ハンネスの一言で、空気が変わった。
広場の喧騒は消えていない。遠くで鐘が鳴り、兵士が怒鳴り、荷馬車が軋み、泣き声がどこかで続いている。街はまだ壊れている最中だ。なのに、この場だけ妙に静かだった。
「お前……今、“次”って言ったな」
ハンネスがスバルを見る。
兵士の目だ、とスバルは思った。酔っ払いめいた砕けた雰囲気が少し前まであったのに、今はそれが消えている。相手を値踏みする目。危険か、無害か、嘘つきか、使えるかを一瞬で見ようとする目だ。
まずい。
言い間違えた、では済まない。
エレンの手はまだ胸ぐらを掴んだままだったが、その力の質も変わっていた。怒りだけじゃない。疑いが混じった。アルミンは困惑を隠せず、ミカサは無言のまま一歩だけ前へ出ている。
四方から、逃げ場がない。
「……言った、かも」
喉が乾いていた。声が自分のものじゃないみたいに細い。
「かも、じゃねぇ」
エレンが低く言う。
「お前、さっきから知ってることがおかしいんだよ。門のことも、巨人のことも、鐘が鳴ることも。で、今度は“次”だ?」
「違う、あれは勢いで――」
「勢いで出る言葉じゃない」
ミカサの一言が重かった。
スバルは息を呑む。
だめだ。こいつら、甘くない。子どもだからごまかせる、なんて発想自体が甘かった。さっきからずっとそうだ。この世界の連中は、状況の中で他人の言葉を軽く聞かない。聞かないというより、命がかかってるから聞き流せない。
現代日本での“なんとなく空気で流れる嘘”が通じる場所じゃない。
「……たまたまだよ」
絞り出した言い訳は、自分でもひどいと思った。
案の定、エレンの眉が吊り上がる。
「たまたま?」
「勘、みたいな。嫌な予感が当たったっていうか……」
「巨人が現れて門が壊れるのを“勘”で当てるのか?」
「う……」
「じゃあ今度は何が起きる」
ハンネスだった。
スバルはそちらを見る。兵士は腕を組まない。ただ立っているだけなのに圧がある。急かしているようで、実際には一語一句を見ている。
「今度?」
「お前は“次”があるみたいに言った」
低い声だ。
「なら聞く。このあと何が起きる」
分からない。
いや、分かることもある。門が破られ、巨人が街に入り、人が死ぬ。だが、それ以上の細かい流れは知らない。カルラが食われるところまでは見た。その先は、広場で揉めてここにいる。まだ死んでいない。つまり、もう“さっきと同じ”でもない。
下手に言えば破綻する。
黙れば怪しまれる。
どっちにしても詰んでる。
「……たぶん、もっと巨人が入ってくる」
ようやくそれだけ言った。
ハンネスは黙っている。
エレンが吐き捨てる。
「そんなの誰でも分かる」
「じゃあ俺に何言えってんだよ!」
半ば逆ギレだった。だが、そこでアルミンが口を開いた。
「待って」
全員の視線が向く。アルミンは喉を鳴らしてから、スバルを見た。
「さっき、君は“家はダメ”って言った。人が集まるところも、開けたところもダメだって」
「……言った」
「それ、どうして?」
スバルは言葉に詰まる。
アルミンの顔に敵意はない。だが、逃がしてもくれない。純粋に知ろうとしている顔だ。観察と推測を積み上げて、ズレを埋めようとしている。
「巨人は……家とか関係なく壊すだろ」
「それは、今の時点では断言できないよ」
「っ」
「僕らは巨人が壁の外にいることしか知らない。街の中でどう動くかなんて、誰も見たことがない」
アルミンの声は震えていた。母親を喪ったエレンや、死を目前で見た自分と同じように、彼も恐怖の中にいるはずなのに、思考は止まっていない。
「でも君は、まるで知ってるみたいに言った」
逃げられない。
スバルは奥歯を噛んだ。
話せるわけがない。死んだら戻る、なんて。言ったところで信じられるはずもないし、信じられたとしても、自分のほうが壊れる気がした。あの死をもう一度言葉にするだけで吐きそうになる。
それでも何か返さなければ――そう思ったとき。
遠くから、叫び声が近づいてきた。
「巨人だ! こっちにも来るぞ!」
広場の空気が、一瞬で弾けた。
人の流れが逆巻く。さっきまで比較的まとまりかけていた避難民が、また一斉に崩れる。荷物を抱えて走る者、子どもを探す者、転ぶ者、押しのける者。悲鳴が層になって襲ってくる。
ハンネスが舌打ちした。
「チッ……!」
彼は即座にスバルたちへ向き直る。
「話はあとだ。お前らは内門へ向かえ。兵の誘導に従え。絶対に勝手に動くな」
「でも――」
エレンが言いかけるのを、ハンネスが怒鳴って切った。
「でもじゃねぇ! 今は生き残るのが先だ!」
その迫力に、エレンも一瞬だけ言葉を失う。
「俺は他の連中の避難を手伝う。お前らは走れ!」
言うだけ言って、ハンネスはすでに半身を翻している。兵士としての判断は早い。
その背中を見たとき、スバルの中で何かが引っかかった。
このまま別れるのはまずい。
なぜまずいのかは分からない。だが、この人はここで人を助けに行く。そして、そういう人ほど死ぬ。この世界は、さっきからそういう法則で動いている気がしてならない。
「待ってくれ!」
スバルが叫ぶと、ハンネスが振り返る。
「なんだ!」
「その……死ぬなよ!」
自分でもひどい言い方だと思った。
ハンネスは一瞬だけ目を丸くして、それから険しい顔のまま鼻で笑った。
「当たり前だ」
そう言って、飛ぶように去った。
スバルは息を吐く。
「お前、何なんだよ本当に……」
エレンが呆れたように言った。
「それ、俺がいちばん知りたい」
「さっきからそればっか」
「万能の答えなんで」
「答えになってない」
「知ってる!」
言い合っている場合じゃないのに、口が止まらない。止めたら恐怖が押し寄せるからかもしれなかった。
ミカサが短く言う。
「行こう」
その一言で、四人は走り出した。
今度は広場を抜けて、内門のある方向へ。だが、避難民の流れがすでにごちゃついていて、真っ直ぐには進めない。子どもが泣き、老人がうずくまり、荷車が倒れて道を塞ぐ。兵士が「押すな!」と怒鳴っているが、誰も押したくて押しているわけじゃない。恐怖に追われているだけだ。
スバルは何度も肩をぶつけられながら走った。
呼吸が荒い。喉が切れそうだ。だが足を止めたら終わる。
「アルミン!」
ミカサが叫ぶ。
見ると、アルミンが人波の中で足を取られかけていた。前から走ってきた男にぶつかられ、体勢を崩している。
スバルは反射で手を伸ばした。
指先が、届く。
掴んだ。
「うおっ、と!」
「ありがとう!」
「礼は生きてから聞く!」
引っ張り上げる。軽い。アルミンは息を切らしながらも走り続ける。
その直後、頭上で屋根瓦が砕けた。
何か大きなものが建物にぶつかった音。道の向こうから土煙が噴き上がる。人々の悲鳴が、また質を変える。“どこか遠くの恐怖”じゃない。“すぐ近くの死”の声だ。
「こっち!」
アルミンが脇道を指した。
「大通りは詰まってる!」
「分かった!」
エレンが先頭を切る。ミカサがそのすぐ後ろ。アルミンとスバルが続く。
脇道は狭いが、そのぶん人が少ない。石壁が左右に迫り、空が細長く切り取られる。巨人から見つかりにくいかどうかは分からないが、少なくとも踏み潰される人数は少なくて済む。
「ねえ」
走りながら、アルミンがスバルへ言った。
「君、さっき僕を助けるの、迷わなかったね」
「は!?」
「普通、あの状況なら自分が転ばないので精一杯だよ」
「いや、そこ分析してる場合か!?」
「大事だよ」
息が上がっているのに、アルミンの声は妙に真剣だった。
「君は変だ。でも、少なくとも僕らを見捨てる側じゃない」
スバルは返事を失う。
走りながら、胸の奥がちくりと痛んだ。
そんな一言で救われるな、とまた思う。けれど救われてしまう。自分でもどうしようもないくらい。
「……お前、そういうとこ怖ぇよ」
「え?」
「人の心にズカズカ入ってくるとこ」
「そんなつもりじゃ」
「ある意味それよりタチ悪ぃわ!」
エレンが振り返らずに言う。
「喋ってないで走れ!」
「お前も会話に参加してんじゃねぇか!」
怒鳴り返した瞬間、少しだけ、自分たちがまだ生きている感覚が戻った。
だが、それもすぐに消し飛ぶ。
路地を抜けた先の小広場に、一体の巨人がいたからだ。
四メートル級か五メートル級か、そんな分類をする余裕はない。小さめだろうが大きかろうが、人間から見れば十分すぎる怪物だ。裸の皮膚に汚れが付き、目は焦点が合っているようで合っていない。だが口だけは、笑っているみたいに裂けている。
そいつが、広場の真ん中で倒れた男を掴み上げていた。
「――ッ」
誰も声を出せなかった。
巨人は男の足をぶらつかせたまま、興味もなさそうに口へ運ぶ。男がまだ動いているのが見えた。見えたのに、止める手段は何ひとつなかった。
噛み砕く音。
アルミンが顔を背ける。エレンの呼吸が荒くなる。ミカサは目を逸らさない。スバルは、胃が反転するのを歯を食いしばってこらえた。
前にも見た。
でも、慣れるわけがない。
むしろ“何が起きるか知っているのに見なければならない”ぶんだけ、余計にきつい。
「戻る」
ミカサが囁く。
「だめ」
アルミンが即座に言った。
「この路地に戻ったら、さっきの人波に飲まれる」
「じゃあどうする」
エレンが低く問う。
巨人はまだこちらに気づいていない。だが時間の問題だ。小広場を回り込める道があればいいが、左右は高い壁と閉じた扉ばかり。正面を突っ切るのは自殺だ。
アルミンが息を呑みながら周囲を見る。
「屋根伝い……は無理だ」
「兵士を呼ぶ?」
「近くにいない。呼ぶ声で気づかれるかも」
そのやりとりの中で、スバルだけが別のことを考えていた。
ここで詰んだら、また死ぬのか。
またあの痛みか。
また最初からか。
いやだ。
絶対にいやだ。
その拒絶が、恐怖とは別の形で頭を働かせた。
「……囮」
三人がこちらを見る。
「俺が、あいつ引きつける」
「は?」
エレンが眉をひそめる。
「正面からじゃなくて、ここの角から石でも投げて、こっち向かせる。その間にお前らは反対側の路地を抜けろ」
「無理」
ミカサが即断した。
「追われる」
「追われる前に俺も逃げる」
「逃げ切れない」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ!」
声が大きくなった。
自分でも、半分はヤケだと分かっている。まともな作戦じゃない。でも、作戦がないよりマシだ。止まっていたら死ぬ。
エレンが睨む。
「なんでお前が囮になる」
「なんでって……」
答えに詰まる。
本音を言えば、死ぬのが怖いからだ。怖すぎるから、少しでも自分で状況を動かしたい。受け身で食われるのだけはもういやだ。だが、それをこの場でどう言語化すればいい。
結局、出てきたのは別の言葉だった。
「お前ら、さっき母親失ったばっかだろ」
エレンの顔が固まる。
「だからせめて、これ以上は……」
「ふざけるな」
低い声だった。
エレンが一歩詰める。
「母さんが死んだから、俺たちは守られる側でいろってのか」
「そう言ってねぇ!」
「同じだ!」
目が燃えていた。泣いていた顔の延長線上にある怒り。自分の無力さを噛み潰すための怒り。
「俺はもう、見てるだけなのは嫌だ」
その一言に、スバルは返せなかった。
分かる、と思ってしまったからだ。見ているしかないのは嫌だ。何もできないのは嫌だ。怖くても、みっともなくても、何かしなきゃ耐えられない。
同じだ。
性質は違っても、根のどこかが妙に同じだから、余計にぶつかる。
アルミンが二人の間に入った。
「喧嘩してる場合じゃない」
震える声だったが、芯はあった。
「囮案は危険すぎる。でも、ここで止まるのも危険だ」
彼は広場をもう一度見た。巨人は食事を終えたらしく、のそのそと辺りを見回し始めている。時間がない。
「……音だ」
アルミンが言う。
「一方向じゃなく、二方向から音を出せば、そっちを見る時間差ができるかもしれない」
「二方向?」
「僕とスバルで左右から石を投げる。エレンとミカサはその間に反対側へ走る」
「却下」
ミカサが言った。
「二人を置いていけない」
「でも四人で固まってたら全滅する」
「だったら私が残る」
「いや、だから!」
また揉めそうになったそのとき、巨人の首がこちらを向いた。
まずい。
もう選んでいる暇がない。
スバルは地面の石を掴んだ。
「やるぞ!」
「スバル!」
アルミンが叫ぶが、もう遅い。スバルは物陰から半身を出し、全力で石を投げた。
石は巨人の頬に当たって弾かれた。
巨人の顔が、ぐるりとこちらへ回る。
「っ、来た!」
スバルは即座に路地の奥へ駆ける。背後で重い足音。来ている。来ている。想像しただけで足がもつれる。だが走るしかない。
「アルミン、今だ!」
エレンの声が飛ぶ。アルミンも石を投げたらしい。別方向で石のぶつかる音がした。巨人の足音が一瞬ぶれる。
振り返らない。
振り返ったら遅くなる。
スバルは狭い路地を必死で駆けた。角を曲がる。桶を蹴飛ばす。洗濯物の縄に顔を引っかけそうになる。心臓が喉から飛び出しそうだ。
「スバル、こっち!」
アルミンの声だった。
さらに先の分岐から手を振っている。生きてる。エレンもミカサもいる。全員だ。
「お、おおっ!」
そちらへ飛び込む。
直後、巨人の腕がさっきまで自分のいた角を薙いだ。石壁が砕け、破片が飛ぶ。頬をかすめ、熱い痛みが走る。
「うわっ!」
「しゃがんで!」
ミカサに肩を引かれ、そのまま転がるように別の路地へ滑り込む。エレンが後ろから倒れた樽を蹴飛ばし、道を少しだけ塞いだ。気休めにもならないが、一瞬の足止めにはなるかもしれない。
「走る!」
ミカサが言う。
四人はまた全力で走った。
今度は誰も喋らない。呼吸と足音だけ。背後で巨人の咆哮のような、ただの息のような音が響く。追ってきているのか、別の獲物を見つけたのかも分からない。
ただ、止まれば終わる。
どれだけ走ったか分からない頃、ようやく兵士の集まっている通りへ飛び出した。内門に向かう避難経路らしく、武装した駐屯兵が人を誘導している。巨人の姿は見えない。
四人とも、その場で膝をついた。
「は、ぁ……っ、は……!」
喉が切れる。肺が痛い。足が自分のものじゃない。
だが、生きている。
全員。
スバルは石畳に手をついたまま、荒い息の隙間で笑いそうになった。笑える状況じゃないのに、笑いが込み上げた。助かった。今は。それだけで、頭が変になりそうだった。
エレンが床に手をついたまま言う。
「……お前」
「ん、だよ……」
「さっきの、無茶だ」
「知ってる……」
「でも」
そこで言葉が切れる。呼吸を整える音。
「助かった」
短かった。
それだけだった。
なのにスバルは、思わず顔を上げた。
エレンはそっぽを向いている。照れてるわけじゃない。単に、それ以上の言葉を持たないだけだ。けれど十分だった。
アルミンが苦笑する。
「君たちって、仲悪いのか良いのか分からないね」
「悪いだろ」
「悪い」
スバルとエレンの声が被った。
アルミンが少しだけ笑い、ミカサはそのやりとりを見て、ごくわずかに目を細めた。
ほんの少しだけ。
その空気が生まれた次の瞬間、上空から立体機動装置の音がした。
兵士が数人、建物の上を飛び越えていく。緊迫した声が飛び交う。
「南側で穴が広がってる!」
「先行して避難民を内門へ!」
「船着き場も混乱してるぞ!」
その言葉に、アルミンの顔色が変わった。
「船着き場……」
「なんだよ」
エレンが顔を上げる。
「この区から避難するとしたら、最終的に船を使う可能性がある。門だけじゃ捌ききれないかもしれない」
「じゃあ船へ行けばいいのか!?」
「分からない。でも、人が集中する」
アルミンの瞳が忙しく動く。情報を組み立てている目だ。
「集中すれば、押し潰される人も出る。兵士の誘導が崩れたら、もっと混乱する」
スバルはその言葉を聞きながら、胸の奥に嫌な感覚が広がるのを覚えた。
まただ。
“次の破綻”の匂いがする。
自分は未来を知っているわけじゃない。だが、壊れ方のパターンだけは、少しずつ分かり始めていた。巨人だけが敵じゃない。恐怖が人を押し、押された人が倒れ、倒れた人を誰も助けられない。そういう連鎖が、この世界のあちこちに潜んでいる。
「……船着き場、行くのか」
スバルが問うと、アルミンは迷った。
エレンは即答する。
「行く」
「おい」
「ここにいたって安全じゃない」
その通りだ。
「それに、兵士の指示を待ってたら遅れるかもしれない」
「勝手に動くなって言われただろ」
「言われたよ。でも、状況が変わった」
エレンの声に、さっきまでのただの反発とは違う硬さがあった。カルラの死が、彼の中で何かを決定的に変え始めている。その変化が正しいのか危ういのか、スバルにはまだ分からない。ただ、このままでは止まらないだろうことだけは分かった。
ミカサが静かに言う。
「エレンが行くなら、私も行く」
「知ってる」
アルミンが頭を押さえる。
「……正面突破は危険だ。できれば裏道を使いたい。でも土地勘のある僕でも、混乱した今どこまで使えるか……」
三人が自然に話を進める中で、スバルだけが一瞬置いていかれそうになる。
違う。
ここで黙るな。
さっきまで“怪しい異物”だった自分が、この輪に半歩だけ入りかけている。たぶん、まだ半歩だ。だが、この半歩は命綱になるかもしれない。
「……俺も行く」
エレンが見る。
「当たり前だろ。今さら置いてけるかよ」
「別に頼んでない」
「頼まれなくてもついてくんだよ、こういうのは!」
「何だそれ」
「知らん! でも、そういうもんだろ!」
エレンが呆れたように息を吐いた。
アルミンが言う。
「じゃあ、行こう。でも今度は本当に、勝手な判断は減らそう。全員で状況を見て決める」
「おう」
「分かった」
「……了解」
スバルは最後に頷いた。
そのとき、不意に背後から誰かに腕を掴まれた。
反射で跳ねる。
「うわッ!?」
振り向くと、駐屯兵の一人だった。まだ若い。だが顔は土気色で、目だけがぎらついている。
「お前ら、ガキだけでどこへ行く」
鋭い声だった。
エレンがすぐに答える。
「避難です」
「なら隊列に並べ」
「でも――」
「でもじゃない!」
兵士は周囲を見回し、それからスバルの格好で一瞬だけ目を止めた。怪訝そうな目つきになる。
「……お前、なんだその服」
またそれか、とスバルは思ったが、いまはそんなことを突っ込んでいる場合じゃない。
「いや、遠い国の――」
「あとで聞く。今は全員、こっちだ」
兵士が強引に引っ張ろうとした、その直後。
別方向から、さらに大きな悲鳴が上がった。
兵士も、避難民も、全員がそちらを見る。
通りの向こう、屋根の連なりの間から、ゆっくりと巨大な手がせり上がっていた。
今までの巨人より、明らかに大きい。
その腕が、建物の上からこちらの通りへ伸びてくる。
「散れぇぇぇぇッ!!」
兵士の怒号。
人々が一斉に崩れた。
押し合い、転び、叫び、逃げ場を失う。さっきまで辛うじて保たれていた避難の列が、完全に破裂する。
スバルは咄嗟にミカサの腕を掴み、ミカサがアルミンを引き、エレンが兵士の手を振り払って駆け出した。
まただ。
また、予想外の場所から破綻する。
助かったと思った次の瞬間に、次の地獄が口を開ける。
その理不尽さに、スバルは歯を食いしばった。
だが今度は、立ち尽くさない。
「こっちだ、路地入れ!!」
自分の叫びに、三人がついてくる。
四人は崩れた避難列の横をすり抜け、巨人の手が落ちてくるより先に、細い路地へ飛び込んだ。
直後、背後で何か巨大なものが地面を叩く音がした。悲鳴が混ざる。振り返らない。振り返れば足が止まる。
止まれば、次は自分たちだ。
走りながら、スバルはようやく理解し始めていた。
死に戻りがあっても、この世界は“正解手順を覚えて突破するゲーム”じゃない。
むしろ逆だ。
知れば知るほど、救えなかったものと救いきれないものが増えていく。
それでも前へ行くしかない。
その事実だけが、足元の石畳みたいに硬く、重く、逃げ場なく彼の中へ沈んでいった。