訓練兵団の時間は、出来事ではなく、癖の変化で進む。
最初は毎日が長かった。怒鳴られ、転び、落ちかけ、走り、食って、寝る。そこに一つ一つ意味がありすぎて、一日終わるたびに「今日はここまで生き延びた」と思っていた。
だが、季節が一つ動くころには、その感じが消える。
朝の号令で起きるのが当たり前になり、筋肉痛が引く前に次の筋肉痛が来るのが当たり前になり、怒鳴られても心臓がいちいち跳ねなくなる。
そして、その代わりに別のものがはっきりしてくる。
誰がどう伸びるか。
誰がどう崩れるか。
誰と誰が噛み合って、誰と誰がどこまでも噛み合わないか。
訓練兵団に入って最初の季節が終わる頃、スバルは自分の順位より先に、その“人間の癖”のほうをよく見るようになっていた。
エレンは、相変わらず前に出る。
ただ、前みたいに全部を力でこじ開けようとはしなくなった。しなくなった、というより、“前に出ることで班ごと壊れる”瞬間を実地で覚えたのだ。野外訓練のあの日以来、ジャンに噛みつく頻度は減っていないくせに、少なくとも“言われたことの意味をまるごと無視する”ことは減った。
そのぶん、内側に苛立ちを溜める。
それはそれで危ない。
ジャンは、やはり全体を見る。
そして、見るからこそイラつく。エレンの一直線も、コニーの雑さも、サシャの妙な間も、全部見えてしまう。見えてしまうから、つい口を出す。口を出すから、またぶつかる。
でも、ジャンはもう“ただ感じの悪い奴”ではなかった。
教官の指示が曖昧な時、誰より先に形を理解するのはジャンだった。班の立て直しも速い。嫌味で口は悪いくせに、必要な修正はちゃんと飛ばす。そういうところを見てしまうと、単純に嫌うのも難しくなる。
マルコが前に言っていた。
――互いに、相手の嫌なところが、一番必要な部分でもある。
今なら分かる気がする。
ライナーは、時間が経つほど“頼れる兄貴分”の顔を強くした。
体格がいい。声も通る。班をまとめる力がある。誰かがへばっていたら一番先に気づき、さりげなく声をかける。教官の目があるところでは過剰に庇わないが、見えないところでは自然に支える。
兵士に向いてる。たぶん誰が見てもそう思う。
その“向いてる”感じが強すぎて、スバルはたまに逆に怖くなることがあった。人間って、こんなにぴたりと役割へ嵌まるのか、と。
ベルトルトは目立たない。
だが、目立たないこと自体があいつの強さの一部だと、スバルは早い段階で気づいた。長身で、ぼんやりして見えて、喋る声も強くない。なのに訓練になると変なミスが少ない。誰かの後ろにいて、でも遅れてはいない。前へ出ないのに、置いてもいかれない。
そういうやつは、気づくと上の方にいる。
アニは、近づくほど分からなくなる。
最初はただ冷たい奴だと思った。今もそれは間違っていない。だが、あいつの冷たさは“他人に興味がない”だけでは足りない何かを含んでいた。近接格闘では抜群に強い。体の使い方が違う。なのに、勝ってもまるで嬉しそうじゃない。
訓練が終わると、いつも一番早く気配を消す。
誰とも深くつながろうとしない。
そのくせ、エレンが突っかかった時だけは妙に反応がある。
面倒な相性だな、とスバルは思う。
コニーは、雑なまま伸びた。
器用ではない。考えるタイプでもない。だが、反応が速い。怖さより先に体が動くことがある。よく怒鳴られ、よく笑われ、よく自分でも笑う。そういう軽さがあるから、班の空気が沈みすぎる時には妙に助かる。
サシャは、結局ずっとサシャだった。
食い物の匂いには異常に敏い。ぼんやりしているようで、大事なところでは変に集中する。森や地形への勘が良い。本人は平然としているが、感覚の鋭さで拾っている情報がある。教官たちも、それには気づいているらしかった。
アルミンは、最初の頃より明らかに立ち位置を変えた。
順位そのものは、そこまで高くない。体力でも装置の操作でも、最上位とは言えない。だが、“何が起きているかを早く言葉にできる”という点で、少しずつ存在感が増していった。
野外訓練の振り返りでも、班の移動ルートの修正でも、教官の説明の意図を掴むのでも、アルミンは一歩早い。しかも、前みたいにただ考えて終わるのではなく、口に出すようになった。
それはたぶん、大きな変化だった。
エレンやジャンみたいな“前に出るやつ”とは違う。
ミカサみたいな“できてしまうやつ”とも違う。
でも、確実に必要なタイプだと、皆が少しずつ理解し始めている。
そしてミカサは――。
もう途中から、比較対象ではなくなっていた。
強い。
それだけでは足りない。強いのに、ぶれない。体力があり、反応があり、装置の制御もいい。近接も悪くない。教官の指示も外さない。
欠点が見えにくい。
その代わり、欠点が見えるのはエレン絡みの時だけだ。
「ミカサ、そこは前に出すぎだ」
とジャンが言ったことがある。
いつもの嫌味じゃない。本当に班の動きとしての指摘だった。
ミカサは一拍だけ黙って、それから言った。
「エレンが危なかったから」
「だからってお前まで崩れたら意味ねぇだろ」
「……」
その時だけ、ミカサは反論しなかった。
スバルは、その沈黙を覚えている。
ああ、ここだ、と。
完璧に見えるやつにも、綻ぶ場所はある。
その綻びが“誰に向くか”で、人の形は決まるのかもしれない。
では自分はどうか。
ナツキ・スバルは、劇的には伸びなかった。
そこが、一番リアルで、一番嫌だった。
明日になったら急に才能が開花することもない。ある日突然、上位へ跳ね上がることもない。そんな都合のいい展開は、この訓練兵団にはなかった。
その代わり、じわじわと変わる。
焦りすぎて前に出る癖は、少し減った。
待つべきところで待てるようになった。
近接では“最初の一歩だけは考える前に出す”を、何度も何度も意識した。全部はできない。それでも、前よりはましになる。
立体機動装置は、相変わらず綺麗じゃない。
だが、落ちない。
崩れても戻せる。
その“なんとか立て直せる”感じが、逆にスバルらしいと周囲に認識され始めていた。
「お前ってさ」
秋に入る少し前、訓練の合間にコニーが言った。
「何だかんだでしぶといよな」
「褒め方がゴキブリなんだよ」
「でも分かる」
サシャが真顔で頷く。
「最初はすぐ死にそうでした」
「本人に言うなそれ!」
マルコが少し笑った。
「今は、“すぐ死にそう”から“死にそうでも戻ってくる”に変わったかな」
「お前それ、言葉選びが怖ぇわ」
だが、意味は分かる。
自分は強くない。怖がる。ミスもする。動揺も顔に出る。
それでも、一度崩れたあとで戻る。
戻ろうとする。
その癖が、少しずつ“弱さ”とは別の形で見られ始めていた。
そして季節がもう一つ動くころ、明確な“順位”が訓練兵たちの間で意識されるようになる。
正式な発表ではない。だが、みんな何となく分かっている。
誰が上位に行きそうか。
憲兵団へ届きそうなやつが誰か。
自分はその圏内にいるのか、いないのか。
その話題は、夜になると自然に出た。
「どうせミカサだろ」
「ライナーも強い」
「ジャンも結構いくんじゃねぇか」
「アニもだろ」
「エレンは?」
「粗いけど、あの感じは上がる」
「アルミンは……」
「座学込みなら伸びるかも」
そんな声が、寝所でも食堂でも、風呂場の手前でも、そこかしこで交わされる。
スバルはそういう話題が嫌だった。
嫌だが、無視できない。
自分は上位に入れない。
たぶん。
その現実はもう分かっている。分かっているのに、“じゃあどのあたりにいるのか”が気になるのが人間の情けないところだった。
ある夜、寝所でスバルが天井を見ながら言った。
「なあ」
「何」
アルミン。
「こういうのってさ、はっきり数字で出されたほうが楽なのか、出されないまま察する方がマシなのか、どっちなんだろうな」
エレンが鼻を鳴らした。
「出されりゃいいだろ」
「お前はな」
「何でだよ」
「上に行く前提で話してるやつは気楽でいいよなって意味だよ」
エレンが少しだけ顔をしかめる。
「気楽じゃねぇよ」
「だろうな。言い方が悪かった」
スバルは素直に訂正した。
エレンにとって“上に行く”は楽観ではない。行かなきゃならないものだ。巨人へ届くために。
「でもまあ、俺は気になる」
スバルが言う。
「自分がどこにいるか」
「それは皆そうだと思う」
アルミン。
少し間があって、マルコが上の寝台から身を乗り出した。
「でも、今の順位って、そこまで絶対じゃないよ」
「慰めか?」
「違うよ」
マルコは穏やかに言う。
「順位は、完成度の話だから。今の時点で“兵士としてどれくらい形になってるか”であって、最後まで同じとは限らない」
「……それ、お前みたいなやつが言うと効くな」
「どういう意味?」
「お前、最初からそこそこできてて、でも今もっとできるようになってる側だろ」
マルコは少しだけ笑った。
「君だってそうだよ」
「俺?」
「うん。最初の君、ひどかったよ」
「知ってる!」
寝所の何人かが吹き出した。ひどい。
「でも今は、ひどいなりに残る方法を覚えてる」
その言い方に、スバルは少しだけ黙る。
褒められているのか分からない。だが、雑に持ち上げているわけではないことは分かる。
「残る方法、か」
「兵士って、たぶんそれが一番大事なんじゃないかな」
マルコは言った。
「立派に勝つことより、まず残ること」
その言葉を、スバルはしばらく反芻した。
勝つ、ではない。
残る。
それはあまりにこの世界らしくて、嫌になるくらい正しかった。
冬が近づくころ、訓練はまた段階を変える。
より長い距離を、より少ない指示で、班ごとに判断して動く訓練へ移る。教官が答えを全部与えず、途中の選択を班へ委ねる場面が増えた。
そこで露骨に差が出た。
強いやつが一人いるだけでは足りない。
言うやつ、見るやつ、止めるやつ、ついていくやつ、その全部が揃わないと、班は変な方向へ崩れる。
スバルの班は、最初の頃よりましになっていた。
マルコが見る。
コニーが勢いを出す。
サシャが妙な勘で補う。
スバルが、以前よりは慌てずに隙間を埋める。
完成度は高くない。だが、壊れにくくはなっていた。
ある課題で、教官補佐が珍しく言った。
「この班は、派手さはないが崩れにくい」
スバルはそれを聞いた瞬間、妙に胸が熱くなった。
派手じゃない。
でも崩れにくい。
それは、たぶん今の自分たちに一番合う褒め言葉だった。
同じ日の夕方、エレンとジャンの班は別の意味で目立った。
速い。強い。だが、また途中で衝突しかけた。
そこをマルコが横からまとめて救った。
訓練が終わったあと、ジャンが珍しくマルコにだけは素直に言った。
「……さっきは助かった」
マルコは笑って答える。
「次は、助けなくても済むといいね」
そのやりとりを見て、スバルはまた少し嫌な予感を覚えた。
マルコは、人と人の間に立つのがうますぎる。
うますぎるやつは、たまに全部の歪みを引き受けてしまう。
そういう役回りは、物語の中であまり長生きしない。
やめろ、とスバルは自分に言い聞かせた。
先を読んだ気になるな。
ここはまだ訓練兵団だ。
まだ何も決まっていない。
だが同時に、もう何も“ただの訓練”ではなくなっていた。
季節は進んでいる。
人も変わっている。
そして、変わった人間関係は、もう元には戻らない。
訓練兵団に入ったあの日、ただの同期だった連中が、少しずつ“物語を動かす側”の顔をし始めていた。