新しい巨人は、棟の向こうからゆっくりと立ち上がった。
それだけで、さっきまで辛うじて繋がっていた道が潰れる。
第四補給点は近い。見えている。なのに、見えているだけで届かない。屋根の列は細く、下の路地には別の巨人、前には新たな一体。逃げ道はあるようで、どれも薄い。
「ちっ……!」
ジャンが舌打ちする。
「最悪だな」
「いちいち同意させんな」
スバルが返す。
だが最悪なのは本当だった。
ミーナとフランツはもう限界に近い。二人とも顔色が悪い。ガスも残り少ない。エレンはまだ動けるが、動けるからこそ危ない。ライナーは全体を見ている。ベルトルトは静かだが、いつでも飛び出せる姿勢を作っている。
全員が生きている。
その事実が、逆に重い。
ここから先は、誰かが前へ出る。そうしないと全員は抜けられない。そういう配置だ。
エレンが一歩前へ出た。
「俺が引く」
言うと思った。
スバルの背筋に、嫌な予感じゃない、もっとはっきりしたものが走る。こいつはここで前へ出る。それを完全に止めると、別の形で全員が詰む。止めずに雑に行かせると、本当に取り返しがつかなくなる。
なら、やり方を選ぶしかない。
「一人で行くな」
スバルが即座に言う。
エレンが睨む。
「は?」
「引くのはいい。けど、一人で突っ込むなって言ってんだよ」
「だったらどうしろってんだ」
ライナーが口を挟む。
「まずミーナとフランツを抜けさせる」
全員の視線がそちらへ向く。
「俺とジャンで巨人の目を散らす。ベルトルトが二人を東の棟へ渡す。そのあとで、残りが引く」
ジャンが顔をしかめる。
「お前、勝手に俺を数に入れるな」
「お前じゃなきゃ無理だ」
ライナーが言う。
「位置を見ながら細かく動けるやつがいる」
ジャンは舌打ちした。だが否定はしない。
スバルはそこへ重ねる。
「エレン、お前は最後尾」
「は?」
「ミーナとフランツが飛ぶまで前に出るな」
「ふざけんな、そんなの――」
「いまお前が先に出ると、二人が崩れる」
それは嘘じゃない。
エレンは前に出る圧が強い。近くにいる人間を巻き込む強さだ。良くも悪くも。
ミーナとフランツは、その圧に耐えられる状態じゃない。
エレンの顔が歪む。だが、言い返すより先に、ミーナが小さく言った。
「……ごめん」
フランツも唇を噛む。
その一言で、エレンは黙った。
こいつは、自分が足手まとい扱いされることより、誰かに“守られる側”の顔をされるほうが痛い。だからこそ効く。
「いい、行くぞ」
ライナーが低く言う。
速い。
そこから先はほとんど一瞬だった。
ライナーが左の棟を蹴る。ジャンが右へ散る。二方向から一体目の巨人の目を引く。ベルトルトがミーナの腕を取り、低い屋根への最短を作る。
「飛べ」
ベルトルト。
「で、でも――」
「いま」
ミーナが飛ぶ。着地が乱れる。だが持つ。ベルトルトがすぐ引く。
フランツ。
こっちはもっと危ない。顔が死んでる。足も震えている。だがミーナが今度は逆に手を伸ばした。
「来て!」
その声で、フランツも何とか飛ぶ。
よし。
ここまではいい。
だが、巨人はもう動きを変えていた。ライナーとジャンの散らしで一体目は逸れたが、もう一体が屋根列の下を回っている。残り三人――エレン、スバル、ライナー――をまとめて狙える角度に入ってきていた。
「次!」
ベルトルトが叫ぶ。
「スバル!」
スバルが前へ出かけた瞬間、エレンが肩を掴んだ。
「先行け」
低い声だった。
「は?」
「お前、次の屋根の角度見えてるんだろ」
一瞬、言葉が詰まる。
見えている。見えているからこそ、最後尾に残って全体を見るつもりだった。
エレンは続ける。
「だったらお前が先に行って、向こうで道作れ」
それは理屈として正しい。
正しすぎて、嫌になる。
「エレン」
スバルが呼ぶ。
こいつは、いままさに“最後に残る側”へ自分を置こうとしている。
自然に。
当然みたいに。
それがどこへ繋がるか、スバルだけが知っている。
「……死ぬなよ」
気づけば、それしか言えなかった。
エレンの口元が、ほんの少しだけ歪む。
「お前に言われたくねぇ」
その返しが、いつも通りすぎて腹が立つ。
「行け!」
ライナーが怒鳴る。
スバルは歯を食いしばって飛んだ。
低い棟。そこからさらに東の屋根へ。着地。滑る。持ち直す。振り返る。
次に飛ぶのはスバルじゃなく、ライナーだ。ライナーも飛ぶ。着地する。
残るはエレン。
巨人の腕が上がる。
近い。
「エレン!」
ジャンが叫ぶ。
「右だ!」
「分かってる!」
エレンが跳ぶ。
その瞬間、下の路地から別の巨人が顔を出した。
死角だった。
「っ――!」
エレンの着地点に、口が来る。
ここだ。
スバルの全身が凍る。
止めろ。
でも間に合わない。
でも止めろ。
エレンの目が見開く。着地を変えようとする。だが半歩遅い。
食われる。
――と思った瞬間、別の影が割り込んだ。
フランツだった。
さっき渡したばかりのフランツが、エレンの腕を引いたのだ。完全な成功じゃない。エレンの体はずれる。だが、そのせいで巨人の口が狙った位置から外れる。
代わりに、フランツの脚が噛み砕かれた。
「が、ああぁぁぁッ!!」
絶叫。
世界が裂けるみたいな声。
「フランツ!!」
ミーナが叫ぶ。
エレンが顔色を失う。
スバルの心臓が、今度は別の意味で止まりそうになる。
違う。
前と違う。
エレンは食われていない。
でも、その代わりにフランツがやられた。
未来をずらした先で、別の地獄が口を開いた。
「引けぇ!!」
ライナーが怒鳴る。
理屈ではそうだ。そうしないと全員死ぬ。だが、ミーナは動けない。フランツが巨人の口にぶら下がっているのを見て、完全に止まっていた。
エレンも止まる。
そして、その顔でスバルは理解する。
こいつは、次に飛び出す。
誰かを助けるために。
それは、性格でも衝動でもなく、もうこいつの骨だ。
「エレン! 待て!」
スバルが叫ぶ。
遅い。
エレンが動く。
前回と同じように、ただし今度はアルミンではなく、フランツへ向かって。
巨人の腕が来る。
ジャンが悪態を吐く。
「この馬鹿が!!」
ライナーが方向を変える。ベルトルトが動く。全員がそれぞれのやり方で“その一秒”へ飛び込む。
スバルは屋根の端を蹴った。
間に合うかどうかじゃない。もうその段階じゃない。死に戻りで未来をずらした。その先でまた誰かが死にかけてる。なら、もう次に賭けるしかない。
エレンの手がフランツに届く。
その瞬間、巨人の手がエレンごと薙ぐ。
スバルは、跳びながら思った。
変えたかったのは、たぶんこういうことじゃない。
でも、この世界はいつも、変えた先をもっときつくして返してくる。