最初の号令で散った瞬間、訓練場との違いはすぐ分かった。
地面が悪い。
それだけで、立体機動装置の怖さが一段上がる。訓練場なら、足を取られても次が読める。ここは違う。土の硬さも、傾斜も、木の位置も、視界の抜けも、全部がばらばらだ。
「班ごとに第一集合地点へ向かえ!! 時間内に到達できなかった班は全員減点だ!!」
教官補佐の声が飛ぶ。
班単位。
時間制限。
つまり、“誰か一人だけできても意味がない”。
スバルはその言葉が聞こえた瞬間に、嫌な予感を確信へ変えた。
これ、絶対揉める。
「行くよ」
マルコが短く言う。
スバル、コニー、サシャが頷く。
装置のアンカーを打つ。木へ食い込む音。ガスの噴射。体が浮く。
「っ――!」
来た。
訓練場で何度も味わった浮遊感なのに、景色が違うだけで怖さが別物になる。木々の間を抜ける。次の足場を探す。視界の端で枝が流れる。高度感覚が狂う。
マルコが先頭だった。
だが先頭だからといって単独で飛ばない。少し先へ出て、振り返り、位置を確認し、次のアンカーを取る。速すぎず、遅すぎず。うまい。
「コニー、右寄りすぎ!」
「わっ、悪い!」
「サシャ、次は低く!」
「はい!」
声が飛ぶ。
スバルはそれに続こうとして、危うく目の前の枝に顔面から突っ込みかけた。
「うおっ!」
回避。だがその回避で姿勢が崩れる。次のアンカーが遅れる。
「スバル、焦らない!」
マルコの声。
焦るなと言われて焦らないなら苦労しない。だが、無理やり息を吐く。視界を絞る。次の木。次の位置。次の一歩。
コニーが前で笑うように叫ぶ。
「ちょっと楽しくなってきた!」
「それ死亡フラグっぽいからやめろ!」
スバルが返した瞬間。
サシャが木の幹に肩をぶつけた。
「いたっ!」
「サシャ!」
「大丈夫です!」
本人は言う。だが、その一拍の遅れが班全体の流れを少し崩す。マルコが速度を落とす。コニーが振り返る。スバルがその間を埋めようとして前に出そうになり――。
「出すぎ!」
マルコに止められる。
「うっ」
「今は揃えるほうが先!」
「分かってる!」
分かってる。分かってるのに、体が“取り返さなきゃ”へ寄る。
そこを矯正されながら飛ぶ。木から木へ。枝をかすめ、風を切る。訓練場では一直線だった景色が、ここではいちいち揺れる。
第一集合地点へ着いた時、班全員の呼吸は荒かった。
「はっ、は……!」
スバルは木陰の地面へ着地して、膝に手をつく。
「まだ一つ目だぞ」
マルコが言う。こっちも余裕はない。だが、全員いることを確認している目だ。
「分かってる……分かってるけど言う……きつい!」
「今さらだなぁ!」
コニーが笑う。
「笑ってる場合かよ」
「でも落ちてねぇし!」
「基準が低ぇ!」
サシャが肩を押さえながら真顔で言う。
「ちょっと痛いです」
「“ちょっと”で済んでるうちに言え!」
そこへ、別班も次々と到着し始める。
ライナー班。ジャン班。エレン班。
エレンは着地した瞬間に周囲を見た。まず人数確認。ジャンも同じだった。そして互いに目が合った瞬間、また何か言いそうになる。
うわ、やめろ、とスバルが思う前に、ジャンが先に口を開いた。
「遅かったな」
エレンが即座に返す。
「お前らが早いだけだろ」
「言い訳にしか聞こえねぇな」
「してねぇよ」
ライナーが間に入る。
「今はやめろ。次の指示が来る」
さすがだな、とスバルは思う。ライナーはこういう時に“その場で一番兵士っぽい声”が出る。実際に正しいことを言っているし、言い方も強い。
キース教官補佐が到着し、次の課題が告げられた。
「次は高低差を利用した移動訓練だ! 上るだけではない、下る時に恐怖へ負けるな!! 班ごとに第二地点へ向かえ!」
高低差。
嫌な単語である。
「……下るのって、たぶん上るより怖いよな」
スバルが言うと、アルミンが少し離れた場所で頷いた。
「怖いと思う」
「他人事だな!」
「別班だからね!」
その通りだった。
班ごとに散る。
今度の地形は、斜面だった。森の中に小高い丘があり、その斜面を横に使いながら移動していく。足場の角度が変わるだけで感覚が狂う。上へ飛ぶ時と、下へ抜ける時で視界の圧が違いすぎる。
「低く! 低く行って!」
マルコの指示。
「高く取ると下りで振られる!」
「そういうの早く言えって!」
言いながらアンカーを打つ。少し低め。木の中腹。ガス。飛ぶ。
今度は、下りの時に胃が浮いた。
「うわっ……!」
視界が一気に開く。落下に近い感覚。だがそこで腰が遅れると本当に落ちる。必死で体を前へ持っていく。次の木。次の枝。次のアンカー。
コニーが前で叫ぶ。
「おもしれぇ!」
「お前たぶん感覚のどっか壊れてる!」
「褒めてる?」
「褒めてねぇ!」
その時だった。
サシャの悲鳴が響いた。
「っ、きゃ!」
振り返る。
サシャのアンカーが浅かった。木の表面を削って抜け、体が一瞬大きく流れる。完全な落下ではない。だが、このままだと斜面へ叩きつけられる。
「サシャ!」
マルコが叫ぶ。
スバルは反射でそっちへ体を向けかけて、止まる。
行くか?
行けるか?
今自分が飛び込めば、二人まとめて崩れるかもしれない。
その一拍の迷いの間に、コニーが動いた。
「サシャ! 右!」
叫ぶだけ。
だが、その声でサシャが反応した。体をひねり、次の木へ無理やりアンカーを打つ。今度は食い込む。揺れる。止まる。
助かった。
全員が少し遅れて息を吐いた。
「っ……」
サシャ本人が、一番遅れて震え始めた。
「ご、ごめんなさい……!」
「謝るな、止まったならいい!」
マルコが即座に言う。
「次からもっと深く打って!」
「はい!」
スバルはその一連を見て、遅れて自分の手のひらに爪が食い込んでいたことに気づく。
怖い。
自分が落ちるより先に、誰かが落ちかけるのを見るのがこんなに怖いとは思わなかった。
第二地点に着いた時、サシャは明らかに呼吸が乱れていた。
「大丈夫か」
スバルが聞くと、サシャは頷いた。
「大丈夫……では、ないですが」
「正直でよろしい」
「でもやれます」
その顔が妙に真面目で、スバルは少しだけ目を細めた。
食い意地の張った妙なやつ、という印象が強かった。だが、今の一件で少し変わる。こいつも怖いのだ。当たり前だ。でも怖いまま次へ行く。
それは誰でも同じなのかもしれない。
第二地点から第三地点への移動は、班ごとではなく、途中から他班とのすれ違いが混ざるルートだった。
そこで当然のように混乱が起きた。
狭い木間で、ジャン班とエレン班の進路が一瞬かぶる。
「どけ!」
「そっちが寄れ!」
「今言うな!」
空中で喧嘩するな。
スバルは本気でそう思った。思ったのだが、次の瞬間にはその“口喧嘩”が現実の危険へ変わる。
エレンが無理に角度を変えた。
ジャンも譲らない。
そのせいで、エレン班の一人――トーマスの進路がずれた。木を取る位置が半歩狂う。
「っ!」
トーマスの体が大きく揺れた。
今度は本当にまずい。
エレンが即座に叫ぶ。
「トーマス、切るな! 左!」
ジャンも同時に怒鳴る。
「下見ろ、下!」
言ってることが違う!
トーマスが迷う。
その一瞬に、体がさらに流れる。
スバルは別班の斜面側からその光景を見て、反射で叫んでいた。
「幹! 近い木に打て!」
自分の声が通ったのかどうかは分からない。
だが、トーマスはほとんど本能で目の前の幹へアンカーを打ち込んだ。深くはない。けれど止まるには足りた。ギリギリで。
全員の動きが一瞬止まる。
トーマスは木へしがみついたまま、荒い呼吸を繰り返している。
ジャンが顔をしかめる。
「……チッ」
エレンは何も言わない。言えないのかもしれない。
教官補佐の怒号が森に響いた。
「止まるな!! 続けろ!!」
その一言で、皆また動き出す。
だが第三地点に着いたとき、空気は明らかに変わっていた。
さっきまでの“訓練で怖い”ではない。“いま本当に一人落ちかけた”という現実が、全班の顔に出ていた。
キース教官補佐は全体を一瞥し、そこで初めて短く言った。
「今のが訓練の価値だ」
静かな声だった。
「訓練場の中でできると思うな。外では、他人の癖も、地形も、恐怖も、一度に来る。自分だけ見ている者から死ぬ」
言いながら、その視線はエレンとジャンのあたりを通った。
名指しではない。
だが十分すぎた。
エレンは口を引き結ぶ。ジャンも目を逸らさない。互いに相手のせいだと言いたいだろうし、自分にも原因があったと分かってもいる顔だった。
そのまま訓練終了。
帰りの馬車は、行きよりずっと静かだった。
スバルたちの班も、さっきのサシャの件で少し疲れていた。サシャ本人は妙に静かだし、コニーもさっきほどはしゃいでいない。マルコは外を見ている。
「……なあ」
スバルがぽつりと言う。
「今日、だいぶ本番感あったな」
「うん」
マルコが頷く。
「まだ訓練だけどね」
「まだ、でこれかよ」
「だから訓練なんでしょ」
それはそうなのだ。
ここで失敗して、ここで怖がって、ここで人とぶつかって、ここで少しずつ直さないと、本番では死ぬ。
訓練は、そのための前借りだ。
痛みの前借り。
失敗の前借り。
恐怖の前借り。
その夜、寝所ではいつもの騒がしさが少しだけ減っていた。
エレンとジャンも、さすがに今日は大声でやり合わない。無言というほどではないが、互いに見ないふりをしている。たぶん頭の中でさっきの瞬間が何度も再生されているのだろう。
スバルは寝台へ腰を下ろし、木剣を足元へ置いた。
少し離れたところで、ライナーがエレンに何か低く言っている。ベルトルトは静かに聞いている。アルミンはトーマスの顔を気にしている。ミカサはエレンの近くで黙っている。
それぞれに、それぞれの今日を持ち帰っている。
スバルは天井を見上げた。
物語は進んでいる。
ただ日数が過ぎるんじゃない。
人の見え方が変わるたびに、少しずつ先へ進んでいる。
ジャンは嫌味なやつから、“全体を見ているからこそエレンとぶつかるやつ”になった。
エレンは一直線なやつから、“その一直線さで他人を危険にしかけるやつ”として見え始めた。
サシャは食い意地の張った変人から、“怖くても手を離さないやつ”になった。
コニーは軽いやつに見えて、危ない瞬間に声が出るやつだった。
マルコは、ますます厄介なくらい“人の間に立てるやつ”になっていく。
そうやって、一人ずつ、ただの同期から人物になっていく。
それが面白い。
そして、嫌な予感もする。
人物になればなるほど、失う時はきつい。そういう物語の組み方を、この世界はしている気がしてならなかった。