東脇道は、まだ崩れていなかった。
だからこそ危ない、とスバルは思った。
主路が詰まれば、人は必ず「空いてる方」へ流れる。今はまだ使える。だが、使えると気づかれた瞬間に、そこも潰れる。補給路というのは、空いている間しか価値がない。
「三箱持つ! 残りは後ろから回せ!」
スバルが怒鳴る。
自分でも、少し前までの訓練兵の声じゃないなと思った。訓練場で怒鳴られ続けたせいか、叫ぶべき時の喉の使い方だけは覚えてしまったらしい。
「持てるのか」
マルコが聞く。
「持てなかったら途中で恥かくだけだ!」
「それ前向きかな」
「前向きじゃなくても行くんだよ!」
結局、三箱は無理だった。二箱で限界だ。重い。ガスの容器と予備刃を詰めた木箱は、腕に食い込むような重さで、走るたびに肩へ痛みが響く。
だが止まらない。
東脇道は狭い。建物の影が多く、視界も悪い。避難民の流れはまだ薄いが、兵や補給係が行き交い始めている。
「道空けろ! 補給通す!」
スバルが叫ぶ。
後ろでマルコも声を張る。
「南前線向け! 詰まる前に抜ける!」
この男、こういう時に“言葉を必要な長さにする”のがうまい。スバルみたいに勢いだけで叫ばない。ちゃんと相手に意味が届く。
途中、路地の角で負傷兵を運ぶ担架隊とぶつかりかけた。
「待て!」
「そっち下げろ!」
「いやこっち補給――」
一瞬の混線。
スバルの背中に冷たいものが走る。こういう一瞬が、一番怖い。誰も間違っていないのに、道が一つしかない。
「担架が先!」
マルコが即断した。
スバルは舌打ちを飲み込み、壁際へ身を寄せる。担架が通る。足を失った兵の顔が、白い布の上で蝋みたいに青い。
「……っ」
目を逸らしかけて、逸らさない。
ここで逸らしたら、次に自分が何を運んでいるのかまで曖昧になる気がした。
担架が過ぎる。
「行くぞ」
マルコ。
「ああ」
さらに進む。
角を二つ曲がったあたりで、ようやく補給待機の駐屯兵が見えた。数人。顔色は悪い。ガス切れ寸前らしく、立体機動装置の音も減っている。
「持ってきた!」
スバルが叫ぶ。
「遅ぇ!」
兵の一人が怒鳴り返す。
「知るか、こっちだって最短で来てんだよ!」
本気で言い返してから、いま相手が誰か気づいた。兵だ。だが兵もそこを気にしている余裕はない。箱をひったくるように開ける。
「次はもっと持ってこい! 南路が死んでる!」
「どのあたりだ!」
マルコが聞く。
「第三補給点の手前! 避難民が流れ込んでる! あと新兵が散ってる、統制が効いてねぇ!」
スバルの胸が嫌な音を立てる。
新兵が散ってる。
つまり、エレンたちのような連中が“班”の形を失い始めているということだ。
まずい。
それは知っている流れに近い。
断片だけだ。だが、断片で十分に嫌な予感がする。
「マルコ」
「うん」
「第三補給点まで行けるか」
「補給係の持ち場を越える」
「知ってる。でも」
「でも、行きたいんだろ」
スバルは息を呑む。
マルコは一瞬だけ、困ったように笑った。
「君って、そういう時は分かりやすい」
「便利に使うなよその評価」
「使ってない。確認してるだけ」
だが、マルコも迷っている顔ではなかった。よくないな、とスバルは思う。こいつは自分よりずっと“間に立つ側”の人間だ。そういうやつが、危ない場所へ自然に足を向けるのは、すごくよくない。
「行くぞ」
スバルが言う。
「うん」
二人でまた箱を抱え直す。
来た道を戻るのではない。さらに南へ、より前線に近い脇道へ入る。補給係の持ち場を越えるのは本来違反に近いだろう。だが、ここで正規のルートだけ守っていても間に合わないものがある。
そういう判断を、スバルはもう一度してしまった。
脇道の先では、空気そのものが違っていた。
熱い。
蒸気が流れてきている。遠くで巨人の声とも風ともつかない響きがある。建物の影が不自然に壊れ、瓦礫が散っている。ここから先は、訓練でも補助でもない。実戦の端だ。
「……やばいな」
スバルが言う。
「うん」
マルコも短く返す。
だが引き返さない。
第三補給点は、半ば崩れていた。仮置きの木箱が散乱し、兵が二人、怒鳴りながら不足分を数えている。
「補給だ!」
マルコが叫ぶ。
兵たちが振り向く。驚きと安堵が一緒になった顔だ。
「どっから来た!」
「東脇道!」
「使えたのか!?」
「今はまだ!」
箱を渡す。兵が開ける。予備ガス、刃、最低限の備品。足りないが、ゼロよりましだ。
「前線は?」
スバルが聞く。
兵は一瞬だけ迷い、それから吐き捨てた。
「南の補給班が食われた。新兵が散った。ガス切れで戻れないやつも出てる」
食われた。
その単語が、喉に鉄みたいに引っかかる。
「班名は?」
マルコが聞く。
「知らん! ごちゃついてんだよ!」
当然だ。こんな状況で全員の名前なんか把握しきれるはずがない。
だが、その“知らん”が一番きつい。
誰が無事で、誰が死んだのか分からない。分からないから、最悪の想像がいくらでもできる。
そこへ、別の兵が斜面の向こうから滑り込むように戻ってきた。顔が血だらけだ。自分の血かどうかも怪しい。
「ガス! 予備ガス!」
「ここだ!」
「南東屋根上、新兵三人孤立! 一人はアッカーマンだ!」
ミカサ。
スバルの心臓が跳ねる。
兵は続ける。
「もう二人は……一人はアルレルト、もう一人は――」
一瞬、言葉が詰まる。
「イェーガーか?」
スバルがほとんど叫ぶように聞く。
「違う! トーマスだ!」
少しだけ、ほんの少しだけ、肺に空気が入る。
違う。
だが同時に、トーマスは孤立している。アルミンとミカサもだ。全然よくない。
「イェーガーは?」
スバル。
「知らん! 別班が前に出てる!」
またそれだ。
知らない。
分からない。
この“分からない”が一番人を削る。
マルコがすぐに判断する。
「南東屋根上の位置、分かる?」
「鐘楼の陰だ! だが巨人が二体回ってる!」
「前衛に伝える!」
マルコが言う。
兵が頷き、別の隊員へ情報を飛ばす。
スバルはそこで、自分が一歩前へ出ていることに気づいた。
行くか。
行けるか。
ミカサとアルミンがいる。トーマスも。もしかしたら、その先にエレンだっている。
でも自分は補給係だ。ここで勝手に前へ出れば、ただの新兵の暴走だ。しかもマルコまで巻き込む。
「……くそ」
喉の奥で言う。
前に行けるやつと、行けないやつがいる。
前に行けないやつの戦い方を、自分は今やっている。
それを訓練兵編で散々覚えたはずなのに、いざ“大事なやつら”の名が出ると、全部が揺らぐ。
マルコが低く言った。
「スバル」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって言ってんだろ」
声が少し荒くなる。
マルコはそれでも冷静だった。
「今ここで君が飛び出すと、届けられる補給が減る」
「分かってる」
「それでミカサたちが助かる保証はない」
「分かってる!」
「でも、ここで回した補給が別の兵を動かす可能性はある」
正しい。正しすぎて腹が立つ。
スバルは拳を握った。
行きたい。けど行けない。
この“行けない”を選ぶのが、自分の今の役割だ。
理屈では分かる。
感情が追いつかないだけだ。
「……次、どこだ」
スバルが聞いた。
兵が即答する。
「北寄りの路地! まだ詰まってない! そこから迂回で第四補給点へ繋げる!」
「行くぞ」
スバルが言う。
マルコは短く頷いた。
その時、遠くの屋根の向こうで、蒸気が噴き上がった。
超大型巨人の位置か、あるいは別の爆発か。分からない。だが、その蒸気の向こうに、誰かの叫び声が一瞬だけ混じった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいにしたくない声だった。
スバルは歯を食いしばり、箱を抱え直した。
訓練兵編は終わった。
その先で自分が選んだ“駐屯兵団として残る”という道は、こういう形で試される。
英雄にはなれない。
前線で巨人を斬り倒すわけでもない。
でも、ここで補給を途切れさせないことが、誰かの生存に繋がる。
たぶんそれが、自分のいまの戦い方だ。
北寄りの路地へ向かって走り出した時、スバルはようやく少しだけ、訓練兵時代の積み重ねが“過去”になった感覚を持った。
あれは前置きだった。
ここから先は、前置きで覚えたことを、全部使い切るしかない。