Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

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第4話 泣いている暇がない

 

 路地へ飛び込んだ直後、背後で地面が揺れた。

 

 石壁がびりびりと震え、上の窓枠から埃が落ちてくる。さっきまで自分たちがいた通りに、巨人の腕か、あるいは体そのものが叩きつけられたのだと分かった。悲鳴が一瞬だけ大きくなり、それから別の方向へ流れていく。

 

 振り返らない。

 

 四人とも、もうそれを本能で理解していた。

 

「右!」

 

 アルミンが叫ぶ。

 

 エレンが先頭で角を曲がる。ミカサがそのすぐ後ろ。スバルは肩で壁を削るみたいに走り、狭い路地の湿った空気を肺へ押し込んだ。喉が痛い。胸が痛い。なのに走るのをやめたら、その瞬間に何か巨大なものに背中を掴まれそうだった。

 

 ようやく少し開けた裏庭のような場所に出て、四人は同時に足を止めた。

 

 家屋の裏手だった。洗濯物が途中まで干されたまま風に揺れている。木桶が倒れ、鶏が一羽だけ逃げ遅れたみたいに隅で鳴いていた。人の姿はない。

 

「……はっ、は……」

 

 スバルは膝に手をつき、喉の奥の血の味を飲み込んだ。

 

 生きている。まだ。

 

 でも、まだ、だけだ。

 

 エレンが荒い息のまま言う。

 

「ここ、どこだ」

 

「民家の裏手……だと思う」

 

 アルミンも息を切らしながら辺りを見る。

 

「たぶん、内門への大通りから一つ外れた区画。さっきの通りに戻るのは危ない」

 

「戻る気ない」

 

 ミカサが短く言った。

 

 その声に迷いはなかった。もう彼女の中で、“安全そうな列に従えばなんとかなる”という発想自体が切れているのだと分かる。エレンも、アルミンも、そしてたぶんスバルも同じだった。

 

 さっきまで兵士が誘導していたあの列は、一瞬で崩れた。

 

 秩序は大事だ。だが、その秩序が破綻したとき、下敷きになるのはいつも、遅れた者と弱い者だ。

 

 この世界は、そういう顔を平然と見せてくる。

 

「船着き場、まだ行くのか」

 

 スバルが言うと、エレンは即答した。

 

「行く」

 

「即答すぎるだろ、お前」

 

「止まる理由がない」

 

「あるだろ、死ぬかもしれねぇんだぞ」

 

「どこにいても同じだ」

 

 返しが早すぎて、スバルは言葉に詰まった。

 

 その通りだったからだ。

 

 家の中でも、通りでも、兵士の近くでも、巨人は壊しに来る。避難列も絶対じゃない。なら“ここにいれば大丈夫”なんて場所はない。あるとすれば、“今はまだ見つかってない”だけの場所だ。

 

 アルミンが口を開く。

 

「ただ、船着き場そのものが安全とは限らない」

 

「人が集まるからか」

 

 スバルの問いに、アルミンは頷いた。

 

「うん。船で脱出できるならみんなそこへ向かう。でも、誰もが一度に乗れるわけじゃない。押し合いになれば、それだけで怪我人が出る。兵士が持ち場を維持できなければ、もっとひどくなる」

 

「じゃあどうすんだよ」

 

「近づきすぎない場所から様子を見る。道が詰まってたら別の経路を考える」

 

「考えるって、具体的には」

 

「……その時、考える」

 

「うわ、参謀が言っちゃいけないこと言った」

 

「仕方ないだろ!」

 

 アルミンが珍しく声を荒らげた。

 

「全部分かるわけじゃないんだ! でも、考えないよりマシだよ!」

 

 その怒鳴り声に、空気が一瞬だけ固まる。

 

 アルミン自身が驚いた顔をした。

 

 スバルも、エレンも、ミカサも黙る。

 

 それからアルミンが俯いた。

 

「……ごめん」

 

「いや」

 

 スバルは首を振った。

 

「怒るとこそこなんだなって、ちょっと意外だっただけ」

 

「どういう意味?」

 

「お前、ずっと冷静ぶってるけど、ちゃんと余裕ないんだなって」

 

 アルミンは返事をしなかった。

 

 ただ、唇を噛んだ。

 

 当たり前だ。余裕なんかあるはずがない。母親を目の前で失ったエレンとミカサほど露骨じゃないだけで、アルミンだってずっと追い詰められている。考えることでしか立っていられない人間は、考えが詰まった瞬間に一気に崩れる。

 

 スバルはそのことを、なぜか直感で理解した。

 

 そして、その直感が自分にも返ってくる。

 

 自分は喋ることで立っている。口を止めたら恐怖が追いつく。だからくだらないツッコミを入れる。怒鳴る。軽口を叩く。そうしないと足が止まる。

 

 似ているのかもしれない。形が違うだけで。

 

 ミカサがふいに言った。

 

「来る」

 

 全員が顔を上げる。

 

 遠くではない。すぐ近くの塀の向こう側から、重い足音が聞こえた。ずし、ずし、と一定じゃない歩幅。石を擦るみたいな、嫌な響き。

 

 四人は息を殺す。

 

 足音は、塀の向こうを通り過ぎる気配を見せて――止まった。

 

「……ッ」

 

 スバルの首筋を汗が伝う。

 

 何かを嗅いでいるみたいに、いや、そんな知性があるのかは知らないが、とにかく“立ち去らない”。それだけで十分に怖かった。

 

 エレンがゆっくりと、庭の隅に立てかけてあった木の棒へ手を伸ばす。

 

 スバルは目を剥いた。

 

「何してんだお前」

 

「武器」

 

「それでどうすんだよ!」

 

「何もしないよりは――」

 

「マシじゃねぇ!」

 

 思わず大きい声が出た。

 

 全員の顔が一斉にこちらを向く。しまった、と思った時にはもう遅い。

 

 塀の向こうで、足音が変わった。

 

 止まっていたものが、こちらへ回り込む音になる。

 

「……走る」

 

 ミカサが即断した。

 

「裏口」

 

 家の裏手、半開きになっていた扉がある。さっきは気にも留めなかったが、そこが唯一の逃げ道だった。

 

 アルミンが先に駆ける。ミカサが続く。エレンが最後尾――になりかけて、スバルがその肩を乱暴に押した。

 

「お前も行け!」

 

「触んな!」

 

「いいから行けって!」

 

 押し込むようにして扉の内側へ。スバルも飛び込む。直後、背後で塀が崩れた。

 

 木片と土が吹き飛び、巨人の腕が庭へ突っ込んでくる。半拍遅れて、四人は家の中へ転がり込んだ。

 

 薄暗い。

 

 家具がある。食卓。椅子。壁にかけられた布。生活の匂い。けれど人はいない。避難したのか、間に合わなかったのか、考えたくない。

 

「二階!」

 

 アルミンが叫ぶ。

 

 理由は聞かない。全員が木の階段を駆け上がる。家が古いせいで、踏むたび不安な音がした。

 

 二階の廊下の先に窓がある。アルミンはそこを開け放ち、隣家との距離を見た。

 

「飛べる!」

 

「は!? マジで!?」

 

「やるしかない!」

 

 アルミンが先に窓枠へ足をかける。その華奢な体で跳び越えられるのか、とスバルが思う間もなく、アルミンは隣家の低い屋根へ飛んだ。転がりながらも着地する。

 

「次!」

 

 ミカサが迷いなく跳ぶ。軽い。猫みたいに音が少ない。次いでエレン。

 

「お前も来い!」

 

 エレンが叫ぶ。

 

 その直後、一階から家が軋む音がした。

 

 巨人が壁を壊している。

 

 スバルの足がすくむ。

 

 高所が怖いとか、そんなレベルじゃない。下を見れば石畳だ。落ちればただじゃ済まない。だがここに残ればもっと悪い。

 

「来い、スバル!」

 

 アルミンの声。

 

 行け。

 

 死ぬのは嫌だろ。

 

 死ぬのはもう嫌だ。

 

 スバルは歯を食いしばり、窓枠を蹴った。

 

 飛ぶ。

 

 空中の一瞬が、あり得ないくらい長く感じた。

 

「う、お、おおおッ――!」

 

 着地は最悪だった。足が滑り、屋根の傾斜をそのまま転げ落ちる。

 

「うわぁぁぁ!!」

 

「スバル!」

 

 ミカサが腕を掴んだ。

 

 片手で。

 

 細い腕なのに、信じられない力で、ずり落ちかけたスバルを止める。スバルは半分ぶら下がる格好で、下を見て顔が引きつった。

 

「た、助かった……」

 

「静かに」

 

「そのテンションで言われると余計こえぇよ!」

 

 ミカサは無言でスバルを引き上げる。エレンが舌打ちする。

 

「足手まとい」

 

「今助けられたばっかのやつに言われたくねぇ!」

 

「助けたのはミカサだ」

 

「こまけぇ!」

 

 叫んでいるうちに、背後で家の上階が壊れた。窓枠が吹き飛び、巨人の頭が半ば突っ込んでくる。幸い、この高さでは家屋が邪魔で動きにくいらしいが、悠長に見ていられる距離ではない。

 

「屋根伝いに行く」

 

 アルミンが先を指さす。

 

「この先で通りに降りられるかもしれない」

 

 四人は屋根の上を走り出した。

 

 瓦が滑る。足場は悪い。スバルは二度ほど本気で転びかけ、そのたびにエレンに「ちゃんと走れ!」と怒鳴られた。ちゃんと走れで済むなら苦労しない。

 

 だが、屋根の上から見える景色は、それはそれで地獄だった。

 

 煙が上がっている。遠くで炎が見える。通りを逃げる人の群れ。巨人の姿。建物の陰からぬっと現れ、ただそこにいるだけで人間の世界を破壊していく、巨大な人の形。

 

 壁はまだそびえているのに、その内側だけが崩れていく。

 

「……最悪だな」

 

 スバルが呟くと、エレンが前を見たまま答えた。

 

「今さらだ」

 

 強い言い方だが、その声は少しかすれていた。

 

 最悪だと思っているのは同じなのだ。声に出さないだけで。

 

 屋根伝いにいくつか家を越えた先で、ようやく低い倉庫のような建物に出た。そこからなら、裏通りへ飛び降りても怪我は軽く済みそうだ。

 

 アルミンが先に降りる。ミカサ、エレン、スバルの順。

 

 着地で足が痺れる。だが平地だ。ありがたい。

 

 その裏通りには、幸いまだ巨人の姿はなかった。だが遠くに避難民が走っているのが見える。船着き場の方角か、それとも内門か、判別はつかない。

 

「どっちだ」

 

 エレンが問う。

 

 アルミンは迷った末、左を指した。

 

「こっち。大通りを避けるなら、川沿いに出たほうがいい。船着き場にも近いはず」

 

「近いはず、ばっかだな今日は」

 

 スバルが言うと、アルミンは苦い顔をした。

 

「文句があるなら代案を」

 

「ないです!」

 

「なら走って」

 

「はい!」

 

 短いやりとりのあと、また走る。

 

 もう何度目かも分からない全力疾走だった。だが足が重くなっている。呼吸も荒い。全員が限界に近づいているのに、止まる場所がない。

 

 川沿いに出ると、空気が少しだけ開けた。そのぶん、遠くまで見える。

 

 そして見えてしまった。

 

 船着き場のほうへ向かう大きな通りが、人で埋まっていた。

 

「……うわ」

 

 スバルの口から漏れる。

 

 人、人、人。

 

 荷物を抱えた人々。子どもを連れた母親。怪我人を担ぐ男。怒鳴る兵士。泣く声。叫ぶ声。船着き場そのものはまだ見えないが、そこへ通じる道がすでに飽和しているのは一目で分かった。

 

「だめだ、詰まりすぎてる」

 

 アルミンが青ざめる。

 

「このまま入ったら動けなくなる」

 

「でも、行かないと船に乗れない」

 

 エレンが言う。

 

「乗れなきゃここに残るしかないだろ」

 

「分かってる。でも押し合いの中に入ったら……」

 

 言いかけたその時、群衆の一部が急にざわついた。

 

 何かが起きたのだと分かる。先頭のほうで悲鳴が上がり、後方の人間がそれに押されるようにさらに詰まる。兵士が怒鳴る声が遠くから飛ぶが、もう列というよりただの塊だ。

 

「まずい」

 

 アルミンが顔色を失う。

 

「将棋倒しになる」

 

 その単語の意味は、スバルにも分かった。

 

 現代日本でもニュースで見る。人が密集しすぎた場所で、一人が転び、後ろが押し、折り重なって窒息する。巨人がいなくても人は死ぬ。

 

「どうする」

 

 ミカサが問う。

 

 アルミンは答えない。答えられない。

 

 エレンは拳を握っている。待つのは嫌だ、でも突っ込むのも違う、そんな顔だ。

 

 スバルは人の塊を見ながら、頭の奥がざらつくのを感じていた。

 

 また、だ。

 

 また“ここで誰かが死ぬ”形が見えてしまう。

 

 見えてしまうのに、止める方法がすぐに浮かばない。

 

 いや――。

 

「声」

 

 三人が振り向く。

 

「は?」

 

 エレンが言う。

 

「上から声出せる場所。屋根とか荷台とか。兵士が前で怒鳴っても後ろに届いてねぇ。後ろのやつらは“止まれ”が聞こえてないんだ」

 

 言いながら、自分でも思考が繋がっていくのが分かる。

 

「だから後ろからも止める。横道に流す。通りの脇へ逃がす。少なくとも、真正面に押し込むだけの流れを切る」

 

「誰がやるの」

 

 ミカサが言う。

 

 それが問題だった。

 

 兵士を探すか。いるだろうが、あの混乱の中で話を聞く余裕のある奴がどれだけいる。しかも自分たちは子どもだ。いや、スバルは子どもではないつもりだが、外見的にはほぼ同類でしかない。

 

 となると。

 

「……俺が行く」

 

 言った瞬間、三人の顔が同時に険しくなった。

 

「またかよ」

 

 エレンが吐き捨てる。

 

「まただよ!」

 

 スバルも負けじと言い返す。

 

「でもこの中で一番声デカいの俺だろ!」

 

「自慢することじゃない」

 

「今回は割と武器だろ!」

 

「兵士に殴られる」

 

 ミカサが冷静に言う。

 

「ありえる!」

 

 スバルは認めた。

 

「でもこのまま突っ込んでも死ぬやつ出る!」

 

 その言葉に、三人とも黙る。

 

 出る。たぶん。かなりの確率で。

 

 それを想像できてしまったからこそ、誰も即座には否定できない。

 

 アルミンが絞るように言った。

 

「……兵士に伝えるだけじゃ足りないかもしれない」

 

「分かってる」

 

「聞いてもらえなかったら?」

 

「聞かせる」

 

「どうやって」

 

「知らん!」

 

「無計画!」

 

「知ってる!」

 

 スバルは自分でも半分投げやりだと思いながら、それでも言葉を続けた。

 

「でも、なんもしないよりマシだろ! 俺、さっきからそればっかかもしれねぇけどさ……!」

 

 声が熱を持つ。

 

「分かんねぇなら分かんねぇなりに、今できることやるしかねぇだろ!」

 

 沈黙。

 

 エレンが舌打ちした。

 

 それから、低く言った。

 

「……俺も行く」

 

「は?」

 

「お前一人じゃ余計怪しい」

 

「それはちょっと否定できない!」

 

「ミカサ」

 

「行く」

 

「だよな」

 

 エレンはアルミンを見る。

 

「お前は?」

 

「僕も行くよ」

 

 アルミンは少し青い顔のまま、それでも頷いた。

 

「その代わり、ちゃんと順番を決めよう。スバルが兵士に話す。僕が補足する。エレンとミカサは人の流れを横へ誘導できそうな位置を探す」

 

「最初からそれ言えよ、天才」

 

「最初から天才みたいに言うのやめてくれない?」

 

「そこ謙遜すんなよ、頼りにしてんだから!」

 

 アルミンが一瞬だけ目を丸くする。

 

 ほんの少しだけ、言葉に詰まったような顔をした。

 

 その横でエレンが鼻を鳴らした。

 

「……行くぞ」

 

 四人は、今度はただ逃げるためじゃなく、人の流れに逆らうために走り出した。

 

 船着き場へ向かう通りの脇。

 

 そこにもう一つ別の地獄が口を開けかけているのを、止めるために。

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