「こっちだ! 屋根の段差、二つ目は飛ばすな!」
スバルの声が、南東の屋根伝いに裂ける。
ミカサが先頭で動く。アルミンが続く。トーマスは半拍遅れるが、今回は止まらない。止まれないのかもしれない。恐怖で顔は死んでいるのに、足だけは訓練の形を守ろうとしていた。
下では巨人が二体、別方向へ引っ張られている。
ライナーが一体の注意を引き、ベルトルトが高所から角度を変えて時間を稼ぐ。長くはもたない。稼げるのは、せいぜい数秒単位だ。
「アルミン、次の棟の裏側!」
「分かった!」
「トーマス、下見るな! 木箱だけ見ろ!」
スバルは自分でも驚くほど喉が回っていた。
目の前の道を言葉にして渡す。
それしかできない。だが、それで繋がる命がある。
トーマスが最後の段差で足を滑らせかけた瞬間、ミカサが振り返りざまに腕を掴んだ。掴んで、そのまま引きずるように前へ持っていく。人間を荷物みたいに扱える腕力が、こういう時はただひたすらありがたい。
「西へ抜ける!」
アルミンが叫ぶ。
「この先、細い路地に降りれば補給路へ戻れる!」
さすがだ、とスバルは一瞬思う。こういう極限で、まだ地形を見てる。
「行け!」
スバルが怒鳴る。
三人が屋根の陰へ消える。
少なくとも、ひとまず生存圏へ向かった。
そこでようやく、自分がまだ屋根の端に立っていることを思い出す。
終わってない。
下の通りでは、ライナーが巨人の腕をぎりぎりで避けながら別の屋根へ飛び、ベルトルトが逆方向から牽制している。二人ともまだ生きている。だが、このままではいつか掴まれる。
「スバル!」
ライナーが叫ぶ。
「下がれ!」
「お前らは!?」
「あとで合流する!」
その“あと”が信用できるほど、スバルはこの世界に甘くなれない。
だが、ここで自分が残っても何もできないのも事実だ。
歯を食いしばり、スバルは最後にもう一度だけ通りを見た。巨人の位置。路地の抜け。西方向の屋根の低さ。全部を無理やり頭へ入れる。
戻る道を持て。
前線に来たなら、それくらいは掴め。
そう自分へ言い聞かせて、スバルは西へ飛んだ。
屋根の角を二つ越え、低い棟へ降りる。足が痺れる。だが止まらない。細い路地へ飛び込み、そのまま駆ける。
そこにいた。
ミカサ、アルミン、トーマス。
トーマスは壁にもたれて座り込み、呼吸が壊れかけている。アルミンも顔色は最悪だ。ミカサだけが、まだ前を向いている。
「ライナーたちは」
アルミンが聞く。
「生きてる」
スバルが即答する。
「たぶん」
「たぶんって何だよ……」
トーマスが掠れた声を漏らす。
「今の状況で断言できるほうが怖ぇだろ!」
言い返しながらも、スバルの視線は路地の先を見ていた。
補給路まで戻るには、あと二つ角を曲がる必要がある。そこが問題だ。問題なのに、立ち止まる時間はない。
「動けるか」
ミカサがトーマスに聞く。
トーマスは震えながら頷こうとして、失敗したみたいに首を半端に揺らした。
「……無理、かも」
スバルの胃が冷える。
ここで“無理かも”は最悪だ。だが責められない。さっきまで食われる寸前だった人間に、即立ては酷だ。
「立って」
ミカサが言う。
「無理なら引っ張る」
相変わらず雑で強い。
トーマスはそれでも動かなかった。動けない。目が揺れている。呼吸が浅い。完全に恐慌の縁だ。
スバルはそこで、ふとダズの顔を思い出した。
折れるやつは、音がしない。
いま、トーマスはその一歩手前にいる。
「トーマス」
アルミンがしゃがみ込む。
「聞いて。ここで止まると、本当に終わる」
優しい言い方じゃない。優しくしてどうにかなる段階を越えているからだ。
「次の角まででいい。そこまで行ったら、また止まっていい。だからまず一回だけ立って」
アルミンの声は震えていた。だが、ちゃんと相手の耳に届く声だった。
トーマスの喉が動く。
そこでスバルも割り込む。
「一回でいい。立て。次の角まで行ったら、俺が文句言いながらでも引っ張ってやる」
「文句、言うのかよ……」
トーマスがかすかに返す。
「言うよ。お前めちゃくちゃ手間かかるし」
ほんの少しだけ、トーマスの目に人間っぽさが戻る。
よし。
ミカサが腕を掴み、アルミンが肩を支える。スバルが先に立って角を確認する。
「今だ。来い!」
動く。
よろける。だが動く。
角を一つ曲がる。
その瞬間、向こうから兵が二人駆け込んできた。駐屯兵だ。血まみれだが立っている。
「新兵!? 生きてたのか!」
「補給路へ戻る!」
スバルが叫ぶ。
「南東屋根上はまだ巨人いる! ライナーとベルトルトが引いてる!」
兵の顔色が変わる。
「本当か!?」
「本当だよ!」
駐屯兵の一人がすぐに相方へ言う。
「伝令! 南東、回収班要請!」
「お前らは?」
「第四補給点へ戻れ! そこがまだ生きてる!」
生きてる。
補給点に対して使う言葉じゃないのに、妙にしっくりくる。
「行くぞ!」
スバルが言う。
今度は二人の駐屯兵が前後についた。これで少しだけ空気が違う。少なくとも、“ただの散った新兵”ではなくなった。
補給点へ戻るまでの道のりは短かった。
短かったのに、やけに長く感じた。途中で何度も蒸気が見え、屋根の向こうで何かが壊れる音がした。巨人の気配は姿がなくてもわかる。街そのものが、そいつらに合わせて軋む。
第四補給点へ戻った時、マルコが真っ先にこちらを見つけた。
「スバル!」
「ああ、戻った!」
「ライナーとベルトルトは!?」
「まだ向こう! でも生きてた!」
その返答を聞いた瞬間、マルコの肩が一度だけ落ちた。
ほんの一瞬だった。だが確かに、安堵した。
その顔を見て、スバルはまた嫌な感じがした。
こいつは人の無事に安堵しすぎる。
そういうやつは危ない。
だが、その嫌な予感を言語化する暇はない。
第四補給点の状況はさらに悪化していた。負傷兵が増え、補給は減り、兵の顔から余裕が消えている。
「こいつらを医療へ!」
マルコがトーマスたちを指す。
「アルミンも顔色やばい!」
「俺は大丈夫……!」
アルミンが言い返しかけて、すぐ咳き込む。
「大丈夫じゃないやつのテンプレ反応だな」
スバルが言うと、アルミンは睨み返す元気もない顔で息を整えた。
そこへ、また別の伝令が滑り込む。
「南前線一時後退! 補給班も位置を下げろ!」
「何だと!?」
「ガス切れが多い! 新兵の損耗も出てる!」
損耗。
その言葉で、補給点の空気が一段冷えた。
死傷者、とはまだ言わない。だがほとんど同じ意味だ。
スバルは歯を噛む。
まだ始まったばかりだろ。
なのに、もうそんな言葉が飛ぶ。
マルコが地図板を見て、兵に食い下がる。
「下げるならどこまで!? 第四点を潰すと東側の戻りが切れる!」
「知るか、上の命令だ! 南の新兵を回収しろって話も出てる!」
「新兵?」
スバルが反射で聞く。
「第34班、第208班、散開後に行方不明!」
班番号で言われても、一瞬では分からない。
だが次の一言で、血が冷えた。
「イェーガーのいた班だ!」
世界の音が、一瞬だけ遠くなった。
スバルの頭の中で、訓練兵団の寝所、喧嘩、補給、装置、エレンの顔、アルミンの声、ミカサの赤い巻物、全部がばらばらに弾ける。
「……は?」
声が出たかどうか分からない。
兵は続ける。
「確定じゃない! だが位置が被ってる! 南側の崩壊で班が千切れた!」
マルコが何か言った。ライナーたちの件がどうとか、回収班がどうとか。だがスバルには半分しか入ってこない。
行方不明。
それは、この世界では死と限りなく近い言葉だ。
ミカサとアルミンは戻った。だがエレンは。
エレンはまだ、そっちにいたのか。
スバルは足を一歩出した。
「どこだ」
自分でも驚くほど低い声が出る。
「最後に見た位置、詳しく言え」
兵がこちらを見る。新兵が何を、という顔だ。
だが、マルコが横から言った。
「言って。こいつ、補給路を知ってる」
兵は舌打ちしたが、急いで地図板を叩く。
「南壁寄り、第七街区から内側へ折れたあたりだ。ガス切れが多く、回収班も接敵中」
第七街区。
スバルの中で、何かがはっきり切り替わる。
前に行けないやつの戦い方。
それをさっき見つけたばかりだった。
だが今は、前に行くしかない場所がある。
「マルコ」
スバルが言う。
「止めるなら今のうちだ」
マルコは一瞬だけ沈黙し、それから、疲れたのに妙に澄んだ顔で言った。
「止めない」
「……いいのかよ」
「よくない。でも、君はもう行く顔してる」
スバルは苦く笑った。
そうかもしれない。
「ただし、一人では行かせない」
マルコが続ける。
「僕も行く」
やっぱり最悪だ、と思った。
こいつはそういうやつだ。
でも、その最悪さに救われる自分もいる。
第四補給点の喧騒の中、スバルとマルコは互いの装置を確認し、予備ガスを最低限だけ背負い直した。
補給係から、回収側へ。
駐屯兵団の役割から、ほとんど調査兵団じみた危険地帯へ。
物語はもう、完全に次の段階へ進んでいた。