五人を補給路へ戻した時点で、スバルの中の何かはもう決まっていた。
第四補給点の手前で、新兵たちは駐屯兵に引き渡される。顔を青くしたまま礼を言う者、言葉も出ない者、泣き出す者。それを確認した瞬間、スバルは反転した。
「行くぞ」
短く言う。
マルコは一拍だけスバルを見て、それから頷いた。
「うん」
もう止めない。
止めても無駄だと分かっている顔だった。
南だ。
イェーガー班の行方不明地点。第七街区よりさらに奥。巨人が散開し、新兵が千切れ、補給が届いていない場所。
そこへ向かう。
街の空気が、さらに熱くなっていた。
蒸気。血。崩れた瓦。遠くの怒号。近くの呻き。巨人の気配が濃い。目に見えなくても分かる。人間の世界のリズムじゃないものが、すぐそばを歩いている。
「スバル」
マルコが低く呼ぶ。
「次の角、止まる」
「分かってる」
二人で角へ張りつく。
先を覗く。
通りの中ほどに巨人が一体。七メートル級か、それ以上か。大きさなんてもう誤差だ。でかい。気持ち悪い。笑っているような顔で、建物の影をのぞき込むように歩いている。
「南へは」
スバルが聞く。
「正面は無理」
マルコ。
「裏から回る」
そう言って、マルコは左脇の細道を指した。
狭い。暗い。瓦礫が多い。だが巨人の目線は通りに向いている。行けるならそこしかない。
入る。
足場が悪い。ワイヤーを打つほどの開けもない。半ば走るしかない。巨人に追われる速度ではない。じわじわ削られる速度だ。
そして、細道の先で、声が聞こえた。
「……誰か」
か細い声。
二人とも止まる。
右手の壊れた民家の陰。そこに、新兵が一人倒れていた。女だ。顔に煤がつき、脚を瓦礫に挟まれている。装置は無事ではない。ワイヤーが絡まり、ガスもほとんど残っていなさそうだ。
「助けて……」
スバルの喉が詰まる。
助けたい。だが、時間はない。イェーガー班を探している途中だ。ここで立ち止まえば、また別の誰かが死ぬかもしれない。
最低だ。
でも、それが現実だ。
マルコが迷わずしゃがみ込んだ。
「名前は」
「……ナック」
「分かった。静かに。抜く」
そういうところだよ、お前は、とスバルは思う。
そして、そういうところだから一緒に来てほしくなかった、とも思う。
「スバル、見張って」
「……ああ」
通りの方を警戒する。
巨人の足音はまだ遠い。だが遠いだけだ。すぐ近くまで来る。
「いけるか」
マルコが言う。
「っ、あ……!」
ナックの脚が抜ける。悲鳴を噛み殺す。マルコが肩を貸し、無理やり立たせる。
「補給路まで戻れそうか」
「む、無理……」
「じゃあ次の角まで。そこに兵を回す」
マルコはそう言う。嘘かもしれない。いや、嘘にする気はないのだろう。次の角まで生かせば、本当に何とかしようとする。
スバルは顔をしかめる。
「マルコ」
「分かってる」
「ほんとかよ」
「君が何を言いたいかも分かってる」
そのやり取りの途中で、通りの巨人の足音が変わった。
近い。
「やばい、来る」
スバルが言う。
マルコがナックを支えたまま立ち上がる。
「動ける?」
「……っ」
「動いて。いま死にたくないなら」
きつい言い方だ。だが、今はそれしかない。
三人で動く。
細道を戻る。遅い。ナックがいるぶん遅い。当たり前だ。スバルの焦りが喉まで上がる。
その時、頭上の屋根で瓦が鳴った。
反射で見上げる。
巨人じゃない。
人だ。
立体機動装置。
その瞬間にはもう、顔が見えた。
「アルミン!」
金髪。息が荒い。顔が青い。だが生きている。
「スバル!?」
アルミンも叫ぶ。
「マルコまで、なんで――」
「話は後だ! エレンは!?」
スバルが叫ぶ。
アルミンの顔から、色が消えた。
嫌な沈黙。
その一拍で、スバルの背骨に氷みたいなものが走る。
「……食われた」
アルミンが言った。
世界が、そこで少し止まった。
「は?」
「エレンが、トーマスを助けて……そのあと、巨人に」
理解が遅れる。
いや、意味は分かる。言葉の意味は。
でも、それを現実として受け取る回路が、ほんの数秒、壊れた。
「……嘘だろ」
スバルの声は、自分でも知らないくらい掠れていた。
アルミンの顔が、見たこともないほど崩れる。
「嘘じゃ、ない……!」
喉を潰したみたいな声。
「僕の目の前で……!」
マルコが息を呑む気配。
ナックが何か言ったが、耳に入らない。
食われた。
エレンが。
死んだ。
死んだ?
その瞬間、スバルの脳内で何か別の音が鳴る。
自分だけが知っている音だ。
死んだら、戻る。
なら――。
いや、待て。
自分が死んだ時だけだ。
エレンが死んでも、自分は戻らない。
それが、今の一言で初めて、骨の髄まで分かった。
死に戻りは万能じゃない。
自分が見たくない死を、勝手に巻き戻してはくれない。
「スバル!」
マルコの声で我に返る。
通りの巨人が細道の入口へ顔を寄せていた。
近い。
近すぎる。
今の沈黙で、完全に足が止まっていた。
「走れ!!」
アルミンが叫ぶ。
スバルは反射で動こうとして、逆に一歩遅れた。
エレンが死んだ。
その現実が、足首に鉛みたいに絡みついている。
マルコがナックを突き飛ばすように角へ送る。アルミンが屋根からワイヤーを打ち、進路を作る。スバルだけが、半拍遅れる。
「スバル!!」
マルコが本気で怒鳴った。
その声で体が動く。
遅い。
でも動く。
巨人の手が細道へ突っ込んでくる。壁が砕ける。木片が飛ぶ。熱い。熱い。瓦が顔をかすめる。
スバルはアンカーを打った。浅い。くそ。足場も悪い。だが飛ぶ。
その瞬間、別の巨人が路地の出口を塞いだ。
「は」
終わった、と思った。
前も後ろも巨人。
細道の上と下で、挟まれた。
アルミンが屋根上で顔を真っ白にしている。マルコがナックを庇っている。スバルの体だけが、空中で半端な位置に浮いている。
どうする。
何ができる。
何もできない。
その一瞬に、シガンシナの時と同じ恐怖が、今度はもっと鮮明に戻ってきた。
死ぬ。
自分が。
ここで。
「スバル、右に――!」
アルミンの叫び。
右へ体をひねる。
だが遅い。
前の巨人の腕が横薙ぎに来る。
衝撃。
肋骨が折れる音が、自分の中から聞こえた。
「が、ッ――!」
視界が回る。
空と瓦と血と蒸気。全部が混ざる。息ができない。屋根へ叩きつけられ、そこからさらに落ちる。
落下。
短い。
なのに永遠みたいに長い。
地面に背中から落ちた瞬間、意識が飛びかける。だが飛ばない。飛ばないのが最悪だった。痛みが全部来るからだ。
動けない。
腕も脚も、自分のものじゃない。
巨人の影が覆いかぶさる。
口が開く。
腐臭。熱。あの日と同じ。
でも違う。
今度は、エレンが死んだあとだ。
助けられなかったあとだ。
死に戻りを活かすなら、ここからしかない。
その思考だけが、最期の一瞬で、妙に冷たく澄んだ。
――なら、戻れ。
巨人の歯が、スバルの頭を噛み砕いた。
世界が赤く弾けた。
そして。
「ガス! 予備ガス!!」
「ここだ!」
「次だ、次を運べ!!」
喧騒。
喉に熱い空気。
第四補給点。
スバルは箱を持ったまま立ち尽くしていた。
目の前にはマルコ。補給兵。開かれた木箱。南東屋根上の情報が飛んでくる、あの瞬間の少し前。
手は無傷。
肋骨も折れていない。
頭も残っている。
「……は」
マルコが眉をひそめる。
「スバル?」
戻った。
死んで、戻った。
今度は自分の死で。
エレンが食われたあとに。
そこまで確定した未来を、抱えたまま。
スバルの呼吸が一気に荒くなる。吐き気。眩暈。だが倒れている暇はない。
やっとだ。
やっとこの地獄で、死に戻りが“意味を持って使える段階”に来た。
そして同時に分かる。
この先は、もっときつい。
知ってしまったからだ。
エレンが死ぬことを。
それを変えなきゃならないことを。