冬は、訓練兵団に平等ではなかった。
寒さそのものは全員に来る。朝、布団から出る瞬間の理不尽さも、息が白くなる訓練場の冷たさも、凍える指で装備を締める面倒さも、誰にでも同じだ。
だが、その寒さの中でどれだけ動けるかは平等じゃない。
体が強いやつは残る。
気持ちで押せるやつも、ある程度は残る。
問題はそのどちらでもないやつだ。
冬が本格化するころ、訓練兵団の中で静かに人数が減っていった。
正式に脱落と告げられた者もいれば、怪我で後退する者もいる。訓練についていけず、補助要員へ回される者もいた。いなくなった寝台は、最初の数日は気になる。だが、数が増えると、人はそれにも慣れる。
慣れるのが嫌で、スバルは時々わざとその空いた寝台を見た。
見て、嫌な気持ちになって、それでも翌朝には起きて走る。
それを繰り返しているうちに、冬はさらに深くなった。
訓練内容も変わる。
体力を削るだけの段階は過ぎた。いや、削ること自体は相変わらずやる。やるが、その上に“考えろ”が乗る。班の中で誰が前へ出るのか。どこで止まるのか。どの地形を使うのか。全部を一瞬で選ばされる。
そこで、アルミンが伸びた。
体の強さではない。
判断の速さだ。
「右はぬかるんでる、左へ寄って!」
「このまま高く行くと戻りがきつい、低く回った方が早い!」
「今は追うな、集合優先!」
最初は、そういう声を出しても周囲が半拍遅れることが多かった。
だが、冬に入るころには違った。少なくともエレン班の中では、アルミンの声が“ただの細いやつの意見”ではなく、ひとつの判断材料として扱われ始めている。
それはかなり大きな変化だった。
エレンがそれを認めた瞬間を、スバルはたまたま見ていた。
野外訓練から戻ったあとだ。訓練場脇で装置の点検をしながら、エレンがぶっきらぼうに言った。
「……さっきの、助かった」
アルミンが顔を上げる。
「え?」
「分岐のとこだよ。お前が言わなきゃ、たぶん遠回りしてた」
短い。雑。だがエレンなりの最大級に近い。
アルミンは少し黙ってから、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
それだけだった。
だが、その一往復だけで十分だった。
役割が定まる。
そういう瞬間は、見ていて分かる。
ライナーはますます“兵士”になっていく。
ベルトルトはますます“目立たないくせに外さないやつ”になる。
アニは、たまに訓練を流しているように見えるくせに、要点だけは絶対に外さない。あのやる気のなさそうな顔で、それをやるのが一番腹立たしい。
ミカサはずっと強い。
ただ、最近は“強いだけの一人”ではなく、“強すぎるからこそ周囲の速度を乱しうる一人”として見られる瞬間も出てきた。本人に悪気はない。だが、ミカサ基準で動ける人間は少ない。
「お前、もうちょい遅くできねぇの」
スバルが一度、本気で聞いたことがある。
ミカサは少し考えてから言った。
「できる」
「できるのかよ」
「でも、遅くするのは難しい」
「それもう才能の暴力なんだよな……」
その横でジャンが小さく言った。
「分かる」
珍しく、心の底から一致した瞬間だった。
そして、スバル自身は。
冬の終わりが見え始めるころ、自分の立ち位置をようやく受け入れ始めていた。
上位ではない。
でも、下位でもない。
たぶん十傑には入らない。
だが、落ちる側でもない。
その“半端さ”を、以前の自分ならひどく嫌っただろう。何かしら目立ちたい。上に行きたい。特別でありたい。そういう自意識は、もともと消えていない。
消えていないのに、それでも今はこう思う。
残っているだけで十分きつい。
この訓練兵団で、冬を越えて、まだここにいる。それ自体がかなりのことだ。
それを一番実感したのは、久しぶりに順位の話が表へ出た時だった。
雪が薄く残る朝、教官補佐が実地成績の中間評価を口にした。正式な順位発表ではない。だが、誰が上位圏にいるかくらいは、ぼかしながらでも伝わる。
ミカサ、ライナー、ベルトルト、アニ、ジャン、エレン。
名前がそのあたりで出るのは、もう皆も分かっている。
その中で、自分の名が出ないことに、スバルは思ったより傷つかなかった。
少しだけ驚いた。
「……あれ」
食堂でスープをすすりながら、スバルは呟いた。
「何」
アルミンが聞く。
「いや、もっと悔しいかと思ってた」
「順位のこと?」
「うん」
スバルはパンをちぎる。
「たぶん俺、自分が十傑に入らねぇって、もう分かってるんだな」
エレンが顔を上げる。
「入ればいいだろ」
「いや、お前それ簡単に言うけどな」
「簡単じゃねぇよ」
「だろうな。でも俺は、そこまで届く絵がまだ見えねぇ」
言いながら、不思議と惨めではなかった。
むしろ、やっと地面に足が着いた感じがする。
ミカサが言う。
「スバルは、途中で無駄が多い」
「お前、その言い方好きだな」
「でも残る」
スバルは少しだけ黙った。
「……それ、褒めてる?」
「半分」
今度はエレンが笑いそうになった。
「お前までその返しを覚えるな」
アルミンが言う。
「でも、順位だけで全部決まるわけじゃないよ」
「その慰め、今の俺には逆に効かねぇかも」
「慰めじゃない。役割の話」
アルミンはスープの表面を見ながら言う。
「上位は上位で必要。でも、班で崩れた時に戻れるやつ、周りを見ながら食らいつけるやつも必要だよ」
スバルはその言葉を、そのまま飲み込むことはできなかった。
だが、否定もしなかった。
たぶん少しずつ、そういう自分の価値を考えてもいい段階に来ていた。
春先。
訓練兵団の空気は、また一段階変わる。
今度は“慣れ”が出る。
初期の恐怖は薄れ、冬のふるいを越えた自負が芽生え、皆の中にそれぞれの“自分はこのくらいやれる”ができる。そこから先は危ない。気の緩みが出る。逆に焦りが増すやつもいる。
その時期に、ジャンとエレンが初めて本当に殴り合った。
いや、正確には“殴り合いになりかけた”ではない。
本当に殴った。
理由はたいしたことではなかった。訓練後の整備で、エレンがまた独断で動いた。ジャンがそれを嫌味込みで指摘した。エレンが噛みついた。ジャンが返した。気づけば胸ぐらを掴み、次の瞬間には拳が出ていた。
「お前はいつもそうだ!」
「そっちこそ何様だ!」
「班で動くってことが分かってねぇんだよ!」
「黙ってついてくだけの腰抜けが偉そうに!」
周囲が止める。
ライナーが抑え、マルコが間に入り、コニーが面白がりかけてサシャにどつかれ、アルミンが青ざめ、ミカサが一歩出たところでエレンが余計に荒れる。
地獄だった。
結局、教官補佐に見つかって全員まとめて罰走になった。
走りながら、スバルは本気で思った。
「なんで俺まで!」
「近くにいたからだろ!」
コニーが笑いながら返す。
「笑うな! お前も走ってんだろうが!」
「でも面白ぇし!」
「最低だなお前!」
その横でジャンとエレンはまだ睨み合っている。息切れしてるくせに元気だな、とスバルは半ば呆れた。
だが、罰走が終わった後に、妙なことが起きた。
その翌日から、ジャンとエレンのやり合いが少し変わったのだ。
なくなりはしない。
相変わらず嫌味を言うし、噛みつくし、視線の温度も低い。だが、以前みたいに“ただの反発”ではなくなる。
言い方は悪い。
だが中身は、少しずつ相手の長所を踏まえた噛みつき方になっていた。
「だからお前は前に出すぎだって言ってんだろ」
「お前は逆に見すぎなんだよ」
「見なきゃ班が壊れる」
「見てるだけじゃ開かねぇ」
「開く前に死ぬって話だ!」
そこまで来ると、もはや喧嘩の体裁をした戦術議論だった。
マルコが苦笑しながら言った。
「殴り合って、ようやく会話になってきたかもね」
「それ順番おかしいだろ」
スバルが返すと、マルコは肩をすくめた。
「でも、あの二人ならそんなものかも」
春も深くなり、訓練兵団に入ってから一年が見え始める頃には、もう“ただの同期”だった頃の空気は消えていた。
誰がどういう時に怒るか。
誰が何を怖がるか。
誰がどこで折れそうになるか。
誰に何を言えば届いて、何を言えば余計にこじれるか。
その程度のことは、皆なんとなく分かっている。
そして、その“なんとなく分かる”が一番危ないのだと、スバルは思う。
近づけば近づくほど、雑に扱いやすくなる。
いつものこいつだ、と決めつける。
でも人間は、決めつけたところから急に壊れる。
それを、スバルはずっと恐れていた。
だからだろうか。
春の終わり、王都遠征の話が出たとき、胸の奥で何かがざわついたのは。
「王都?」
訓練兵たちの間にざわめきが走る。
実戦ではない。見学に近い。だが、壁内の中でも違う空気を持つ場所だ。将来の配置や仕組みを意識させるための一環らしい、と噂が飛ぶ。
憲兵団。駐屯兵団。調査兵団。
その単語が、また一段はっきりした輪郭で皆の前に現れる。
未来の分岐だ。
そこへ向かう目の色が、訓練兵たちの間で少しずつ変わり始める。
十傑に入りたい者。
内地へ行きたい者。
とにかく生き残りたい者。
巨人に挑みたい者。
どこにも行きたくないのに流されている者。
その全部が、今までより露骨に表へ出てくる。
物語が進む、というのはこういうことなのだとスバルは思った。
日付が一枚進むことじゃない。
選択肢が現れることだ。
その選択肢の前で、皆の顔が変わることだ。
そして、その王都遠征の前夜。
寝所でスバルはぼそりと言った。
「……なんか、嫌な予感すんだよな」
「何が」
エレンが聞く。
「知らん。でも、こういう“ちょっと外の空気吸わせます”みたいなイベントって、大抵ろくなこと起きねぇ気がする」
「お前の嫌な予感は当たる時と外れる時の差が極端すぎる」
ジャンだった。
最近はもう、こういう会話に自然に混ざる。
「文句あるなら俺の予感フィルター買い取れよ」
「いらねぇよ」
「だよな!」
だが、笑い声のあとでも、胸のざわつきは消えなかった。
時系列は進んでいる。
人も変わっている。
そして、変わった人間たちが次の段階へ進む準備をしている。
それはつまり、“ただの訓練”の外に、また一歩出るということだった。