。
失敗する。
もう一回やる。
その単純な地獄の繰り返しに、皆の顔から“いちいち傷ついてる余裕”が少しずつ消えていた。
良いことではない。だが、生き残るには必要な鈍化だった。
その日の班訓練で、スバルは昨日より少しだけましだった。
合図を待つ。
焦って飛び出さない。
コニーが前に出すぎたら、自分が釣られない。
サシャが一拍遅れたら、先回りして埋めようとしすぎない。
要するに、“自分が全部やろうとしない”を覚え始めたのだ。
「よし、今のは悪くない」
マルコが言った。
悪くない。
その言葉がこの場所でどれだけありがたいか、スバルはもう知っている。
「悪くないって、つまり良くはないんだよな?」
「そうとも言う」
「正直!」
「でも昨日よりいい」
コニーが珍しく素直に言う。
「お前、さっき止まったし」
「子どもの褒め方みたいで腹立つな」
「実際そういう段階だろ」
「言い方!」
サシャがこくりと頷いた。
「今日は、スバルが大きく慌てる回数が減っています」
「回数で管理されてんの俺?」
「見てて分かるので」
「監視社会だなこの班……」
だが、その軽口の途中で、反対側の班から怒声が飛んだ。
「もう一度だ!! 何度言わせる!!」
教官補佐の声ではない。キース教官その人だ。
皆の視線がそちらへ流れる。
ジャンの班だった。
いや、正確にはジャンの班の一人――黒髪の小柄な少年が、何度目かの失敗で完全に固まっていた。装置の前に立ち、顔面を蒼白にし、動けない。吊り具に足をかけることすらできていない。
「名は!!」
「……ダズ、です」
かすれた声。
「ダズ!! 何故動かん!!」
「……」
「答えろ!!」
「こ、怖いんです……!」
訓練場が静かになった。
スバルの喉が詰まる。
怖い。
その一言は、あまりにも正直で、あまりにもこの場所に似つかわしくなかった。いや、似つかわしくないのではない。全員がそう思っているのに、口に出したのがこいつだけだった。
キース教官はダズを見下ろす。
「当然だ」
意外な返しだった。
ダズも目を見開く。
「当然、怖い。怖くない者などいない」
低い声。
「だが、それを理由に止まれば、貴様は戦場で必ず死ぬ」
その言葉は、慰めではなかった。正論でもない。事実そのものだった。
ダズの肩が震える。
「……できません」
小さい声。
「もう一度言え」
「できません!」
今度は叫びだった。半ば泣いている。
「僕には、こんなの……!」
空気が張る。
キース教官は数秒だけ黙り、それから教官補佐へ顔を向けた。
「下げろ」
短い命令。
ダズは肩を掴まれ、列の外へ出される。泣き崩れてはいない。むしろ逆だった。顔から感情がごっそり抜けたような顔で、ただ足だけがもつれている。
その姿を見て、スバルの背中に冷たいものが走った。
ああいうのだ。
ああいうのが、本当に怖い。
怒鳴り返すやつはまだ折れていない。泣いてるやつも、まだ何かと戦っている。だが、ああやって中身がふっと抜けたみたいな顔になるやつは、もう危ない。
「……やばいな」
スバルが思わず漏らすと、マルコが低く返した。
「うん」
「何が起きたんだ、今」
コニーが珍しく真面目な声で聞く。
マルコは少し考えてから言う。
「限界が来たんだと思う」
「昨日までやれてたのに?」
「昨日まで“やれてたふり”だったのかも」
その言い方が、嫌になるほどしっくりきた。
訓練は続いた。
だが、さっきまでの軽い空気はもうない。皆がダズを見た。自分もああなるかもしれない、と思ったかどうかは別として、少なくとも“ここで本当に落ちるやつがいる”ことは、全員の目に焼きついた。
午後の休憩で、スバルはパンを噛みながら言った。
「なあ」
「うん」
アルミン。
「今の見たらさ、“頑張れば何とかなる”って簡単に言えなくなるな」
エレンが顔を上げる。
「何とかするしかないだろ」
「お前はそう言うと思ったよ」
「違うのか」
「違うっていうか……」
スバルはパンを見た。硬い。今日も硬い。
「何とかできないやつが実際いるって話だよ」
エレンは黙る。
ミカサが静かに言う。
「でも、ここで止まったら終わる」
「それはそうなんだけどな」
アルミンが、小さく息を吐く。
「エレンの言ってることも、スバルの言ってることも、たぶん両方正しいんだと思う」
「便利なまとめ来たな」
「便利じゃないよ」
アルミンは首を振る。
「“何とかするしかない”のは本当。でも、“何とかできない人がいる”のも本当。だから訓練って残酷なんだと思う」
その言葉に、スバルは返せなかった。
アルミンは続ける。
「僕だって、明日いきなり駄目になるかもしれない。エレンだって、ミカサだって、君だって」
エレンが眉をひそめる。
「ミカサは違うだろ」
「違わない」
ミカサが即答した。
「私も人間」
「お前が言うと説得力が……あるような、ないような」
スバルが呻くと、ミカサは少しだけ首を傾げた。
「どうして」
「お前、すごすぎて人間枠からはみ出しかけてるからだよ」
「はみ出してない」
「自己申告で収まる問題じゃねぇのよ」
だが、そのやりとりのあとでエレンが小さく言う。
「……昨日、俺だって危なかった」
スバルは顔を向ける。
エレンはパンを持ったまま、視線を落としていた。
「装置が故障じゃなかったら、たぶん今ごろ周りに見下されてた」
「周りはどうでもいいだろ」
「どうでもよくねぇよ」
その返しは意外だった。
エレン自身も、言ってから少しだけ口をつぐむ。だが続けた。
「……ここで落ちるってことは、巨人の前に立てないってことだろ」
その言葉の重さに、皆が少し黙る。
そうだ。
エレンにとって訓練兵団は、食い扶持でも逃げ場でもない。巨人に届くための道だ。だから、ここで躓くことの意味が、他のやつより重い。
「だから、見下されるとか以前に」
エレンが低く言う。
「置いていかれるのが一番嫌だ」
スバルは、その感覚が分かってしまって嫌だった。
置いていかれる。
昨日の自分もそうだった。ミカサができて、エレンができて、ジャンができて、自分はぎりぎり。その差を見せつけられるのは、単純に怖い。自分だけ違う場所へ落ちる気がするからだ。
「……わかるわ、それ」
スバルが言うと、エレンが少しだけ目を上げる。
「お前もか」
「お前もか、じゃねぇよ。俺のがよっぽどそうだろ」
「まあ、そうかもな」
「認めんの早ぇな!」
だが、そこでアルミンがぽつりと言った。
「だったら、置いていかれないようにする方法を考えないと」
エレンが鼻を鳴らす。
「走る」
「雑」
スバルが即座に言う。
「でも半分正しい」
アルミンが補足する。
「もう半分は?」
「自分が何で崩れるかを知ること」
その言葉に、スバルは少しだけ黙った。
何で崩れるか。
自分は焦り。
エレンは前に出すぎること。
アルミンはたぶん、考えすぎて体が遅れること。
ミカサは――分からない。今のところ、崩れる像が見えない。
だがきっと、あるのだろう。人間なら。
午後後半、訓練はさらに進んだ。
班ごとに課題を変えられ、失敗の多い点を集中的に叩かれる。スバルの班には、“止まる訓練”が増えた。前に出すぎるな、待て、見ろ、合わせろ。その繰り返しだ。
最初はきつかった。
動きたいのに止まる。取り返したいのに待つ。失敗したのに、次の合図まで我慢する。全部、自分の本能と逆だ。
だが、その反復の中で一回だけ、綺麗に噛み合った瞬間があった。
コニーが突っ込みすぎない。
サシャが遅れない。
マルコが合図を見て動く。
スバルが釣られない。
四人が同時に止まり、同時に向きを変えた。
教官補佐が何も言わなかった。
この場所で“何も言われない”は、かなりの褒賞だ。
「……今の」
スバルが小さく言う。
「うん」
マルコが笑った。
「できたね」
「ちょっと感動した」
「早いよ」
「いや、だって俺たちの班でだぞ!?」
コニーが笑う。
「お前、自分の班の評価低くね?」
「現実的って言え」
サシャが真顔で言った。
「でも今のは、ちょっと嬉しいです」
その言葉に、スバルは思わず笑った。
ああ、こういうのか。
個人でできるようになるのとは別の、“班で噛み合う”感じ。たぶん、これを知ると人は厄介になる。自分だけじゃなく、他人の調子まで気にし始めるからだ。
夕方、訓練が終わる頃には、ダズの姿は見えなかった。
落ちたのか、別の場所へ回されたのか、単に今日は下げられただけか。誰も確かなことを知らない。だがその“不在”が、訓練場の端に小さな影みたいに残っていた。
寝所へ戻る途中、スバルは言った。
「なあ」
「何」
アルミン。
「俺たちさ、このまま慣れてくのかな」
「何に」
「折れるやつが出ることに」
少し間があった。
エレンは前を見たまま、何も言わない。
ミカサも黙っている。
答えたのはアルミンだった。
「慣れないと困るのかも」
スバルは顔をしかめる。
「最悪の答えだな」
「うん。でも、慣れないと自分が持たない」
それは、嫌になるほど本当だった。
シガンシナでもそうだった。避難民でもそうだった。訓練兵団でも、きっと同じだ。全部にいちいち胸を裂かれていたら、歩けない。
それでも。
「でも、慣れきったら嫌だな」
スバルが言う。
今度はエレンが答えた。
「嫌でいいだろ」
短い声。
「嫌なままやれ」
スバルは少しだけ目を見開く。
「……お前、たまにそういうこと言うよな」
「何が」
「雑なくせに変に刺さるやつ」
「知らねぇよ」
だが、その一言はスバルの中に残った。
嫌なままやる。
たぶん、それしかないのだ。
巨人も、訓練も、死も、折れるやつを見ることも、全部に慣れきってしまうのは嫌だ。
でも嫌だからって止まれない。
なら、嫌なまま進むしかない。
その夜、寝所では昨日より少しだけ会話が増えた。
ジャンがエレンに、ライナーがコニーに、サシャが食い物の話をして教官補佐に怒鳴られ、マルコがなだめ、アルミンが聞き、ミカサが静かに見ている。
その雑多な気配の中で、スバルは少しだけ確信した。
ここから先、面白くなる。
楽しくなる、じゃない。
もっときつくて、もっと面倒で、もっと人と人が絡み合って、離れなくなっていく。
たぶん物語として面白いのは、そういうところからだ。
だからこそ、その先で壊れる時は、もっと嫌な音がする。