第七街区へ向かう途中、スバルは一度も後ろを振り返らなかった。
振り返れば、第四補給点の“まだ後戻りできる場所”が見えてしまう気がしたからだ。見えたら迷う。迷ったら遅れる。遅れた先で、誰かが本当に死ぬ。
だから前だけ見た。
マルコが半歩先を飛ぶ。高すぎず、低すぎず。屋根の縁、煙の流れ、巨人の影。全部を見ながら進路を取る。スバルはその少し後ろを食らいつく。装置の重みも、喉の痛みも、もう意識から追い出した。
「第七街区、入る!」
マルコが叫ぶ。
景色が変わる。
建物の密度が下がり、通りが少し広い。その分、巨人の動線も通っている。瓦礫が多い。壊れた屋根、裂けた壁、投げ捨てられた装備。実戦の痕跡が濃い。
そして、兵の死体が増える。
「……っ」
スバルは一瞬だけ視線を逸らしかけて、やめた。
見ろ。
見ないと、自分がどこへ飛び込んでいるのか分からなくなる。
「右から行く」
マルコが言う。
「主路は死んでる」
「了解」
二人で細い路地へ滑り込む。
そこで初めて、生きている兵と遭遇した。駐屯兵だ。顔が血だらけで、片腕がぶら下がっている。それでもまだ装置をつけていた。
「おい! 新兵か!?」
「はい!」
マルコが返す。
「イェーガー班の位置、知りませんか!」
兵は一瞬だけ迷い、それから路地の先を指した。
「南の広場! だがもう散ってる! ガス切れだ、戻れなくなった連中が――」
最後まで聞かずに、スバルの体が前へ出た。
「スバル!」
マルコが呼ぶ。
止まる。ギリギリで止まる。
危ない。
こういう一拍だ。訓練兵編で散々矯正されたのは。情報を聞いて、すぐに飛び出すな。全部を聞け。生き残る道順を持て。
スバルは歯を食いしばる。
「……続きを」
兵に言う。
兵は肩で息をしながら続けた。
「南広場の補給が潰れた。新兵がそこへ集まって、巨人に囲まれた。何人かは北の屋根へ逃げたが、残りは知らん」
「巨人の数は」
マルコ。
「三、いや四……動いてるから確定できん」
最悪だ。
「ありがとう」
マルコが言う。
「医療班へ戻れますか」
「戻るしかねぇだろ……!」
兵はふらつきながら去る。
スバルは息を吸う。
「南広場」
「うん」
「四体」
「うん」
「最悪だな」
「うん」
マルコの返しが短い。短い時ほど本気でまずい時だと、もう分かる。
二人は再び飛ぶ。
南広場が見えた瞬間、スバルは思わず屋根の端で止まりかけた。
広い空間だった。
その広さがそのまま地獄になっていた。
瓦礫。倒れた荷車。血。壊れた補給箱。散らばった刃。巨人が三体、いや四体、広場と周囲の通りをうろついている。完全に制圧されていた。
「……うわ」
掠れた声が漏れる。
その広場の北側屋根に、新兵が数人、張り付くように身を寄せていた。ガス切れか、足を止めている。距離がある。顔までは見えない。
「イェーガー班か」
スバルが言う。
「分からない」
マルコが目を細める。
「でも、生きてるのはあそこだ」
その時、広場の西側路地から一体の巨人が顔を出した。新たに一体。これで四体目がはっきりした。
「増えたな」
スバル。
「最悪」
マルコ。
屋根の上の新兵たちが、明らかに動揺しているのが見える。そりゃそうだ。逃げ道が減った。
スバルは広場を見回した。
前に出て斬れるわけじゃない。
じゃあ何だ。
道を作る。
それしかない。
「マルコ」
「うん」
「北屋根から東の棟へ渡れれば、まだ路地に落ちずに抜けられる」
「途中の棟が低い」
「そこをどうにかする」
「どうやって」
スバルは少し黙った。
それから、広場の端に転がった荷車を見る。大きい。壊れてはいるが、屋根際に寄せれば足場になるかもしれない。もちろん、自分たちで押せるような場所じゃない。だが、巨人の注意を少しでもそらせれば、上の新兵が自力で飛べる時間が作れる。
「声」
スバルが言う。
「またそれ?」
マルコ。
「またそれだよ」
スバルは唇を噛む。
「俺たちが左右に分かれて、巨人の視線を散らす。その間に屋根の連中を動かす」
「危険すぎる」
「知ってる」
「下手したらこっちが食われる」
「知ってる!」
少し声が荒くなる。
だが、他に答えがない。
マルコは数秒だけ考えて、それから言った。
「なら、左右じゃなく高低差を使う」
スバルが見る。
「僕が高い位置から声を飛ばして、新兵を誘導する。君は低い棟を回って、広場東側の巨人を少しだけ引け」
「俺が囮?」
「囮というより、角度を変える役」
「言い方変えても危険度変わってねぇよ」
「でも君、ああいう時の声量はある」
またそれだ。
だが、否定できない。
「……分かった」
スバルが言う。
「ただし、やばかったらすぐ引く」
「うん」
「絶対だぞ」
「それ、君にも言ってるから」
二人で散る。
マルコが高い棟へ上がる。スバルは低い棟を伝い、広場の東側へ回る。巨人の死角を使う。使っているつもりでも、途中で足が震える。下を見れば終わる。だから見ない。次の瓦。次の木材。次の着地点。
位置についた。
広場の東端。瓦礫の上。巨人二体の側面。
深呼吸。
喉が痛い。
でも叫ぶ。
「北屋根の新兵!! 東へ飛べ!!」
声が広場を裂く。
巨人の首が、一斉にではないが、少し動く。
屋根の上の新兵たちもこちらを見る。顔はまだ見えない。だが一人、前へ出る。動こうとしている。
「今だ! 止まるな!」
マルコの声が高所から飛ぶ。
「二つ目の棟まで一直線!」
いい声だ。
こういう時、マルコの声は妙に人を動かす。
屋根上の一人が飛ぶ。続く。三人。四人。
その瞬間、広場中央の巨人がそちらへ向いた。
「っ、やば……!」
スバルは咄嗟に足元の瓦礫を蹴り上げる。石片が巨人の顔をかすめる。
「こっちだ!!」
叫ぶ。
巨人の首が今度はこちらへ向く。
近い。
うわ、近い。
シガンシナの時と同じ感覚が、首筋を這い上がる。
逃げろ。
でも、一拍だけ、まだ持たせろ。
「まだ一人いる!」
マルコが叫ぶ。
北屋根の端に、最後の一人がいた。動けていない。腰が引けている。ガス切れか、恐慌か、両方か。
「飛べ!」
スバルが叫ぶ。
「今飛ばなきゃ死ぬ!」
最後の一人がようやく動く。
飛んだ。
その一瞬、広場の巨人が前へ出る。
「やばい!」
スバルは反転した。
屋根の縁を蹴る。アンカーを打つ。少し浅い。嫌な感触。だが持った。ガス。飛ぶ。背後で巨人の手が瓦を砕く音。
生きてるか。
生きてる。
屋根二つ先で着地し、振り返る。
北屋根の新兵たちは、全員東棟へ渡っていた。マルコも移動している。広場の巨人たちの視線は分散した。完全ではない。だが、“一箇所に固まって終わる”状況は崩れた。
「っ、は……!」
スバルが息を吐く。
まだだ。
ここから路地へ落とし、補給路へ戻さないと意味がない。
「マルコ!」
「聞こえる!」
「人数!」
「五!」
五人。
多い。だが、まだ救える範囲だ。
「班名分かるか!?」
スバルが叫ぶ。
高所のマルコが、東棟の新兵たちへ何か問い、その返答を受けて叫び返す。
「トーマス班じゃない! 別班だ!」
「イェーガー班は!?」
「いない!」
その一言で、胃がまた冷える。
いない。
じゃあエレンはどこだ。
アルミンとミカサはさっき戻した。トーマスも。だがエレン班の残りは。エレンは。ミーナは。フランツは。
断片だけが頭に浮かぶ。
「スバル!」
マルコが呼ぶ。
「いまはこの五人を落とす!」
そうだ。
今はこれだ。
頭を切り替えろ。
スバルは歯を食いしばり、東棟から路地への安全な降下点を探した。
建物の裏手。半壊した倉庫。木箱。低い屋根。そこをつなげば、人は降ろせる。
「一列で来い!」
スバルが叫ぶ。
「飛ぶな、降りろ! ここは降りる方が早い!」
五人の新兵が震えながら従う。マルコが上でつなぐ。スバルが下で受ける。
一人。
二人。
三人。
四人目が着地で足を取られかけるが、スバルが引っ張る。
五人目。
最後。
そこで、遠くから別の悲鳴が聞こえた。
嫌な方向。もっと南。もっと前線寄り。
その声に、新兵の一人が青ざめる。
「い、今の……」
「聞くな! 動け!」
スバルが怒鳴る。
聞いたら止まる。止まったら終わる。
五人を路地へ落とし、マルコも合流する。
全員、生きている。
今だけは。
「補給路へ戻す」
マルコ。
「お前は?」
スバル。
「一緒に行く」
「いや、そのあと」
「……」
マルコは一瞬だけ黙る。
分かってる顔だ。分かっていて、言わない。
「イェーガー班を探すんだろ」
マルコが言った。
スバルは息を止める。
「お前、さ」
「顔に出てる」
またそれだ。
でも今はありがたい。
「どうする」
マルコが聞く。
「この五人を戻したあと、行く?」
行く。
たぶん、そう答える。
でも、その前に五人を戻す。
ここでもう一回、自分の戦い方を忘れるな。
「戻してからだ」
スバルが言う。
「戻して、それでまだ間に合うなら行く」
マルコは短く頷いた。
「それでいい」
路地を走る。
五人の新兵を前に、マルコが導き、スバルが後ろを押す。その形は、補給よりもっと直接的だった。命を運んでいる感覚がある。
補給路まで戻る途中、スバルは何度も南の方を見そうになった。
そのたびに、無理やり前を向く。
今はまだ、この五人だ。
それが終わったら、次へ行く。
時系列は進んでいる。
物語も進んでいる。
そして今は、一秒ごとに“手遅れ”が増えていく時間だった。