船着き場へ向かう通りの脇道は、すでに人で溢れていた。
真正面の大通りほどではない。それでも、避難の流れから押し出された人々が行き場を失い、横道へ横道へと滲み出してきている。肩がぶつかり、怒鳴り声が飛び、泣き声が混ざる。誰もが前へ進みたいのに、前そのものが詰まっている。
このまま行けば、潰れる。
スバルは走りながら、それを皮膚で理解していた。さっきから何度も見てきた。人間は恐怖に追われると、周りが見えなくなる。自分だけは違うなんてことはない。自分だって同じだ。だから余計に分かる。
「どこだ、兵士!」
スバルが叫ぶ。
「右手に一人!」
アルミンが指した。
通りの脇で、若い駐屯兵が必死に両腕を振っていた。
「押すな! 押すな! 列を乱すな!」
声が潰れかけている。だが、後方へは届いていない。前の連中には聞こえるかもしれないが、後ろは“前が詰まっている”という事実しか感じていない。押しているつもりもなく押してしまう。後ろから押されるからだ。
「スバル!」
「分かってる!」
四人は兵士のもとへ駆け寄った。
「おい!」
スバルが怒鳴ると、兵士が険しい顔で振り向く。
「子どもは下がれ! 邪魔だ!」
「邪魔なのは分かってる! でもこのままだと倒れる!」
「見れば分かる!」
「後ろに止まれって伝わってねぇんだよ!」
兵士の顔が一瞬だけ固まった。
そこへアルミンが割って入る。
「前から怒鳴っても後方には届いてません! 横道へ逃がさないと、詰まり続けます!」
「誰だお前ら!」
「それは今どうでもいいだろ!」
エレンが噛みつくように言った。
「人が死ぬ!」
兵士は歯を食いしばったまま群衆を振り返る。
迷っている。信用していいか、命令系統を無視していいか、それとも目の前の子どもを追い払うべきか。どれも一瞬で決めなきゃならない。その迷いが顔に出た。
スバルはそこで待てなかった。
「アルミン!」
「うん!」
「エレン、ミカサ! 横道!」
「分かった!」
返事と同時に散る。
スバルは兵士の横をすり抜け、通り脇に停められていた荷車へ飛びついた。木箱が積まれている。高い。ちょうどいい。
「お、おい!」
兵士が止めるより先に、スバルは箱を踏み台にしてよじ登った。
足場は不安定だが、立てないほどじゃない。群衆の頭が見える。押し流される人の波が見える。後方ほど状況を分かっていない顔が多い。焦って前を目指すだけの顔だ。
なら、届かせる。
喉が裂けてもいい。
「止まれぇぇぇぇぇッ!!」
腹の底から怒鳴った。
群衆の何人かがぎょっとして顔を上げる。
「前が詰まってる! 押すな! 横道行け! 横に逃げろ!!」
最初は誰も従わない。
当たり前だ。こんな訳の分からない黒ジャージのガキが木箱の上で叫んでるだけだ。兵士でもない。権威もない。怪しさしかない。
だが、止めない。
「押すなって言ってんだろ!! 転んだら終わりだぞ!!」
その言葉に、後ろの何人かの顔が変わった。“転ぶ”という具体が初めて届いた顔だ。
そこへアルミンが脇道から叫ぶ。
「こっち空いてます! 子ども連れはこっちへ! 脇に避けて!」
声はスバルほど大きくない。けれどよく通る。聞く側が耳を傾けたくなる声だ。しかも内容が具体的だ。“横へ逃げろ”ではなく、“子ども連れはこっち”と示している。
ミカサは本当に人を動かしていた。泣いて動けなくなった女の子の手を引き、母親ごと脇道へ押し込む。その動きが速い。迷いがない。言葉は少ないが、腕の力と目つきで従わせている。
エレンは転びかけた荷車の車輪を押さえ、通りを塞ぎかけた荷をどかしていた。細い腕で無茶をしている。だが、ああいう奴だ。考える前に体が動く。
「そっち行くな、詰まってる!」
エレンが怒鳴る。
「こっち空けろ! 横行け、横!」
兵士がそれを見た。
迷いが消えるのが分かった。
「おい、お前ら!」
彼は別の駐屯兵へ向かって叫ぶ。
「後方へ回れ! 脇道へ流せ! 押し戻すな、横へ割れ!」
ようやく、命令が変わった。
そこからは少しだけ早かった。別の兵士も気づき始める。前へ進ませることだけが避難じゃない。流れを割る。密度を下げる。その発想が広がるだけで、群衆の“圧”がほんの少し変わる。
ほんの少し。
それでも、意味はある。
スバルは喉を焼きながら叫び続けた。
「押すな! 横だ! 子どもと怪我人、先に脇行け! 止まれ、止まれぇ!!」
耳鳴りがする。声がすでにかすれている。それでも止めない。
そのとき、後方で悲鳴が上がった。
嫌な種類の、短い悲鳴だった。
スバルの背筋が凍る。
「……転んだ」
アルミンの声が風に混じって聞こえた。
群衆の一角が不自然に沈む。何人かがつまずき、押され、折り重なる。
「くそっ!」
スバルは荷台から飛び降りた。
「スバル!」
アルミンが叫ぶ。
聞こえていた。だが止まれない。あそこで崩れたら、一気に広がる。後ろが止まらない限り、人の重みだけで死ぬ。
「止まれぇぇぇ!!」
走りながら叫ぶ。
人の隙間をこじ開けるように進む。肩がぶつかる。肘が当たる。何度も弾き飛ばされそうになる。
「どけ! 足元見ろ! 足元!!」
ようやく崩れた場所が見えた。女が一人倒れている。その上に男が半ば乗り、さらに後ろから別の誰かが押されてきていた。悲鳴はもう声になっていない。圧し潰される直前の、息の詰まる音だった。
スバルは迷わず一番上の男の肩を掴んで引いた。
「どけッ!」
「な、なんだお前――」
「いいから起きろ!!」
無茶苦茶な力だった。だが、男が体勢をずらしたことでわずかな隙間ができる。その瞬間、ミカサが横から滑り込んで倒れた女の腕を掴んだ。
「引いて」
「お、おう!」
二人がかりで引っ張る。重い。圧がかかっている。けれど少しずつ抜ける。
そこへエレンが割って入った。
「後ろ下がれって言ってんだろ!!」
少年の声だ。だが、怒りが真っ直ぐすぎて、押していた大人のほうが一瞬たじろぐ。
その瞬間にアルミンが叫ぶ。
「怪我人です! 空けてください! ここ塞いだら全員動けなくなる!」
言い方が上手い。善意じゃない。利害で言っている。“助けてやれ”ではなく“お前らも困る”で動かす。そういう賢さだ。
倒れた女を引きずり出した瞬間、スバルは背中から誰かに突き飛ばされた。
「がっ!」
前のめりに転ぶ。石畳に手を打ちつける。痛い。
その頭上を、人の足がいくつも通り過ぎる。
まずい。
息が詰まる。
ここで踏まれたら――。
「スバル!」
エレンの声。次いで襟首を乱暴に引かれる感覚。首が締まる。だが助かる。
「ぐえっ、首!」
「黙ってろ!」
「助けといて言い方ァ!」
引きずられるように脇へ逃れた。そこへ駐屯兵が二人駆け込み、人の流れを棒で制し始める。
「下がれ! ここは止まれ!」
「横道へ回れ!」
命令が、ようやく後方まで通り始めた。
群衆の圧が、少しだけ薄くなる。
少しだけ。
だが崩壊の連鎖を止めるには、それで足りたらしい。折り重なりかけた人々が一人、また一人と起き上がる。泣いている。怒鳴っている。呆然としている。けれど生きている。
スバルは地面に尻をついたまま、大きく息を吐いた。
「……っ、は……はぁ……」
喉が完全に死んでいた。声がかすれすぎて、笑うしかない。
ミカサが倒れていた女を支え、その家族らしい男に引き渡す。アルミンは兵士へ何か早口で説明している。エレンはまだ通りの真ん中で怒鳴っていた。あいつ、体力どうなってんだ。
兵士の一人が、ようやくスバルのところへ来た。さっきの若い駐屯兵だった。
「お前……」
息を切らし、汗だくで、それでもこっちを見る目はさっきと違っていた。
「勝手なことしやがって」
「それは……はい……」
怒られる流れだ、とスバルは思った。実際、指揮系統を考えればそうだろう。子どもが荷台に乗って勝手に避難民を誘導するなんて、まともなら止めるべきだ。
兵士は短く息を吐いた。
「……助かった」
スバルは目を瞬いた。
「は?」
「礼を言ってる暇はないが、意味はあった」
言い切って、兵士はすぐ別の方向へ向き直る。
「おい! そこの二人、脇道をさらに空けろ! 荷物は捨てさせろ!」
命令を飛ばしながら走っていく背中を、スバルはしばらく見ていた。
認められた、というほどじゃない。ただ、そこに意味があったと判断された。たったそれだけなのに、妙に胸が熱くなる。
だが次の瞬間、その熱は別の感情に塗りつぶされた。
通りの向こうで、また悲鳴が上がったからだ。
今度は人の圧じゃない。
もっと原始的な、はっきりした恐怖の声。
巨人。
その単語が、聞くまでもなく頭に浮かぶ。
「エレン!」
ミカサが呼ぶ。エレンも振り向く。アルミンが兵士から飛び退く。
大通りのさらに向こう、家屋の隙間から、巨人の頭が見えた。三体。小型ばかりだが、こんな密集した場所では一体で十分すぎる。
兵士たちの顔色が変わる。
「前衛、迎撃! 避難民を下げろ!!」
叫び声。立体機動装置の蒸気音。剣が抜かれる音。
だが、迎撃している間にも群衆は混乱する。せっかく割れかけた流れが、また恐怖で押し戻される。今度は“前に行けない”ではなく“後ろへ逃げたい”がぶつかる。
「ちっ……!」
スバルは立ち上がった。
足が震える。怖い。あんなの近くに来られたら終わりだ。さっき食われた時の感触が喉までせり上がる。
それでも、止まれなかった。
「アルミン!」
「うん!」
「ここ、もうもたない!」
「分かってる!」
アルミンは通りと脇道と兵士の配置を一瞬で見て、顔を歪めた。
「船着き場は近い。でも通りは崩れる。なら――」
「裏から行くしかない」
ミカサが言う。
エレンが頷く。
「川沿いのさらに裏だな」
「行けるのか?」
スバルが問う。
「知らない。でもここにいるよりはマシ」
エレンの返答が、またそれだった。
どこにいても危険だ。なら、危険の種類を選ぶしかない。
兵士たちが巨人へ飛びかかるのが見えた。まだ距離はある。今なら動ける。
「行くぞ!」
四人は、通りの脇からさらに裏へ伸びる細い道へ走り出した。
さっき助けた女の泣き声が背後で聞こえる。兵士の怒号も、剣が肉を裂くような嫌な音も。
全部、後ろだ。
全部、置いていく。
それが正しいのかは分からない。だが、いま全員を助ける力なんてない。スバルはその事実を噛みしめながら走った。助けたばかりでも、また別の誰かが死ぬ。この世界は、たった一つの成功を簡単に帳消しにしようとする。
なら、帳消しにされる前に、次を掴みに行くしかない。
川沿いの裏道はぬかるんでいた。荷の搬入に使う道なのか、踏み荒らされ、水が溜まり、走りにくい。
それでも人は少ない。道幅もまだある。
「この先だ!」
アルミンが指した。
木造の倉庫群の隙間、その向こうに川が見える。船着き場そのものはまだ見えないが、もう近い。
そのとき。
背後ではなく、前方から、女の悲鳴が聞こえた。
四人が足を止める。
倉庫の陰から、小さな女の子が一人、こちらへ駆けてきた。十歳にも満たない。片方の靴が脱げている。泣きながら必死に走っている。
その後ろから、男が追ってくる。
「待て、リーナ!」
父親だろう。だが、足を引きずっている。間に合わない。
そして、そのさらに後ろ。
倉庫の角を曲がって、巨人が一体現れた。
「……っ!」
スバルの全身が強張る。
近い。近すぎる。逃げるだけで精一杯の距離だ。
女の子はこっちへ来る。父親は遅れる。巨人は二人を見ている。
助けなきゃ、と思うより先に、体が“無理だ”と叫んだ。
間に合わない。
ここで飛び出せば、自分たちまで巻き込まれる。
分かっている。分かっているのに。
エレンが前に出た。
「やめろ!」
スバルが腕を掴む。
「離せ!」
「無理だ!」
「無理かどうかは――」
「見ろよ!」
叫んでしまった。
エレンが振り返る。怒っている。だがスバルのほうも、それ以上に必死だった。
「見て分かるだろ! 飛び込んだらお前まで死ぬ!」
「だから見捨てろってのか!」
「そうは言ってねぇ!!」
喉が裂ける。
その一瞬の逡巡を、ミカサが埋めた。
彼女はもう走っていた。
エレンよりも早く。アルミンよりも先に。女の子へ向かって一直線に。
「ミカサ!」
アルミンが叫ぶ。
ミカサは女の子を抱えるように掴み、そのまま地面を滑るように方向転換した。速い。異様に速い。人間離れして見えるほどの反応だった。
だが、父親までは届かない。
男は転んだ。足を引きずったまま、倉庫の角に手をつく。巨人が腕を伸ばす。
スバルの中で、何かが弾けた。
考えるより先に走っていた。
「スバル!?」
アルミンの声。
倉庫脇に転がっていた木箱を蹴る。重い。だが転がる。巨人の足元へ当たる。気を引けるほどじゃない。それでも、ほんの一瞬、視線が下を向いた。
「こっちだクソがッ!!」
石を投げる。喉の残り全部で叫ぶ。
巨人の顔が、ゆっくりとこちらへ向く。
しまった、と頭のどこかで思った。
近すぎる。
走れ。
走らなきゃ死ぬ。
なのに足が一拍遅れた。巨人の顔をまた正面から見たからだ。あの時食われたやつとは別だ。別なのに、口の形が、目の空っぽさが、死の記憶を直接こじ開けてくる。
体が凍る。
次の瞬間、エレンがスバルの肩をぶん殴るように押した。
「避けろ!!」
スバルの体が横へ転がる。巨人の手が、さっきまで彼のいた場所を掴み損ねて地面を抉った。
「っ、あ……!」
「走れ、バカ!!」
エレンが怒鳴る。
父親はその隙にアルミンが引っ張り起こしていた。ミカサは女の子を抱えたまま戻ってくる。
全員、生きてる。
今だけは。
「行けぇぇぇ!!」
スバルの声か、エレンの声か、自分でも分からなかった。
五人で走る。今度は五人だ。父親は片足を引きずり、女の子は泣きじゃくり、ミカサが半ば抱えている。速度は落ちる。
背後で巨人が追ってくる足音。
やばい。
やばいやばいやばい。
このままじゃ追いつかれる。
そのとき、川の方角から蒸気音が響いた。
一人の兵士が、倉庫の上を越えて飛び込んできた。刃を振るう。巨人の顔面に斬撃。深くはない。だが怯ませるには足りる。
「走れ!!」
女の声だった。
兵士は二本の剣を構え、巨人の注意をこちらから引き剥がすように跳んでいく。
スバルたちはその隙に倉庫群のさらに奥へなだれ込んだ。
しばらく走って、ようやく物陰へ滑り込む。全員で息を切らす。
女の子は父親にしがみついて泣いていた。父親は何度も何度も頭を下げるが、声になっていない。
スバルは壁にもたれ、そのままずるずる座り込んだ。
手が震えている。
さっきの“また食われる”感覚が、まだ抜けない。胃が痛い。喉が熱い。頭がくらくらする。
エレンが息を切らしながら言った。
「お前……」
「……悪い」
スバルは先に言った。
「止めたくせに、自分で飛び出した」
「そこじゃねぇよ」
エレンは肩で息をしながら、苛立ったように顔をしかめた。
「固まっただろ、最後」
「……」
「怖いなら怖いって言え」
その言葉に、スバルは顔を上げる。
エレンは怒っていた。だが、軽蔑だけじゃない。
「無茶して死なれたら意味ねぇんだよ」
短い。乱暴。なのに、妙に真っ直ぐだった。
スバルは何か言い返そうとして、できなかった。
怖い。
そんなの、当然だ。
当然すぎて、逆に言えなかった。言ったら終わる気がしていた。強がって、喋って、走っていないと、自分が本当にただの情けないガキだと突きつけられるから。
でも、さっき自分は固まった。
死の記憶に引っ張られて、足が止まった。
それは事実だった。
「……怖ぇよ」
掠れた声で、ようやくそれだけ言えた。
誰に向けてでもない。自分の喉に引っかかった棘を、無理やり引き抜くみたいに。
「死ぬの、めちゃくちゃ怖ぇ」
沈黙。
アルミンがゆっくりと息を吐く。ミカサは何も言わない。ただ見ている。エレンは少しだけ眉をひそめて、それから視線を逸らした。
「……なら、なおさら勝手に突っ込むな」
「正論だな、くそ」
「くそは余計」
アルミンが小さく言った。
その声で、ほんの少しだけ場の硬さが緩む。
だが次の瞬間、倉庫の向こうから怒号が聞こえた。
「船を出せ! 早くしろ!」
「押すな、順番だ!」
「子どもを先に!」
船着き場だ。
もう目と鼻の先まで来ている。
しかし、その声の響き方だけで分かる。あっちも無事じゃない。まだ次の地獄が待っている。
スバルは壁にもたれたまま、目を閉じた。
泣きたい。吐きたい。座り込みたい。このまま全部投げ出したい。
でも、そんな暇がない。
目の前にいる四人と、助けた親子が、それを許さない。
この世界は残酷だ、なんてもう分かっている。今さら理解を深めたって意味はない。意味があるのは、次にどう動くかだけだ。
スバルは目を開けた。
「……行くか」
エレンが頷く。
アルミンが立ち上がる。
ミカサは女の子の頭を一度だけ撫でてから、父親に手を貸した。
五人と二人。
息も絶え絶えのまま、彼らは船着き場の喧騒へ向かって、また足を踏み出した。