空き家の壁は、もう長くもたなかった。
外から駐屯兵の声が近づく。
「中の生存者、返事しろ!」
「こっちだ!」
ライナーが怒鳴り返す。
そのやり取りの最中にも、家の外壁を巨人の指が抉っていく。木材が裂け、土埃が舞い、天井の梁が嫌な音を立てる。
フランツはもう、まともに声も出せなかった。
ミーナがその手を握りしめている。泣いているのに、泣き声だけは押し殺していた。エレンはその横顔を見て、何も言えずに歯を食いしばっている。左腕はまだ使えない。だが目だけは死んでいない。死んでいないどころか、今にも何かへ噛みつきそうな目だ。
「壁がもたん!」
ジャンが叫ぶ。
「裏窓から一人ずつ出せ!」
「フランツが先だ」
ベルトルトが言う。
「担げるか」
「担ぐしかないだろ」
ライナー。
外から駐屯兵が窓際まで来ていた。手を伸ばせば届く位置だ。だが、そこへ一人ずつ出すには時間が要る。時間が足りない。
巨人の腕が、ついに壁を半分破った。
家の中へ光が差し込み、同時に腐臭が流れ込む。
「っ……!」
スバルの喉が引きつる。
シガンシナ。あの日の感覚。死んで戻った時の噛み砕かれる感覚。全部が一気に蘇る。体が一歩、勝手に引いた。
そこへ、フランツがかすれた声で言った。
「……先に、ミーナを」
「やめて」
ミーナが即座に遮る。
「何も言わないで」
「でも、このままじゃ――」
「やめてって言ってるでしょ!」
その叫びに、家の中の空気が裂ける。
エレンが、その声に反応した。
ふらつきながら立ち上がる。左腕を庇い、それでも前へ出る。
「俺が押さえる」
低い声だった。
全員が見る。
「は?」
ジャンが言う。
「お前、何言って――」
「このままだと誰も出しきれねぇだろ」
エレンの声は不思議なくらい静かだった。
「だったら、俺が引く。その間にフランツとミーナを出せ」
「だめだ」
スバルが言った。
反射だった。
エレンが振り向く。
「何でだよ」
「お前はいま片腕だろうが」
「だからってここで全員死ぬよりマシだ」
「そんなの、勝手に決めんな!」
スバルの声が裂ける。
いまこの場で、誰かが時間を稼がないと詰む。
それは分かる。
分かるのに、エレンが前に出ると言われると、全身が拒絶した。
ライナーが低く言う。
「感情で止めるな」
その一言が、胸に刺さる。
正しい。
悔しいくらい正しい。
だが、正しいからといって飲み込める話ではない。
「順番だ!」
外の駐屯兵が怒鳴る。
「負傷者から出せ! 早く!」
壁がまた砕ける。
時間切れだ。
「ミーナ、フランツを窓へ!」
ライナーが決断する。
「ベルトルト、支えろ! ジャン、外と繋げ!」
「お前は!?」
ジャン。
「俺がここを押さえる」
「馬鹿か、お前脚――」
「いいから動け!」
エレンが言う。
「俺もやる」
ライナーが一瞬だけ見る。
「使えるのか」
「使えなくてもやる」
その返答に、ライナーは否定しなかった。
スバルの喉が焼ける。
止められない。
この流れは、もう止められない。
「俺も残る」
気づけば言っていた。
ジャンが怒鳴る。
「馬鹿増やしてどうすんだ!」
「うるせぇ! 残る人数増えたほうが押し返せるだろ!」
理屈は雑だ。だがゼロでもない。
ライナーは一瞬だけ考え、それから吐き捨てるように言った。
「三秒だ」
「は?」
「三秒だけだ。それ以上は意味がない」
エレンが小さく笑った。
「十分だ」
笑うな、と思う。
そんな顔するな。
だが、その“十分だ”の言い方に、スバルはもう何も言えなかった。
ミーナとフランツが窓際へ動く。ベルトルトがフランツの上体を持ち上げ、外の兵が腕を掴む。ジャンが位置を調整する。
ライナーが壁際へ立つ。
エレンがその横へ。
スバルも、気づけば少し後ろにいた。
巨人の顔が、割れた壁の向こうから覗く。
近い。
あまりにも近い。
「来るぞ」
ライナーが言う。
巨人の腕が入る。
ライナーが蹴る。逸らす。完全には無理だ。だが軌道はずれる。エレンが使える方の腕で瓦礫を掴み、顔面へ叩きつける。意味は薄い。だが一瞬だけ視線が散る。
スバルも、手近な木片を投げる。喉が焼けるのを無視して怒鳴る。
「こっち見ろ!!」
巨人の目が、ほんの少しだけスバルへ向いた。
その瞬間、別の巨人の手が横から突っ込んできた。
「右!」
スバルが叫ぶ。
ライナーが避ける。
エレンは、半拍遅れた。
使えない腕がある。それだけで、反応が一拍ずれる。
巨人の手がエレンを掴んだ。
「エレン!!」
スバルが叫ぶ。
掴まれた胴が軋む。エレンが顔を歪める。
だがその瞬間、フランツが半身を窓の外へ出されながら、それでも叫んだ。
「エレン!」
巨人の口が開く。
エレンの体が持ち上がる。
スバルは飛びついた。掴めたのは脚の裾だけだった。布が裂ける。エレンの顔が一瞬だけ見える。痛みと悔しさと、それでもまだ諦めていない目。
次の瞬間、その体は巨人の口の奥へ消えた。
血が飛ぶ。
ミーナが絶叫する。
ジャンが言葉を失う。
ライナーが顔を歪める。
スバルは、掴み損ねた手のまま、その場に固まった。
巨人が飲み込む。
エレンは消える。
その代わり、フランツが窓の外へ引きずり出され、ミーナも押し出される。ライナーが最後に飛び退き、スバルも窓へ転がるように逃げる。家が半壊する。兵たちが必死に引く。
外へ出た瞬間、スバルは地面へ転がり、息を失った。
耳鳴り。
叫び声。
蒸気。
全部が遠い。
「エレンは!?」
ジャンが怒鳴る。
「中だ!」
ライナーが返す。
「もう――」
その先を、誰も言わない。
言えない。
でも、みんな分かっている顔をしていた。
食われた。
目の前で。
スバルは地面に手をつき、震える息を吐く。
戻らない。
自分が死んでいないから。
なら、ここから先だ。
ここから先で、何が起きるのかなんて、スバルは知らない。
ただ一つだけ分かるのは、こんな終わり方をエレンが受け入れるはずがないということだけだった。
その瞬間、さっきエレンを飲み込んだ巨人の体が、不自然に止まった。
誰かが気づき、顔を上げる。
「……何だ」
ベルトルトが呟く。
巨人の首元から、蒸気が噴き出していた。普通の傷じゃない。内側から焼けるみたいに。
スバルの心臓が、違う意味で跳ねる。
何かが起きる。
理屈ではなく、肌でそう分かった。
来る。
わけの分からない何かが、ここで起きる。