訓練兵団の時間は、ある日から急に早くなる。
最初の一週間までは、一日が長い。怒鳴られたこと、転んだこと、できなかったこと、できたこと、その全部がやけに重い。朝から晩まで、ひとつひとつが胸に引っかかる。
だが、二週目を越えたあたりから、時間の流れ方が変わった。
訓練は続く。走る。吊られる。落ちる。食う。寝る。起きる。怒鳴られる。やり直す。
その繰り返しの中で、昨日の失敗は今日の前提になり、今日の成功は明日の最低条件になる。いちいち立ち止まっていられない。そうしないと置いていかれるからだ。
そして、置いていかれまいとするうちに、人間関係まで加速する。
ジャンとエレンは、もはや正面衝突が様式美になりつつあった。
「だから、そこで突っ込むなって言ってんだろ!」
「突っ込まなきゃ開かねぇだろ!」
「開くかどうかの話じゃねぇ、班全体の形の話だ!」
「だったらお前がついて来い!」
「命令すんな!」
最初の頃は、周囲もそのたびに空気を張らせていた。今は違う。ああまた始まった、という顔になる。面倒だが、もう珍しくない。
珍しくないからといって、軽くなったわけではない。
ジャンは、ただ感じが悪いわけじゃなかった。全体を見る目がある。班の乱れや無駄な動きを嫌う。だからエレンの一直線さが許せない。
エレンは、ただ短気なわけじゃなかった。前へ行く。止まらない。危険でも踏み込む。だからジャンの“全体を見ろ”が臆病に見える。
互いに、相手の一番嫌なところが、一番必要な部分でもある。
それがまた厄介だった。
「お前ら、いっそ殴り合ってスッキリしたほうが早くねぇ?」
ある日、スバルがそう言った時。
「するか」
「やるか」
二人が同時に返してきて、スバルは即座に手を引いた。
「ごめん俺が悪かった」
「止めないの?」
アルミンが困った顔で言う。
「止めるに決まってんだろ、こっから本気でやられたら寝所が修羅場だわ!」
マルコが深いため息をつく。
「本気でやる前に解散の号令が来ることを祈ろう」
「他力本願が過ぎる」
「でも現実的だろ?」
それがマルコだった。
マルコは、時間が経つほど訓練兵団の中で妙な位置を占め始めた。
目立ちすぎない。だが見えている。
強すぎない。だが安定している。
誰かを押しのける感じはない。だが、誰と組んでも“その場を成立させる”のがうまい。
スバルはそういう人間を、前の世界ではあまりちゃんと見ていなかった気がする。派手なやつ、強いやつ、口がうまいやつ、そういうほうに目が行く。だが、この場所では違う。こういうやつがいるだけで、場が崩れにくくなる。
「お前ってさ」
ある夕方、整備場の脇で立体機動装置の手入れをしながら、スバルはマルコに言った。
「なんでそんなに人の間を縫うのうまいの」
「縫う?」
「エレンとジャンの間とか、コニーと教官補佐の間とか、サシャと食料庫の間とか」
「最後は物理的な事件だね」
「でも止めてるだろ、お前」
マルコは少し笑った。
「止めないと、無駄に壊れるから」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃない?」
十分だった。
十分すぎるくらいだった。
訓練は、最初の一か月を越えたあたりから、明らかに“ふるい”の色を強めた。
単純な体力差は、少しずつ努力で埋まる部分もある。だが、それで埋まりきらないものもある。立体機動装置の感覚。とっさの反応。高所への耐性。恐怖の飲み込み方。班行動での視野。
優れているやつは伸びる。
苦手なやつは、同じところで何度も引っかかる。
スバルは、自分の位置がだんだん見えてきて嫌だった。
下位ではない。
だが上位でもない。
中の中から、少し上がれるかどうか、そのあたりをずっと行ったり来たりしている。
ミカサは最初から別枠。
エレンは粗いが前へ出る力が強い。
ジャンは安定している。
ライナーは体も心も“兵士っぽい”。
ベルトルトは目立たないくせに、できることはしっかりできる。
アニという金髪の少女は、最初は無気力そうに見えたのに、近接格闘になると空気が変わる。
サシャは妙な集中力の切れ方をするが、身体能力は高い。
コニーは雑だが反応が速い。
アルミンは下位寄りをうろつきながら、それでも座学と判断でしぶとく残る。
そして自分は。
「なんつーか、すげぇ現実的な位置にいるよな俺……」
月が変わるころ、スバルがそう呟くと、エレンは訓練用の木剣を肩に担いだまま言った。
「贅沢だな」
「何がだよ」
「残れてるだけで十分だろ」
「それは、まあそうなんだけど」
「なのに上が気になる」
「人間そういうもんだろ!」
エレンは鼻を鳴らす。
「面倒くせぇ」
「お前の一直線も大概面倒だからな!?」
だが、エレンの言うことも分かる。
自分は残れている。
何度か危ないところはあった。装置で大崩れした日もある。班訓練で足を引っ張って、終わったあと胃が痛くなる日もある。それでも“落ちる側”にはまだ入っていない。
それだけで、十分にでかい。
なのに、人間は慣れる。
残れることに慣れると、次は“どこまで上に行けるか”が気になり始める。
欲が出る。
それを恥じるべきなのか、前へ進むために必要なものなのか、スバルにはまだ分からなかった。
ある日、近接格闘訓練でアニと組まされた。
「いや待て」
開始前、スバルは本気で抗議しかけた。
「相手のチョイスおかしくね?」
アニ・レオンハートは、眠そうな目をした小柄な少女だった。細い。華奢。ぱっと見ならミカサのほうがよほど圧がある。
だが、訓練兵団の中で、アニに近接で不用意に手を出すなという空気は、もうできつつあった。
「文句あるなら教官にどうぞ」
アニは無感動に言った。
「いや、お前その顔で絶対強い側のやつじゃん」
「そう思うなら気をつけなよ」
始まった。
スバルは一歩踏み込む。様子を見るつもりだった。つもりだったのだが、次の瞬間には視界が回っていた。
「え」
足が払われた。重心が浮いた。気づいた時には地面に背中を打ちつけている。
「いっった!」
「遅い」
アニが言う。
「見すぎ」
二本目。
今度は掴みにいかない。距離を見る。フェイントだけ入れる。だがその迷いを読まれて、逆に前へ詰められる。肩を制される。膝が折れる。
三本目。
今度こそと思ったところで、足が止まる。
止まった瞬間に、またやられた。
訓練終了後、スバルは地面に座り込んだ。
「……何だこれ」
アニは汗もほとんどかいていない顔で言う。
「考えてから動いてる」
「悪いか」
「悪くはない。でも、遅い」
その一言が痛かった。
遅い。
今まで何度も言われてきたことだ。焦って飛び出す、の前に、そもそも初動が遅れる。考えて、怖がって、様子を見て、そのぶん半拍遅い。
アニは続ける。
「格闘で半拍遅いと、相手のリズムになる」
「……教官みてぇなこと言うな」
「見りゃ分かることだから」
それだけ言って去っていく。
スバルはしばらく動けなかった。
自分の欠点を、違う角度からはっきり言われると、妙に効く。
その夜。
寝所でスバルが天井を見ながら「俺、近接弱すぎんだろ……」と本気で落ち込んでいると、上の寝台からライナーの声が降ってきた。
「弱いというより、踏み込みを恐れている」
スバルは顔を上げた。
「お前、起きてたのか」
「さっきから聞こえてた」
「最悪だ」
ライナー・ブラウンは、いつ見ても体がでかい。声も低い。訓練兵団の制服が妙に似合う。こういうやつを見ると、“兵士”という役割に向いている人間が本当にいるのだと嫌でも分かる。
「恐れるのは悪くない」
ライナーが言う。
「だが、恐れて止まると押し返される。なら、最初の一歩だけは考える前に出す癖をつけろ」
「それができりゃ苦労しねぇよ」
「だから癖にする」
単純だ。
だが、単純だから腹が立つ。
「お前ら、なんでそんなに“できないなら慣れろ”を雑に言うんだよ」
スバルが言うと、別の方向からコニーの声がした。
「だって、そうするしかねぇだろ」
さらにサシャ。
「食べるのも最初は遅いと取られます」
「お前の例えだけは別枠なんだよ!」
寝所のあちこちで小さな笑いが起きた。
ほんのわずかな笑いだった。だが、その笑いの中で、スバルは気づく。
時間が飛んでいた。
朝から夜までの苦しさとは別の意味で、いつの間にか“こいつらと過ごす時間”が積もっていた。
ライナーが上から助言を飛ばし、コニーが雑にまとめ、サシャが意味不明な方向から会話を壊し、アルミンが補足し、エレンが鼻を鳴らし、ジャンが遠くから「うるせぇ」と言う。
このやかましさが、もう日常になり始めている。
だからこそ、スバルは少しだけ焦った。
日常になると、人は忘れる。
ここが“ただの学校”ではないことを。
訓練の先に、巨人がいることを。
だが、その現実を思い出させる日は、案外すぐに来た。
初めての野外機動訓練。
壁内ではあるが、宿舎と訓練場から離れた場所で、班単位で装置を使いながら地形対応を学ぶ日だと説明された時、訓練兵たちの空気は明らかに変わった。
外。
といっても壁外ではない。だが、それでも“訓練場の中だけではない場所”へ出る。
実地。
応用。
事故の匂いがする。
「……嫌な予感しかしねぇ」
出発前、スバルが装置のベルトを確かめながら言うと、マルコは隣で頷いた。
「僕も」
「そこは“でも大丈夫”って言えよ」
「大丈夫じゃない可能性もあるから」
「お前ほんと誠実すぎて逆に怖ぇわ」
班で馬車に揺られながら移動する間も、訓練兵たちの空気は落ち着かない。コニーは妙にそわそわしている。サシャは景色より干し肉の残りを気にしている。マルコは地図を眺めていた。
「そこまでしなくても、場所の把握いる?」
スバルが聞くと、マルコは当たり前のように言う。
「地形を知らないと、いざという時に困る」
「いざって何だよ」
「転んだ時とか、見失った時とか、指示が飛んだ時とか」
「……お前の“いざ”はいつも現実的だな」
「希望がいる?」
「いや、いらないけど!」
いらない。いらないが、少しは欲しくもある。
そのとき、別の馬車から怒鳴り声が飛んできた。
「だからお前は余計なことを言うんだよ!」
「お前がいちいち引っかかるからだろ!」
ジャンとエレンである。
スバルは額を押さえた。
「うるせぇな、あいつらは……」
コニーが笑う。
「元気でいいじゃねぇか」
「元気の使い道考えろって話なんだよ」
だが、そう言っている自分も少し笑っていた。
そして。
野外機動訓練の開始地点に着いた時、笑いは消えた。
訓練場とは違う。
地面の不規則さ。木々の位置。高低差。視界の悪さ。風の流れ。全部が“整っていない”。それだけで、立体機動装置の怖さが一段上がる。
キース教官の声が響く。
「本日の訓練は班単位の移動と集合だ!! 地形を使え!! 単独で浮くな!! 見失うな!! そして何より――」
一拍。
「死ぬな」
訓練兵たちの喉が鳴る。
スバルは、腰のベルトをもう一度きつく締めた。
物語が、また一段階進む音がした。