エレンの瞼が、ゆっくり開いた。
焦点が合っていない。
空を見ているのか、煙を見ているのかも分からない目だった。
「……エレン」
アルミンの声が、ひどく小さい。
ミカサが抱えたまま、その顔を覗き込む。
「分かる? 私が見える?」
数秒遅れて、エレンの視線が揺れた。
ミカサを見る。
次にアルミン。
最後に、スバルの方へ来て――止まる。
「……何で」
掠れた声だった。
「俺……」
その先が続かない。
当然だ。
続くはずがない。
食われた。腕を失った。脚を失った。飲み込まれた。死んだ。
そのはずの人間が、巨人の首の後ろから生えてきたみたいに出てきたのだから。
「動くな!」
下から駐屯兵が怒鳴る。
銃口がさらに上がる。
「手を離せ! そいつから離れろ!」
ミカサの目が細くなる。
離れるわけがない。
その空気が一瞬で伝わった。
まずい、とスバルは思った。
ここでミカサが逆らえば、相手は余計に撃ちやすくなる。
「待て、待て待て待て!」
慌てて両手を上げる。
「今刺激すんな! こいつだって何が何だか分かってねぇんだよ!」
「巨人の中から出てきたやつが人間の顔してるだけだろうが!」
「だったらさっき何で巨人だけ殴ってたんだよ!」
「それが罠だって話だ!」
正しい。
それを言われると、正しい。
正しいことしか言ってない相手を、正面から言い負かすのは無理だ。
理屈で押すな。
今は恐怖を止めろ。
スバルの頭が焼けるみたいに回る。
そのとき、エレンが身じろぎした。
周囲の空気が一気に張る。
「待て! 動くなエレン!」
アルミンが叫ぶ。
エレンは、ようやく自分の腕を見た。
ある。
失ったはずの腕がある。
脚もある。
何度も見返す。
呼吸が乱れる。
「……は?」
その一音に、混乱が全部詰まっていた。
「何で……俺、食われて――」
「それ以上言うな!!」
スバルが反射で怒鳴った。
エレンがびくりとする。
言わせるな、と思った。
自分が巨人の中にいたことを、自分の口で認めさせるな。
だが遅い。
周りはもう見てしまっている。
その瞬間、遠くから重い車輪の音がした。
砲だ。
次いで怒号。
「道を空けろ!!」
駐屯兵たちの間が割れ、砲兵隊が入ってくる。
先頭の中年兵が、状況を一目見て顔色を変えた。
すぐに命令が飛ぶ。
「砲列展開!! 目標、巨人化能力不明個体および周辺三名!」
「おいおいおいおい待て待て待て!!」
スバルの声が裏返る。
アルミンの顔も青くなる。
ミカサだけが、逆に静かだった。
静かすぎる。
あの顔は、斬る顔だ。
「ミカサ、ダメだ」
スバルが低く言う。
「今やったら全員終わる」
「でも」
「分かってる。分かってるから待て」
相手の指揮官が前に出る。
目が据わっている。
迷いがない。こういう兵は厄介だ。恐怖で撃つんじゃない。責任で撃つ。
「そこから離れろ」
言葉が硬い。
「そいつは人ではない。ここで排除する」
アルミンが声を振り絞る。
「待ってください! エレンは人間です! さっきまで僕たちと一緒に戦って――」
「巨人の首の中から出てきた!」
怒鳴り返される。
「それを人間と言い張れる根拠がどこにある!」
「さっき巨人を――」
「見た! 見たうえで、なお危険だと言っている!」
もう少しで詰む。
スバルには分かった。
こいつはまともだ。まともだから厄介だ。感情ではなく合理で殺しに来ている。
その横で、エレンがようやく状況を飲み込み始める。
「……俺が、あれに?」
顔が歪む。
「俺が、巨人に……?」
まずい。
自分の認識が崩れた人間は危ない。
そのとき、下からライナーの声が飛んだ。
「待ってくれ!」
珍しく、少しだけ焦りが混じっていた。
指揮官がそちらを見る。
「この者は我々訓練兵団の同期です! 少なくとも、ついさっきまで人間として行動していた!」
「それが今も人間である証拠にはならん!」
「ですが、敵対行動も確認されていない!」
ベルトルトも、遅れて口を開いた。
「……あの巨人は、人を避けていました」
周囲がざわつく。
事実が怖さを少し削る。
だが、それでも足りない。
指揮官の目は揺れない。
「砲手、装填」
終わる。
本当に終わる。
スバルは歯を食いしばった。
考えろ。
こいつが怖がってるのは何だ。
巨人か? 違う。
制御できない未知だ。
だったら――
「制御する!!」
自分でも喉が裂けると思うくらいの声が出た。
全員の視線が来る。
「制御するって言ったんだよ!! こいつが危険なら縛れ! 壁の上にでも閉じ込めろ! 調べろ! 何でもしろ! でも今ここで殺すのは、情報まで一緒に吹っ飛ばすのと同じだろうが!!」
指揮官の眉がわずかに動く。
通れ。
通れ。
「巨人を殺した巨人なんだぞ!! これが使えるなら、今この街で死んでる連中を減らせるかもしれねぇだろ!!」
砲兵たちの手が止まる。
止まった。
完全ではない。だが、一瞬止まった。
アルミンがそこへ食らいつく。
「そうです! 今のトロスト区で、一番足りないのは巨人に対抗できる戦力です! もしエレンが再現できるなら、これは戦況を変えられるかもしれない!」
「できる保証は?」
指揮官が即座に返す。
アルミンが詰まる。
そこへ、ミカサが静かに言った。
「保証はない」
空気が凍る。
だが、ミカサは続けた。
「でも、殺す保証もない。今撃てば、何が失われるかも分からないまま失う」
言い方が、珍しく理性に寄っていた。
それでも指揮官は動かない。
「……砲手」
再び命令が出かけた、その瞬間。
「待てい」
場違いなくらい、のんびりした声だった。
なのに、その一言で現場の空気がひっくり返る。
上からだ。
建物の屋根の縁。煙の向こう。
数人の兵を従えた、小柄な老人が立っていた。
白髪。細い目。飄々とした口元。
だが、その場の誰よりも強い存在感がある。
「司令……!」
兵たちがざわめく。
スバルは息を呑んだ。
出た。
ドット・ピクシス。
老人は屋根からこちらを見下ろし、砲列とエレンと、その間に立つスバルたちを順に眺める。
「えらくせっかちな話になっとるのう」
指揮官が即座に敬礼した。
「ピクシス司令! 危険個体を確認しました! 即時排除を――」
「見れば分かる」
ぴしゃり、と切る。
老人の目が細くなる。
その視線は笑っているようで、少しも笑っていなかった。
「で、それを撃って何が残る?」
「危険の除去です」
「ほう。では訊こう」
ピクシスは屋根の上から、崩れた巨人の死体を顎で示した。
「中央の巨人どもを片付けたのは誰じゃ?」
誰も答えない。
答えは明白だからだ。
「人類に牙を剥かず、巨人にだけ牙を剥いた存在を、正体不明だからという理由だけで即座に消す」
老人は一歩だけ前へ出た。
「それは軍として正しい判断か? それとも、怖いから早う消したいだけか?」
指揮官が歯を食いしばる。
その沈黙だけで、決着だった。
「砲を下げい」
「しかし!」
「下げい」
今度は声に重さがあった。
逆らえない。
砲兵たちが、しぶしぶ砲口をずらす。
スバルの全身から力が抜けそうになる。
助かった。
いや、まだだ。
助かっただけだ。
ピクシスが再びエレンを見る。
「坊や。立てるか?」
エレンは答えない。
顔が死んだみたいに青い。
自分の手を見ている。まだ、自分が何になったのか飲み込めていない。
アルミンが代わりに口を開いた。
「……今は、難しいと思います」
「なら運べ」
あっさり言う。
「壁上へ。余計な目の届かぬ場所で話を聞く」
その決断の速さに、スバルは逆にぞっとした。
この老人、やっぱりやばい。
未知を前にして、まず見ようとする。
だから上に立てるんだろう。
ピクシスは最後に、スバルを見た。
「そこの黒髪の坊主」
「えっ、俺?」
「声がでかい。嫌いではない」
口元だけで笑う。
「後でお主の話も聞かせい。ずいぶん必死じゃったからの」
そう言い残して、老人は先に屋根の向こうへ消えた。
その背中を見送りながら、スバルは息を吐く。
最悪は免れた。
だが分かっている。
これは救出じゃない。
審問の猶予だ。
ミカサがエレンを支え直す。
アルミンも肩を貸す。
ライナーとベルトルトが、下からこちらを見上げていた。
ライナーは安堵したようにも見えた。
でも、その目の奥にだけ、見たことのない硬さがある。
ベルトルトはもっと露骨だった。
青い。
顔色が、悪すぎる。
スバルはそこで確信した。
エレンが生きていたこと。
しかも、巨人になったこと。
それは単に新しい戦力が増えたって話じゃない。
誰かの計画を、根本から狂わせる出来事だ。
そしてそれを一番強く感じているのが、あの二人だ。
ろくでもない未来の匂いがした。
第38話 壊れた未来にも、使える道はある
壁の上は、風が強かった。
トロスト区の煙が、下からゆっくり流れてくる。
その端で、エレンは毛布を被せられたまま座っていた。
ミカサが右。アルミンが左。スバルはその正面。
少し離れて、ピクシスと数名の兵。さらに後ろに、リコを含む駐屯兵の幹部連中。
空気が重い。
誰も軽口を叩かない。
「さて」
ピクシスが口を開いた。
「まず、何が起きたかを整理しようかの」
エレンは俯いたままだ。
声を出せる状態じゃない。
アルミンが気遣うように顔を覗き込む。
「エレン、話せそう?」
しばらく沈黙。
それから、エレンがようやく口を開いた。
「……覚えてねぇ」
掠れた声だった。
「巨人に食われたところまでは覚えてる。その後は……夢みたいに、めちゃくちゃで……」
自分の掌を見る。
握る。開く。まだ慣れないものを見るみたいに。
「何か、すげぇ熱くて……息ができなくて……でも、殺さなきゃって思って……」
その言葉に、駐屯兵たちがまたざわつく。
ピクシスが片手で抑える。
「続けい」
「殺さなきゃっていうか……俺が、っていうより、体の中全部がそうなってた感じで……」
エレンは眉を寄せた。
「分かんねぇ。ほんとに分かんねぇんだよ」
スバルは黙って聞く。
たぶん本当だ。
作った嘘じゃない。自分でも咀嚼できていない記憶だ。
「では質問を変えよう」
ピクシスの声は静かだった。
「お主は、再びあの姿になれると思うか?」
エレンが顔を上げる。
すぐには答えない。
当然だ。
なる、って何だ。人が巨人になるなんて、前提が狂いすぎている。
「……できるかどうかは知らない」
やっと出てきた答えは、それだった。
「でも、もしできるなら」
そこで言葉が切れる。
下の街を見る。
巨人に踏み荒らされたトロスト区。煙。叫び。まだ終わっていない地獄。
エレンの目が少しだけ戻る。
「巨人を殺せる」
単純で、まっすぐで、救いようがないほどエレンらしい答えだった。
リコが冷たく言う。
「殺せる、では足りない。こちらが欲しいのは制御だ」
「じゃあ制御って何だよ」
スバルが思わず噛みつく。
全員の目が来る。
「この状況で完璧な再現性求めてどうすんだよ! 使える可能性があるなら使うしかねぇだろ!」
「可能性で兵を賭けろと?」
「もう賭けてんだよ! 街の中で今も!!」
リコの目が細くなる。
睨み返してから、スバルは気づく。
この人は冷たいんじゃない。死ぬ人数を一人でも減らしたいだけだ。
冷たく見えるのは、そのために感情を削ってるからだ。
ピクシスが興味深そうに顎を撫でる。
「ほっほ。坊主は本当に声がでかいの」
「すんません」
「いや、よい。現場の怒鳴り声は判断材料じゃ」
そう言ってから、老人は視線を下の門へ向けた。
トロスト区外門。
破壊されたまま、穴が口を開けている。
補給しても補給しても、巨人が入ってくる根だ。
「ふむ」
細い目がさらに細くなる。
「もしじゃ。もし、お主がもう一度巨人になれたとして――あの門を塞げるとしたら?」
全員が一斉にそちらを見る。
スバルの心臓が跳ねた。
来た。
でも同時に、嫌な汗が噴く。
この未来は知ってる。知ってるはずだ。なのにもう、何もかも少しずつ違う。
エレンが生きて出てきた場所も違う。周囲の面子も違う。兵たちの認識も違う。
知っている未来のはずなのに、そのまま使うのが怖い。
エレンは門を見る。
かなり長く見た。
それから、かすれた声で言う。
「……どうやって」
「方法はある」
アルミンだった。
目が戻っている。
こいつもそうだ。恐怖で潰れかけても、考える対象が与えられた瞬間に生き返る。
「あの門の近くに、大きな岩塊があります」
全員の視線がアルミンへ向く。
「巨人の力で持ち上げられれば、穴を塞ぐことができるかもしれません」
リコが即座に反応する。
「かもしれない、では作戦にならない」
「でも、門を塞ぐ以外に根本解決はありません」
アルミンの声が震える。
でも、言葉は止まらない。
「今の戦力で区内の巨人を全部狩っても、穴が開いたままならまた同じです。なら、賭ける価値はある」
その理屈に、壁上が静まり返る。
ピクシスは笑った。
「よい。非常によい」
楽しそうですらあった。
「人類が滅ぶ時は、理屈のない諦めから滅ぶ。ならば、理屈のある博打は大歓迎じゃ」
そう言い切る。
やっぱりこの老人、狂ってる。
でも今はそれがありがたい。
リコがなお食い下がる。
「司令、失敗した場合の損害は」
「考えるまでもない。今も増え続けておる」
「……」
「なら、変化のある失敗のほうがまだましじゃろう」
強い。
議論じゃない。腹の座り方が違う。
エレンがまだ門を見ている。
その横顔に、スバルは妙な影を見た。
「……できる」
小さく言う。
「たぶん、できる」
ミカサがエレンを見る。
アルミンも息を呑む。
「本当に?」
「分からねぇ。でも、さっき……」
エレンは額を押さえた。
「変な感じがした。あの姿になってるとき、全部が遠いのに、何か一つだけはっきりしてるみたいな……」
言葉を探す。
「目的、みたいな」
そこで、スバルの背筋が粟立った。
何だ。
何かが引っかかる。
エレンの言い方。あまりにも、“誰かに与えられた方向”みたいだ。
嫌な予感がする。
未来を知る巨人。死に戻り。父親。注射。まだ全部が繋がっていない。
でも今、その違和感を掘る時間はない。
ピクシスが決断する。
「よし。トロスト区奪還作戦を開始する」
言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
兵たちの顔から迷いが消えるわけではない。だが、向く先が定まる。
「リコ隊は前衛護衛。イアン、ミタビ、左右の撹乱を整えい。巨人化個体が岩を運ぶまでの道をこじ開ける」
「はっ!」
「訓練兵団の三名――ミカサ、アルミン、スバル」
呼ばれて、三人とも顔を上げる。
「お主らはエレンの傍におれ。坊やが正気を失えば即座に見極め、使えるなら押し、駄目なら切れ」
スバルはぎょっとした。
「最後が物騒すぎるだろ」
「戦とはそういうものじゃ」
老人は平然としている。
言い返せない。
エレンが立ち上がろうとして、よろけた。
ミカサが支える。
アルミンが肩を貸す。
スバルも反対側へ回る。
その時、壁の階段の下に、ライナーたちの姿が見えた。
集められていたらしい。
ライナーはエレンを見上げ、ほんの一瞬だけ視線を強くした。
「……生きてたな」
それだけ言う。
声はいつも通りに聞こえる。
だが、いつも通りすぎるのが逆に怖い。
ベルトルトは何も言わなかった。
ただ、エレンを見る目が暗い。
ジャンだけが、半ば呆れたように吐いた。
「巨人になって帰ってくるとか、意味わかんねぇぞお前」
エレンは苦笑いもできない顔で返す。
「俺にも分かんねぇよ」
その一言で、少しだけ空気が戻る。
でも本当に少しだけだ。
戦いは終わっていない。
むしろ、ここからが本番だ。
スバルは壁の向こう、門の近くの巨大な岩を見る。
知っている未来のはずだった。
でももう、それは“答え”じゃない。
使えるかもしれない“材料”に変わっている。
だったら、怖くても前に行くしかない。
「……なあ、エレン」
並んだまま、小さく言う。
「今は分かんなくていい。とにかく、やれることだけやれ」
エレンは数秒黙っていた。
それから、ほんの少しだけ頷く。
「……ああ」
その返事の直後。
壁の下から、また新しい悲鳴が上がった。
巨人が接近している。
時間切れだ。
ピクシスが杖を鳴らす。
「各員、配置につけい!」
兵が走る。
ワイヤーが飛ぶ。
刃が抜かれる。
スバルも息を吸った。
門を塞げば変わる。
変わるはずだ。
けれど、その先に何が待っているのかは、もう誰にも分からない。
そして、分からないまま進むことにかけては――ナツキ・スバルは、たぶんこの世界で誰より慣れていた。