路地へ飛び込んだ直後、背後で地面が揺れた。
石壁がびりびりと震え、上の窓枠から埃が落ちてくる。さっきまで自分たちがいた通りに、巨人の腕か、あるいは体そのものが叩きつけられたのだと分かった。悲鳴が一瞬だけ大きくなり、それから別の方向へ流れていく。
振り返らない。
四人とも、もうそれを本能で理解していた。
「右!」
アルミンが叫ぶ。
エレンが先頭で角を曲がる。ミカサがそのすぐ後ろ。スバルは肩で壁を削るみたいに走り、狭い路地の湿った空気を肺へ押し込んだ。喉が痛い。胸が痛い。なのに走るのをやめたら、その瞬間に何か巨大なものに背中を掴まれそうだった。
ようやく少し開けた裏庭のような場所に出て、四人は同時に足を止めた。
家屋の裏手だった。洗濯物が途中まで干されたまま風に揺れている。木桶が倒れ、鶏が一羽だけ逃げ遅れたみたいに隅で鳴いていた。人の姿はない。
「……はっ、は……」
スバルは膝に手をつき、喉の奥の血の味を飲み込んだ。
生きている。まだ。
でも、まだ、だけだ。
エレンが荒い息のまま言う。
「ここ、どこだ」
「民家の裏手……だと思う」
アルミンも息を切らしながら辺りを見る。
「たぶん、内門への大通りから一つ外れた区画。さっきの通りに戻るのは危ない」
「戻る気ない」
ミカサが短く言った。
その声に迷いはなかった。もう彼女の中で、“安全そうな列に従えばなんとかなる”という発想自体が切れているのだと分かる。エレンも、アルミンも、そしてたぶんスバルも同じだった。
さっきまで兵士が誘導していたあの列は、一瞬で崩れた。
秩序は大事だ。だが、その秩序が破綻したとき、下敷きになるのはいつも、遅れた者と弱い者だ。
この世界は、そういう顔を平然と見せてくる。
「船着き場、まだ行くのか」
スバルが言うと、エレンは即答した。
「行く」
「即答すぎるだろ、お前」
「止まる理由がない」
「あるだろ、死ぬかもしれねぇんだぞ」
「どこにいても同じだ」
返しが早すぎて、スバルは言葉に詰まった。
その通りだったからだ。
家の中でも、通りでも、兵士の近くでも、巨人は壊しに来る。避難列も絶対じゃない。なら“ここにいれば大丈夫”なんて場所はない。あるとすれば、“今はまだ見つかってない”だけの場所だ。
アルミンが口を開く。
「ただ、船着き場そのものが安全とは限らない」
「人が集まるからか」
スバルの問いに、アルミンは頷いた。
「うん。船で脱出できるならみんなそこへ向かう。でも、誰もが一度に乗れるわけじゃない。押し合いになれば、それだけで怪我人が出る。兵士が持ち場を維持できなければ、もっとひどくなる」
「じゃあどうすんだよ」
「近づきすぎない場所から様子を見る。道が詰まってたら別の経路を考える」
「考えるって、具体的には」
「……その時、考える」
「うわ、参謀が言っちゃいけないこと言った」
「仕方ないだろ!」
アルミンが珍しく声を荒らげた。
「全部分かるわけじゃないんだ! でも、考えないよりマシだよ!」
その怒鳴り声に、空気が一瞬だけ固まる。
アルミン自身が驚いた顔をした。
スバルも、エレンも、ミカサも黙る。
それからアルミンが俯いた。
「……ごめん」
「いや」
スバルは首を振った。
「怒るとこそこなんだなって、ちょっと意外だっただけ」
「どういう意味?」
「お前、ずっと冷静ぶってるけど、ちゃんと余裕ないんだなって」
アルミンは返事をしなかった。
ただ、唇を噛んだ。
当たり前だ。余裕なんかあるはずがない。母親を目の前で失ったエレンとミカサほど露骨じゃないだけで、アルミンだってずっと追い詰められている。考えることでしか立っていられない人間は、考えが詰まった瞬間に一気に崩れる。
スバルはそのことを、なぜか直感で理解した。
そして、その直感が自分にも返ってくる。
自分は喋ることで立っている。口を止めたら恐怖が追いつく。だからくだらないツッコミを入れる。怒鳴る。軽口を叩く。そうしないと足が止まる。
似ているのかもしれない。形が違うだけで。
ミカサがふいに言った。
「来る」
全員が顔を上げる。
遠くではない。すぐ近くの塀の向こう側から、重い足音が聞こえた。ずし、ずし、と一定じゃない歩幅。石を擦るみたいな、嫌な響き。
四人は息を殺す。
足音は、塀の向こうを通り過ぎる気配を見せて――止まった。
「……ッ」
スバルの首筋を汗が伝う。
何かを嗅いでいるみたいに、いや、そんな知性があるのかは知らないが、とにかく“立ち去らない”。それだけで十分に怖かった。
エレンがゆっくりと、庭の隅に立てかけてあった木の棒へ手を伸ばす。
スバルは目を剥いた。
「何してんだお前」
「武器」
「それでどうすんだよ!」
「何もしないよりは――」
「マシじゃねぇ!」
思わず大きい声が出た。
全員の顔が一斉にこちらを向く。しまった、と思った時にはもう遅い。
塀の向こうで、足音が変わった。
止まっていたものが、こちらへ回り込む音になる。
「……走る」
ミカサが即断した。
「裏口」
家の裏手、半開きになっていた扉がある。さっきは気にも留めなかったが、そこが唯一の逃げ道だった。
アルミンが先に駆ける。ミカサが続く。エレンが最後尾――になりかけて、スバルがその肩を乱暴に押した。
「お前も行け!」
「触んな!」
「いいから行けって!」
押し込むようにして扉の内側へ。スバルも飛び込む。直後、背後で塀が崩れた。
木片と土が吹き飛び、巨人の腕が庭へ突っ込んでくる。半拍遅れて、四人は家の中へ転がり込んだ。
薄暗い。
家具がある。食卓。椅子。壁にかけられた布。生活の匂い。けれど人はいない。避難したのか、間に合わなかったのか、考えたくない。
「二階!」
アルミンが叫ぶ。
理由は聞かない。全員が木の階段を駆け上がる。家が古いせいで、踏むたび不安な音がした。
二階の廊下の先に窓がある。アルミンはそこを開け放ち、隣家との距離を見た。
「飛べる!」
「は!? マジで!?」
「やるしかない!」
アルミンが先に窓枠へ足をかける。その華奢な体で跳び越えられるのか、とスバルが思う間もなく、アルミンは隣家の低い屋根へ飛んだ。転がりながらも着地する。
「次!」
ミカサが迷いなく跳ぶ。軽い。猫みたいに音が少ない。次いでエレン。
「お前も来い!」
エレンが叫ぶ。
その直後、一階から家が軋む音がした。
巨人が壁を壊している。
スバルの足がすくむ。
高所が怖いとか、そんなレベルじゃない。下を見れば石畳だ。落ちればただじゃ済まない。だがここに残ればもっと悪い。
「来い、スバル!」
アルミンの声。
行け。
死ぬのは嫌だろ。
死ぬのはもう嫌だ。
スバルは歯を食いしばり、窓枠を蹴った。
飛ぶ。
空中の一瞬が、あり得ないくらい長く感じた。
「う、お、おおおッ――!」
着地は最悪だった。足が滑り、屋根の傾斜をそのまま転げ落ちる。
「うわぁぁぁ!!」
「スバル!」
ミカサが腕を掴んだ。
片手で。
細い腕なのに、信じられない力で、ずり落ちかけたスバルを止める。スバルは半分ぶら下がる格好で、下を見て顔が引きつった。
「た、助かった……」
「静かに」
「そのテンションで言われると余計こえぇよ!」
ミカサは無言でスバルを引き上げる。エレンが舌打ちする。
「足手まとい」
「今助けられたばっかのやつに言われたくねぇ!」
「助けたのはミカサだ」
「こまけぇ!」
叫んでいるうちに、背後で家の上階が壊れた。窓枠が吹き飛び、巨人の頭が半ば突っ込んでくる。幸い、この高さでは家屋が邪魔で動きにくいらしいが、悠長に見ていられる距離ではない。
「屋根伝いに行く」
アルミンが先を指さす。
「この先で通りに降りられるかもしれない」
四人は屋根の上を走り出した。
瓦が滑る。足場は悪い。スバルは二度ほど本気で転びかけ、そのたびにエレンに「ちゃんと走れ!」と怒鳴られた。ちゃんと走れで済むなら苦労しない。
だが、屋根の上から見える景色は、それはそれで地獄だった。
煙が上がっている。遠くで炎が見える。通りを逃げる人の群れ。巨人の姿。建物の陰からぬっと現れ、ただそこにいるだけで人間の世界を破壊していく、巨大な人の形。
壁はまだそびえているのに、その内側だけが崩れていく。
「……最悪だな」
スバルが呟くと、エレンが前を見たまま答えた。
「今さらだ」
強い言い方だが、その声は少しかすれていた。
最悪だと思っているのは同じなのだ。声に出さないだけで。
屋根伝いにいくつか家を越えた先で、ようやく低い倉庫のような建物に出た。そこからなら、裏通りへ飛び降りても怪我は軽く済みそうだ。
アルミンが先に降りる。ミカサ、エレン、スバルの順。
着地で足が痺れる。だが平地だ。ありがたい。
その裏通りには、幸いまだ巨人の姿はなかった。だが遠くに避難民が走っているのが見える。船着き場の方角か、それとも内門か、判別はつかない。
「どっちだ」
エレンが問う。
アルミンは迷った末、左を指した。
「こっち。大通りを避けるなら、川沿いに出たほうがいい。船着き場にも近いはず」
「近いはず、ばっかだな今日は」
スバルが言うと、アルミンは苦い顔をした。
「文句があるなら代案を」
「ないです!」
「なら走って」
「はい!」
短いやりとりのあと、また走る。
もう何度目かも分からない全力疾走だった。だが足が重くなっている。呼吸も荒い。全員が限界に近づいているのに、止まる場所がない。
川沿いに出ると、空気が少しだけ開けた。そのぶん、遠くまで見える。
そして見えてしまった。
船着き場のほうへ向かう大きな通りが、人で埋まっていた。
「……うわ」
スバルの口から漏れる。
人、人、人。
荷物を抱えた人々。子どもを連れた母親。怪我人を担ぐ男。怒鳴る兵士。泣く声。叫ぶ声。船着き場そのものはまだ見えないが、そこへ通じる道がすでに飽和しているのは一目で分かった。
「だめだ、詰まりすぎてる」
アルミンが青ざめる。
「このまま入ったら動けなくなる」
「でも、行かないと船に乗れない」
エレンが言う。
「乗れなきゃここに残るしかないだろ」
「分かってる。でも押し合いの中に入ったら……」
言いかけたその時、群衆の一部が急にざわついた。
何かが起きたのだと分かる。先頭のほうで悲鳴が上がり、後方の人間がそれに押されるようにさらに詰まる。兵士が怒鳴る声が遠くから飛ぶが、もう列というよりただの塊だ。
「まずい」
アルミンが顔色を失う。
「将棋倒しになる」
その単語の意味は、スバルにも分かった。
現代日本でもニュースで見る。人が密集しすぎた場所で、一人が転び、後ろが押し、折り重なって窒息する。巨人がいなくても人は死ぬ。
「どうする」
ミカサが問う。
アルミンは答えない。答えられない。
エレンは拳を握っている。待つのは嫌だ、でも突っ込むのも違う、そんな顔だ。
スバルは人の塊を見ながら、頭の奥がざらつくのを感じていた。
また、だ。
また“ここで誰かが死ぬ”形が見えてしまう。
見えてしまうのに、止める方法がすぐに浮かばない。
いや――。
「声」
三人が振り向く。
「は?」
エレンが言う。
「上から声出せる場所。屋根とか荷台とか。兵士が前で怒鳴っても後ろに届いてねぇ。後ろのやつらは“止まれ”が聞こえてないんだ」
言いながら、自分でも思考が繋がっていくのが分かる。
「だから後ろからも止める。横道に流す。通りの脇へ逃がす。少なくとも、真正面に押し込むだけの流れを切る」
「誰がやるの」
ミカサが言う。
それが問題だった。
兵士を探すか。いるだろうが、あの混乱の中で話を聞く余裕のある奴がどれだけいる。しかも自分たちは子どもだ。いや、スバルは子どもではないつもりだが、外見的にはほぼ同類でしかない。
となると。
「……俺が行く」
言った瞬間、三人の顔が同時に険しくなった。
「またかよ」
エレンが吐き捨てる。
「まただよ!」
スバルも負けじと言い返す。
「でもこの中で一番声デカいの俺だろ!」
「自慢することじゃない」
「今回は割と武器だろ!」
「兵士に殴られる」
ミカサが冷静に言う。
「ありえる!」
スバルは認めた。
「でもこのまま突っ込んでも死ぬやつ出る!」
その言葉に、三人とも黙る。
出る。たぶん。かなりの確率で。
それを想像できてしまったからこそ、誰も即座には否定できない。
アルミンが絞るように言った。
「……兵士に伝えるだけじゃ足りないかもしれない」
「分かってる」
「聞いてもらえなかったら?」
「聞かせる」
「どうやって」
「知らん!」
「無計画!」
「知ってる!」
スバルは自分でも半分投げやりだと思いながら、それでも言葉を続けた。
「でも、なんもしないよりマシだろ! 俺、さっきからそればっかかもしれねぇけどさ……!」
声が熱を持つ。
「分かんねぇなら分かんねぇなりに、今できることやるしかねぇだろ!」
沈黙。
エレンが舌打ちした。
それから、低く言った。
「……俺も行く」
「は?」
「お前一人じゃ余計怪しい」
「それはちょっと否定できない!」
「ミカサ」
「行く」
「だよな」
エレンはアルミンを見る。
「お前は?」
「僕も行くよ」
アルミンは少し青い顔のまま、それでも頷いた。
「その代わり、ちゃんと順番を決めよう。スバルが兵士に話す。僕が補足する。エレンとミカサは人の流れを横へ誘導できそうな位置を探す」
「最初からそれ言えよ、天才」
「最初から天才みたいに言うのやめてくれない?」
「そこ謙遜すんなよ、頼りにしてんだから!」
アルミンが一瞬だけ目を丸くする。
ほんの少しだけ、言葉に詰まったような顔をした。
その横でエレンが鼻を鳴らした。
「……行くぞ」
四人は、今度はただ逃げるためじゃなく、人の流れに逆らうために走り出した。
船着き場へ向かう通りの脇。
そこにもう一つ別の地獄が口を開けかけているのを、止めるために。