そこから先の訓練兵団生活は、要点だけを残して雪崩みたいに進んだ。
王都遠征で、訓練兵たちは初めて“壁の内側にも階層がある”ことを、空気で理解した。
道の広さ。建物の高さ。人の服。兵士を見る目。
同じ壁内でも、外縁で巨人に怯えて生きる者と、もっと内側でそれを遠い話として消費する者がいる。口で説明されるより先に、視界がそれを叩き込んできた。
「……胸くそ悪ぃな」
スバルが小さく言うと、ジャンが珍しくすぐには噛みつかなかった。
「今さら気づいたのかよ」
「気づいてはいたけど、見せられると別だろ」
エレンは終始機嫌が悪かった。悪いというより、静かすぎた。
王都の整った街並みを見て、こいつの中で何かが余計に固まったのだと、スバルには分かった。ああいう場所があるなら、なおさらシガンシナで失われたものが許せなくなる。
アルミンは逆に、ずっと観察していた。
人の流れ。兵士の配置。商人の動き。憲兵団の態度。見えるもの全部を頭に入れている目だった。
ミカサは、エレンが余計なことをしないように見ていた。
そして訓練へ戻る。
戻ってからは、もう早かった。
春が深くなり、夏が近づき、訓練兵団の空気は“候補生”から“兵士未満”へ変わっていく。教官たちの怒鳴り方も変わる。最初の頃みたいな、ただ恐怖を叩き込む怒号ではなくなる。
できる前提で怒鳴るようになる。
つまり、できなければより容赦なく置いていかれる段階へ入ったのだ。
そこで、順位がはっきりした。
ミカサは頭一つ抜けた。
アニ、ライナー、ベルトルト、ジャン、エレン、そのあたりが上位を固める。
サシャもコニーも思ったより食らいつく。
アルミンは下位寄りを抜けきらないが、それでも脱落しない。
そしてスバルは、やはり真ん中だった。
「お前、ほんとにちょうど真ん中だな」
コニーにそう言われた時、スバルは本気で木剣を投げつけかけた。
「一番言われたくねぇ評価!」
「でも分かりやすいじゃねぇか!」
「分かりやすいのが嫌なんだよ!」
マルコが笑う。
「でも、それってかなりすごいことだよ」
「慰めはもういい」
「慰めじゃない。本当に」
マルコはいつもの穏やかな顔で続ける。
「真ん中って、落ちないと取れない位置だろ」
その言葉に、スバルは少し黙った。
たしかにそうだった。
この訓練兵団で、真ん中にいるのは案外難しい。上位ほど突出した才能はない。だが、下位へ落ちる弱さも見せない。毎日毎日、みっともなくても食らいついて、崩れても戻って、それでようやく取れる場所だ。
派手じゃない。
でも、ゼロじゃない。
そのことを受け入れられるようになった時、スバルは初めて訓練兵団の時間が“ただ耐えるだけのもの”ではなくなっていたことに気づいた。
近接格闘では、最初の一歩を怖がらなくなった。
立体機動では、崩れたあと戻すのが少し速くなった。
班行動では、焦って全部を埋めようとしなくなった。
劇的ではない。全部じわじわだ。
だが、じわじわ変わったものは、派手な成長よりむしろ消えにくい。
そうやって訓練兵団の時間は進み、最後の季節が来る。
卒業が視界に入った頃、空気はまた変わった。
今度は“誰がどこへ行くのか”だ。
憲兵団を狙う者。駐屯兵団を選ぶ者。調査兵団へ行くと言い切る者。
その話題が表へ出ると、人の本音は急に生々しくなる。
「俺は内地に行く」
「当たり前だろ、死にたくねぇ」
「家族がいるから駐屯兵団だ」
「調査兵団? 正気かよ」
そういう会話が、食堂でも寝所でも、もう隠されなくなった。
エレンは最初から変わらない。
「調査兵団だ」
ぶれない。
ミカサも変わらない。
「エレンが行くなら、私も」
アルミンは少しだけ迷って、それでも決める。
「僕も行く」
その時、スバルは思った。
ああ、訓練兵編はここで終わるんだな、と。
人がどれだけできるようになったかではない。
どこへ向かうかを自分で選ぶところまで来たら、もう訓練兵編は終わりだ。
「お前は」
エレンに聞かれた時、スバルは前みたいに長く迷わなかった。
「……調査兵団は、まだ無理だ」
正直に言った。
エレンが眉をひそめる。
「まだ?」
「うるせぇよ。今の俺がそっち行ったら、たぶん理想で死ぬ」
スバルは肩をすくめる。
「俺は、まず生き残る側で経験積む。だから駐屯兵団だ」
エレンは少し黙った。
ジャンが横から鼻を鳴らす。
「現実的で助かるな」
「お前は?」
「憲兵団に決まってんだろ」
そう言うくせに、その目の奥には少しだけ迷いが見えた。だが今はまだ、そこを突っつく段階じゃない。
マルコは穏やかに言った。
「僕も駐屯兵団かな」
「だろうな」
スバルが返すと、マルコは笑った。
「理由も聞かずに?」
「お前は、いきなり一番危ねぇとこ行くタイプじゃねぇ。でも、安全圏にこもるだけでもない」
「よく見てる」
「見てるやつのことは、見とかないとな」
その言葉を言った時、スバルは少しだけ嫌な感じがした。
嫌な感じがしたが、言葉にはならなかった。
そして、卒業。
第104期訓練兵団、成績上位十名が発表される。
ミカサ・アッカーマン。
ライナー・ブラウン。
ベルトルト・フーバー。
アニ・レオンハート。
エレン・イェーガー。
ジャン・キルシュタイン。
サシャ・ブラウス。
コニー・スプリンガー。
……そして、他数名。
アルミンの名はない。スバルの名もない。
だが、スバルはもう、それに過剰には傷つかなかった。
悔しくないわけじゃない。だが、“自分がそこではない”ことは、もう訓練の途中で受け入れていた。
問題はそこではない。
終わったのだ。
訓練兵編が。
あのシガンシナから始まって、怒鳴られ、落ちかけ、殴り合い、食らいついてきた“準備期間”が、ここで終わる。
配属希望の最終確認が行われる。
何人かが迷う。
何人かが怖がる。
何人かは、それでも調査兵団を選ぶ。
エレン、ミカサ、アルミンは、結局その列へ向かった。
スバルは少し離れて、その背中を見る。
「……行くんだな」
アルミンが振り向いて、少し笑った。
「うん」
エレンは振り向かない。
「最初から言ってる」
「そうだったな」
ミカサはエレンの少し後ろで、当然のようにそこにいた。
スバルは息を吐く。
「俺は駐屯兵団だ」
エレンがそこで初めて振り向く。
「知ってる」
「何だよ、その“お前ならそうだろ”みたいな顔」
「そうだろ」
「腹立つな!」
でも、それでいいとも思った。
訓練兵団は終わった。
これで四人がずっと同じ場所にいる理由も、少し薄くなる。道が分かれる。役割も分かれる。
それでも、完全には切れない気がした。
シガンシナの日からここまでの時間が、それを許さない。
卒業式めいたものが終わり、配属が決まり、最後の自由時間みたいな夕方が来る。
訓練場を見下ろす高台で、数人が風に当たっていた。
ジャン、マルコ、ライナー、ベルトルト、コニー、サシャ、エレン、アルミン、ミカサ、そしてスバル。
「終わったな」
コニーが言う。
「終わったのか?」
サシャが首を傾げる。
「始まる、のほうが近くね?」
ジャンが言った。
その通りだった。
終わったのは訓練兵編であって、人生ではない。むしろこっからだ。
「……嫌な言い方するなぁ」
スバルが言うと、ジャンは鼻で笑う。
「現実だろ」
「お前最近、現実担当キャラが板についてきたな」
「元からだ」
「それはそうかも」
マルコが笑った。
風が吹く。
壁の内側の空は、相変わらず広いようで狭い。
その時だった。
遠くで、鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
全員の顔が変わる。
スバルの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。
この音を、自分は知っている。
シガンシナ。
あの日の警鐘。
「……まさか」
アルミンが呟く。
兵士たちが走る。下で怒号が飛ぶ。空気が一瞬で裏返る。
壁の方角。
その一点へ、全員の視線が吸い寄せられる。
スバルの心臓が、嫌な形で速くなる。