「スバル?」
マルコの声が、やけに遠く聞こえた。
第四補給点。
木箱。
補給兵の怒号。
全部がさっきと同じだ。いや、“さっき”ではない。自分だけが二回目の今だ。
スバルは喉を押さえた。
ある。
頭もある。肋骨も折れていない。だが、噛み砕かれた感触だけが生々しく残っていた。痛みの残像が、脳の奥でまだ暴れている。
「おい、大丈夫か」
マルコが一歩近づく。
スバルはその顔を見た瞬間、反射で肩を掴んでいた。
「マルコ」
「な、何」
「聞け」
声がひどく低い。自分でも驚くほど。
マルコの表情が変わる。冗談じゃないと一瞬で察した顔だ。
「いまから言うこと、意味が分からなくてもいい。とにかく、俺の言う通り動いてくれ」
「……スバル」
「エレンが死ぬ」
マルコの目が止まる。
補給点の喧騒だけが、二人の周りを通り過ぎる。
「は?」
「アルミンは生きてる。ミカサも生きてる。南東屋根上から戻せる。問題はそのあとだ」
息を吸う。吐く。速くなるな。整理しろ。
「イェーガー班が行方不明って情報が来る。そのあと、俺たちは南へ行く。途中でナックって新兵を拾う。アルミンと屋根で合流する。そこでエレンが食われたって聞く」
マルコは一言も挟まない。
顔色だけが少しずつ変わる。普通なら頭がおかしいと思うはずだ。だが、マルコはまず“否定するかどうか”より、“何を根拠にそんな顔で言っているのか”を見る。
「……どうして」
やっと出た言葉はそれだった。
「説明してる暇がねぇ」
スバルは噛みつくように言う。
「信じろとは言わない。でも、試す価値はある」
「その内容が、全部本当に起きるって?」
「起きる」
「確信?」
「死ぬほどある」
その言い方で、マルコの目が一瞬だけ揺れた。
死ぬほど。
そこに引っかかったのだろう。だが今はそれでいい。
「……何をすればいい」
マルコが言った。
スバルは息を吐く。
通った。
全部じゃない。だが、少なくとも“付き合う”ところまでは来た。
「まず、南東屋根上の回収までは同じでいい」
「同じ?」
「ライナーとベルトルトが援護に入る。ミカサ、アルミン、トーマスは戻せる。そこまでは大きく崩れない」
自分の記憶を、一つずつ並べる。
死に戻りを使うなら、最初に必要なのは“どこが固定で、どこが変えられるか”の仕分けだ。シガンシナではそこがなかった。今はある。
「問題はその先。イェーガー班の行方不明情報が入ったあと、俺とお前は第七街区の南広場へ行く」
「そこが分岐?」
「そうだ。あそこでナックを助けるか、助けないかじゃない」
「違うのか」
「違う。エレンが食われるのは、その時点でもう起きてる」
言いながら、自分の喉が冷える。
そうだ。死に戻りを得ても、万能じゃない。戻った地点より前に起きたことは、そのままだ。
つまり、今この時点でエレンはもう前線のどこかで、死に向かって進んでいる可能性が高い。
それでも。
まだ変えられる余地はある。たぶん。
「じゃあ何を変える」
マルコ。
「アルミンの位置だ」
スバルは答えた。
そこだけははっきりしていた。
「アルミンと合流した時、エレンはもう食われたあとだった。つまり、アルミンがそこにいる限り未来はその流れに乗ってる」
「アルミンを別ルートで回収する?」
「そう」
マルコが思考する顔になる。
「南東屋根上のあと、アルミンを補給点まで戻しきれば?」
「イェーガー班の残存捜索にアルミンが入らない」
「エレンと合流しない可能性が出る」
「そうだ」
そこまで言って、スバルは自分の言葉の乱暴さに気づく。
エレンとアルミンが合流しない未来。
それでエレンが助かる保証はない。だが、少なくとも“アルミンを庇って食われる”あの流れは切れる。
「……でも」
マルコが言う。
「アルミンが戻れば、別の誰かが前に残る」
「知ってる」
「そっちが死ぬかもしれない」
「知ってる!」
声が少し荒くなる。
補給兵がこちらを見る。スバルは歯を食いしばって声量を落とした。
「知ってる。でも、いま俺が持ってるのは“エレンが食われる流れ”だけなんだよ。他の全部まで救う算段は、まだない」
正直だった。
嫌になるくらい。
マルコは数秒だけ黙って、それから頷いた。
「……分かった」
「まだある」
スバルは続ける。
「南広場へ行く前に、回収班の駐屯兵に“アルレルトはガス切れで混乱してるから優先的に補給点へ戻せ”って伝える」
「根拠は?」
「ない。俺が言う」
「それで通る?」
「通らせる」
マルコは少しだけ笑った。
「その顔の時の君、たしかに通しそうだ」
「褒めてんのか」
「半分」
ミカサの癖が移っている。
だが、それで少しだけ息がしやすくなった。
その時だった。
別の兵が駆け込んでくる。
「南東屋根上、新兵孤立! 一人はアッカーマン!」
来た。
スバルとマルコが視線を合わせる。
ここからだ。
「行くぞ」
スバル。
「うん」
マルコ。
前回と同じように、第四補給点を出る。
前回と違うのは、スバルの中に地図があることだ。路地。角。巨人の位置。ナックのいる崩れた民家。アルミンが現れる屋根。全部が、死の記憶ごと焼きついている。
南東屋根上までの流れは、驚くほど前回と似ていた。
ライナーとベルトルトが合流する。
ミカサたちを見つける。
広場の巨人を散らす。
屋根上の新兵を東棟へ動かす。
そこまでは、前回の記憶をなぞるように進んだ。
違いを入れるのは、その直後。
ミカサ、アルミン、トーマスを路地へ落とし、東棟の五人を救う前の一瞬。
「アルミン!」
スバルが叫ぶ。
アルミンが振り向く。前回と同じ顔。真っ青で、でも生きている顔。
「お前は補給点に戻れ!」
スバルは怒鳴った。
「は!?」
「戻れって言ってんだよ! ガス切れてんだろ!」
「でも、エレンが――」
「だからだ!!」
その一言で、アルミンが止まる。
ミカサも見る。トーマスは状況を飲み込めていない。ライナーとベルトルトはまだ巨人を引いている。
「アルミン」
スバルは屋根越しに叫ぶ。
「お前、今その顔で前行ったら、また何もできずに巻き込まれる!」
アルミンの顔が揺れる。
図星だ。前回のアルミンは、完全にその状態だった。エレンの死を目の前にして、壊れかけたまま、まだ前線にいた。
「でもエレンが!」
「探すのは俺がやる! お前は戻れ! ミカサ、お前が連れてけ!」
ミカサの目が細くなる。
「スバル」
「反対すんな! いまのアルミンは前に出すな!」
命令口調だった。自分でも分かる。だが、ここで曖昧にしたら通らない。
ミカサは数拍だけ沈黙した。
その間に、下の巨人の位置が変わる。
時間がない。
「……分かった」
ミカサが言った。
「アルミン、行く」
「でも――」
「行く」
ミカサがアルミンの腕を掴む。
アルミンは抵抗しかけて、止まる。止まらざるを得なかった。自分の顔が、どれだけ死んでいるかをスバルに言い当てられたからだ。
「トーマスも連れて補給点へ!」
スバル。
「スバル、お前は!?」
アルミンが叫ぶ。
「エレン探すに決まってんだろ!」
それだけ言って、スバルは東棟の五人をまた前回通りに落としにかかる。
だが今回は、一つ速い。
ミカサがアルミンとトーマスを連れて先に戻る流れができた。そのぶん、スバルとマルコは五人を下ろしたあと、前回より早く南広場へ切り返せる。
そこが勝負だ。
五人を路地に落とし終えた瞬間、スバルは叫ぶ。
「マルコ! こいつら補給路へ流せ!」
「君は?」
「南広場!」
「一人で!?」
「一人じゃない! ライナーたちがまだ前にいる!」
マルコが迷う顔をする。
だが一瞬後、頷いた。
「……絶対戻れ」
「お前もな!」
二人が分かれる。
ここが前回と決定的に違う分岐だった。
スバルは一人で南へ切り返す。
細道を抜け、壊れた民家の陰を飛ぶ。
そこで前回と同じように、ナックの声が聞こえた。
「……誰か」
止まる。
胸がきしむ。
前回はここで助けた。助けて、時間を使い、そのあとアルミンと合流して、エレンの死を知らされた。
今回は違う。
止まれない。
でも、見捨てるのか。
「助けて……」
スバルの歯が鳴る。
前に行け。
エレンを変えるなら、ここで止まるな。
でも。
でも、こいつも人間だ。
「くそっ……!」
スバルは瓦礫に飛び込んだ。
「静かにしろ!」
ナックが目を見開く。
「え……」
「一回しか言わない。次の角までなら動かせる。そこに兵がいる。立てるか」
ナックは震える。
スバルは自分でもひどいと思うくらい冷たい声で続けた。
「立てないなら死ぬ。立てるなら生きる。選べ」
ナックの目に、恐怖と怒りと生の執着が一瞬だけ戻る。
「……立つ」
それでいい。
スバルは瓦礫をどかし、無理やり脚を抜く。悲鳴を無視して肩を貸し、細道の次角まで引きずるように進む。
前回より短い。
兵はいない。
だが角を曲がったところで、駐屯兵の一人が滑り込んできた。偶然か、運か、もう分からない。
「そこの負傷兵、頼む! 南へ行く!」
スバルが言う。
兵は怪訝な顔をしたが、ナックの脚を見て舌打ちし、引き受けた。
「お前はどこの班だ!」
「駐屯補給補助! あとで怒鳴れ!」
返事も待たずに、スバルはもう南へ飛んでいた。
速い。
前回より、確実に速い。
細道を抜ける。広場前の棟へ上がる。蒸気。血。瓦礫。
そして、見えた。
南広場。
その中央寄りの崩れた屋根の上に、エレンがいた。
生きている。
まだ。
トーマスではない。別の新兵を庇うように前へ出ている。前回、自分が知らなかった“食われる直前の位置”だ。
「エレン!!」
スバルが全力で叫ぶ。
エレンが振り向く。
その一瞬、目が合う。
驚いている。そりゃそうだ。お前なんでそんなとこにいるんだ、という顔だ。
だが、その一瞬で十分だった。
エレンの前へ出る動きが、半拍だけ遅れた。
その半拍に、別方向からミカサではない誰かのワイヤーが飛び込んだ。ライナーだ。巨人の腕を逸らす。
間に合った。
いや、まだ終わっていない。
だが、前回の“アルミンを庇って食われる”流れは、たしかに切れた。
スバルの心臓が、今度は違う意味で跳ねる。
変えた。
未来を、ほんの少しだけ。