Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

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第3話 証明できない記憶

 

 ハンネスの一言で、空気が変わった。

 

 広場の喧騒は消えていない。遠くで鐘が鳴り、兵士が怒鳴り、荷馬車が軋み、泣き声がどこかで続いている。街はまだ壊れている最中だ。なのに、この場だけ妙に静かだった。

 

「お前……今、“次”って言ったな」

 

 ハンネスがスバルを見る。

 

 兵士の目だ、とスバルは思った。酔っ払いめいた砕けた雰囲気が少し前まであったのに、今はそれが消えている。相手を値踏みする目。危険か、無害か、嘘つきか、使えるかを一瞬で見ようとする目だ。

 

 まずい。

 

 言い間違えた、では済まない。

 

 エレンの手はまだ胸ぐらを掴んだままだったが、その力の質も変わっていた。怒りだけじゃない。疑いが混じった。アルミンは困惑を隠せず、ミカサは無言のまま一歩だけ前へ出ている。

 

 四方から、逃げ場がない。

 

「……言った、かも」

 

 喉が乾いていた。声が自分のものじゃないみたいに細い。

 

「かも、じゃねぇ」

 

 エレンが低く言う。

 

「お前、さっきから知ってることがおかしいんだよ。門のことも、巨人のことも、鐘が鳴ることも。で、今度は“次”だ?」

 

「違う、あれは勢いで――」

 

「勢いで出る言葉じゃない」

 

 ミカサの一言が重かった。

 

 スバルは息を呑む。

 

 だめだ。こいつら、甘くない。子どもだからごまかせる、なんて発想自体が甘かった。さっきからずっとそうだ。この世界の連中は、状況の中で他人の言葉を軽く聞かない。聞かないというより、命がかかってるから聞き流せない。

 

 現代日本での“なんとなく空気で流れる嘘”が通じる場所じゃない。

 

「……たまたまだよ」

 

 絞り出した言い訳は、自分でもひどいと思った。

 

 案の定、エレンの眉が吊り上がる。

 

「たまたま?」

 

「勘、みたいな。嫌な予感が当たったっていうか……」

 

「巨人が現れて門が壊れるのを“勘”で当てるのか?」

 

「う……」

 

「じゃあ今度は何が起きる」

 

 ハンネスだった。

 

 スバルはそちらを見る。兵士は腕を組まない。ただ立っているだけなのに圧がある。急かしているようで、実際には一語一句を見ている。

 

「今度?」

 

「お前は“次”があるみたいに言った」

 

 低い声だ。

 

「なら聞く。このあと何が起きる」

 

 分からない。

 

 いや、分かることもある。門が破られ、巨人が街に入り、人が死ぬ。だが、それ以上の細かい流れは知らない。カルラが食われるところまでは見た。その先は、広場で揉めてここにいる。まだ死んでいない。つまり、もう“さっきと同じ”でもない。

 

 下手に言えば破綻する。

 

 黙れば怪しまれる。

 

 どっちにしても詰んでる。

 

「……たぶん、もっと巨人が入ってくる」

 

 ようやくそれだけ言った。

 

 ハンネスは黙っている。

 

 エレンが吐き捨てる。

 

「そんなの誰でも分かる」

 

「じゃあ俺に何言えってんだよ!」

 

 半ば逆ギレだった。だが、そこでアルミンが口を開いた。

 

「待って」

 

 全員の視線が向く。アルミンは喉を鳴らしてから、スバルを見た。

 

「さっき、君は“家はダメ”って言った。人が集まるところも、開けたところもダメだって」

 

「……言った」

 

「それ、どうして?」

 

 スバルは言葉に詰まる。

 

 アルミンの顔に敵意はない。だが、逃がしてもくれない。純粋に知ろうとしている顔だ。観察と推測を積み上げて、ズレを埋めようとしている。

 

「巨人は……家とか関係なく壊すだろ」

 

「それは、今の時点では断言できないよ」

 

「っ」

 

「僕らは巨人が壁の外にいることしか知らない。街の中でどう動くかなんて、誰も見たことがない」

 

 アルミンの声は震えていた。母親を喪ったエレンや、死を目前で見た自分と同じように、彼も恐怖の中にいるはずなのに、思考は止まっていない。

 

「でも君は、まるで知ってるみたいに言った」

 

 逃げられない。

 

 スバルは奥歯を噛んだ。

 

 話せるわけがない。死んだら戻る、なんて。言ったところで信じられるはずもないし、信じられたとしても、自分のほうが壊れる気がした。あの死をもう一度言葉にするだけで吐きそうになる。

 

 それでも何か返さなければ――そう思ったとき。

 

 遠くから、叫び声が近づいてきた。

 

「巨人だ! こっちにも来るぞ!」

 

 広場の空気が、一瞬で弾けた。

 

 人の流れが逆巻く。さっきまで比較的まとまりかけていた避難民が、また一斉に崩れる。荷物を抱えて走る者、子どもを探す者、転ぶ者、押しのける者。悲鳴が層になって襲ってくる。

 

 ハンネスが舌打ちした。

 

「チッ……!」

 

 彼は即座にスバルたちへ向き直る。

 

「話はあとだ。お前らは内門へ向かえ。兵の誘導に従え。絶対に勝手に動くな」

 

「でも――」

 

 エレンが言いかけるのを、ハンネスが怒鳴って切った。

 

「でもじゃねぇ! 今は生き残るのが先だ!」

 

 その迫力に、エレンも一瞬だけ言葉を失う。

 

「俺は他の連中の避難を手伝う。お前らは走れ!」

 

 言うだけ言って、ハンネスはすでに半身を翻している。兵士としての判断は早い。

 

 その背中を見たとき、スバルの中で何かが引っかかった。

 

 このまま別れるのはまずい。

 

 なぜまずいのかは分からない。だが、この人はここで人を助けに行く。そして、そういう人ほど死ぬ。この世界は、さっきからそういう法則で動いている気がしてならない。

 

「待ってくれ!」

 

 スバルが叫ぶと、ハンネスが振り返る。

 

「なんだ!」

 

「その……死ぬなよ!」

 

 自分でもひどい言い方だと思った。

 

 ハンネスは一瞬だけ目を丸くして、それから険しい顔のまま鼻で笑った。

 

「当たり前だ」

 

 そう言って、飛ぶように去った。

 

 スバルは息を吐く。

 

「お前、何なんだよ本当に……」

 

 エレンが呆れたように言った。

 

「それ、俺がいちばん知りたい」

 

「さっきからそればっか」

 

「万能の答えなんで」

 

「答えになってない」

 

「知ってる!」

 

 言い合っている場合じゃないのに、口が止まらない。止めたら恐怖が押し寄せるからかもしれなかった。

 

 ミカサが短く言う。

 

「行こう」

 

 その一言で、四人は走り出した。

 

 今度は広場を抜けて、内門のある方向へ。だが、避難民の流れがすでにごちゃついていて、真っ直ぐには進めない。子どもが泣き、老人がうずくまり、荷車が倒れて道を塞ぐ。兵士が「押すな!」と怒鳴っているが、誰も押したくて押しているわけじゃない。恐怖に追われているだけだ。

 

 スバルは何度も肩をぶつけられながら走った。

 

 呼吸が荒い。喉が切れそうだ。だが足を止めたら終わる。

 

「アルミン!」

 

 ミカサが叫ぶ。

 

 見ると、アルミンが人波の中で足を取られかけていた。前から走ってきた男にぶつかられ、体勢を崩している。

 

 スバルは反射で手を伸ばした。

 

 指先が、届く。

 

 掴んだ。

 

「うおっ、と!」

 

「ありがとう!」

 

「礼は生きてから聞く!」

 

 引っ張り上げる。軽い。アルミンは息を切らしながらも走り続ける。

 

 その直後、頭上で屋根瓦が砕けた。

 

 何か大きなものが建物にぶつかった音。道の向こうから土煙が噴き上がる。人々の悲鳴が、また質を変える。“どこか遠くの恐怖”じゃない。“すぐ近くの死”の声だ。

 

「こっち!」

 

 アルミンが脇道を指した。

 

「大通りは詰まってる!」

 

「分かった!」

 

 エレンが先頭を切る。ミカサがそのすぐ後ろ。アルミンとスバルが続く。

 

 脇道は狭いが、そのぶん人が少ない。石壁が左右に迫り、空が細長く切り取られる。巨人から見つかりにくいかどうかは分からないが、少なくとも踏み潰される人数は少なくて済む。

 

「ねえ」

 

 走りながら、アルミンがスバルへ言った。

 

「君、さっき僕を助けるの、迷わなかったね」

 

「は!?」

 

「普通、あの状況なら自分が転ばないので精一杯だよ」

 

「いや、そこ分析してる場合か!?」

 

「大事だよ」

 

 息が上がっているのに、アルミンの声は妙に真剣だった。

 

「君は変だ。でも、少なくとも僕らを見捨てる側じゃない」

 

 スバルは返事を失う。

 

 走りながら、胸の奥がちくりと痛んだ。

 

 そんな一言で救われるな、とまた思う。けれど救われてしまう。自分でもどうしようもないくらい。

 

「……お前、そういうとこ怖ぇよ」

 

「え?」

 

「人の心にズカズカ入ってくるとこ」

 

「そんなつもりじゃ」

 

「ある意味それよりタチ悪ぃわ!」

 

 エレンが振り返らずに言う。

 

「喋ってないで走れ!」

 

「お前も会話に参加してんじゃねぇか!」

 

 怒鳴り返した瞬間、少しだけ、自分たちがまだ生きている感覚が戻った。

 

 だが、それもすぐに消し飛ぶ。

 

 路地を抜けた先の小広場に、一体の巨人がいたからだ。

 

 四メートル級か五メートル級か、そんな分類をする余裕はない。小さめだろうが大きかろうが、人間から見れば十分すぎる怪物だ。裸の皮膚に汚れが付き、目は焦点が合っているようで合っていない。だが口だけは、笑っているみたいに裂けている。

 

 そいつが、広場の真ん中で倒れた男を掴み上げていた。

 

「――ッ」

 

 誰も声を出せなかった。

 

 巨人は男の足をぶらつかせたまま、興味もなさそうに口へ運ぶ。男がまだ動いているのが見えた。見えたのに、止める手段は何ひとつなかった。

 

 噛み砕く音。

 

 アルミンが顔を背ける。エレンの呼吸が荒くなる。ミカサは目を逸らさない。スバルは、胃が反転するのを歯を食いしばってこらえた。

 

 前にも見た。

 

 でも、慣れるわけがない。

 

 むしろ“何が起きるか知っているのに見なければならない”ぶんだけ、余計にきつい。

 

「戻る」

 

 ミカサが囁く。

 

「だめ」

 

 アルミンが即座に言った。

 

「この路地に戻ったら、さっきの人波に飲まれる」

 

「じゃあどうする」

 

 エレンが低く問う。

 

 巨人はまだこちらに気づいていない。だが時間の問題だ。小広場を回り込める道があればいいが、左右は高い壁と閉じた扉ばかり。正面を突っ切るのは自殺だ。

 

 アルミンが息を呑みながら周囲を見る。

 

「屋根伝い……は無理だ」

 

「兵士を呼ぶ?」

 

「近くにいない。呼ぶ声で気づかれるかも」

 

 そのやりとりの中で、スバルだけが別のことを考えていた。

 

 ここで詰んだら、また死ぬのか。

 

 またあの痛みか。

 

 また最初からか。

 

 いやだ。

 

 絶対にいやだ。

 

 その拒絶が、恐怖とは別の形で頭を働かせた。

 

「……囮」

 

 三人がこちらを見る。

 

「俺が、あいつ引きつける」

 

「は?」

 

 エレンが眉をひそめる。

 

「正面からじゃなくて、ここの角から石でも投げて、こっち向かせる。その間にお前らは反対側の路地を抜けろ」

 

「無理」

 

 ミカサが即断した。

 

「追われる」

 

「追われる前に俺も逃げる」

 

「逃げ切れない」

 

「やってみなきゃ分かんねぇだろ!」

 

 声が大きくなった。

 

 自分でも、半分はヤケだと分かっている。まともな作戦じゃない。でも、作戦がないよりマシだ。止まっていたら死ぬ。

 

 エレンが睨む。

 

「なんでお前が囮になる」

 

「なんでって……」

 

 答えに詰まる。

 

 本音を言えば、死ぬのが怖いからだ。怖すぎるから、少しでも自分で状況を動かしたい。受け身で食われるのだけはもういやだ。だが、それをこの場でどう言語化すればいい。

 

 結局、出てきたのは別の言葉だった。

 

「お前ら、さっき母親失ったばっかだろ」

 

 エレンの顔が固まる。

 

「だからせめて、これ以上は……」

 

「ふざけるな」

 

 低い声だった。

 

 エレンが一歩詰める。

 

「母さんが死んだから、俺たちは守られる側でいろってのか」

 

「そう言ってねぇ!」

 

「同じだ!」

 

 目が燃えていた。泣いていた顔の延長線上にある怒り。自分の無力さを噛み潰すための怒り。

 

「俺はもう、見てるだけなのは嫌だ」

 

 その一言に、スバルは返せなかった。

 

 分かる、と思ってしまったからだ。見ているしかないのは嫌だ。何もできないのは嫌だ。怖くても、みっともなくても、何かしなきゃ耐えられない。

 

 同じだ。

 

 性質は違っても、根のどこかが妙に同じだから、余計にぶつかる。

 

 アルミンが二人の間に入った。

 

「喧嘩してる場合じゃない」

 

 震える声だったが、芯はあった。

 

「囮案は危険すぎる。でも、ここで止まるのも危険だ」

 

 彼は広場をもう一度見た。巨人は食事を終えたらしく、のそのそと辺りを見回し始めている。時間がない。

 

「……音だ」

 

 アルミンが言う。

 

「一方向じゃなく、二方向から音を出せば、そっちを見る時間差ができるかもしれない」

 

「二方向?」

 

「僕とスバルで左右から石を投げる。エレンとミカサはその間に反対側へ走る」

 

「却下」

 

 ミカサが言った。

 

「二人を置いていけない」

 

「でも四人で固まってたら全滅する」

 

「だったら私が残る」

 

「いや、だから!」

 

 また揉めそうになったそのとき、巨人の首がこちらを向いた。

 

 まずい。

 

 もう選んでいる暇がない。

 

 スバルは地面の石を掴んだ。

 

「やるぞ!」

 

「スバル!」

 

 アルミンが叫ぶが、もう遅い。スバルは物陰から半身を出し、全力で石を投げた。

 

 石は巨人の頬に当たって弾かれた。

 

 巨人の顔が、ぐるりとこちらへ回る。

 

「っ、来た!」

 

 スバルは即座に路地の奥へ駆ける。背後で重い足音。来ている。来ている。想像しただけで足がもつれる。だが走るしかない。

 

「アルミン、今だ!」

 

 エレンの声が飛ぶ。アルミンも石を投げたらしい。別方向で石のぶつかる音がした。巨人の足音が一瞬ぶれる。

 

 振り返らない。

 

 振り返ったら遅くなる。

 

 スバルは狭い路地を必死で駆けた。角を曲がる。桶を蹴飛ばす。洗濯物の縄に顔を引っかけそうになる。心臓が喉から飛び出しそうだ。

 

「スバル、こっち!」

 

 アルミンの声だった。

 

 さらに先の分岐から手を振っている。生きてる。エレンもミカサもいる。全員だ。

 

「お、おおっ!」

 

 そちらへ飛び込む。

 

 直後、巨人の腕がさっきまで自分のいた角を薙いだ。石壁が砕け、破片が飛ぶ。頬をかすめ、熱い痛みが走る。

 

「うわっ!」

 

「しゃがんで!」

 

 ミカサに肩を引かれ、そのまま転がるように別の路地へ滑り込む。エレンが後ろから倒れた樽を蹴飛ばし、道を少しだけ塞いだ。気休めにもならないが、一瞬の足止めにはなるかもしれない。

 

「走る!」

 

 ミカサが言う。

 

 四人はまた全力で走った。

 

 今度は誰も喋らない。呼吸と足音だけ。背後で巨人の咆哮のような、ただの息のような音が響く。追ってきているのか、別の獲物を見つけたのかも分からない。

 

 ただ、止まれば終わる。

 

 どれだけ走ったか分からない頃、ようやく兵士の集まっている通りへ飛び出した。内門に向かう避難経路らしく、武装した駐屯兵が人を誘導している。巨人の姿は見えない。

 

 四人とも、その場で膝をついた。

 

「は、ぁ……っ、は……!」

 

 喉が切れる。肺が痛い。足が自分のものじゃない。

 

 だが、生きている。

 

 全員。

 

 スバルは石畳に手をついたまま、荒い息の隙間で笑いそうになった。笑える状況じゃないのに、笑いが込み上げた。助かった。今は。それだけで、頭が変になりそうだった。

 

 エレンが床に手をついたまま言う。

 

「……お前」

 

「ん、だよ……」

 

「さっきの、無茶だ」

 

「知ってる……」

 

「でも」

 

 そこで言葉が切れる。呼吸を整える音。

 

「助かった」

 

 短かった。

 

 それだけだった。

 

 なのにスバルは、思わず顔を上げた。

 

 エレンはそっぽを向いている。照れてるわけじゃない。単に、それ以上の言葉を持たないだけだ。けれど十分だった。

 

 アルミンが苦笑する。

 

「君たちって、仲悪いのか良いのか分からないね」

 

「悪いだろ」

 

「悪い」

 

 スバルとエレンの声が被った。

 

 アルミンが少しだけ笑い、ミカサはそのやりとりを見て、ごくわずかに目を細めた。

 

 ほんの少しだけ。

 

 その空気が生まれた次の瞬間、上空から立体機動装置の音がした。

 

 兵士が数人、建物の上を飛び越えていく。緊迫した声が飛び交う。

 

「南側で穴が広がってる!」

「先行して避難民を内門へ!」

「船着き場も混乱してるぞ!」

 

 その言葉に、アルミンの顔色が変わった。

 

「船着き場……」

 

「なんだよ」

 

 エレンが顔を上げる。

 

「この区から避難するとしたら、最終的に船を使う可能性がある。門だけじゃ捌ききれないかもしれない」

 

「じゃあ船へ行けばいいのか!?」

 

「分からない。でも、人が集中する」

 

 アルミンの瞳が忙しく動く。情報を組み立てている目だ。

 

「集中すれば、押し潰される人も出る。兵士の誘導が崩れたら、もっと混乱する」

 

 スバルはその言葉を聞きながら、胸の奥に嫌な感覚が広がるのを覚えた。

 

 まただ。

 

 “次の破綻”の匂いがする。

 

 自分は未来を知っているわけじゃない。だが、壊れ方のパターンだけは、少しずつ分かり始めていた。巨人だけが敵じゃない。恐怖が人を押し、押された人が倒れ、倒れた人を誰も助けられない。そういう連鎖が、この世界のあちこちに潜んでいる。

 

「……船着き場、行くのか」

 

 スバルが問うと、アルミンは迷った。

 

 エレンは即答する。

 

「行く」

 

「おい」

 

「ここにいたって安全じゃない」

 

 その通りだ。

 

「それに、兵士の指示を待ってたら遅れるかもしれない」

 

「勝手に動くなって言われただろ」

 

「言われたよ。でも、状況が変わった」

 

 エレンの声に、さっきまでのただの反発とは違う硬さがあった。カルラの死が、彼の中で何かを決定的に変え始めている。その変化が正しいのか危ういのか、スバルにはまだ分からない。ただ、このままでは止まらないだろうことだけは分かった。

 

 ミカサが静かに言う。

 

「エレンが行くなら、私も行く」

 

「知ってる」

 

 アルミンが頭を押さえる。

 

「……正面突破は危険だ。できれば裏道を使いたい。でも土地勘のある僕でも、混乱した今どこまで使えるか……」

 

 三人が自然に話を進める中で、スバルだけが一瞬置いていかれそうになる。

 

 違う。

 

 ここで黙るな。

 

 さっきまで“怪しい異物”だった自分が、この輪に半歩だけ入りかけている。たぶん、まだ半歩だ。だが、この半歩は命綱になるかもしれない。

 

「……俺も行く」

 

 エレンが見る。

 

「当たり前だろ。今さら置いてけるかよ」

 

「別に頼んでない」

 

「頼まれなくてもついてくんだよ、こういうのは!」

 

「何だそれ」

 

「知らん! でも、そういうもんだろ!」

 

 エレンが呆れたように息を吐いた。

 

 アルミンが言う。

 

「じゃあ、行こう。でも今度は本当に、勝手な判断は減らそう。全員で状況を見て決める」

 

「おう」

 

「分かった」

 

「……了解」

 

 スバルは最後に頷いた。

 

 そのとき、不意に背後から誰かに腕を掴まれた。

 

 反射で跳ねる。

 

「うわッ!?」

 

 振り向くと、駐屯兵の一人だった。まだ若い。だが顔は土気色で、目だけがぎらついている。

 

「お前ら、ガキだけでどこへ行く」

 

 鋭い声だった。

 

 エレンがすぐに答える。

 

「避難です」

 

「なら隊列に並べ」

 

「でも――」

 

「でもじゃない!」

 

 兵士は周囲を見回し、それからスバルの格好で一瞬だけ目を止めた。怪訝そうな目つきになる。

 

「……お前、なんだその服」

 

 またそれか、とスバルは思ったが、いまはそんなことを突っ込んでいる場合じゃない。

 

「いや、遠い国の――」

 

「あとで聞く。今は全員、こっちだ」

 

 兵士が強引に引っ張ろうとした、その直後。

 

 別方向から、さらに大きな悲鳴が上がった。

 

 兵士も、避難民も、全員がそちらを見る。

 

 通りの向こう、屋根の連なりの間から、ゆっくりと巨大な手がせり上がっていた。

 

 今までの巨人より、明らかに大きい。

 

 その腕が、建物の上からこちらの通りへ伸びてくる。

 

「散れぇぇぇぇッ!!」

 

 兵士の怒号。

 

 人々が一斉に崩れた。

 

 押し合い、転び、叫び、逃げ場を失う。さっきまで辛うじて保たれていた避難の列が、完全に破裂する。

 

 スバルは咄嗟にミカサの腕を掴み、ミカサがアルミンを引き、エレンが兵士の手を振り払って駆け出した。

 

 まただ。

 

 また、予想外の場所から破綻する。

 

 助かったと思った次の瞬間に、次の地獄が口を開ける。

 

 その理不尽さに、スバルは歯を食いしばった。

 

 だが今度は、立ち尽くさない。

 

「こっちだ、路地入れ!!」

 

 自分の叫びに、三人がついてくる。

 

 四人は崩れた避難列の横をすり抜け、巨人の手が落ちてくるより先に、細い路地へ飛び込んだ。

 

 直後、背後で何か巨大なものが地面を叩く音がした。悲鳴が混ざる。振り返らない。振り返れば足が止まる。

 

 止まれば、次は自分たちだ。

 

 走りながら、スバルはようやく理解し始めていた。

 

 死に戻りがあっても、この世界は“正解手順を覚えて突破するゲーム”じゃない。

 

 むしろ逆だ。

 

 知れば知るほど、救えなかったものと救いきれないものが増えていく。

 

 それでも前へ行くしかない。

 

 その事実だけが、足元の石畳みたいに硬く、重く、逃げ場なく彼の中へ沈んでいった。

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