蒸気が、さらに噴いた。
傷口から、ではない。
もっと内側から、焼けた圧みたいに。
「下がれ!!」
最初に怒鳴ったのはライナーだった。
声が一段低い。さっきまでの実戦の声とも違う、反射で出た警戒の声だ。
スバルは立ち上がりかけた体を、逆に地面へ叩きつけるように伏せた。
次の瞬間。
巨人の上半身が、内側から弾けた。
肉片が飛ぶ。骨が裂ける。白い閃光が一瞬だけ視界を焼き、耳の奥で何かが割れる音がした。
「――っ!」
誰かが叫ぶ。
誰の声か、分からない。
蒸気の柱の中で、何かが立ち上がる。
大きい。
さっきまで人間だったはずの景色を、平気で押しのける大きさだ。
十五メートル級。
だが、普通の巨人とは違った。
顔つきがある。
赤い筋肉が剥き出しで、眼窩の奥に、燃えているみたいな目がある。
口元が裂ける。
咆哮。
それは巨人の声というより、怒りそのものが形になったみたいな音だった。
「……何だ、あれ」
ジャンの声が、ひどく乾いていた。
ベルトルトが答えない。
ミーナも、フランツを抱えたまま固まっている。
スバルは息を呑んだ。
分からない。
分からないのに、本能だけが喚く。
来る、じゃない。
もう来ている。
何か、戦場の前提そのものが壊れた。
新しく現れた巨人は、こちらを見なかった。
真横。
別の無垢の巨人へ、いきなり踏み込む。
速い。
大きさに対して、速すぎる。
踏み込み一つで石畳が砕け、次の瞬間には拳が他の巨人の顔面へめり込んでいた。頭がひしゃげる。歯が散る。巨体が横倒しになる。
「は……?」
ジャンが、理解の追いつかない声を出す。
新しい巨人は止まらない。
倒れた相手へ馬乗りになる。
何度も殴る。
殴って、殴って、殴って、顔が原形を失ってもまだやめない。
無茶苦茶だ。
だが、狙っているのは人間じゃない。
巨人だ。
「おい……おい、待て」
スバルの喉が、勝手に震えた。
何でだ。
何で、巨人が巨人を殺してる。
ライナーの目が、はっきり変わっていた。
驚愕を押し殺している。だが、完全には消えていない。
ベルトルトも同じだ。あいつにしては珍しく、顔色が悪い。
その反応が、逆にスバルの背筋を冷やした。
こいつらですら知らないのか。
知らないものが、今ここに出てきたのか。
「動け!」
ライナーが最初に戻る。
「見てる場合じゃない! 北へ抜ける!」
その一喝で空気が割れた。
ジャンが舌打ちする。
「くそっ、んなの分かってる!」
「ミーナ、フランツ抱えろ! ジャン、先導! ベルトルト、後ろ!」
「お前は!?」
「俺は横を見る!」
ライナーはもう走り出していた。
命令が速い。
速すぎて、考える隙がない。
それで助かる。
スバルは転がるように立ち上がり、ミーナの横へ入った。
「貸せ!」
「え」
「いいから脚の方持て!」
フランツの体は軽くない。軽くないのに、血が抜けたみたいに頼りない。
ミーナと二人で支え、路地へ入る。
背後で、また咆哮。
振り向くな、と分かっているのに、振り向いてしまった。
あの巨人は、さらに別の一体へ噛みついていた。
肩口に食らいつき、そのまま引き千切る。巨人の腕が飛ぶ。蒸気が噴く。なのに自分の腕も半分潰れている。潰れたまま、まだ前へ出る。
戦い方が、正気じゃない。
勝つための綺麗な戦い方じゃない。
死んでもいいやつの戦い方だ。
その一瞬だけ、スバルは胸の奥を鷲掴みにされた気がした。
嫌な連想だった。
似ている、と思ってしまった。
誰に、とは考えたくなかった。
「スバル!!」
ジャンの怒鳴り声で我に返る。
前だ。
前を見ろ。
路地の先に、二体。
ライナーが先行していた。片脚を引きずっているのに、動きはまだ死んでいない。瓦礫を蹴り上げ、一体の視界を散らす。ベルトルトがその横を抜け、立体機動で低く旋回し、もう一体の首筋へ刃を入れる。浅い。だが十分だ。巨人がよろける。
「通れ!」
ライナー。
ミーナが泣きそうな顔で頷き、フランツを支えて走る。
スバルも食らいつく。
その時、背後で地面が揺れた。
新しい巨人だ。
あの“巨人を殴る巨人”が、通り一本向こうへ飛び込んだのだと分かった。建物がきしみ、悲鳴が連鎖する。
「……最悪だ」
ジャンが吐き捨てる。
「敵同士で潰し合ってくれるならまだいい。あれがこっち向いたら終わりだぞ」
「だから向く前に抜ける」
ライナーが返す。
迷いがない。
だが、その横顔にだけ、少しだけ硬さがあった。
スバルはそれを見逃さなかった。
こいつも怖いんだ。
あれを。
なら、なおさら意味が分からない。
北の仮集積所が見えた頃には、息はもう喉じゃなく胸そのものを裂いていた。
駐屯兵が怒鳴る。
「負傷者こっちだ! ガス残量確認! 戦えるやつは壁際を空けろ!」
フランツが引き渡される。
ミーナがその手を離せない。
ジャンが壁に手をついて荒く息を吐く。
ベルトルトは黙っている。
ライナーだけが、まだ街の中心を見ていた。
スバルも、つられてそちらを見る。
蒸気。
崩れる屋根。
遠くで、また一体、巨人が倒れる。
「……まだやってる」
誰かが呟いた。
駐屯兵の一人が顔を青くする。
「何なんだよ、あの巨人……」
答えられるやつは誰もいなかった。
ただ一つだけ、分かることがある。
あれが出てきてから、巨人の流れが変わった。
街の中心にいた連中が、そっちへ引っ張られている。
人間から目を逸らした。
つまり。
「道が開く」
スバルが、思わず漏らす。
ライナーが振り向く。
「何?」
「中央の圧が減る。今なら補給点に近づける」
言ってから、自分で気づく。
そうだ。
あれが何なのかは分からない。
でも、使える。
戦場をひっくり返した異物なら、その隙でこちらが生き残ることはできる。
ライナーの目が細くなった。
数秒。
本当に数秒だけ考えて、それから決断する。
「駐屯兵!」
怒鳴る。
「中央へ戻る部隊はいるか!」
「は!? 何言って――」
「今だ! あの巨人に喰いついてる連中が中央へ寄ってる! 補給路を通すなら今しかない!」
現場の兵が言い返しかけて、止まる。
中央を見る。
蒸気。
倒れる巨人。
悲鳴。
そして、確かに生まれている空白。
「……クソ」
年嵩の兵が毒づく。
「賭けるしかねぇのか」
「賭ける」
ライナーが即答した。
「今はそれが一番生き残る」
その返し方が、あまりにも迷いがなかった。
スバルは横で息を呑む。
こいつ、やっぱりおかしい。
こういう局面で強すぎる。
だが今は、それがありがたかった。
ジャンが顔をしかめる。
「また行くのかよ……」
「嫌ならここで座ってろ」
「座って生き残れるならそうしてる」
「なら来い」
「うるせぇ」
いつもの悪態。
なのに、少しだけ安心する。
まだ、こいつらは生きている。
まだ動ける。
スバルは中央の蒸気を見る。
あの巨人は、まだ戦っている。
何本も腕を振り抜き、何体も地面に叩き伏せ、傷だらけのまま前へ出ている。
終わったはずの場所から、まだ戦いが続いている。
その景色が、どうしようもなく目に焼きついた。
嫌な予感がする。
でも、それだけじゃない。
あれが出てきた瞬間から、さっきまでの「エレンが食われて終わり」の景色は、確かに壊れた。
だったら。
まだ何かある。
そんな気がしてしまった。
その時、中央のほうから、今までで一番大きな咆哮が上がった。
新しい巨人が、両腕を振り上げる。
そのまま、最後の一体の頭を石畳へ叩きつけた。
潰れる。
蒸気が上がる。
そして――
そいつ自身も、膝をついた。
「……おい」
スバルの喉が鳴る。
巨体が、ゆっくりと前へ崩れた。
戦いが、終わる。
終わった瞬間、今度は人間側の空気が変わった。
「いまだ!」
「中央路、押し返すぞ!」
「動けるやつは出ろ!」
戦場が、また別の意味で動き出す。
スバルは崩れた巨体を見つめたまま、嫌なほどはっきり思った。
終わってない。
あれの中に、まだ何か残ってる。
そんな気がしてならなかった。
第36話 生きていたことより、その生き方のほうが問題になる
中央路へ戻る流れは、さっきよりずっと速かった。
理由は単純だ。
みんな怖いからだ。
巨人が減ったこと自体は助かる。だが、その原因が「こっちの知らない巨人が暴れて片づけた」では、安心なんかできるわけがない。
駐屯兵が先行する。
ライナー、ジャン、ベルトルト、スバルもその後ろへ入る。
ミーナはフランツのそばに残された。泣きそうな顔で、それでも行くなとは言わなかった。
中央へ近づくほど、壊れ方がひどくなる。
石畳が抉れている。
建物の壁が内側から削れている。
巨人の死体が何体も転がっている。
その真ん中に、あの巨体があった。
うつ伏せに倒れ、蒸気を噴いている。
「近寄るな!」
前の駐屯兵が叫ぶ。
「まだ生きてるかもしれねぇ!」
誰もすぐには寄れない。
寄れるはずがない。
あれだけ暴れたものが、急にただの死体みたいに転がっている。
逆に怖い。
スバルは喉を鳴らした。
視線が、首の後ろに吸われる。
蒸気が濃い。
傷口、というより――
裂け目だ。
何かを包んでいた肉が、そこだけ開きかけているように見える。
「……スバル?」
ジャンが訝しむ。
だがスバルは答えない。
答えられない。
嫌な予感が、形を変えた。
直感じゃない。
もっと生々しい。
“あそこに人がいる”と思ってしまった。
「待て」
ライナーが低く言う。
スバルが一歩出たのを見たのだろう。
「今行くな」
「何でだよ」
「何が出るか分からん」
「分かんねぇから行くんだろうが!」
自分でも、声が荒いのが分かる。
ジャンが眉をひそめる。
「お前、まさか――」
その時だった。
別方向から、立体機動の音。
屋根を蹴る音が重なり、二つの影が下りてくる。
ミカサ。
アルミン。
二人とも息が荒い。中央の異変を見て駆けてきたのだろう。
アルミンが、倒れた巨体を見て立ち止まる。
「これ……」
声が震える。
「こいつが、他の巨人を……?」
「そうだ」
ジャンが吐き捨てる。
「訳わかんねぇだろ」
ミカサの視線は、倒れた巨体をなぞり、そのまま首筋へ止まった。
止まった瞬間、目が変わる。
スバルと同じものを見た。
「……あそこ」
小さく言う。
スバルはもう走っていた。
「おい!」
誰かが止める。
知らない。
止まれない。
巨体の背を登る。熱い。蒸気で皮膚が焼ける。滑る。手が肉に沈む。気持ち悪い。だが離せない。
首の後ろ。
裂け目。
近づくほど、確信が固まる。
これ、だ。
何かを守るみたいに、ここだけ肉の付き方が違う。
「スバル!」
アルミンの声。
気づけば、あいつも来ていた。
ミカサもだ。
ライナーたちは下から見上げている。
「下がれ!」
駐屯兵がなお叫ぶ。
「爆ぜるぞ!」
爆ぜるかもしれない。
でも、違う。
違うとしか思えない。
スバルは裂け目へ手を突っ込んだ。
熱い。
肉が剥がれる。
蒸気で前が見えない。
それでも掴んだ。
布。
人間の服だ。
心臓が、ひっくり返る。
「引け!!」
叫ぶ。
自分でも何を叫んでるのか分からない。
ただ、そこから先はアルミンのほうが速かった。
一瞬で顔色を変え、蒸気の中へ腕を突っ込む。
「人だ!!」
その声で、下の空気が凍った。
「は?」
ジャン。
「何――」
ベルトルト。
ミカサが、蒸気を裂くみたいに前へ出る。
三人で肉を剥がす。
裂け目が広がる。
肩。
髪。
顔。
見えた瞬間、アルミンの喉が潰れたような音を出した。
「――エレン」
その名前で、時間が止まった。
スバルの手から力が抜けかける。
いる。
本当にいる。
死んだはずの場所に。
食われたはずの先に。
巨人の首の後ろに。
エレンが。
顔色は悪い。
目は閉じている。
呼吸も、すぐには分からない。
でも、千切れていない。
消えていない。
ここにいる。
「引きずり出す!」
ミカサが言う。
声が鋭い。
「アルミン、腕! スバル、肩!」
「お、おう!」
返事が遅れる。
遅れながらも、掴む。
肉が絡みついている。まるでこの巨体そのものが、エレンを離したくないみたいに。
気持ち悪い。
でも、それ以上に怖い。
こんな形で生きてるやつを、見たことがない。
「せー、の!!」
三人で引く。
ずるり、と音がした。
エレンの上半身が外へ抜ける。
その瞬間、下から叫び。
「離れろォ!!」
駐屯兵だ。
銃口が上がる。
刃も上がる。
当然だ。
巨人の中から人間が出てきた。
化け物の証明にしか見えない。
ミカサがすぐさまエレンを抱え、アルミンがその前へ出る。
スバルも反射で一歩前に立った。
「撃つな!!」
喉が裂ける。
「そいつはエレンだ!!」
「ふざけるな!」
兵の一人が怒鳴り返す。
「巨人の中から出てきたんだぞ!」
「だから何だよ!」
「だから何だじゃねぇ!」
正しい。
正しいに決まってる。
目の前の現象だけ見れば、撃つ以外に何がある。
でも、ここで撃たせたら全部終わる。
やっと戻ってきたやつを、意味の分からないまま死なせることになる。
スバルの頭が、ものすごい速さで回る。
言葉。
言葉を探せ。
納得じゃなくていい。今は止めるための言葉だ。
その時。
下で、ライナーが一歩出た。
「待て」
低い声だった。
兵たちがそちらを見る。
ライナーは上を見上げたまま、はっきり言う。
「こいつが敵なら、さっき俺たちは全員死んでる」
沈黙。
それは、ものすごく強い一言だった。
事実だからだ。
誰も否定できない。
ベルトルトも、珍しくすぐ続いた。
「……人を狙わず、巨人だけを攻撃していました」
兵たちの目が揺れる。
撃ちたい。
でも、理屈が一つ崩れる。
スバルはその隙を逃さなかった。
「試せばいい!」
怒鳴る。
「縛れ! 囲め! それでいいだろ! 今ここで殺す理由はない!」
駐屯兵たちが迷う。
完全に止まってはいない。
だが、引き金が少し遠のく。
ミカサが、エレンを抱えたまま低く言った。
「……落ち着いて。まだ息がある」
その声で、今度はアルミンが本当に泣きそうな顔になった。
「生きてる……?」
「たぶん」
たぶん、で十分だった。
スバルの膝から力が抜ける。
生きてる。
意味は分からない。
どうしてこんなことが起きたのかも分からない。
でも、生きてる。
さっきまで確かに終わったはずのやつが、わけの分からない形で戻ってきた。
それは希望だ。
希望のはずなのに、周りを見れば、誰の顔にも安心なんかない。
ジャンは呆然としている。
駐屯兵たちは半歩も気を抜いていない。
ベルトルトは無言。
ライナーの目だけが、ひどく深い。
スバルはそこでようやく理解した。
助かった、で終わらない。
ここからだ。
エレンが生きていたこと自体が、新しい地獄の始まりになる。
その時、エレンの指が、ほんのわずかに動いた。
ミカサが息を呑む。
アルミンが名前を呼ぶ。
スバルも顔を上げる。
閉じていたまぶたが、かすかに震えた。
目覚める。
その気配だけで、周囲の兵たちが一斉に身構える。
誰もが、次に何が起きるのか分からない顔をしていた。
スバルも同じだった。
ただ一つだけ、今はっきりしている。
もう、元の流れには戻らない。