Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

2 / 36
第2話 最初の選択

 

 

 吐いたばかりの喉が焼ける。

 

 膝をついたまま、ナツキ・スバルは何度も息を吸おうとして、そのたびに空気の薄さにむせた。吸えているはずなのに足りない。肺が、まだあの巨人の口の中にあるみたいだった。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 男の声に、肩が跳ねた。

 

 反射で振り向く。そこにいたのは、槍のようなものを担いだ荷運びの男で、ただ眉をひそめてこちらを見ているだけだった。巨人じゃない。血まみれでもない。口も、人間のものだ。

 

「……っ、さ、触んな!」

 

 自分でも驚くほど鋭い声が出た。

 

 男が目を見開き、露骨に嫌そうな顔をして離れていく。

 

「なんだ、気味の悪い……」

 

 捨て台詞まで、さっきと同じだ。

 

 スバルは石畳に爪を立てた。

 

 同じ。街の音も、人の流れも、あの男の顔も、言葉も。全部、同じだ。

 

「マジで……戻ってる……?」

 

 誰に問うでもない。問う先もない。

 

 死んだら、戻る。

 

 そんな馬鹿げた結論に、理屈が一切追いつかない。だが、理屈が納得するかどうかと、現実がそうであるかは別問題だった。肩はある。腕もある。だが、あの瞬間の恐怖と痛みだけは、記憶じゃなくて“残骸”みたいに体にこびりついている。

 

 笑えなかった。

 

 異世界だの、人生逆転だの、そんな浮ついた言葉はもう出てこない。

 

 ここは、死ぬ場所だ。

 

 しかも、いったん死んでも終わらない。

 

 その事実が、救いなのか地獄なのか、スバルにはまだ判断がつかなかった。

 

「……いや、待て」

 

 震える手で自分の頬を叩く。ぱちん、と情けない音が鳴る。

 

「落ち着け、俺。パニック映画のモブになるな。整理しろ。整理」

 

 指を一本立てる。

 

「まず、俺はたぶん一回死んだ」

 

 二本目。

 

「で、同じ場所に戻った」

 

 三本目。

 

「このあと、なんかやばいことが起きる」

 

 四本目を立てかけて、止まる。

 

「……以上!」

 

 整理が雑だった。だが、脳みそはもうそれ以上の整頓を拒否していた。

 

 とにかく、何もしなければまた同じことになる。いや、同じで済む保証もない。もっとひどい死に方だってある。考えた瞬間に胃が縮んだ。

 

 あの三人。

 

 エレン。ミカサ。アルミン。

 

 さっきはたまたま会って、たまたま一緒に走って、たまたま自分は死んだ。だが、あのままならきっとまた会う。たぶん同じように。いや、ほんの少し違うだけで、全部ずれるかもしれない。

 

 どうする。

 

 逃げるか。

 

 街の外? 論外だ。壁の外なんてもっと死ぬだろう。じゃあ家の中にでも隠れるか? 巨人が入ってくるのを知っているのに? 無理だ。無理に決まってる。

 

「……なら、先に動くしかねぇ」

 

 口に出した瞬間、それが唯一の答えに思えた。

 

 知ってる。こっちは少なくとも、何かが起きると知っている。あの馬鹿みたいにでかい巨人が現れて、門が壊れて、街が地獄になる。その前に何かできるなら、するしかない。

 

 できるかどうかは別として。

 

 スバルは立ち上がった。膝がまだ笑っている。だが立つ。

 

 まずはあの三人を見つける。エレンたちだ。少なくとも、話を聞いてくれる可能性がゼロではない。ゼロ寄りでも、通りすがりの大人よりはマシだ。

 

 さっきの会話を思い出す。路地を一つ曲がって、露店の並ぶ通りを抜けた先――。

 

 足を踏み出しかけて、止まる。

 

「……いや、待てよ」

 

 もし同じ順番で動けば、同じ場所で、同じように会えるかもしれない。だが、そのあと自分がまた一緒に走って、また同じ末路を辿る可能性も高い。

 

 なら、会った瞬間に全部話すか?

 

 俺は未来から来た、お前らはこのあと巨人を見て、門が壊れて、俺は食われる――。

 

「通報されるわ」

 

 即答だった。

 

 せいぜい頭がおかしい奴扱いだ。悪ければ、敵国の間者だの宗教だの、訳の分からない疑いまでかかるかもしれない。この世界はどう見ても呑気じゃない。あの三人ですら、初対面の時点であそこまで警戒したんだ。

 

 未来予知ごっこで信用なんか得られない。

 

 なら、信用ではなく、行動で押すしかない。

 

 スバルは唇を噛んだ。

 

「……やれることからやる」

 

 そして走り出す。

 

 今度はさっきよりも周囲を見た。街の構造。人の流れ。兵士の位置。露店の並び。路地の幅。足が震えているせいで格好は悪いが、目だけは必死で働かせる。

 

 いた。

 

 三人は、やはり同じ通りにいた。パンと野菜の包みを抱えて、こちらへ歩いてくる。まだスバルには気づいていない。

 

 胸が、嫌なふうに鳴る。

 

 また会う。さっきと同じ相手に、さっきと同じ顔で。

 

 違うのは自分だけだ。向こうは一度目の彼らで、こちらだけが二度目。

 

 妙な孤独が喉を詰まらせた。

 

「……おい」

 

 先に気づいたのは、やはりエレンだった。目つきが一瞬で険しくなる。

 

「またお前か」

 

「“また”って言ってくれるの、俺の中ではすげぇ意味深なんだけどな……」

 

「何言ってるの?」

 

 アルミンが怪訝そうに首を傾げる。

 

 そうだ。当然だ。彼らにとっては初対面だ。

 

 スバルは無理やり口角を上げた。

 

「どうもどうも! 偶然ってこわいね! さっきぶり――じゃなくて、初めまして! 俺、ナツキ・スバルっていいます!」

 

「知ってるみたいな言い方したな」

 

 エレンの目が細くなる。鋭い。嫌になるほど鋭い。

 

「気のせい!」

 

「怪しい」

 

 ミカサが言う。容赦がない。

 

「それは否定できない!」

 

 半泣きで返すと、アルミンが少しだけ困ったように笑った。ほんのわずかだが、それだけで救われた気がした自分に、スバルは内心で腹が立つ。安い。安すぎる。だが、いまはその安さでもありがたい。

 

「ねえ、さっきから言おうと思ってたんだけど、その服、本当にどこの……」

 

「それ後で! いや、後もないかもしれないんだけど、とにかく今は聞いてくれ!」

 

 スバルは声を潜めようとして、失敗して、やや大きめの声で言った。

 

「このあと、なんか、やばいこと起きる」

 

 三人の表情が固まる。

 

「……は?」

 

 エレンが言う。

 

「だから、やばいこと。すっげぇやばいこと。鐘が鳴って、みんな走って、門のほうが――」

 

「なんで知ってる」

 

 言葉を遮ったのはミカサだった。

 

 平坦な声なのに、刃物みたいだった。

 

「え」

 

「何が起きるか、どうして知ってるの」

 

「いや、それは、その……」

 

 スバルの舌がもつれる。

 

 しまった。順番を間違えた。曖昧に警告すればいいと思ったのに、具体的に知りすぎていた。知っている理由が説明できない以上、怪しさだけが増す。

 

「壁の上で何か見たの?」

 

 アルミンが言った。

 

「違う、見たわけじゃなくて――」

 

「じゃあ、兵団の誰かに聞いたのか」

 

「違うって」

 

「じゃあなんだよ」

 

 エレンが一歩詰めた。

 

 近い。目が怖い。さっきよりずっと早く、疑いの芯に届いてくる。

 

「お前、何者だ」

 

「……だから、何者でもねぇよ。ただの――」

 

「ただの奴が、こんな格好で、壁内のことも知らなくて、それで門のことだけ知ってるわけないだろ」

 

 正しい。全部正しい。痛いほど正しい。

 

 スバルは一瞬、言い返せなかった。

 

 自分が逆の立場でもそう思う。むしろもっとひどく疑う。いまの自分は、怪しいどころか、状況によっては拘束されても文句が言えない類の不審者だ。

 

 なのに、ここで引いたら意味がない。

 

「俺は……!」

 

 声を張る。喉が震える。

 

「俺は、別にお前らをどうこうしたいわけじゃなくて! ただ、逃げたほうがいいって言ってんだよ!」

 

「理由は」

 

「言えねぇ!」

 

「じゃあ信用できない」

 

「だからって突っぱねてる場合じゃ――」

 

 鐘が鳴った。

 

 スバルの背筋が、氷の棒を差し込まれたみたいに強張る。

 

 来た。

 

 一回目と同じ、街をひっくり返す警鐘。人々がざわめき、誰かが叫び、兵士たちが駆ける。さっき聞いたのと一拍も違わない混乱の始まり。

 

 三人も一斉に顔を上げた。

 

 エレンの眉が跳ねる。アルミンの血の気が引く。ミカサの目が、わずかにスバルへ向く。

 

「……本当に?」

 

 アルミンが呟いた。

 

「だから言っただろ!」

 

 スバルは叫んだ。

 

「理由とか後! 今は逃げるぞ!」

 

 そう言って自分から走り出す。今度は三人の返事を待たない。待てば疑いが勝つ。先に体を動かすしかない。

 

 背後で足音が続いた。来た。三人とも来た。

 

 それだけで、少しだけ胸が軽くなる。だが、軽くなったぶん余計に怖くなる。この先を知っているからだ。ここからもっと地獄になる。

 

「どこへ行くの!」

 

 アルミンが後ろから叫ぶ。

 

「知らん! とにかく人が少ないとこ! 門から離れる!」

 

「それじゃ家に――」

 

「ダメだ!」

 

 即答した。叫びに近かった。

 

 三人が一瞬ひるむ。

 

 スバルは歯を食いしばる。言いすぎた。だが引っ込める余裕はない。

 

「家は、ダメだ。人が集まるとこもダメ。開けたとこも、ダメ。たぶん……たぶん、なんでもダメなんだけど……!」

 

「なんだそれ」

 

「うるせぇ、こっちだって初見なんだよ!」

 

 半ば叫び返したところで、自分でも意味不明だった。初見ではない。だが初見みたいなものだ。一回死んだ程度で、この街を攻略できるわけがない。

 

 道を曲がる。

 

 人波が増える。

 

 兵士の怒鳴り声が聞こえる。

 

 そして、開けた場所へ出る。

 

 見たくない。

 

 けれど見なければならない。

 

 スバルは自分で自分の首根っこを掴むような気持ちで、顔を上げた。

 

 やはり、いた。

 

 壁の向こうから覗く、あの異形の顔。

 

「――ッ」

 

 喉の奥で悲鳴が潰れた。

 

 さっきよりも“知っている”ぶんだけ、怖い。初見の衝撃ではなく、体験済みの絶望としてそれが迫ってくる。あれがこのあと門を蹴る。街が壊れる。人が死ぬ。自分も死ぬかもしれない。

 

「超大型巨人……」

 

 アルミンの声が震える。

 

「なんだよ……あれ……!」

 

 エレンが睨みつける。恐怖と怒りが一緒くたになった目だ。ミカサはエレンの袖を掴んでいた。

 

 来る。

 

「伏せろ!!」

 

 スバルはほとんど反射で怒鳴った。

 

 次の瞬間、巨人の足が門へ叩き込まれる。

 

 爆音。

 

 衝撃波。

 

 だが、今度は違った。四人とも地面に身を伏せていたため、真正面から吹き飛ばされるのは免れた。瓦礫が頭上を飛び、砂塵が背中に叩きつけられ、耳が一瞬死ぬ。それでも、さっきみたいに無防備ではない。

 

 スバルは歯を食いしばったまま耐えた。熱風。土煙。悲鳴。

 

「立て! 走るぞ!」

 

 自分で叫んで、自分で驚く。

 

 エレンがスバルを見る。さっきより明らかに目の色が違う。疑いは消えていない。だが、無視もできなくなっている。

 

「お前……」

 

「説明は生きてたらな! 走れ!」

 

 四人で駆ける。

 

 今度は門の正面からやや外れた脇道へ。人混みを避ける。避けきれない。泣き叫ぶ子ども、転ぶ老人、荷を捨てる商人、兵士に怒鳴られ逆走する女。混乱の密度が、さっきより鮮明に見える。

 

 この街は、もう壊れ始めている。

 

「母さんが!」

 

 エレンが急に進路を変えた。

 

「家にいる!」

 

「待て、エレン!」

 

 アルミンが叫ぶ。ミカサは一瞬で追従した。

 

 スバルも足を止めかけて、舌打ちする。最悪だ。そうだ、こいつらには家族がいる。避難だの安全地帯だの、そんな一般論で動くわけがない。

 

「くそっ!」

 

 追うしかない。

 

 エレンの家は川沿いの奥だった。角を曲がり、坂を下り、煙の匂いが強くなる。鐘の音に混じって、遠くから建物の崩れるような音まで聞こえる。

 

 間に合え。

 

 スバルは知らずそう願っていた。

 

 だが、その願いが届かないことを、体のどこかがもう知っている。

 

「母さん!!」

 

 エレンの絶叫が響く。

 

 たどり着いた先で、家は半壊していた。

 

 屋根と二階部分が崩れ、木材が斜めに食い込み、玄関先を押し潰している。その下で、女性が片足を挟まれていた。栗色の髪。青ざめた顔。それでも子どもたちを見て、無理やり笑おうとする目。

 

「エレン……ミカサ……」

 

「今助ける!」

 

 エレンが瓦礫に飛びつく。ミカサも無言で肩を入れる。アルミンが周囲を見回して、兵士を探すように顔を上げた。

 

 スバルは、一歩遅れてその場に立ち尽くした。

 

 知っている。

 

 この光景も、たしかに見た。細部までは違う。自分がここへ来る順番も、呼吸の荒さも、土煙の濃さも違う。だが、同じだ。この先の嫌な予感だけが、あまりにも同じだ。

 

「何してる、スバル! 手伝って!」

 

 アルミンに怒鳴られて、我に返る。

 

「あ、ああ!」

 

 スバルも瓦礫に手をかけた。重い。びくともしない。爪が割れそうになる。腕の筋が悲鳴を上げる。

 

「くっ……そ、動けよ!」

 

「もっと下を持って!」

 

 ミカサが言う。短い指示。スバルは従う。エレンは歯を食いしばりすぎて声も出していない。

 

 女性――カルラ、とさっき誰かが呼んでいたか。彼女は必死に微笑んでいた。

 

「大丈夫……大したことないから……」

 

「嘘つくなよ!」

 

 エレンが怒鳴る。

 

「今、助けるから! 待ってろよ!」

 

 その必死さが、見ていられなかった。

 

 スバルは瓦礫を持ち上げながら、頭の中で時計の針が音を立てるのを感じていた。早く。早く。早く。

 

 嫌な気配が、もう近い。

 

 足音ではない。もっと湿った、本能に触る何か。

 

 アルミンが先に気づいた。顔色が変わる。

 

「……来る」

 

 誰も返事をしない。だが全員が分かった。

 

 ゆっくりと、路地の向こうから、巨人が現れる。

 

 今度は一体だけじゃなかった。二体。こちらへ向かってくる。笑っているみたいな顔で。のたのたと。けれど、逃げ場を踏み潰すには十分な速度で。

 

 スバルの手から力が抜けた。

 

「うそ、だろ……」

 

「エレン」

 

 カルラの声が、急に母親のものになった。さっきまでの“安心させようとする声”じゃない。命令する声だ。

 

「走りなさい」

 

「いやだ!」

 

「走れ!」

 

 エレンが首を振る。ミカサも動かない。アルミンは泣きそうな顔で立ち尽くしている。

 

 その光景に、スバルの胸の奥で、何かがぶち切れた。

 

「行けよ!!」

 

 自分でも驚くほど大きな声だった。

 

 四人が一斉にこちらを見る。

 

「行けって言ってんだろ! ここで全員死んだら意味ねぇだろうが!」

 

「でも母さんが!」

 

「分かってるよ!」

 

 分かっている。分かっているから、余計に言いたくなかった。置いていけなんて。母親を見捨てろなんて。そんなことを言う資格が自分にあるわけがない。

 

 それでも。

 

「分かってるけど……だからって、お前まで食われていい理由になんねぇだろ!!」

 

 声が裂ける。

 

 エレンの顔が、怒りと絶望でぐしゃぐしゃに歪む。正しいのはどっちだ。そんな問い自体が間違っている。この場に“正しい”なんてない。あるのは、より少なく失う選択だけだ。

 

 だが、その選択を人に強いる痛みは、正しさじゃ消えない。

 

 巨人が近づく。

 

 もう、時間がない。

 

 そのとき、兵士が来た。

 

 立体機動装置を背負った男。蒸気を引きながら降り立ち、状況を一瞬で把握する。

 

「おい、子どもを連れて下がれ!」

 

 逞しい声だった。乱れた金髪。剣。酒の匂いさえしそうな、けれどいまは頼もしすぎる大人の姿。

 

「ハンネスさん!」

 

 エレンが叫ぶ。

 

 ハンネス、と呼ばれた兵士は、カルラと巨人と崩れた家を見て、わずかに顔を強張らせた。判断の時間は一瞬。彼は剣へ手をかけた。

 

 ――やめろ。

 

 スバルの中で、警鐘が鳴る。

 

 知らないはずなのに、知っている気がした。この人は、戦えない。戦えば死ぬ。あるいは、戦おうとして止まる。その迷いが、この場の全部を壊す。

 

「待っ――」

 

 言うより早く、ハンネスは巨人へ向かった。

 

 だが数歩で止まった。

 

 巨人の顔を見上げ、握った剣が震える。

 

 その一瞬の停滞が、すべてだった。

 

「くそっ……!」

 

 ハンネスは反転し、エレンとミカサの襟首を掴んだ。空いた腕でアルミンを引っ張る。

 

「逃げるぞ!」

 

「離せ!! 母さんが!!」

 

「うるせぇ、死にたいのか!」

 

「スバル!」

 

 アルミンが叫ぶ。

 

 その声で、自分が置いていかれる側だと気づいた。

 

 遅い。

 

 スバルは一歩、後れた。瓦礫のそばに立ったまま、足が動かなかった。カルラと目が合ったからだ。

 

 その目は、もう全部分かっていた。

 

 子どもたちは助かる。自分は助からない。だから、せめて行け、と。

 

「あなたも!」

 

 カルラが叫ぶ。

 

「早く!!」

 

 その声に、ようやく体が動いた。

 

 スバルは踵を返す。走る。肺が裂けるほど。だが背中に、視線が焼きついたままだ。

 

 振り返るな。

 

 振り返ったら終わる。

 

 なのに、泣き叫ぶエレンの声が耳を引き裂く。

 

「母さああああああん!!」

 

 振り返ってしまった。

 

 巨人が、カルラを掴み上げるところだった。

 

 手足がばたつく。叫び。血。噛みつく口。屋根の残骸越しに、赤が飛ぶ。

 

 スバルの視界が真っ白になった。

 

「……あ」

 

 足がもつれる。転ぶ。石畳に頬を打つ。

 

 ハンネスが怒鳴る声。エレンが暴れる音。ミカサの息。アルミンの嗚咽。

 

 何もかもが、遠くて近い。

 

 これが、この世界だ。

 

 救えないものがある、じゃない。

 

 救えないもののほうが多い世界だ。

 

 死に戻れば何とかなる、なんて甘い幻想を、さっきの一回でどこかまだ捨てきれていなかった。だが、いま目の前でその希望の骨が折れた音がした。

 

 戻ったからって、間に合わないものがある。

 

 知っていたって、手が届かない死がある。

 

 ハンネスに引きずられるようにして路地を抜けながら、スバルは涙も出ない顔で、それだけを何度も何度も噛みしめていた。

 

 やがて、人の流れに紛れて少し安全そうな広場まで来たところで、ハンネスは子どもたちを下ろした。

 

 エレンは即座に兵士へ殴りかかった。

 

「なんで戦わなかった!!」

 

 拳は頬に届かなかった。途中でハンネスの腕に掴まれ、逆にねじ伏せられる。

 

「放せ! 放せよ!!」

 

「無茶言うな!」

 

「母さんを見捨てた!!」

 

「……っ」

 

 ハンネスの顔が歪む。言い返せない顔だ。

 

 その横で、ミカサは黙ったまま立っていた。目が死んでいるわけじゃない。死んでいたらまだ楽だったかもしれない。理解しきれない現実をそのまま抱え込んで、壊れずに立っている目だ。

 

 アルミンは唇を噛みすぎて血を滲ませていた。

 

 そしてスバルは、少し離れた場所で立ち尽くしたまま、自分の手を見ていた。

 

 さっき瓦礫を持ち上げようとして擦りむいた掌。血がにじんでいる。

 

 自分は生きている。

 

 カルラは死んだ。

 

 それだけだ。

 

「……なんで」

 

 ぽつりと、エレンが言った。

 

 誰に向けたのでもない。あるいは、この場の全員に向けていたのかもしれない。

 

「なんで、こんな……」

 

 その問いに答えられる人間は、誰もいなかった。

 

 しばらくして、エレンがふいに顔を上げた。

 

 視線の先にあるのは、スバルだった。

 

「お前」

 

 掠れた声。

 

「お前、知ってたよな」

 

 広場の空気が、わずかに変わる。

 

 アルミンも、ミカサも、ハンネスも、こちらを見る。

 

 スバルの喉が詰まる。

 

「鐘が鳴る前から……門のこと、巨人のこと、知ってた」

 

 エレンが一歩近づく。拳を握っている。泣き顔のまま、目だけが刺すように鋭い。

 

「なんでだ」

 

「……」

 

「なんで知ってたのに!」

 

 声が裏返る。

 

「知ってたのに、助けられなかったんだよ!!」

 

 その言葉は、刃より深く刺さった。

 

 スバル自身が、いちばん自分に言いたかったことだったからだ。

 

 知っていた。

 

 なのに救えなかった。

 

 未来を知ることと、未来を変えることは違う。その残酷な当たり前を、こんな形で突きつけられるなんて思わなかった。

 

 エレンが胸ぐらを掴む。

 

「答えろよ!」

 

「エレン!」

 

 アルミンが止めようとするが、遅い。

 

「お前、何なんだよ!」

 

 何なんだろう。

 

 スバルにも分からない。

 

 英雄でもない。預言者でもない。たった一度死んで、たった一度戻っただけの、何もできなかったガキだ。

 

 なのに。

 

 それでも。

 

 胸の奥に、逃げたくない熱がまだ残っていることだけは分かった。

 

 カルラは救えなかった。

 

 でも、だから終わりにしたくなかった。

 

 スバルは震える唇を噛みしめて、エレンの目を正面から見返した。

 

「……知らねぇよ」

 

 声は掠れていた。

 

「俺が何なのかなんて、俺が知りてぇよ」

 

「ふざけるな!」

 

「ふざけてねぇ!」

 

 掴まれた胸ぐらを、逆に握り返す。

 

 自分でも驚くほど、手に力が入った。

 

「助けられなかったのは……分かってるよ! そんなの、分かってる!!」

 

 涙が勝手に滲む。怒鳴り声なのか泣き声なのか、自分でも分からない。

 

「でも、まだ終わってねぇだろ……!」

 

 エレンの呼吸が止まる。

 

 スバルも、自分が何を言っているのか半分分かっていなかった。

 

 それでも、口は止まらない。

 

「まだ、街の中にいっぱいいるんだろ。死ぬやつが。助けられるかもしれないやつが。だったら……!」

 

 喉が裂ける。

 

「だったら、次は間に合わせるしかねぇだろ!!」

 

 広場に、重い沈黙が落ちた。

 

 エレンの手が、わずかに緩む。

 

 ハンネスが怪訝そうに眉をひそめる。アルミンは呆然とし、ミカサだけが静かにスバルを見ていた。観察するように。確かめるように。

 

 次。

 

 いま、自分はなんと言った。

 

 戻ることを知っているみたいに。

 

 やり直せることを前提にしているみたいに。

 

 ぞっとした。

 

 だが、口にしてしまったものは戻らない。

 

 ハンネスが低く問う。

 

「お前……今、“次”って言ったな」

 

 その一言で、スバルの背中に冷たい汗が流れた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。