「ジャン!!」
スバルが叫んだ瞬間には、もう体が動いていた。
這い上がる。足場は最悪。だが関係ない。細路地の半ば、壁へ叩きつけられたジャンがずり落ちるのが見える。まだ動いている。生きている。だから今なら間に合う。
巨人の腕が、壊した壁の向こうからもう一度伸びてくる。
「ライナー!」
スバルが怒鳴る。
ライナーはすでに反転していた。負傷した脚を引きずるような着地から、無理やり立て直す。ベルトルトもその横を抜ける。
だが距離がある。
間に合うかどうかで言えば、たぶん間に合わない。
だからスバルは、考える前に瓦礫を蹴り上げていた。
「こっちだクソがッ!!」
石片が巨人の顔面に当たる。効くはずもない。だが目線は少しだけ動く。その少しのズレが欲しい。
巨人の指先がジャンの襟を掠め、布を裂く。ジャンの体が半回転する。そこでようやく、ライナーが横からワイヤーを打ち込んだ。建物の骨組みに深く食い込み、その反動で身体を振り抜く。
蹴り。
巨人の手首を逸らすには足りない。だが角度を変えるには十分だった。
ベルトルトが滑り込むように着地し、ジャンの肩を掴んで引く。
「立て!」
低い声。
「るせぇ……!」
ジャンは血を吐きそうな顔で、それでも悪態を返した。生きてる。
スバルの肺にようやく空気が入る。
「全員、補給点へ!」
ライナーが怒鳴る。
「後ろは見るな!」
だが、その号令の直後。
細路地の先――第四補給点の方角から、別の怒号が重なった。
「補給点下がれ! 南路が崩れた!」
「負傷者優先!」
「ガス運べ、ガス!」
空気が変わる。
戻れば安全、ではない。
第四補給点そのものが、もう持たなくなってきている。
「くそっ……!」
スバルは歯を噛む。
ここまで戻したのに、また次の破綻が口を開く。死に戻りを使って一つ潰すと、別の形で歪みが出る。この世界はそういうふうにできている。
「どうする」
ベルトルトが珍しくはっきり聞いた。
ライナーが一瞬で周囲を見る。兵の動線。補給点の崩れ方。巨人の位置。負傷者の状態。
その判断の速さを見て、スバルはまた思う。こいつ、本当に兵士向きすぎる。
「第四点はもう終わる」
ライナーが言う。
「北の仮集積所へ切り替える」
「そんなの聞いてねぇぞ」
ジャンが吐き捨てる。
「今決めた」
ライナー。
「勝手にかよ」
「ここで命令待って全滅するよりましだ」
その返しに、誰もすぐ反論できなかった。
正しい。
正しいが、それはもう“新兵の判断”ではない。実戦で現場が上の命令より先に選ばなきゃならなくなる、あの領域の声だ。
エレンが低く言う。
「ならフランツはどうする」
全員の視線が、真ん中へ集まる。
フランツ。
脚を食われ、顔色は死人みたいに白い。ミーナが必死に支えているが、もう自力歩行は無理だ。ここから北の集積所まで運ぶには、速度が落ちる。速度が落ちれば、後ろから来る巨人に追いつかれる。
選択を迫られる。
嫌になるほど、はっきりと。
スバルの胃が冷える。
まただ。
また「誰をどう生かすか」じゃない。「誰を連れていけるか」だ。
フランツ自身が、その空気を読んだのか、唇を震わせた。
「……ミーナ」
「やめて」
ミーナが即座に遮る。
「何も言わないで」
だがフランツは止まらない。
「僕を置いてけ」
その一言が、細路地の空気を凍らせた。
スバルの頭の奥で、何かが鈍く鳴る。
こういうのだ。
この世界は、あっさりここへ来る。
「黙れ」
エレンが言った。
それは低く、鋭かった。
「置いてくとか、勝手に決めんな」
「でもこのままじゃ、みんな」
フランツの声はかすれている。
「分かってる。でも置いてくなんて言うな」
エレンの顔は血に濡れている。腕もまともじゃない。なのに、その目だけは焼けるみたいに強い。
スバルはその横顔を見て、胸の奥がきしむ。
こいつはやっぱり、こういう時にそう言う。
だから前へ出る。
だから死にかける。
そして、だからこそ物語の中心へ行く。
ミカサがいれば、きっとエレンを無理やりでも動かしただろう。だが今ここにはいない。アルミンもいない。代わりにいるのは、理屈で切るジャンと、現場で判断するライナーと、間に立つベルトルトと、半端者のスバルだ。
誰がこの場の答えを作る。
「担げる」
スバルが言った。
全員が見る。
「は?」
ジャンが言う。
「担いで運ぶ」
「誰が」
ライナー。
「俺が」
自分で言ってから、肩が悲鳴を上げそうになる。
無理だ。体格差もある。腕も疲れている。速度も落ちる。まともに考えれば最適解じゃない。
でも、置いてくって言葉を、この場で一回通したら終わる気がした。
「お前、馬鹿か」
ジャンが言う。
「知ってる」
スバル。
「でもそれで遅れたら全員死ぬぞ」
「だから全員でカバーすんだろ!」
言い返しながら、喉が裂けそうになる。
ライナーは無表情のままフランツを見る。ミーナを見る。スバルを見る。計算している顔だ。間に合うか、崩れるか、どこまで持つか。
ベルトルトが静かに言う。
「短距離なら、可能性はある」
ジャンが振り向く。
「お前まで」
「北の集積所まで一直線じゃない」
ベルトルトは続ける。
「三つ先の交差路に、まだ空き家が見えた。そこまで落とせば一度息を作れる」
スバルはその情報を聞いて、少しだけ視界が開ける。
一直線じゃない。
刻めばいい。
それなら。
「そこまでなら持つ」
スバルが言う。
「持たせる」
ライナーがようやく頷いた。
「やる」
短い一言。
それで全員が動いた。
順番を作る。
エレンとベルトルトが前を切る。ジャンが後ろを見る。ミーナはフランツの上半身を支え、スバルが下を担ぐ。ライナーは巨人の動線を見ながら、時々先回りして路地を空ける。
「重っ……!」
スバルが呻く。
「文句言うな!」
ジャン。
「言わせろよ! 重いもんは重いんだよ!」
「元気あるな」
エレンが振り向かず言う。
「ねぇよ! 気合で喋ってんだよ!」
それでも進む。
角を一つ曲がる。
後ろの巨人はまだ路地で詰まっている。建物を壊しながら追ってくる。まっすぐよりは遅い。だが、遅いだけだ。来る。
「次、左!」
ライナーが叫ぶ。
曲がる。路地が狭まる。人一人がやっと通る幅。ここで詰まったら終わる。
「ミーナ、前見ろ!」
ジャン。
「フランツだけ見るな、足元見ろ!」
「……っ、うん!」
ミーナの声は泣いていた。だが足は止まらない。
スバルはフランツの重みで肩が砕けそうだった。脚を失った体は、持ってみると嫌になるほど“人間の重さ”がある。軽くなったりしない。痛みも、恐怖も、喪失も、重さはそのままだ。
交差路が見えた。
空き家もある。
そこまであと少し。
だが、その少しのところで、上から瓦が降ってきた。
「っ!」
ベルトルトが飛び退く。
屋根を壊して、別の巨人が顔を出したのだ。
前にも一体。
後ろにも一体。
挟まれた。
まただ。
死に戻りで未来をずらしても、別の角度で詰ませに来る。
「散れ!」
ライナーが怒鳴る。
「フランツを家に放り込め!」
空き家。
半壊だが、屋根はまだ残っている。ひとまず巨人の視線を切るならそこしかない。
スバルとミーナでフランツを引きずる。エレンとベルトルトが前の巨人の注意を引く。ジャンが後ろの巨人へ瓦礫を投げて遅らせる。ライナーがその中間で位置を支える。
全員が、全員の役割をやっている。
訓練兵編を飛ばしたら、たぶんここは書けない。
そう思うくらい、この瞬間の連携には積み重ねがあった。
「入れ!」
スバルが叫ぶ。
空き家へ、フランツを押し込む。ミーナも転がるように入る。スバルも飛び込む。直後、壁が一部砕ける。巨人の指が中を探るように入ってくるが、奥までは届かない。
「エレン! ベルトルト!」
スバルが叫ぶ。
二人も別窓から滑り込む。ジャンとライナーが最後。全員が入った瞬間、家全体がびり、と鳴った。
息が止まる。
だが、ひとまず飲まれてはいない。
薄暗い室内。
壊れた家具。
土埃。
全員の荒い呼吸。
そして、フランツの浅すぎる息。
ミーナが膝をついて、その顔を両手で挟む。
「フランツ、フランツ……!」
フランツの唇がわずかに動く。
血が止まらない。
スバルは壁にもたれ、肩を押さえた。痛い。腕も痺れている。だが、それよりも胸の奥がきつい。
変えた。
エレンの死は変えた。
でも、その先でまた別の誰かが死にかけている。
死に戻りは、物語を都合よく優しくしてくれない。選ばせるだけだ。何を、どこまで、誰の代わりに、どこで諦めるのか。
その時、外から、別の人間の声が聞こえた。
「中にいるのか!?」
駐屯兵の声だ。
ライナーが顔を上げる。
「こっちだ!」
返す。
助かるかもしれない。
少なくとも、一度は。
だが、その希望が芽生えた直後、スバルは自分の手が震えていることに気づいた。
さっきエレンを死なせなかった。
その成功に、心が追いついていない。
もし、ここからまだ先があるなら。
また別の形で詰むのか。
それとも、少しずつ変えていけるのか。
外の兵の足音が近づく。
家の壁がさらに軋む。
誰もまだ、息を抜いていなかった。