鐘の音は、訓練場の空気を一瞬で殺した。
さっきまで卒業の余韻みたいなものがあった。終わったな、これからだな、そういう曖昧な感慨が、鐘三つで全部吹き飛ぶ。
スバルの喉がひゅっと鳴った。
知っている音だ。
知っているからこそ、体が先に怯える。
「壁だ!」
下から兵士の怒声が飛ぶ。
「南だ! 全兵、配置につけ!!」
南。
その一言で、エレンの顔が変わった。
さっきまでの“卒業した訓練兵”の顔じゃない。もっと剥き出しの、シガンシナの日と同じ目だ。
「トロスト区……!」
アルミンが息を呑む。
スバルの背中に冷たい汗が流れる。
トロスト区。
ここで来るのか。
知っている。いや、細部まで知っているわけではない。だが、大枠は嫌になるほど分かる。超大型巨人。壁の破壊。訓練兵たちの実戦投入。街の地獄。エレンたちが“ただの訓練兵”でいられなくなる日。
訓練兵編、終われよ、なんてさっきまで思っていた。
終わったら、こうなる。
自分で望んだ速度で、地獄は来る。
「行くぞ!」
エレンが駆け出す。
「待て、エレン!」
アルミンが叫ぶが遅い。ミカサは当然のように追う。ライナーとベルトルトも顔を見合わせ、すぐ走り出す。ジャンは舌打ちしてから続き、コニーとサシャも一瞬遅れて動いた。
スバルも反射で走り出しかけて、足を止めた。
駐屯兵団。
自分の配属先。
いま自分は“調査兵団へ行く三人と同じ流れにいる”わけではない。配属が決まったばかりとはいえ、立場は分かれている。
なのに、体はそっちへ行こうとする。
「スバル!」
振り返る。マルコだった。
少し後ろから、こちらを見ている。走るべきか止まるべきか、一瞬だけ迷った顔だ。
スバルは歯を食いしばる。
「行くぞ!」
答えは、それしかなかった。
高台を駆け下りる。訓練場はもう蜂の巣をつついたみたいな騒ぎになっている。教官補佐が怒鳴り、配属先ごとに整列させようとしているが、卒業直後の訓練兵たちは完全に“兵士”として統制されているわけじゃない。混乱と興奮がそのまま露出していた。
その混乱の中心で、キース教官が一度だけ全員を怒鳴りつける。
「静まれぇぇぇ!!」
声が、全部を圧し潰した。
訓練場の空気が止まる。
「現時点より、訓練兵ではなく予備戦力として扱う! 各自、所属先の指示に従え!! 勝手な判断をするな!! 怯えるなとは言わん!! だが混乱するな!!」
その言葉に、スバルは胸の奥が重くなるのを感じた。
予備戦力。
つまり、もう訓練ではない。
自分たちは“いざという時の数”に組み込まれたのだ。
卒業して、配属が決まり、次の段階へ進む。その最初の日に、いきなり実戦の入口へ突き落とされる。
ひどい。
でも、この世界はそういうひどさでできている。
兵が走り回る中、駐屯兵団所属予定の者たちは別列へ、調査兵団希望者はまた別へ、憲兵団希望者たちはさらに別へ振り分けられ始める。
だが、その場にいる誰も、もう“希望先の未来”だけを見てはいられなかった。
「エレン!」
アルミンがやっと追いつき、エレンの腕を掴む。
「落ち着いて!」
「落ち着いてられるか!」
「落ち着かないと死ぬ!」
「それはいつもだろ!」
いつもの言い合いだ。だが熱量が違う。
ミカサが割って入る。
「エレン、今は命令を聞いて」
「巨人が出たんだぞ!」
「だからこそ」
短い言葉。だが鋭い。
ジャンが少し離れた位置から睨みながら言う。
「ここで勝手に動いたらただの馬鹿だ」
「何だと」
「図星だから噛みつくな!」
言い方は最悪だが、中身はその通りだった。
スバルは全員の間へ半歩だけ出る。
「……とりあえず、話は後!」
喉がひりつくが構わず叫ぶ。
「配属前だろうが何だろうが、今ここでバラけたら終わる!」
ライナーが頷いた。
「そうだ。いまは指示を聞く」
その“兵士の声”が効いた。ライナーが言うと、本当にそうすべきに聞こえる。ベルトルトも静かに頷き、マルコがその流れを補強する。
「各所属ごとに集まるのが先だ。情報が混ざる」
混ざる。
そうだ。いま怖いのは、巨人そのものと同じくらい、“情報と命令の混乱”だ。シガンシナでスバルが嫌というほど味わったやつだ。
全員が一拍だけ沈黙し、その間に教官補佐がさらに怒鳴る。
「駐屯兵団所属予定者は東列へ! 調査兵団志望者は南列へ! 走れ!!」
動くしかない。
エレンがアルミンを睨み、ジャンが舌打ちし、ミカサがエレンの少し後ろへつく。
スバルは一瞬だけその背中を見た。
分かれる。
さっき決まった配属が、もう現実になる。
「スバル!」
マルコの声。
そうだ。自分は駐屯兵団側だ。
歯を食いしばって、駐屯兵団の列へ走る。マルコが隣に来る。ジャンも少し前にいる。ライナーとベルトルトも同じ列へ合流した。
調査兵団志望の列の方では、エレン、ミカサ、アルミンの三人が流れていくのが見えた。
視線が一瞬だけ合う。
それだけだった。
だが、その一瞬に嫌な確信があった。
ここから先、もう“いつもの四人”ではいられない。
同じ戦場にいたとしても、立つ列が違う。
その事実が、胸に鈍く刺さる。
列の先頭で、駐屯兵団の隊員が叫ぶ。
「トロスト区南門付近に超大型巨人出現! 壁面破壊の可能性あり! 駐屯兵団所属予定者は補給と避難誘導の補助に回る!」
超大型巨人。
やっぱり来た。
スバルの胃が冷たくなる。
知っていたはずなのに、言葉として現実へ叩きつけられると違う。あの顔。あの蒸気。あの蹴り。シガンシナの記憶が一瞬で喉まで競り上がる。
「顔色悪いぞ」
マルコが低く言った。
「元からだよ」
反射で返したが、声が掠れていた。
マルコはそれ以上は言わない。だが目は少しだけ鋭い。見ている。いつも通り、人の崩れ方を。
駐屯兵団側へ組み込まれた新兵たちは、正式な兵士に混ざって即席の役割を与えられていく。水、予備刃、ガス補充、避難誘導、負傷者搬送、連絡伝達。
スバルは“補給補助班”へ回された。
「お前、声が通るか」
隊員に聞かれる。
「たぶん!」
「なら命令の伝達もやれ! 荷も運べ!」
「雑な人材活用だな!」
「今は全部雑だ!!」
ごもっともだった。
マルコも同じ班に入れられた。ジャンとライナーは別の誘導補助へ。ベルトルトは補給列の後方整理。
細かくバラける。
物語が進む時ってのは、たぶんこういう感じなんだろうなとスバルは場違いに思った。
さっきまで固まっていた主要人物たちが、一気に配置につく。
誰がどこに行くかで、次の展開が変わる。
そしてその分かれ方は、本人の感情とは無関係に、立場と役割で決まる。
トロスト区の内側へ入る道は、すでに避難民と兵士で溢れ始めていた。鐘は鳴り続け、蒸気の匂いが遠くから風に混じってくる。
嫌な匂いだ。
熱い鉄と、生っぽい湿気が混ざったような。
シガンシナの時と同じだった。
「う、わ……」
思わず漏れる。
まだ巨人を見ていない。見ていないのに、記憶だけで足が少し止まりかける。
「スバル!」
マルコが呼ぶ。
はっとして前を向く。荷車を押す。補給箱を運ぶ。声を飛ばす。
「道空けろ! 兵通すぞ!」
「そこの列、詰めろ!」
「走るな! 押すな!」
やることはある。
やることがあるうちは、まだ保てる。
トロスト区外縁の仮補給所に着いたとき、ようやく最初の被害兵が運び込まれてきた。
足をやられている。血が多い。顔は青いが、まだ生きている。
「ガス! 予備ガス!!」
「医療班呼べ!!」
「次だ、次を運べ!!」
スバルは箱を運びながら、やけに冷静な自分に気づいた。
シガンシナよりは、冷静だ。
理由は分かる。
一度死んだからじゃない。
訓練兵団を経たからだ。
怒鳴られ、走り、装置を扱い、恐怖の中で止まらないことを少しだけ覚えた。その積み重ねが、いまギリギリで自分を保たせている。
訓練兵編は、無駄じゃなかった。
その事実が、こんな最悪の形で証明されるのは皮肉だった。
そこへ、一人の駐屯兵が駆け込んでくる。
「南壁に穴は空いていない! だが超大型出現後、蒸気と混乱で視認不能! 前衛班の一部が孤立!」
スバルの心臓が跳ねる。
穴は空いていない。
そこは違うのか。
いや、まだ分からない。トロスト区の展開は細部が曖昧だ。知識の断片だけで未来を断定するのは危険だと、シガンシナで学んだはずだ。
だが、“前衛班が孤立”という一言に別の意味で背筋が冷える。
エレンたちだ。
調査兵団志望の新兵たちは、たぶん前線寄りに回される。
アルミンも、ミカサも、エレンも。
「顔、また死んでるぞ」
マルコが横で言った。
「仕様だよ」
「便利な言葉だね」
「便利じゃない、現実だ」
返しながらも、スバルは荷を持つ手に力を入れる。
いま自分が行くべき場所は前線じゃない。
分かっている。
分かっているからこそ、余計に嫌だった。
自分だけが一歩後ろにいる感じがする。訓練兵編では並んでいたはずなのに、本番が始まった瞬間、立つ位置の違いが露骨になる。
それが正しい。
だが、正しいことと、納得できることは違う。
補給所の外で、また鐘が鳴る。
兵の怒号。遠くの爆音。蒸気。負傷兵の増加。
時間が流れる。
一分が長いのに、気づけば次の箱を運び、次の命令を伝えている。
その繰り返しの中で、ふいに見知った顔が飛び込んできた。
「ジャン!」
スバルが叫ぶ。
ジャンは息を切らし、顔に煤をつけたまま走ってくる。
「ガスだ! 予備二本!」
「今出す!」
いつもの嫌味を言う暇もない。スバルは即座に箱を開け、予備ガスを引っ張り出す。マルコが別の補給兵へ声を飛ばし、ジャンが受け取る。
その一瞬、ジャンが低く言った。
「エレン班が前に出てる」
心臓が嫌な形で跳ねる。
「は?」
「南側だ。散開してる。ミカサは見た。アルミンもたぶん生きてる」
「たぶんって何だよ」
「ごちゃついてんだよ!」
ジャンが噛みつくように返す。
「全部見えるか!」
正論だった。
だがその“たぶん”が、スバルの胃を掴む。
「っ……」
「おい」
ジャンが眉をひそめる。
「そこで顔変えんな。こっちまで気持ち悪くなる」
「言い方が最悪だなお前!」
「余裕ないんだよ!」
「知ってる!」
そのままジャンは駆け戻る。
補給所の空気はさらに騒がしくなる。誰がどこにいるのか、断片的な情報だけが飛び交う。巨人の位置、補給の不足、孤立、避難民の流れ。
全部が曖昧で、だからこそ一番怖い。
スバルは拳を握る。
前線じゃない。
でも、完全に蚊帳の外でもない。
ここにいるから届く情報がある。ここにいるから動かせるものがある。訓練兵編で自分が得たのは、たぶん“最前線の英雄力”ではない。こういう混乱の中で、立場に応じて噛みついていくしぶとさだ。
だったら。
だったら、ここでやるしかない。
スバルは顔を上げた。
「マルコ」
「うん」
「前線への補給経路、今どこが一番詰まってる」
マルコが一瞬こちらを見る。
それから少しだけ笑う。
「ようやくその顔になった」
「何だよそれ」
「いつもの、食らいつく時の顔」
そう言いながら、マルコは地図代わりの簡易板を指した。
「南側の主路は混雑。東脇道はまだ使える。でも人手が足りない」
スバルは頷く。
「じゃあそこだ」
訓練兵編は終わった。
終わったあとの自分が何をやるか。
その答えを、トロスト区の混乱がもう要求し始めていた。