北寄りの路地は、まだ息をしていた。
東脇道より広い。だが、そのぶん避難民が流れ込み始めている。女が子どもの腕を引き、兵が怒鳴り、荷車が道を塞ぎかけ、誰も全体を見られていない。
「そこ空けろ! 補給通す!」
スバルが叫ぶ。
もう喉は限界に近い。だが止めない。止めたら道が死ぬ。
マルコが前へ出て、人の流れを割る。
「脇へ! 今ここを塞ぐと前線が止まる!」
言い方がうまい。自分の都合ではなく、“お前たちも困る”で動かす。避難民の何人かが嫌そうな顔をしながらも道を空ける。兵士でもない新兵二人に従う義理なんてない。だが、こういう時は声と勢いが理屈に勝つ。
走る。
第四補給点へ。
途中、屋根の上を立体機動装置の兵が横切った。ガス噴射の音、刃の軋み、遠い悲鳴。全部が近い。
「スバル」
マルコが短く呼ぶ。
「何」
「次、右の角はゆっくり。瓦礫で足場が悪い」
「了解」
指示が短い。必要十分。こういう時のマルコは本当に助かる。助かるからこそ、嫌な予感も強くなる。こいつ、こういう最前線寄りの混乱の中であまりにも“必要なやつ”だ。
右角を曲がる。
瓦礫。
崩れた木片。
血。
第四補給点は半分壊れていた。だが、人はいた。兵も、新兵も、負傷者も。
「補給!」
マルコが叫ぶ。
隊員が振り向く。
「遅い!」
「知ってる!」
スバルが返す。
もはやこういう会話しかできない。
箱を渡す。刃を配る。ガスを繋ぐ。隊員が叫ぶ。
「南東屋根上、まだ回収できてない! 機動兵二名と新兵複数!」
「複数!?」
スバルが聞き返す。
「アッカーマンは動いてる! 他が足引っ張ってる!」
ミカサは動いてる。
それだけで、少しだけ現実味が戻る。ミカサが動いてるなら、完全な詰みではない。だが、その周りが崩れているということだ。
「前衛は?」
マルコ。
「手が回らん! 巨人が散ってる!」
その返答を聞いた瞬間、スバルの中で何かが決まった。
補給は届いた。
ここまではやった。
次だ。
「マルコ」
「うん」
「俺、南東行く」
「だめ」
即答だった。
早い。迷いがない。
「いや待て」
「待たない。君は前線兵じゃない」
「でもミカサとアルミンが」
「知ってる。でも、君一人で行って何ができる?」
それが一番痛い。
何ができる。
前線の戦闘力はない。立体機動も上位じゃない。近接も強くない。行っても足手まといになる可能性は高い。
だが。
「何かはできるだろ」
スバルは言った。
「それ、いままで全部そうしてきた」
マルコが一瞬だけ黙る。
その沈黙の間に、別の声が割り込んだ。
「じゃあ二人で行け」
ライナーだった。
いつの間にか第四補給点に来ていた。顔に煤と血がついている。だが立っている。兵士みたいな顔で。
「ライナー」
「俺とベルトルトは別路から南東へ回る。補給路の穴を埋めながらな」
ベルトルトも後ろにいた。息は荒いが、表情はまだ崩れていない。
「お前ら」
スバルが言う。
「駐屯兵団側だろ」
「今はそれどころじゃない」
ライナーが切って捨てる。
その通りだった。
「マルコ、お前はここに残れ」
ライナーが続ける。
「お前がいると補給点が回る」
マルコが眉をひそめる。
「スバルだけ行かせるの?」
「一人じゃない。俺たちがつく」
ライナーはスバルを見た。
「お前は前線兵じゃない。だが、声が出る。状況判断も最低限できる。だったら、散った新兵をまとめる役くらいはできるだろ」
スバルの喉が詰まる。
英雄になれる、とは言われない。
戦える、とも言われない。
だが、“まとめる役くらいはできる”と言われた。
それは、訓練兵編を通ってきた自分に対する、たぶん一番現実的で、一番信用のある評価だった。
「……行く」
スバルが言う。
マルコが息を吐く。
「なら、戻ってこい」
短い言葉だった。
でも、その言い方は“無理ならやめろ”ではなく、“役割を終えて帰ってこい”だった。
スバルは頷く。
ライナー、ベルトルト、スバル。
三人で第四補給点を離れる。
南東屋根上へ。
そこから先は、もう補給路ではなく、完全に戦場の縁だった。
路地を抜ける。
巨人の影が建物の向こうを横切る。
兵の死体がある。
いや、死体かどうか確認する余裕もない。確認したくもない。止まれば終わる。
「上だ」
ベルトルトが言う。
鐘楼の影。屋根の高低差。そこに、立体機動装置のワイヤーが何本も絡んでいた。誰かが急いで移動し、迷い、何度も打ち込んだ跡だ。
そして、見えた。
ミカサ。
動いている。まだ。屋根の端で、二人の新兵を無理やり引っ張りながら位置を変えている。その一人はアルミンだ。もう一人はトーマス。顔が死にかけている。
「アルミン!」
スバルが叫ぶ。
アルミンが振り向く。目を見開く。
「スバル!?」
その瞬間、別方向から巨人が一体、通りを曲がって現れた。
近い。
「散れ!」
ライナーが怒鳴る。
ベルトルトが即座に高い位置へアンカーを打つ。スバルも反射で続く。屋根へ。滑る。着地。ミスるな。いまミスったら終わる。
巨人が屋根下の通りへ腕を伸ばす。ミカサたちはぎりぎりで動く。だがトーマスが遅い。
「トーマス!」
アルミンが叫ぶ。
スバルはそこで、自分が何をすべきかを一瞬だけ見失った。
斬れない。
倒せない。
なら何だ。
その一拍の間に、ライナーが動いた。真正面から巨人の注意を引くようにワイヤーを打ち込み、低く通り過ぎる。ベルトルトが上から牽制する。
「いま動け!」
ライナーの声。
それでようやく、スバルは喉を開いた。
「アルミン、左の棟だ! ミカサ、そのまま飛べ! トーマス、見るな、動け!!」
声が、思ったより通る。
ミカサはもう動いていた。アルミンも。トーマスは半歩遅れる。だが今度は、遅れても動いた。訓練の癖がまだ残っているのだろう。恐怖で止まりきる前に、体だけが飛ぶ。
全員が隣棟へ滑り込む。
巨人の手が屋根瓦を砕く。
「っ、あぶな……!」
スバルが呻く。
「終わってない」
ミカサが短く言う。
見れば、通りの先にもう一体いた。
最悪だ。
「どうする」
ベルトルトが言う。
ライナーが即答する。
「二手に割る。ミカサ、アルミン、トーマスを連れて西へ。俺とベルトルトで一体引く」
「もう一体は」
スバルが聞く。
「お前が声で誘導しろ」
ライナーが言う。
「前に出るな。道だけ作れ」
できるのか。
いや、やるしかない。
ミカサがアルミンの腕を掴み、トーマスを睨む。
「動いて」
それだけで、トーマスは震えながら頷く。
「スバル」
アルミンが言う。
「死なないで」
その言い方が妙に真っ直ぐで、スバルは一瞬だけ笑いそうになった。
「お前、それ俺に言う?」
「今、言いたいから」
「……分かったよ」
ライナーとベルトルトが散る。巨人の視線が分かれる。
スバルは屋根の端へ出て、通りの角度を見た。
道はある。
狭い。危ない。だが、ゼロじゃない。
「こっちだ!」
スバルが叫ぶ。
巨人へ向けてではない。アルミンたちへ向けてだ。ここを通れ。ここならまだ落ちない。ここならまだ生き延びる。
前に行けないやつの戦い方。
それは、たぶんこういうことだ。
斬れなくても、倒せなくても、道は作れる。
その事実に気づいた瞬間、スバルは初めて、訓練兵編の延長ではない“自分の戦い方”を掴みかけた。